『日蝕』に戻ってきました。
この話で問題とされるべき一番の点は錬金術です。
ピエェル・デュファイという男が錬金術を行う、そしてそれをニコラは目撃し、魅了され自らも錬金術の研究をを試みるようになる。当然のことながら錬金術を行うということは異端でありそれは異端審問にかけられる危険性を多分に孕んでいるということです。端的に言うと魔女狩りですよね。それでも尚且つ魅了して止まない体験をニコラは目撃するのです。
その前に脱線しますが、日野と平野の対談の一部を。
「日野 『日蝕』の中でぼくが最も気にかかった人物は、ブランコに乗っているジャンという唖の少年でした。あれが一番気になります。
平野 あの少年の人物造形にはかなりいろいろな要因が重なっていて、なかなかひと口には言えませんが。ただ、基本的に主人公はトマス主義者ですから、理性によって世界は理解できる、記述できると考えるわけです。中世合理主義というのはアリストテレス受容以降のもので、常に何かの目的がある。ところが、ブランコ遊びというものは行って帰るだけで、何の目的もないですよね。それを見たときに、トマス主義者である主人公はゾッとする……そういうことは一つあります。
日野 ブランコの場面は、ニーチェの「永劫回帰」も思い出させますね。
平野 それも意識してました。」(「聖なるものを求めて」『ディアローグ』)
ブランコ遊びから永劫回帰を引き出してくるところに僕は少し疑義を挟みたい気がしますが確かに本作においてジャンというのは特殊な人間で重要なキーパーソンであることは確かだろうと思います。読む方はジャンという唖の少年のことを少し気にかけて読んでもらいたいです。
ここで錬金術の話です。錬金術というとダークファンタジーの超有名漫画『鋼の錬金術師』で耳にタコができる程聞かされる等価交換。錬金術とは等価交換なのか。ピエェル・デュファイは錬金術で両性具有者アンドロギュノスを創り上げる、そのアンドロギュノスが異端審問にかけられ焚刑に処される場面がこの本作の最大の見どころです。そこで日蝕が起こり、アンドロギュノスは陽物を屹立とさせスペルムを以って太陽を射る。そのスペルムは陰門の内部に流れ込む。そして燃え尽きたアンドロギュノスの灰の中から金塊が…。
偶発的な出来事が時を同じくして起こります。太陽が月と重なり、唖のジャンが初めて鞦韆を降りて狂的に哄笑する。アンドロギュノスは単体をもって射精し受精する。
ここでニコラは感じます。私は僧であり、異端者であった。男であり、女であった。私はアンドロギュノスであり、アンドロギュノスは私であったと。
述べたいことは多数ありますがここではアンドロギュノスが残した金塊というモノにスポットを当てて考えてみます。もう一度問います。これは等価交換なのか? 以前述べたようにトマス主義者は不等価交換を認めています。それは公平価格においてという限定つきですが。しかしピエェル・デュファイが異端審問にかけられたという事実を考えると作中での錬金術はトマス主義者にとって異端以外のなにものでもないと言えるでしょう。
僕の理解不足もあると思いますが、平野はどう考えても「矛盾した記述は矛盾のままに」していると思います。僕的に考えると、太陽と月の結合による日蝕という生成、鞦韆という無意味な運動からの哄笑という生成、アンドロギュノスの射精と受精による金塊の生成。これは不等価交換以外のなにものでもない。主人公ニコラはそれに魅了されピエェル・デュファイの錬金術を引き継いだと考えていいと思います。
等価交換は魔術、占星術というイメージもありますが現代の化学の基礎を築いたものでもあります。ニコラはトマス主義の異端者でもありますがより近代の先駆者でもあるように書かれていると感じました。なぜ彼をそのようにかき立てるかと言えば、それはアンドロギュノスの焚刑にイエス・キリストを見たからであろうと想像するに難くないと思われます。そしてそれ故この作品が平野のいう「ロマンティック三部作」の第一作目であることも納得できると思います。
『鋼の錬金術師』のいうように錬金術は等価交換ではない。そのことには『鋼の錬金術師』の作者もおそらく気づいているのではないのでしょうか。最後に主人公は、
「10もらって10返してるだけじゃ同じなので
10もらったら、自分の1を上乗せして
11にして次の人に渡す、
等価交換を否定する法則だけど
これを証明したい」
と言って終わるらしいです。僕はコミックスを読んだけれど忘れています。
『日蝕』はトマス神学と錬金術という道具を使って極めてロマンティックに描かれた小説と言えると思います。
また、批評家の東浩紀は本作を、
「本作が既存の純文学よりもむしろファンタジー小説や漫画、アニメ、ゲームなどのエンターテインメントにおける想像力と深いかかわりを持っていることを指摘した。東によれば、作中に登場する錬金術、ホムンクルス、巨人といった要素は、同時期にベストセラーを記録している三浦健太郎のファンタジー漫画『ベルセルク』の世界観と完全に一致する」(ウィキペディア)
と評しています。
平野は若年ながらその膨大な知識と教養においてサブカルチャーの要素を多分に含む本作を純文学まで底上げしたと言えるかもしれないです。
結論としては非常に物語性の強い作品であり、読む者にかなりの知識の前提を強要するという意味で深い読みをさせる余地を含んだ作品でもあり、文体からして作者の意図するところ明確な鴎外風の教養小説でもあるといったところでしょうか。僕はいっそのこと文語文で書いてしまった方が本作の魅力はより発揮されるのではないかと思いますが、それは平野の言うところの現代を否定するということなのでしょうか。三島由紀夫の再来ということに関して言えば石原慎太郎のいうコマーシャリズムということに近い印象を僕も受けざるを得ませんが、平野本人は三島の影響を多分に受けていると言っているのでそこは本作以降に期待するということにもなるだろうと思います。
あとは現在の視点からの印象ですが、平野はかなり器用な作家で様々な作家の手法を取り入れることに長けていて、それが逆に作品を矮小化している部分があるのかもしれないという危惧はちらりと感じています。器用貧乏と言ったらいいでしょうか。しかし、現在37歳という若さでこれだけの作品群を書き上げていることに対して同世代の人間にとっては見過ごすことは許されないと思います。
『日蝕』において中世ヨーロッパを、『一月物語』において小説というものが導入され始めた日本の近代を、『葬送』においてヨーロッパの小説の全盛を、『決壊』においてインターネットの時代を、『ドーン』において近未来SFを、とエクリチュールの手法を自在に駆使して新たなものを書き続けています。平野がそういう意味においても「分人」という概念を造りだしたのも彼の作家としてのアイデンティティの多様さとみるか、ただの器用な奇策師とみるか判断を慎重にするべきだと思います。只、平野の小説家としての文体の一貫性のなさは意図的である、ということは言えるようです。それ故、平野を読む人間は注意深く読みを進めていかなければならない。そう考えると平野ほど見ていて面白い作家もなかなかいないと思います。
以上で『日蝕』再考とさせていただきます。平野啓一郎という人間に興味を持たれた方は読んでみてください。僕も引き続き平野を時系列的に読んでいきたいと思っています。
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