2016年4月27日水曜日

『にごりえ』『たけくらべ』 樋口一葉

樋口一葉 『にごりえ』『たけくらべ』



にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)
にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)樋口 一葉

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1樋口一葉について

①生涯と作品
 
  ・1872年(明治5)~1896年(明治29年)没。樋口一葉は明治生まれの人で、明治の子といえるでしょう。活動期間は短期間です。この短期間で5千円札になるほどの功績を果たして残したのか。一葉は明治の女性作家のなかで他を圧倒する実力を持ちます。

  ・一葉は東京の下級役人の子として生まれたそうです。父は株を買って侍になりましたが直後に明治維新が起きてパーになったそうです。一葉は勉強好きな人でしたが、その母は女に学問は不要という考えを持っていました。封建的な母だったのです。一葉は小学校高等科を首席で卒業しましたが進学はできませんでした。そのことについて一葉は日記に「死ぬばかり悲しかった」と書いています。

  ・その代わり当時の女子の教養として和歌を習うことは許され、中島歌子の歌塾で学びます。ここで、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などを勉強しました。これが後の一葉の文学の素養となったそうです。

  ・その後、一葉の父は事業に失敗します。兄が死に、そして父も明治17年に死にます。一葉は女戸主となって家族の生計を立てなくてはならなくなりました。

  ・一葉は、東京朝日新聞の小説記者半井桃水のところで勉強をします。一葉は密かに半井を慕っていたようです。しかし歌塾で半井との関係を噂されたため半井と別れることになります。このことについてはキーンの、『日本文学史 近代・現代篇1』では、「都の花」とのパイプができたため半井を切ったとあります。一葉は家族を食わせていかなければならなかったためより稼げる方をとったというのが本当のところではないのでしょうか。

  ・一葉の暮らし向きは楽ではありませんでした。明治26年に下谷龍泉寺という吉原遊廓の近くに引っ越して商売を始めます。荒物・駄菓子を商う商売をしていたそうです。しかし、このことが後の一葉にとって非常に大きな転機になったのではと○○先生はおっしゃります。

  ・明治26年頃、島崎藤村たち「文学界」の人たちと付き合うようになります。「文学界」とは今の文芸誌のそれではなく、北村透谷と藤村らが始めたローマン主義的傾向の雑誌です。

  ・ここで川鍋先生は一葉の性格を物語るひとつのエピソードを挟みます。明治27年に一葉は相場師になろうとしています。金を稼ごうと必死だったのです。占い師の元を訪れたりしています。その占い師に妾になれと言われたらしいです。一葉は非常にしたたかで危ない橋を渡るような性格をしていて、それが作風にも現れているのだろうと○○先生はおっしゃっていました。

  ・明治27年に、『大つごもり』、明治28年に、『にごりえ』、明治28~29年に、『たけくらべ』と下谷龍泉寺に住んでいた頃に書かれた作品が集中的に発表されます。文学史ではこの期間を「奇蹟の14ヶ月」というそうです。他の一葉の作品は甘いところがある。しかしこの期間には奇蹟としか言い様のない作品群が作られた。それは下谷龍泉寺で様々な人間の姿を体験したことにより開花したのだろうと。

  ・森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨は書評で、『たけくらべ』を絶賛しました。鴎外と露伴は非常に厳しいことで知られていましたから一葉は彼らに評価されたことで一躍文壇のスターとなりました。しかし明治29年に胸の病気で亡くなってしまいます。


②その問題点


  ・一葉について考えるときにどこを見ていったらいいのか。まず第1には父親のことです。一葉の父親は強い上昇志向を持っていました。しかし、その才能を開化することができずに亡くなります。一葉の家は貧乏でした。そのために一葉は学問を続けられなかったという側面もあります。その代わりに歌塾で高い教養を身につけました。このことは一葉の持つ批判精神に結びついています。自分よりも勉強ができずに境遇だけ恵まれている人への恨みが日記に残されています。田邊(三宅)花圃など歌塾の友人が先にデビューをした際にも大したものも書いていないのにとコンプレックスを持っていました。

  ・一葉のその批判精神はどこへ向かっていったのか?
    
    封建制
    女性
    金銭

   の3つです。この3点に関して一葉は鋭い追求をしています。人間とはいったどういうものなのかという探求精神を持つことになりました。

  ・一葉は古典の素養を持っていました。二葉亭以降の作品は古典の素養がなくても読むことができます。しかし、近世以前のものを失ってしまうよくない一面を持っていました。一葉の作品には古典の素養がまだ残っていた。このことは非常に重要です。一葉がもし生きていたならば現代の文学は今ほど古典と切り離されたものとはならなかったでしょう。これは日本文学の致命傷と言えるかもしれません。日本人が日本の文学を読まない。西洋の文学の素養を持っていないのに西洋の小説を読む。それは戦後どちらも古典の素養を持たないのなら西洋のものをという方向に安易に進んでしまった日本人の西洋の文化に対するコンプレックスという側面もあったのではないかという気がします。

  ・一葉の作品の特徴について挙げられるのは、雅俗折衷体です。雅な文章(地の文)と俗文(会話文)との組み合わせ。そして「見立て」です。「見立て」は古典的手法で谷崎潤一郎なども使っていますが、『たけくらべ』には源氏物語の素養を下敷きにした場面展開が見られます。現代の作家で書ける人はほとんどいないと○○先生はおっしゃっていました。

  ・下谷龍泉寺での生活で人間観、社会観に決定的な深みを与えられた一葉でしたが、また仕事も非常に忙しかったのです。その生活のなかで日記を書いているのですが、それは短い文章でスパッと書かれた切れ味のよいものでした。その理由は当然忙しくてだらだら書く時間がなかったからです。そのことが「奇蹟の14ヶ月」を創り出したといえるでしょう。


2擬古文は近代文学か

 
 ①まずは作品を味わう

  ・『にごりえ『『たけくらべ』『大つごもり』は言文一致体とは随分違います。古典のような文章で書かれています。これを擬古文と言いますが、果たしてこれは近代文学なのか?つまり言文一致体で書かれていないのに近代文学と呼んでいいのだろうかという問題です。

  ⅰ文体について
  
  ・地の文 文語 ← 何を言っているのか分からないところが多い。
   会話文 口語 ← 読める。
   「雅俗折衷体」です。

  ・上記の作品は明治27年~29年の文章です。『浮雲』は明治20年~22年に書かれています。つまりこの当時でもまだ言文一致体が覇権を握っていたわけではなかったということです。明治40年の田山花袋の、『蒲団』で言文一致体(口語)の確立となりますが、この時期はまだまだです。一葉の文章は古典の素養がないと読めない、理解できない文章でした。それでも高い評価を受けていました。

 
  ⅱ作品について(梗概)

  ・『大つごもり』『にごりえ』『たけくらべ』のあらすじについて中心に話します。『たけくらべ』は、『日本文学全集』で川上未映子の現代語訳が出ています。


樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鴎外 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13)
樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鴎外 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13)夏目 漱石 森 鴎外 川上 未映子(たけくらべ)

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  a.『大つごもり』梗概
   貧しい家の女性お峰がよその家に奉公に出る。実家でどうしても金が必要であった。お峰は主人の金に手を出してしまう。それをドラ息子がお峰を相当助けてくれた。という話らしいです。大つごもりとは大晦日。

  b.『にごりえ』梗概
   一葉の作品のなかで異様に迫力のある作品。抒情的な要素が少ない。不幸な生い立ちをしたお力が主人公。お力は酌婦です。お酌をする女ですが、それを装った売春婦です。本来生まれは悪くなかったけれど、父親が志を得ることができず家が傾いて酌婦となりました。

  c.『たけくらべ』梗概
   舞台は吉原遊廓。現代の中学生くらいの少年少女の群像劇です。大人たちはほとんど出てこず、子供たちの生活が描かれているだけです。主人公の美登利の姉は売れっ子の遊女です。周りの大人の男たちは美登利にちやほやします。男たちにとって美登利は期待される商品として見られているのです。美登利は作品の終盤ではその将来に期待されお金が回ってくるようになります。

   駄菓子屋で友人たちにお菓子をおごってあげたり、旅芸人にお金を投げ入れて芸をさせたりしました。それと同じく喧嘩や淡い恋心も書かれています。美登利はそんな生活をしているうちに大人の世界に取り込まれていきます。そんななかで少年信如と美登利は気持ちが通じ合っていました。しかし、それを通わせることができないまま信如は坊主になってしまいます。

  d.共通点

  ・3作品に共通するところは非常に多いです。

   金
   性
   差別

   です。金は、『大つごもり』では主人の金に手を出しますし、『にごりえ』では金があったならば酌婦などしていません。『たけくらべ』では金により矛盾なものが露出しています。美登利の金回りがいいこと=美登利は金によって自分の人生が決まっていることを示します。

   性は、男性優位の性の社会であることです。封建制では圧倒的に男性優位と一般論でいうことができます。その一般論では片付かない事を一葉は語っています。『にごりえ』では売春=体を売る=商品になる。『たけくらべ』では、姉は売れっ子の遊女。美登利は期待されています。男性優位の性社会がそこにはあります。

   差別について。『大つごもり』では金のある家はなんでもできる、金のない家は金に手をつけ金持ちに助けられる。『たけくらべ』は吉原遊廓という囲いのなかで商売をしています。制度内での売春婦です。『にごりえ』ではもっと酷く、制度外の売春婦で更に差別されています。平等などというものは絵に書いた餅なのです。

  ・『たけくらべ』では祭りが2回書かれていますが、1回目のとき長吉は美登利に対して「乞食」といいます。美登利=乞食なわけですが、今でも差別用語ですがその当時も差別用語でした。『たけくらべ』『にごりえ』においての性風俗における女性の矛盾点が描かれています。

  ・美登利がやがて大人の体になったとき、金は嘘の仮面を剥ぎ取って美登利を一生縛り付けるものになります。信如との恋など成就するはずがなかったのです。

  ・一葉の作品が面白いのはストレートな社会批判ではないというところです。それは自然主義文学もそうですがプロレタリア文学とは違います。非常に優れた深い抒情性を持っています。この抒情性が一葉作品の大きな特徴です。『にごりえ』は若干薄いようですが。一葉の作品は上でも書いたようにこの抒情性と鋭い社会批判の両方を併せ持った優れた味わいを持っていると言えるでしょう。

  ・さらに一葉の文学には「空白」があります。『にごりえ』のお力と昔馴染みの客が死んだ様子は直接は書かれていません。町の噂という感じで書かれています。『たけくらべ』でも美登利は2回目の祭り以降様子が様変わりして急にしおらしくなります。美登利は「大人になるのは嫌なこと」と言います。これが何を意味するのかの解答を得ることはできません。対して『大つごもり』ではオチが全部ついていて空白がありません。正統派ミステリーといった感じです。『大つごもり』の評価が若干下がる理由の一つでしょう。

  ・一葉は空白をわざと使ったと思われます。『にごりえ』『たけくらべ』の方が文学に対する理解が深まっていると言えます。

  ・ほかに挙げる共通点として、描写が的確であることがあります。風景、登場人物を生き生きと描き出すセンスは抜群です。対してマイナスの面として人物造形がやや類型的であると言われています。

  ・結論としては、『にごりえ』を除いてやや甘い感傷に流れる傾向がなくはないですが物語を非常に冷静に見ていると言えると思われます。温かい目で人間を見ているゆえに人物造形が類型的、感傷的になるとも言えるでしょう。一葉作品はこれらの点を総合して近代文学の名作中の名作と言えるのではないかと思われます。


 ②近代文学か
  
  ⅰ『文学界』――浪曼主義と

   ・今の雑誌『文学界』とは違います。キリスト教系のところから生まれた雑誌らしいです。北村透谷や島崎藤村を中心にしていた雑誌で浪曼主義の運動をリードしていた雑誌でした。北村透谷はこの講義を通してあまり触れられませんが浪曼主義の理論的仕事をした人たちに深い影響を与えた人ということでした。島崎藤村の作品に度々現れます。透谷は、文学にはいったいどんな価値があるのかということを考えた人でした。現代の僕らは例えばイーグルトンの本など様々読めるわけですが、この当時の人々にとって透谷は特別で、この当時としては驚くべき水準で書いていたそうです。「文学は実際の役には立たないが、精神に役立つものではないか」と考えます。これは「人はパンのみに生きるにあらず」というキリスト教の精神から透谷が文学的価値を見出したと考えられる一文だと思われます。

  ・浪曼主義とは何かについてまとめておきましょう。「ロマンチック」という言葉通りに理解しても間違いではないですがそれは浪曼主義の一面でしかありません。浪曼主義的な傾向の作品として島崎藤村の、『若菜集』収録の「はつ恋」や、『落梅集』収録の「椰子の実」など今読むと感傷的すぎると感じるかもしれない詩です。現実というよりは夢想的な世界に逃避するような態度を取ります。また、与謝野晶子の情熱的な詩も浪曼主義です。肉体、恋愛感情を率直に描いている詩ですが、これはその当時の封建的な考えが残っていた社会で恋愛感情を率直に書くなどということはなかなかできないことでした。浪曼主義者たちが恋愛感情を開放したと言えるでしょう。その根底にあるのは、「自分らしくありたい」ということです。そのような思想とそれを禁止する旧弊な社会との対立という視点も浪曼主義を語る上で必要なことです。

  ・つまり浪曼主義とは、 
   
   1.夢想に逃避する態度
   2.旧弊な社会と闘う浪曼主義

   という2つの側面があります。特に旧弊な社会と闘い自死した作家として北村透谷がいます。一葉もこの浪曼主義的傾向を持っていたと言えるでしょう。一葉の作品の特徴として抒情性と批評性が根本的に繋がっていて離れない点があります。ただ、一葉と透谷のあいだには直接的な影響関係はありません。

  
  ⅱ一葉作品に描き出された問題

  ・一葉の作品にはジェンダーの問題が内包されています。

   少年少女の問題
   近世封建制の問題
   人間、社会というものの問題

  を作品は力強く語っています。女性のプロテストの問題です。作品においては社会に対する直接的な批判は書かれていませんが、女性のプロテストと抒情性が合わさって高度に洗練されて描かれています。近代文学の必然として、わたしとは、社会とは、という問題が書かれています。いかに文章が雅俗折衷文で書かれていて古くさく見えても一葉作品は近代文学であると言えます。


  ⅲまとめ

  ・一葉作品は、女性の側からの批判を含んだ近代批判の作品と言えます。坪内はそれを根っこまでは掘り崩すことはできませんでしたが、一葉は奥深くまで明確に捉えらることができたということです。このことから、明治28年から29年には西欧近代文学が日本の文学にしっかりと根付いていたと言えるのではないでしょうか。二葉亭が、明治20年から、『浮雲』で切り開こうとしたもので一部の人々にしか理解されていなかったものがやっと理解されてきた時代だと言えるのではないでしょうか。


③作品論――空白について

  ・『にごりえ』の心中の真相や、『たけくらべ』の2回目の祭りの後の美登利の変化の理由など、謎が回収されないまま終わりになっています。その謎が空白です。この空白の技法は一葉は、『大つごもり』での反省点としてその後書き方を変えたのではないかと言われています。また、短歌的技法を使ったのではないかとも言われています。短歌では字数の制限上必ず空白が残ります。それを小説の世界に導き入れたとも考えられます。

  ・○○先生は空白の技法を高く評価しておられます。この技法により物語世界が閉じていかなくなる。よって読者がこの空白に対して色々な形で参加することを可能にするという効果をもたらすのだと。

  ・『たけくらべ』での空白を、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨は、美登利の身体に変化が起こったと解釈しています。佐多稲子は、美登利は初見世をさせられてしまったのではないかとします。これはグロテスクな話で美登利は作中では中学生で体を売ることを強制されたということになります。それも高値で取引されたのではないかと。

  ・前田愛は佐多の意見に反論しています。結局作品の中からはひとつの解釈を示すことができない問題が空白なのです。只、佐多は、体の変化が訪れたことや初見世は女にとっては自分の人生がいかなるものかを思い知らされた重大な問題である、と言っています。この言葉は、佐多が生きてきたなかで人間として、女性について、金銭について、性について、一生分の重みを持って吐き出した言葉ではないだろうかと○○先生はおっしゃっていました。

  ・そうやって優れた作品の空白に触れることによって僕らは様々な読み方ができるということは、我々自身を語ることであり、我々の人生を語ることでもあり、ひいては我々自身を知ることでもあるのでしょう。小林秀雄は「作品を知ることは我々自身を探究することである」と言っています。一葉の作品はそういう意味においても非常に価値のある作品であるということができるでしょう。

2016年4月17日日曜日

『浮雲』  二葉亭四迷

第2回 近代文学の始まり・言文一致の問題

二葉亭四迷『浮雲』


1文学史における『浮雲』
  
  ・今回の講義では二葉亭の、『浮雲』を扱ったわけですがそれはやはり前回の「近代史の始まり」論争があり、それとの関連で言文一致が問題となります。


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浮雲 (新潮文庫)二葉亭 四迷

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 ①位置づけ
  
  ・『浮雲』を近代文学史上でどのように位置づけるか。○○先生はここをかなり端折られて、結論を言うと、と言って坪内の、『小説神髄』との成立年の差はわずか数年でしかないので、どちらも日本近代文学の始まりと言ってよく、片や小説、片や評論ということで、2つ合わせて「日本近代文学の始まり」と言っていい、それに異論はないと思うと仰ります。そうなると、第1回から書いている明治18年説VS明治20年説って何だったの?と思うわけですが、そこはね、僕も大人なので自分で調べますわ。わからなかったらメールで質問してみるかな。

  ・『浮雲』とそれ以前の(江戸)小説には断絶があります。坪内の言う、人情を書いているかどうか、正邪善悪と勧善懲悪の差など。このことはつまり、『浮雲』は江戸の文学を正当に受け継いでいないということです。近代小説はそこからズレたところから始まっている。非常に象徴的作品だったということです。

  ・なぜ二葉亭がそんな小説を書けたかは前回も書いたと思いますが、二葉亭の素養がなにより大きい。二葉亭は外国文学から受けた影響が非常に大きかった。近世文学も好きだったのだけど、その影響は表面的なものだったそうです。江戸以前の文学=近世文学との断絶、親の遺産を受け継がなかった、それが日本の近代文学の大きな特徴と言えるでしょう。

 
②二葉亭四迷について

  ・明治の文学史を考えるときに外すことのできないキーマン二葉亭。その人物像に迫ってみましょう。

  ⅰ生涯と作品

  ・1864年(元治1)~1909年(明治42年)没。ほぼ明治とともに生きた人物と言えましょう。本名は長谷川辰之助。尾張藩士の子で江戸に生まれました。『浮雲』でも市ヶ谷周辺の景色が描かれています。明治維新後にフランス語を勉強しています。余談ですが明治の文人は雅号を持っていました。鴎外や漱石もそうです。この文章では長谷川辰之助は二葉亭四迷で通していこうと思います。

  ・二葉亭は最初から作家になろうと思っていたわけではなく、軍人になろうと思っていました。しかし二葉亭は目が悪かったのですね。それで受験に失敗してしまいます。それから外交官志望に転じます。東京外国語大学に入学しロシア語を専攻します。二葉亭は、ロシアの南下政策に対して義憤を抱いていました。「お国のために何かをしたい」そんな強い思いを持っていたのですね。

  ・侍の子であったために社会というものに対する問題意識を強く持っていたという出自の問題もあります。当時の侍の子は軍人や警察官になった人が多かったらしいです。島崎藤村の、『破戒』を読むと、登場人物の敬之進が、士族で何とか生き残れたのは役場へ出るとか学校へ勤めるとか、それ位のものさ、と話しているのですが。敬之進が60歳くらいですから時代的にも合っている。どうなのでしょう。

  ・東京外語大では、グレイという先生に教えを受けます。グレイは教材にロシア文学を使ったのです。そこで二葉亭とロシア文学との出会いがあったわけです。そして文学の眼を開かせられます。しかし卒業間近に問題が起きます。東京外語大と一橋大学が併合されることになったのです。二葉亭はそれが気に入らなくて大学を辞めてしまいます。一橋は商人の子が通う大学でした。士族の自分が同じところで学ぶことはできないと考えたのではないでしょうか。○○先生は「そりが合わない」と表現していました。

  ・そして明治18年、二葉亭は坪内を訪ねます。どこで、『小説神髄』を手に入れたかは触れていませんでしたが、付箋をベタベタ貼り付けて坪内に話を聞きに行きました。前回も書きましたね。そして坪内から指導を受けて、『浮雲』を発表。明治20年に第1篇、明治21年に第2篇、明治22年に第3篇です。

  ・ここでひとつ問題になるのが、坪内の指導がどこまで、『浮雲』に影響しているかです。○○先生は、坪内の指導というより、坪内の手により様々訂正、加筆がされたのではないだろうかとおっしゃっていました。坪内が冒頭のほとんどに手を入れたのではないかと。それだけ坪内の影響力というのは当時強く、『浮雲』の最初の出版の際も「坪内雄蔵」という坪内の本名の名義で出版されています。坪内のネームバリューの大きさを窺わせますね。明治22年に完結したわけですが、実際には二葉亭の目論見としては続く予定でいたのそうです。未完のまま終わりましたが。

  ・二葉亭は波乱の生涯を生きていました。明治15~16年と文学の世界から離れます。政府・陸軍関係の語学の仕事、情報関係の仕事をしていたそうです。その後商売を起こします。日露戦争前にはハルビン、北京に行きます。その後日本に帰国し大阪朝日新聞の東京出張員になります。二葉亭は作品を明治39年、『其面影』、明治40年、『平凡』を書いていますがこの2つくらいしか書いていません。当時の風習として新聞に書かれる小説はその新聞記者が書いていたそうです。

  ・その後朝日新聞の特派員としてロシアに赴きますが、胸の病気を患い、明治42年インド洋ベンガル湾で命を落とします。ここで注意しておきたいのは、二葉亭は文学一本の人ではなかったのだということです。


 ⅱその問題点

  ・問題点を挙げてみましょう。まず1つめは、明治の文学を担った人たちには士族の子が多かった。二葉亭も士族の子です。前にも書きましたが侍の子は高い教養を持っていたからです。しかし必ずしも社会的によい地位を得られなかったため社会に批判的な目を持っていました。2つめは士族の子は社会に対する強い関心を持っていました。二葉亭も軍人になり語学・情報関係の仕事をしていました。他の士族の子の文人として樋口一葉、北村透谷、夏目漱石、森鴎外などなど挙げられます。彼らに共通するところは、社会に対する強い関心を持っていたということです。

  ・「政治から文学へ」。小田切秀雄はこの視点に注目しました。例えば、北村透谷は自由民権運動に敗れ文学の世界に来ました。小田切秀雄その人もそうでした。3つめとして、二葉亭のロシア文学への素養の深さが挙げられます。当時の語学の勉強というものは、自分で辞書をつくりながら勉強をするというまさに一から(0から?)の勉強です。ゆえに非常に厳しいものでした。

  ・二葉亭の作品は近世文学とはまったく別の土壌から生まれたといえるわけですが、それと対照的な人物として尾崎紅葉が挙げられます。彼は硯友社を立ち上げ外国文学の影響を受けた作品を書いていますが、その作品には近世文学の要素も大きく受け継いでいました。

  ・二葉亭はではロシア文学からどのような影響を受けたのでしょうか。第1回の記事でも書きましたが、「わたしとは何か」「社会とは何か」という視点です。わたしと社会との関わりとはいったいどいういうものなのかという視点は、日本の近世文学にはなかったのです。これは確実にロシア文学から二葉亭が吸収したものでしょう。

  ・ロシアも日本も世界のなかでは後進国でした。ロシアは帝政ロシアの前近代的仕組み、日本は封建制の仕組みを壊して早急に近代化しなくてはならないという使命を帯びていました。近代化の波にもみくちゃにされながら必死の思いで西欧化しようとしていたという点に共通点がありました。そのなかで人々は大変な苦しみを経験することになりましたが。

  ・『浮雲』で文三は開化された近代的知性の持ち主で、外国語ができ論理的なものの考えもできるエリートでした。文三以外の人物は、無教養で封建的人間として描かれます。友人の昇は別かもしれませんが。つまり、『浮雲』という小説は当時の開化した人間の生きづらさを描いた作品であったのですが、それはロシア文学からの強い影響があって書かれたものだったのです。

  ・二葉亭は文学一筋に生きた人間ではありませんでした。政治→文学→政治と職を転々としました。その当時の文学の価値とはいかなるものだったのでしょうか。そして現在の僕たちにとって文学の価値は?文学とは役に立たないものなのでしょうか、価値のないものなのでしょうか。それを自分なりに考える必要があると○○先生はおっしゃっていました。みなさんひとりひとりが考えてみてくださいと。



2『浮雲』論

 ①『浮雲』はなぜ近代文学なのか

  ・『浮雲』は岩波文庫や新潮文庫、青空文庫で読めます。非常に古くさくてよくわからない箇所もありますが近代文学と言えるでしょう。ではなぜそう言えるのでしょうか。


  ⅰ逍遥の問題意識を徹底化
 
  ・『浮雲』では、『小説神髄』で書かれている、善悪正邪の心のうちをもらさず描かなければならない、それが人間を書くということだ、という意識を徹底化しています。勧善懲悪は否定されます。勧善懲悪の否定は坪内が初めて言い出したことだそうです。二葉亭はさらに坪内の問題意識を徹底的に描きました。人間の根本のところに何があるのか、社会との関係をどのように捉えるのがよいのかということです。坪内はこの点をよく理解していませんでした。それゆえの、『当世書生気質』の失敗がありました。

  ・『当世書生気質』は読むとそれなりに面白いのですが、二葉亭が意識した内容の深みまでは到底達成していません。戯作レベルだと○○先生は仰ります。人間の心の奥深くまでは達していない。それに対して、『浮雲』は達していたと評価します。根本に潜む社会の問題、他者との関係がきちんと描かれていると。

  ・坪内は、人生への批判がなくては駄目だ、と言いましたが、『当世書生気質』ではそれをうまく書くことができませんでした。それが、『浮雲』では達成されています。『浮雲』を読んで当時の人びとは人生について根本的に考えることができたのです。

  
  a.内容

  ・奥野健男の、『日本文学史』のP28の第1段落を読むとわかります。引用します。
 
  「ではなぜ『浮雲』を近代文学のはじまりとするかといえば、それは作者と主人公、つまり作者と小説の構成とが抜き差しならない強い関係で結ばれている点にあるのです。近代的自我にめざめ、人間的に生きようとする青年は、当時の日本の藩閥政治を中心とする現実社会には受け入れられず、疎外され、孤立しなければならぬという作者の実感がこの作品の底にあるのです。それははっきりいえば、現実の体制的、主流的風潮に対する告発復讐の意識です。それが日本の現実に違和感を抱いていた当時のめざめた青年たちに、文三の悩みはひとごととは思えない切実な共感を抱かせたのです。」(『日本文学史』P28)

  ・当時の人々にとって文学は、遊びではなく、極めて真面目な研究であったということです。わたしとは、社会とは、ということと真剣に向き合わなければならなかったわけですね。


 b.文体

  ・そのためにはそれを表現しうる文体を新しく創り出さなければならなかったわけです。『浮雲』は実験的でラディカルなものと評価され、ある程度の成功を収めました。

  ・『浮雲』は言文一致体の始まりの作品のひとつと言えます。それ以前に山田美妙が言文一致体を試みたりしていましたがそれよりも二葉亭は徹底していました。美妙はそれにスキャンダルで消えます。

  ・言文一致体は現代の僕らが使う書き言葉です。学校や新聞はこの文体で書かれています。言文一致体は古典の素養も要らず難しくない、つまり少なくとも現代ではほぼ誰もが読むことができます。当時はこのようなスタイルで書くことは確立していなかったので誰もが手探りでした。この時代の作家たちの作品に触れてみてください。様々な文体が試されていることがわかるでしょう。例としては、樋口一葉の、『にごりえ』、『たけくらべ』。幸田露伴の、『五重塔』。これらの作品は、『浮雲』以降に書かれたものですが、『浮雲』より読みにくいです。ゆえに二葉亭は「内容」、「文体」ともに日本の近代文学の始まりをつくった人だと言えるでしょう。


 ②偉大なる先駆・偉大なる失敗作

  ・『浮雲』は未完でした。二葉亭の最終的なプランでは、主人公の文三が発狂して終わる、というプランを考えていたようです。しかし、『浮雲』という作品があまりにも不安定だったために第1篇、第2篇、第3篇と書かれているうちに文体もおかしくなってきます。読んでみるとよくわかることです。第1篇では戯作や落語を手本にして書かれています。三遊亭圓朝の影響があるでしょう。

  ・第2篇になると、非常に心理描写が濃くなってくる。ここまで読み続けてきた人は、ずいぶん不安定になったなと感じるでしょう。そして人称、作者の位置が安定してこなくなる。読んでいて非常に面白いのではありますが、近世小説の軽さ、皮肉が前面に出てきています。そうかと思えば、作者が文三の内側にいるのか、文三になりきっていると言っていいのか、作者は登場人物の内面を含めて全部わかっているような書き方をしています。お勢のことを「尻の軽いどうしようもない女」だと二葉亭が言ったり、作者の位置が安定してこなくなります。

  ・中村光夫は、『二葉亭四迷伝』に書いています。『浮雲』は失敗の多い作品だったと。ほとんどお手本にするものがなかったので落語、戯作を参考にしたり二葉亭は悪戦苦闘している。中村は、偉大なる先駆、偉大なる失敗作、と評しています。


 ③日本近代文学一般の原型

  ・『浮雲』には、近代文学の始まりというだけであるだけでなく、その後展開される文学の色々な問題点が隠されています。それを見ていきます。


  ⅰ<余計者>

  ・『浮雲』には、

  強い必然性
  わたしとは
  社会とは

  を考えたときに、社会/人間(個人)、との関係が描かれたわけですが、それに留まらず、社会↔個人の対立が描かれています。また、プランとして、近代↔封建、が書かれる予定でそのなかで文三は追い詰められて発狂するというプランが用意されていました。この図式に当てはまる近代小説は多いように思われます。

  ・では、なぜ対立しなければならないのか。個人の側に視点を向けてみると、真っ当であるが故に抑圧される文三のような個人を描くことは、今まで見えてこなかった社会の真実をあぶり出すことになります。抑圧され死んでいく側からの見えてくる真実の姿=<余計者>を書くことによってそれは積極的な価値を持つことになりました。

  ・強い側(社会)から書いてもそれを見出すことはできないということです。この書き方の手本はロシア文学にあるようです。それを象徴するもので日本独自の形態と言われるものに私小説があります。大正時代の破滅型の作家たちの描く主人公はろくでもない奴ばかりです。彼らは<余計者>なのです。彼らが社会でもみくちゃにされる姿を通して人間と社会の本質を見出していくのが私小説です。

  ・太宰治の、『如是我聞』があります。太宰の書く小説の主人公は<余計者>です。太宰は社会の片隅で滅びていく余計者にこそ人間の真実がある、と考えていました。太宰は、芥川の苦悩が志賀直哉にはまったく分かっていない、と言っています。

  「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
  日陰者の苦悶。
  弱さ。
  聖書。
  生活の恐怖。
  敗者の祈り。
  君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。」 

太宰は他に、『畜犬談』で、「芸術家はもともと弱い者の味方だったはずなんだ」と書いています。負けていく中から真実を捉えていこうという姿勢を取ります。

 
  ⅱリアリズム

  ・『浮雲』はリアリズム小説と言われますが、その定義は非常に難しいです。現実にありそうなことを現実にありそうに書くことがリアリズムの定義と言っていいでしょう。それに反対するものに、作家泉鏡花の作品や水木しげるの作品があると○○先生はおっしゃります。

  ・『浮雲』は正確に言うと、リアリズム小説のなかでも写実主義と言われるものになります。近代日本はリアリズム小説を書くことを目指していたようです。その象徴が、『浮雲』になるのですが。日本では坪内、二葉亭の功績?によりローマンの文学が育たなかったのです。ローマンとはロマン、空想的、冒険的、伝奇的要素を持った小説のことです。江戸期の式亭馬琴の、『南総里見八犬伝』のようなものは否定しました。

  ・坪内は近世文学を否定しましたから、リアリズムがいいんだと頑なに言い続けました。それを二葉亭が実作として、『浮雲』を創り出しました。それにより日本の小説はそれから長くリアリズム中心の小説がヘゲモニーを握ることになります。

  ・トールキンの、『指輪物語』などが出てくる土壌を失ったのです。そのことは非常に残念であると○○先生はおっしゃっています。リアリズムは面白くない、非常に残念だと。


 ④小説言語の問題

  ・言文一致の問題のことです。それを取り上げます。


  ⅰ手本

  ・二葉亭は戯作、落語を手本としました。この講義は、『浮雲』に焦点を当てられているためか、二葉亭が、「あいびき」を翻訳するときにどのようにしたのかということは触れられていませんでした。故にここでは戯作、落語を手本としたということで進めていきます。


  ⅱ地の文の問題

  ・圓朝の、『怪談牡丹灯籠』、為永春水の、『春色梅児誉美』の影響が見られます。まず二葉亭は圓朝の落語を参考にします。落語というのは落語家が話しているのを文字にしたわけですから言文一致している。問題となるのは地の文です。落語に地の文はないですから。それをどうするかに二葉亭は非常に苦労しただろうと思います。そしてもう一つの問題が韻の問題です。『春色梅児誉美』は人情本でそれを参考にしたわけですが、この作品は七音五音で書かれていて非常にリズムよく書かれています。それを近代小説においては捨てなければならない、と二葉亭は考えたのでしょう。二葉亭もかなり苦しんだらしいのですが。


  ⅲその後の展開

  ・ここで最後に確認しておきたいのは、言文一致体が始めから近代小説の文体の覇権を握っていたわけではないということです。先程も書きましたが、幸田露伴の、『五重塔』が明治25年、樋口一葉の、『たけくらべ』が明治28~29年の発表です。

  ・明治40年頃に日本は自然主義が主流となりますが、それとともに言文一致体が主流となります。それにより僕らの今読み書きしている口語文の基礎となった文体が確立されるのです。つまり覇権を握ったのです。この平易な文章の創出は読むために必要な古典等の教養を不要なものとしました。樋口一葉や幸田露伴は古典の素養がないと読みきることはできません。

  ・僕らの現代の世界はありがたいと言えるのですが、日本の近代文学が江戸以前の古典と切り離されてしまったという大きな弊害も生じてしまったのです。

2016年4月13日水曜日

『小説神髄』 坪内逍遥

某大学の通信教育部の某講義を自分なりにまとめたものです。
備忘録として残しておきます。
講義内容と違った部分があったとしても責任は持てません。
あしからず。



1 「近代文学」について


①近代文学はいつ始まったか
 ⅰ明治18年(『小説神髄』)か、明治20年(『浮雲』)か
   
  ・多くの学説が、明治18年説を取っているらしいです。明治18年、明治20年以外からという説もあるらしいけど触れなかったのであとで補足できたら補足します。明治20年説は、小田切秀雄を挙げてました。小田切は○○大の教授だったのでやたらと出てくると思いますよ。去年の教養の「文学」のときも柄谷行人がやたら出てましたし。この講義では明治18年説で話を進めていくということでした。


 ⅱ『小説神髄』を近代文学の始まりとする理由
  
  ・1つの大きな理由として、『小説神髄』が二葉亭の、『浮雲』から始まっていく近代小説に大きな影響を与えたからだと。二葉亭が坪内のところに付箋をベタベタ貼り付けた『小説神髄』を持って質問にやってきて坪内から指導を受けたというエピソードを話してました。これは去年も聞いたなと。正直去年の中澤忠之先生ってかなり優秀な先生だった気がします。まあ対面式のスクーリングとメディアスクーリングの違いもあるし、レポートの難易度とかでこっちの方が厳しいかもしれないのですけど。

  ・2つめの理由として、『小説神髄』のなかに新しい発想があったのではないかと考えられると。つまり近世文学とは一線を画するなにかがあった。それは、まったく不十分ではあったが、文学=美術(芸術)と捉える発想ではないかと。西洋的な小説のイメージですね。近世文学は娯楽であった。だからお上からも風紀を乱すものとされて刑罰まで科されたことがあったと。文学というものは道徳的でなくてはならない、そんな感じであった。つまり江戸幕府の儒教道徳の縛りがきつかったのだと。そこにそれとはまったく違う発想を坪内が、『小説神髄』で持ってきたのだという考えですね。先にも書きましたがまったく不十分なものだったのですけど。まあ、『小説神髄』を読んで知的エリートたちに新しい時代が来たな!と思わせるものだったのだろうと思います。

  ・以上の2点から、『小説神髄』を始まりとする明治18年説が有力だろうということになります。小田切秀雄の主張も読んでみたいですね。僕が持っているのは、『文芸学講義』と『文学概論』です。恥ずかしながらほとんど読んでいないのですが、前者は創作に重点が置かれているようです。書かれているのは後者のほうなのかな。後者の方が圧倒的に詳しく書かれていて、海外文学まで触れられています。


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②近代文学とはなにか

 ⅰなぜ18年~20年なのか

  ・政治上は年号が変わった明治初年から近代は始まったわけですが、文学の場合(政治もそんなにすぐ根付いたとは思えませんが)は、約20年の年月がかかったと。政治経済はシステムの問題で喫緊の課題ですからすぐ変わったのだろうと思われますが、文学は精神の領域の問題であるため20年かかったと。その20年にしても長くはなかったと考えられるということで。明治の始めの段階ではまだ仮名垣魯文が人気でしたから、まあそんなものかなと。

  ・現代で考えますと、20年前だと1996年。村上春樹が、『ねじまき鳥クロニクル』を書いたり、よしもとばななが、『キッチン』を書いた…のは1988年くらいかな、『アムリタ』が1994年ですね。その頃と今ではそんなに変わっていないという説明でした。社会情勢、政治情勢はとんでもなく変わってますけどね。文学は変わってないんだと。そういうことなのでそういうことにしておいてください。1948年に死んだ太宰治を最近の人と言ってましたからそんな感覚だということで。

  ・明治の初めにロシア文学が日本に入ってくる。なにが入ってきたのかの説明はなし。明治元年を1869年とすると、ドストエフスキーの、『地下室の手記』や、『罪と罰』、『白痴』などが入ってきていた可能性は高い。それに東京外国語大学の二葉亭がいた頃には、『カラマーゾフの兄弟』まで五大長編は全て書かれています。ロシア語専攻の二葉亭は読んでいただろう。まあ実際翻訳したのがツルゲーネフの、『あいびき』なのでそこはまた後で調べて補足しますけど、トルストイも合わせて近代最強のロシア文学に原書で触れていたのは大きなアドバンテージだっただろうと思います。

  ・政治に話を戻しますと、明治7年に自由民権運動があって、日本に「自由」と「民主主義」が入ってきた。明治初年から7年経っている。政治もすぐ根付いてないじゃないかよ!とツッコミをいれたくなるところですが、メディアスクーリングなので画面を見るしかない。メールで質問はできるんですよ。回数制限はないように思います。まあこんなくだらないこと質問しないですけど。で、大衆は「自由」、「民主主義」を徐々に自分たちのものにしていったと。帝国議会ができたのが1890年(明治23年)なので、ほら結局政治も文学も20年くらいかかるんだよ、と僕は思うのですが、「自由」、「民主主義」も精神の領域の問題ですからね。


 ⅱ近代文学の課題

 ・全15回を勉強してみてから考えてほしいということでした。「近代文学とはなにか」という大きな問題ですね。ここではあくまで一般論としてはこういう課題がある、ということで挙げられていました。では何を課題としたのか?

 
 ・3点挙げられます。
  1.必然性
  2.わたしとは
  3.社会とは

  これは奥野健男が挙げたらしいです。太宰治研究で有名な方ですね。メディアスクーリングではない方では奥野健男の、『日本文学史』がテキストになってます。この3点を合わせて、「自我の問題」と研究者のあいだでは言われているそうです。極めて深刻な問題として追求されていると。近世文学が遊び(「命懸けの遊び」だそう)と言われていたのとは対照的ですね。では説明をしていきましょう。

  近代文学には必然性がないと駄目だと。これは現代のいわゆる純文学でもよく言われることなので納得はいきますよね。僕の考えが浅い可能性はありますが取り敢えず。「必然性」を書かなくては駄目なんだという問題意識。これが「わたしとは」、「社会とは」と関連していく。わかりやすい例として『浮雲』が挙げられていました。


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  『浮雲』で見落としてはいけない、というか二葉亭が書いていたのは、
   ・個人を抑圧する社会
   ・社会に敗れていく個人

  この2点です。現代の僕らが読むと、文三の情けなさというのが際立つだけ、というように読めますが文三の情けなさには理由があったのだと。この2点を挙げて考えてみれば、『浮雲』の時点では小林秀雄が私小説に欠けていると言っていた社会の問題も書こうとしている、リアリズムが成り立つ、少なくとも成り立たせようとしている二葉亭の意識というものを感じ取れると僕は考えます。

  ちょっと話はズレますが、文三が生きている明治の新しい社会というものが、市川真人の言わせるところの「恋愛と結婚と性が結びつかない」社会ではなくなった、西欧近代のキリスト教的社会のモデルに変わっていっているのに、文三の叔父叔母は封建主義の生き残り的な存在なわけですよね。そこで江戸というものを残して威張っている、陰湿な社会のなかで文三が滅んでいくという物語を二葉亭は書いていると。漱石の『坊っちゃん』と真逆ですね。

 *ドナルド・キーンの『日本文学史 近代・現代篇一』によると、文三は士族道徳の生き残りとされていて、昇が西洋かぶれの立身出世男とされています。お勢も西洋知識にかぶれている「浮雲」のような女とされています。キーン氏の書く通りであるならば漱石の、『坊っちゃん』と同じ図式ということになります。となると『浮雲』という作品が、『坊っちゃん』の約年前に書かれたことやそのリアリズム描写の徹している(少なくとも第1篇は)も考えるに、『浮雲』は日本文学史上なお評価される作品となるでしょう。
 
  文三は優秀な男で、その優秀な男が古くさい社会に押しつぶされていく(文三の上司も友人の昇も古くさい男なのでしょう)、そんな物語のなかで、「わたしとはなにか」、「社会とはなにか」で悩む文三という主人公を創り出した二葉亭。こんな主人公を書かなくてはならない、これが二葉亭にとっての「必然性」ということなのでしょう。それゆえに、『浮雲』は近代というものにふさわしい内容を持った小説として評価されたということではないでしょうか。

  ここで再度確認すると、近代文学とは、近世文学とは違う、かつ遊びではない、ということです。坪内逍遥はそれまでの日本的なものは駄目なんだと全否定にかかったわけだろうと思います。近世文学に似るものは絶対に避けなくてはならないという西欧にどっぷり嵌っていたということだろうなと。その割には、『当世書生気質』が実作としては評価されずに終わったというのが坪内にとっては残念なことであっただろうと思います。



2『小説神髄』論

 ①坪内逍遥について
  
  ・○○先生はまず始めに、『小説神髄』は文学を学ぶ人だけでなく、文化全般を知るためにも誰もが読んでおかなければならない作品だと言っておられました。確かに、『小説神髄』は文学だけを語っている作品ではないですよね。江戸から明治へと変わる変革期に坪内が、次の時代はどのようにあるべきかを書いた作品として読めるわけです。

  ・坪内逍遥は、安政6年(1859)に生まれ、昭和10年(1935)に没します。江戸の末期からごく最近まで生きたと言っても間違いではない…と○○先生は言うのだけれど、最近じゃないだろうとw うちの親でも昭和20年代生まれですからね。僕にとっては過去の人という印象は強いです。まあそれは置いておいて、坪内は尾張藩の武士の家の出です。後輩に二葉亭四迷がいますね。だから二葉亭は坪内のところに来たというのもあるのかでしょう。

  ・重要な点は、武士の家、侍の家の子であるがゆえに、坪内は厳しい教育を受けていたということです。旧武士階級が近代文学で果たした役割は非常に大きかったということで、なぜかというと、没落したからですね。食うのに1番困っていたのが旧武士階級だったと。ゆえに社会に対して鋭い視線を向けているわけですね。自分たちを冷遇する社会に対して批判的だった。他の階級出身者が見逃してしまうところまで見えていたということです。武士階級出身者は他に北村透谷や樋口一葉を挙げていましたけど、たくさんいますよね。

  ・坪内は子供の頃から歌舞伎、戯作が好きでたくさん読んでいました。近世芸術に、もちろん近世小説というものにも造詣が深いわけです。ですが当時のインテリのパターンに漏れず、近世というものを全否定しました。西欧文明の洗礼を受けると、それまでの日本の近世芸術が取るに足らないつまらないものに見えてしまった。そう言った記述は、『小説神髄』のいたるところにあります。

  ・坪内の経歴を見ていきます。明治9年に東京に上京してきます。そして東京開成学校に入学し、英文学を学ぶ。この英文学と、子供時代に好きだった歌舞伎や貸本が坪内の教養の基礎となったということだそうです。漱石の漢文と英文学も同じで国内国外両方の素養が必要だったということですね。その後坪内は色々な国の文学を勉強します。

  ・明治16年に東大政経を卒業。学士の称号を得ます。この当時の学士は今のように大学乱立の時代ではなかったので非常に珍重されたものだったそうで。学士様が言うのなら!みたいな。その学士坪内逍遥が、小説というものを、『小説神髄』で大真面目に論じたことが大変な衝撃であった、ということらしいです。

  ・小説はそれまでは上等なものではないとみなされていました。それがとても大切で真面目なものなのだと坪内が言い出したわけですね。ちなみに二葉亭は本名を長谷川辰之助というのですが、文学をやると父に言ったときに、父が、「くたばってしめぇ」と言ったところから「二葉亭四迷」というペンネームがつけられたと言われますが、あくまで都市伝説だそうです。

  ・この当時は人情本などがお上に1ヶ月の手鎖の刑に処せられるなどという時代だったのですが、そんな状況下で坪内が、学士様が大事だと言った、ということが世間では大きな衝撃と受け止められたようです。

  ・坪内はその後、東京専門学校(後の早稲田大学)の講師となります。そこでシェイクスピア研究をし、翻訳をしました。坪内のシェイクスピアの翻訳は有名ですよね。明治18年に、『小説神髄』。ほぼ同時期に、『当世書生気質』。残念ながら実作としては評価は得られず、江戸文学に飾りをつけただけだとみなされました。はっきり言うと、『当世書生気質』は中途半端な小説だということで。


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  ・前にも書きましたが、小田切秀雄先生は、『小説神髄』は近代文学の始まりに当たらないと言っています。○○先生は、小田切先生の弟子ですが、『小説神髄』でよい、という立場を取っているようです。

  ・明治19年に坪内、二葉亭と出会う。そして明治20年に二葉亭、『浮雲』を発表。明治23年に坪内、早稲田の文学科の創設に尽力。明治24年に雑誌、『早稲田文学』を創刊。今でも続いてますね。川上未映子や黒田夏子などの芥川賞受賞者を輩出しています。当時は大正時代の私小説が多く発表されていたそうです。



②『小説神髄』の主張

   ・『小説神髄』の抜粋がプリントで配られているのですが、このブログだと貼付ができないようなので、後で抜粋部分を調べてページ数を書いておきましょう。
 
 ⅰ「人情」の描写・リアリズム
  
   ・「小説の主眼」の抜粋部分から、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。」と、有名な箇所が抜き出されています。「小説の主脳=人情」だと。人情は、人の心、考え方、心の内幕、というほどの意味だということでよいかと思われます。現在の僕らにとっては至極当たり前の主張に感じられますが、これがその当時は大変重要な主張だったのだということです。

   ・坪内のまず念頭にあったのが曲亭馬琴の、『南総里見八犬伝』で、それを否定しようとしたわけです、好きだったにも関わらず。日本的なファンタジー、ロマーンというやつ、壮大なスケールで描く嘘物語は駄目だと。余談ですが、NHKで今やっている上橋菜穂子の『精霊の守り人』は勧善懲悪ではない壮大なスケールの物語ですね。なかなか見ごたえがあるのではないかと思って観ています。

   ・まあ、そういう嘘物語を否定し、現実の世界を描いていくあるいは、現実に起こりそうなことを描いていく、そう、リアリズムの手法によって人間の心を描くのが正しいのだと坪内は主張したわけですね。「善悪正邪」の心の内幕を漏らさず描くことが必要だということです。本当に現代の僕らから見ると普通のことなのですが、テレビドラマの、『水戸黄門』とかは勧善懲悪ですよ、それまでは善悪正邪、つまり善玉は良いことしかしない、悪玉は悪いことしかしない、という作品ばかりだったわけです。そして善玉が必ず勝ってめでたしめでたしと。

   ・リアリズムは違います。上の、『浮雲』の文三がそうであったように、現代の作品でもままそうであるように、リアリズムは正義(「正義」の定義が曖昧ですが)が負けることもありますよね。坪内は勧善懲悪は駄目だ、いい人だって悪いことを考えるのだし、悪い人だっていいことを考えることがあるのだと。それを漏らさず書かなくてはならないのだと主張するわけです。

   ・坪内のいう「人情」とは、人間を表面的に描くのでは駄目で、その奥深くまで描かなくてはならないということで、それを主張したわけです。これは当時としては革命的で大変な主張だったわけですが、残念ながら、『当世書生気質』では上っ面しか描けてないではないかと非難されることとなります。坪内自身も論としては書けてもまだ実感としてよくわかってなかったということですね。


 ⅱ小説の目的と効果

  ・「小説の主眼」のところに、「まことにモーレイ氏のいへるがごとく、苟にも文壇の上に立ちて著作家たらんと欲する者は、常に人生の批判をもてその第一の目的とし、しかして筆を執るべきなり。」とあります。ここで挙げられている「(小説の)第一の目的」を○○先生は、「人生の批判」と解釈しています。ここでの「批判」は日常僕らが使う「相手を責める」などという意味ではなく、カントの使うような、「根本的に考える」といった意味です。人生を根本的に考えるのが小説だと坪内は考えたのだと○○先生は言っています。

  ・「小説総論」からの抜粋、「小説の裨益」からの抜粋から、芸術の目的とは何かについて坪内がどう考えていたかを考えるに、芸術の目的とは、「娯楽」であると。決して「教育的効果」をもたらすものではないのだと。ちょっと「あれ?」と思った方もいると思いますけどそれはあとで説明します。当時小説家はお上から睨まれる存在でした。儒教道徳が根強かった時代に前に触れた人情本など風紀を乱すものだったわけですよね。坪内はそれに対して、小説というものに教育的効果など期待してはいけない、「小説の目的」は楽しませることなのだと主張したわけです。まあ、『小説神髄』のほかの部分では、近世文学は娯楽で駄目だと言っていたくせに、今度は小説の目的とは娯楽なのだと言っているわけで、坪内の矛盾は明らかなわけです。後者が抜粋されている部分として「小説の裨益」の箇所と、「小説脚色の法則」の箇所があります。これもあとで岩波文庫版のページ数を書き足しておきましょう。こちらは芸術の効果は、教育的効果なのだと。なければただの玩具に過ぎないとまで書いています。

  ・これはどういうことよ、と思うわけですがこの点は個々人で考えてくれということでしたが、○○先生は、教育的効果は優れた芸術ならば勝手についてくる、と説明されていました。坪内は文学には効用があると、いわゆる効用説と言われる立場を取ったらしいです。文学って実際社会で役に立ちますか?という一般人が考える素朴な疑問がありますよね。坪内は、文学は役に立たないと言い切れなかったのです。だから文章が錯綜しているというわけのようです。これに対して北村透谷はひとつの考えを打ち立てたらしいですが詳しくは説明されなかったです。気になりますね。


 ⅲ近代主義の思想

  ・「小説総論」からの抜粋があり、そこでは詩など他ジャンルとの比較が論じられています。現在の僕らにとって短歌や俳句などと小説は相並ぶもので、いわばジャンルが違うという認識ですよね。それが坪内によると、当時はと言っていいのか、短歌や俳句と小説は序列があると言います。つまり、短歌や俳句は字数制限や音韻の問題で縛られる制限された表現方法で、小説という散文においてこそ人間の複雑な感情は最もよく表現できるのだ、という考え方であったように思われます。当時の日本のインテリはそう考えていたようですね。短歌など取るに足りない、西欧の近代小説こそが複雑な心を表現できるのだと。

  ・近代主義というやつです。かぶれているのですね。江戸以前を全否定したい。それが、『小説神髄』には非常に色濃い。西欧への劣等感がなせる技とも言うべきですね。


 ⅳ文体論

  ・さて、文体ですが、「文体論」の箇所が抜粋されています。そこで坪内は、新しい時代にふさわしい文体とはいかなるものかについて書いています。「西洋の諸国にては言文おおむね一途なるから」とあります。つまり、ここから言文を一致させようぜ、という発想が出てくるわけです。それを二葉亭四迷が受け継いだわけです。これは当然現代の僕らの口語体へとつながっていくものです。だから僕らの書き言葉の基礎をつくったのは坪内だと言えるということですね。この言文一致なのですが、問題は二葉亭の言文一致体が、明治40年頃に顕著になる自然主義にもつながっていくわけです。このことは次回に述べられるでしょう。


③『小説神髄』の文学史的位置づけ(まとめ)

  ・まとめに入ります。まず、『小説神髄』において坪内は文学を真面目なものとして考えました。これは大変画期的なことでした。そして人間の心の問題を重視しました。小田切秀雄が批判したように不十分ではあったのですが、一応善悪正邪入り混じった人間を書けと言ったと。儒教道徳に侵された式亭馬琴のような作品を批判しました(かなり及び腰だったようです)。そして文学にはどのような効用があるのかを探求しました。『小説神髄』では答えは出ていませんが向き合ったことに意義があると言うことでした。

  ・『小説神髄』は、その新しさゆえに近代主義の特徴が非常に強く表れている作品であると。それまでの江戸文学を全部否定する、まさに文明開化とは西欧化だ、という感じですね。そしてそのためにも新しい文体を創り出さなければならないという発想まで行き着いた。今日の口語体を創り出す端緒になったという意味でも大きな意義があったのだということです。



以上が第1回の講義内容でしたね。どんなものでしょう。これを全15回書くとなると無理じゃね~のと思わなくもないのですけどね。坪内逍遥についてはポイントは押さえられているとは思うのですが、大学の専門科目としてはどうなんだろう。この講義を足掛かりにして自分で深めていく作業は当然求められるでしょうが。