2016年11月24日木曜日

『偉業』 ウラジミール・ナボコフ 光文社古典新訳文庫

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフロシア語:Владимир Владимирович Набоков 発音 [vlɐˈdʲimʲɪr nɐˈbokəf] ( 聞く)ヴラヂーミル・ヴラヂーミラヴィチュ・ナボーカフ英語:Vladimir Vladimirovich Nabokov [nəˈbɔːkəf, ˈnæbəˌkɔːf, -ˌkɒf], 1899年4月22日ユリウス暦4月10日) - 1977年7月2日)は、帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパアメリカで活動した作家詩人。少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』で世界的に有名になる。昆虫 (鱗翅目) 学者チェス・プロブレム作家でもある。アメリカ文学史上では、亡命文学の代表格の一人である。ウラジミールまたはラジーミル・ナボコフと表記されることもある。


彼が1932年に書いた"Подвиг (Glory)" が1974年に渥美昭夫により『青春』というタイトルで翻訳された。2016年に新訳として光文社古典新訳文庫から『偉業』として出版された。ナボコフはロシア語版、英語版をともに書いており渥美訳の『青春』は”Glory"から、貝澤訳は"Подвиг "からの訳である。僕は貝澤訳を読んだ。以下は貝澤訳について書く。


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”言葉の魔術師”として知られるナボコフであるが僕は高校時代に『ロリータ』を読んだだけであった。手元にある『ロリータ』の巻末を見てみると平成18年11月1日発行とある。つまり僕の高校時代には新潮文庫はいまだ若島正訳の『ロリータ』を出版していなかったようである。おそらく大久保康雄訳で読んだと思われる。最近この若島訳の『ロリータ』を読んでみたがこの作品に対して抱いていたイメージとかなり違った。この記事では『偉業』について書くためこれ以上『ロリータ』には触れないでおく。


ナボコフに言われることとして、要点だけを言って真ん中を抜いてくるという独特の文体の仕組み、彼独特の面白い比喩が挙げられるようだ。言葉遊びも非常に多く使用しその語彙が豊富で沼野允義氏は『賜物』を翻訳したときに辞書を引いても出てこないロシア語がたくさん使われていて自分のロシア語の能力に絶望したというようなことを書いている。対して英語版の作品もほとんどがナボコフ自身の手によるものだが英語版は英語圏に受け入れやすいよう、少々荒っぽい言い方をすれば商品化しやすいように書き換えられた部分が多いようだ。『カメラ・オブスクーラ』は大幅な改変が行われている。


ナボコフ作品の特徴としてジョイスやプルーストの影響が強いであろうことが『偉業』を読んでも推測できる。ナボコフが少なくともベルクソンを熱心に読んでいたという事実はあるようで彼の時間と空間に対する考えはベルクソン的であることも読んでいて感じられる点である。またイメージが様々な事象を移っていくことも指摘されており例えば『カメラ・オブスクーラ』では「赤」というイメージが木苺の赤からマグダの肌の色へと移り最後にはクレッチマーの血の色へと移っていく。イメージとして使われる素材として爬虫類が多いことも知られている。ナボコフは昆虫学者でもある。円城塔氏の『道化師の蝶』がナボコフからインスパイアされたものであることは沼野氏と円城氏の対談から知っていた。


『偉業』を読んだ感想を大雑把に始めに書くと、僕が今まで読んだ作品の中でも異常に細部にこだわりを持つ作品であったという印象である。もちろん『偉業』はナボコフ作品のなかではそのような傾向が特に顕著だと言えない部分があるらしい。しかし一見ナボコフの自伝的作品と名指され作品自体の評価はそれほど高くない『偉業』であるが僕はこの作品をナボコフの自伝的作品とは読んでいないし読み終わったときは優れた作品に出会ったときの感動を覚えた。この作品を読んで思ったのは言葉というものはコンテクストに組み込まれて初めてその本来の意味を確定できるということであった。ナボコフは作品において一見細部にこだわるあまり作品全体のテーマ性のようなもの(それがあるのだとしたら)とは関わりのない別の次元で様々な事象を独特の比喩表現を通して書いていると思われるのだが、言葉といういわば「言の葉っぱ」を喩えるならオセロゲームの優れた打ち手のように素人には一見無意味な一手を数々と繰り出す。その一手一手がゲームが終盤に近づくにつれてパチンパチンと自分の色へと裏返り最後は黒(もしくは白)のイメージで盤上が埋まるのである。それがナボコフの作品を読んでいて感じることだ。極めて具象的でかつ論理的に作品の細部は書かれている、そしてそのひとつひとつの事象が独特のイメージを喚起させるのだが、そのイメージ群が作品を読み終えたときに大きなイメージとして読み手を圧倒する、それが『偉業』を読み終わったときに僕が感じたものであった。


ナボコフは『偉業』の主人公のマルティンについて最初から「冒険のための冒険」しか目指しておらず、「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」だけであると1966年にインタビューを受けたときに述べている。そのような造形をしたマルティンをナボコフはアイロニカルに語っているのか、それとも読者は逆に肯定的にとらえていよいものか、そのことを念頭に置きながら『偉業』について考えてみたいと思う。


『偉業』は第50章で終わっているが第11章が欠けている。ナボコフという作家を考えるとなにか意図をもってしていることは推測できるのだがその意味するところはわからなかった。主人公マルティン・エーデルワイス、その苗字は「高貴な白」という意味を持つ。彼の本作品を通じてのイメージを表しているかもしれない。マルティンの祖父はスイス人で1860年代に妻インドリコフと結婚しセルゲイ・ロベルトヴィチをもうける。マルティンの父である。彼は医者で妻ソフィア・ドミトリエヴナとのあいだにマルティンをもうけるが後に妻と子と別居する。一家はロシアに住んでいたがソフィアとマルティンはヤルタへと移る。ソフィアはロシア的なものを嫌い英国的なものを好んだ。マルティンが母から受けた影響は強い。彼は子供時代から豊かな感受性を持ち合わせていて(幾分神経症的と思われるほどの)、幼少時代自分のベッドの上にかかっていた祖母が書いた水彩画に執着する。その水彩画は風景画で、森林が描かれておりその森の奥へと曲がりくねった小径が続いている。この水彩画の風景がこの作品にとって決定的な意味を持つ。母は幼かったマルティンに寝るときに英語の本を読んでくれるのだがその物語に水彩画と同じ森の小径が出てくるのだ。そのことに母が気づきませんようにとマルティンは今まで味わったことのない胸の高鳴りを感じることになる。この高鳴りの感情がマルティンの人生を以降縛りつけることになる。


ナボコフの文体の特徴として長いシンタックスが挙げられると思うが、それは僕も初めて読んでいった際は苦労されられた。しかし繰り返し読むことによって少なくとも日本語訳については訳者の努力の賜物であると思うのだがそれが心地よく感じられるのだ。僕が普段小説、特に凡庸と言っていいかもしれない小説を読むときに感じる焦りのようなものは僕の心の内に現れることはなく、ナボコフのおそらく知性を感じさせる文章を楽しむことができたようだ。この『偉業』に関してはどこのページを捲ってもそこに書かれている文章は非常に知的で情感に溢れた描写で書かれておりまさに1文字1文字が丁寧に練られて書かれていると実感することができる。話が逸れたので作品内容についての記述に戻る。


ナボコフは作品内のある出来事への布石を作品中の読者の記憶から薄れるほど前に置いていたりする。例えばマルティンが愈々架空の国ズーアランドへと旅立つことになる場面が終盤に描かれるがその前に何度もその動機となり得たであろう出来事を綴っている。『偉業』は約390頁に渡る作品だがその最初の記述は22頁の父とのエピソードから書かれている。この布石の打ち方は上に挙げたようにナボコフがオセロゲームの手を考えるように前もってほとんど関連がないかのように書かれている。同じく母のエピソードも書かれておりマルティンの子供時代がズーアランドへの旅を決意させるような若者に育てたことが暗に意味されているのだろう。他にもキーワードとして書いておきたいのは「Fragile」「グルジア人はアイスクリームを食べない」など。さらに付け加えることになるが、この作品中ではロシア、スイス、フランス、イギリスの様々な都市、そしてその経路(船中、列車内)が舞台となるがこのことはナボコフが旅する作家であったということも重要であるし、それら舞台となった国々の文化が色濃く反映されて作中人物が描かれているためにその人物たちの性格の特徴という点も注意深く読んでいかなければ読者は見誤る恐れがあるだろうということも書いておかねばなるまい。


マルティンは夢と現実を言ったり来たりして自分の記憶を改ざんする癖があるがこれは精神分析的に言えば反復強迫に近いものがあるように思う。病的とまではいかないがマルティンの他人と比べて極めて神経質な性格を物語る癖として作品を読む際には記憶に残しておいてよいだろう。


『偉業』という作品の前半部で特に印象深く本作品で重要な役割を果たしたと思われる出来事にギリシアへ向かう船中でアーラという25歳の婦人とマルティンが出会う場面である。マルティンにとってアーラは大人の女性で初めて恋に落ちる女性となる。彼女は既婚者であり詩人でもある。彼女とのファーストコンタクトは船中での「紫水晶の」という言葉であるが、彼女は次のような詞を書いている。

「紫のシルクの上、帝政風の天幕のもと、
あの人は私のすべてを慰めた、吸血鬼の口で吸いつきながら、
でも明日にはもう二人とも死ぬさだめ、身を焦がして灰になり、
麗しき二人のからだは、砂地へと散り混じる」

不倫の詩であろう。アーラは人気の詩人で貴婦人たちはこの詩を懸命に書き留めるのに夢中になるほどだ。そんなアーラとの出会いにマルティンは心踊らされる。母はアーラのことを悪魔主義と呼びながらもマルティンが恋をしたことには肯定的なようでアーラを受け入れようとする素振りも見せる。アーラについてのマルティンの印象は77頁から2頁ほどかけて詳細に描写されている。この描写は注目すべきであろう。後にこのアーラの印象が「黒い彫像」を見たときに鮮明に浮かんでくるのだ。マルティンにとってアーラは「赤」の存在。アーラのつけていたルビーの指輪は血の象徴であり、この象徴がイメージとして最終盤まで物語に付き纏ってくるのだ。「紫水晶の」をうまく感じ取れないマルティンを子ども扱いするアーラであったが彼女がマルティンの最初の女となる。


イギリスではジラーノフ家の人々と懇意になる。ジラーノフ氏(ミハイル・プラトーノヴィチ)、その妻のオリガ・パーヴロヴナ、その長女ネリー、次女ソーニャ、オリガの妹エレーナ、その娘イリーナである。この中でソーニャはまたこの物語で非常に重要な役割を果たす女性である。登場したこの章は第13章だが以降最終章までソーニャとマルティンとの共通の友人ダーウィンの三角関係に似たものが続く。イリーナは知的障害を持っているのだが彼女も物語で感情をつま弾く役割を果たしているように思う。イリーナについてはなぜこの物語にイリーナのような女性が必要であったのかはよく考えてみる必要がある。ここから第21章に至るまでマルティンのイギリスの特にケンブリッジ大学での出来事が書かれている。ここまで読んだ段階では作品のタイトルとなった「偉業」という言葉は出てこないのもあるし、旧訳の『青春』のほうが適切なタイトルであるかもしれないと考えてしまう人も多いと考える。


この作品で読み手が力を入れて読まねばならないのは第22章、第23章であろう。マルティンはスイスに戻っている。そこでマルティンが険しい岩棚を歩く場面がある。マルティンは後にもう1度岩棚を歩く。マルティンは岩棚の下の奈落の誘惑と闘うがその奈落の奥底には点のように小さな白いホテルが見える。マルティンの傍の岩壁を黒ずくめの蝶々が彼を挑発するかのように昇っていく。この岩棚の体験はマルティンにとって非常に大きなものだったことが暗示されるのだがその後イギリスに戻るとソーニャの姉ネリーとその夫の死去の報せを聞くことになる。ジラーノフ家は喪に服しており、マルティンの体験はジラーノフ家の喪に霞んでいく。それはジラーノフ氏へのマルティンのお悔やみの言葉が洗面所のドア越しに行われることにより強調される。ここで22章は終わるのだがナボコフはさらに次の23章でもジラーノフ家の喪を書くことによりマルティンの体験の意味を書き換えていく。ヨゴレヴィチという場違いな男が訪問しジラーノフ家は益々暗さを深めていく。その後マルティンがチェーホフの短篇集を持って部屋に戻り「犬をつれた奥さん」(示唆的である)を読んでいるとにわかに自分の理由のない不安の原因を悟る。いま自分のいる部屋が亡くなったネリーの部屋だったのだ。するとソーニャが部屋を訪れる。ソーニャはマルティンのいるベッドに乗ってマルティンに話しかけるのだがマルティンはソーニャの訪問の理由に気づかない。彼はスイスの岩棚で奈落の誘惑に勝った自分の話をしてしまう。ソーニャは自分の内面の不安の話をしながらマルティンの毛布にもぐり込もうとする。マルティンはソーニャを抱きしめ唇を頬に押し当てる。ソーニャは両の頬を濡らし部屋を出て行ってしまう。彼女はネリーとこの部屋で明け方まで話していたことを思い出しマルティンを訪問しただけだったのだ。マルティンはあくる日の朝ジラーノフ氏と浴室で対面してしまい彼のばかばかしさはさらに強調され、ソーニャからは「クレチン(低能)」と名指されることになる。この2章で書かれたことが決定的にマルティンのズーアランドへの旅と関わっていることは間違いないであろう。


『偉業』は約390頁の作品だがその中間、ほぼ半ばの第24章の最後198頁において(時間的には作品の結末が書かれた数年後に)マルティンの母ソフィアが「周囲に聞こえるほどのうめき声をあげた」という記述がある。このうめき声がこの作品でのひとつの象徴となっていることもまた疑い得ないだろう。最終盤393頁に次のような記述がある。

「ダーウィンは頬を拭って、ソーニャのほうは見ないようにしていたが、感じていたのは英国人が感じ得る最高に恐ろしい衝動――叫びたいという衝動だった。」

この「叫び」を象徴する人物が作中に存在する。それが上記で少し触れたソーニャの従妹イリーナだ。イリーナは知的障害を持った女性である。しかしここでもナボコフは彼女をただの象徴としては扱っていない。彼女の持つ叫びの原因となった複雑な事情は第36章で語られている。イリーナは14歳のとき暖房客車に母親と乗っていた際にチンピラに絡まれ、別の列車では父親がならず者の兵士たちに窓から捨てられてしまうという事件に遭遇した。その後イリーナはチフスを患い一命はとりとめたが言葉が喋れなくなり唸り声しかあげられなくなったのだった。この叫びや叫びの前の最高に恐ろしい衝動が『偉業』という作品においては感情が盛り上がる場面で何度も登場する。


最後に色のイメージについて少し書いておきたい。マルティンの苗字であるエーデルワイスはスイスの国花で「高貴な白」という意味だということは書いた。この作品で度々登場する色は多い。緑、黒、光や闇など注目すべき色はたくさんあるが白と対比されるものとして赤をあげておきたい。赤をイメージするものとして最初に明確なかたちで現れたのはアーラだ。アーラの指輪の真っ赤なルビー。それは罪、そして血=死をイメージさせるものなのだ。赤はその後煙草の火など至る所でこの作品のイメージをかたづくり、最後にダーウィンのパイプの火となり現れる。そのとき我々はマルティンの結末を物語の筋からでなくイメージから想像することになるのである。彼は自分の生来の「白」のイメージに背き「赤」のイメージに惹かれそれを追い求めた男だったと言えるだろう。


『偉業』はマルティンに焦点を当てて考えた場合、彼のズーアランドへの「冒険のための冒険」でありまさにナボコフ自身が言うように「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」作品であると言うことができる。この作品を読んでマルティンに対してどのような思いを抱くかは人それぞれであろうが僕はマルティンのなしたことは「偉業」であると思う。この作品をまとめることは困難であると感じるので何が原因でなにがこのような結果をもたらしたかを書くことは不毛であろう。ただナボコフの言葉を僕の言葉で言い換えさせてもらうならばマルティンは空の器を取りに行くという偉業に身を投じたのだと言えるのではないだろうか。まだまだ書くべきことはあるのだがこれ以上は冗長になると考えとりあえずここで終わりとしようと思う。また書くべき必要があると感じたならば追記として書きたいと考えている。


*メモとして。
樅の木の森を通る小径。何もかもがじめじめして霞んでいる。靄の奥にある建物。あの絵の中の景色のように謎めいている。黒い小径、濁った水、湿気を含んだ風のなかに灯る火。パイプの火がマルティンの行方を暗示している。

2016年8月31日水曜日

『破戒』 島崎藤村

『破戒』 島崎藤村


一方の自然主義ーー島崎藤村『破戒』


 ・『破戒』を通じて日本の自然主義の一方を考えていきます。差別用語が使われる場合もありますが部落差別を助長するような意図はありませんのでご容赦ください。


1島崎藤村の生涯

①生涯と作品

 ・島崎藤村。明治5年(1873)~昭和18年(1943)。本名島崎春樹。樋口一葉と同一年に生まれ、太平洋戦争の最中に没しました。木曽の庄屋の名家の生まれです。明治14年に兄と一緒に勉学のために上京します。父は厳しい人でしたが精神を病み、座敷牢で亡くなっています。明治学院普通部本科に入学しキリスト教の洗礼を受けます。その後明治女学校の英語の教師となります。そのとき女生徒に恋心を抱きますが打ち明けられないまま辞職し、関西へ行きます。島崎藤村は追い詰められると逃げてしまう(旅に出る)という傾向を持つ人だったようです。

 ・明治26年に『文学界』に参加。北村透谷と共に創刊し、藤村は旅先から寄稿しています。北村透谷は藤村の小説によく出てきます。『破戒』での猪子連太郎は透谷と重ね合わせているのではないかと言われています。

 ・明治29年に東北学院に勤めます。そのとき『若菜集』を発表。「はつ恋」の詩が有名です。その後小諸で教師をしそのとき結婚。『落葉集』を発表します。「椰子の実」で有名です。藤村は『落葉集』を書きながら自然主義的な小説を書こうと考えていたようです。

 ・明治38年に東京へと戻ってきます。明治39年に『破戒』を発表。この『破戒』以前/以降で藤村の作品は浪漫主義的/自然主義的と分けることができます。『破戒』は後者で非常に救いのない暗い小説となっています。この『破戒』が藤村の1度目の転身と言われています。


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 ・『破戒』は文字通り戒めを破るということです。明治の時代の酷い差別が書かれています。その救いようのない現実を暴き出したところに『破戒』の自然主義的特徴が現れています。

 ・明治41年に私小説『春』を発表。『春』は非常に重要な作品です。『春』以降、藤村は私小説の立場に立ちます。この作品には藤村自身や北村透谷が出てきます。『春』以降が2度目の転身と言われます。

 ・明治43年に糟糠の妻が四女を出産後死去。藤村は切り詰めた生活の中で3人の子を失っていました。その辛い思いもあってか手伝いに来ていた兄の娘と関係を持ち妊娠させてしまいます。藤村はフランスへ渡ります。

 ・大正5年に帰国。大正7年に姪との関係を書いた『新生』を発表。この作品は様々に議論されました。その後『夜明け前』を発表。『東方の門』を執筆途中で永眠します。


②そのポイント

 ・島崎藤村の評価は落ち着いてきているといいます。2点。
  1.放浪すること。この放浪が重要な点で、放浪先の経験を文学に昇華しているのです。明治14年~明治38年までは、関西、仙台、小諸と放浪しました。
  2.ロマン主義から自然主義へ。浪漫主義の代表作は『若菜集』『落梅集』で詩的形式で発表しています。自然主義の作品は『破戒』『春』など小説という形式で発表しています。
  島崎藤村は日本の文学史全体の転回を体現した文学者だと言っていいでしょう。


2文学史的観点から

①藤村の浪漫主義
 
 ・浪漫主義時代の作品は叙情性が非常に豊かです。国木田独歩とも違う感傷的なものです。そこには恋愛感情と旅愁が書かれています。感傷的と言ってもそれは、私とは何か、どうやって生きていけばよいのか、といった深刻な問いを投げかけ、それを自分の内面を持て余してしまうようなものなのです。

 ・ずっと封建的だった社会で恋愛感情の開放を書く事は、特に男性が書くことは「男のくせに」と言われ旧弊な社会との対立は必然でした。そのような社会的背景と照らして読む必要もあります。


②自然主義

 ⅰ自然主義とはなにか
  
  ・自然主義について川副国基は「藤村と自然主義」(『島崎藤村必携』 學燈社)で藤村の自然主義について書いていますが、その解釈は浪漫主義の戦う側面が過小評価されていると言います。国木田独歩の『武蔵野』のところで書いたように浪漫主義の延長が自然主義だと考えると浪漫主義の戦う側面はもっと重視されるべきであると思います。

  ・自然主義とはリアリズムの一つの形態です。現実にありそうなことを現実にありそうに書いてあるか、それによりリアリズムであるかどうかを分けることができます。

  ・明治39年に島崎藤村の『破戒』、明治40年に田山花袋の『蒲団』により日本の自然主義は確立されます。その後の大正文壇の主流は藤村と花袋となります。

 
  ・前にも書いたように自然主義の「自然」は自然科学の自然です。自然科学の方法を文学に応用し社会と人間の関係を冷徹に描き出すという主張、手法が自然主義です。もっとわかりやすく言うと、小説という形式を借りた一種の思考実験とも言えます。ある社会を想定してそこに人間を放り込むと人間はどうなるのか。自然科学のフラスコでの実験を思い浮かべてもらってもいいと思います。

  ・ヨーロッパの自然主義の特徴は、
   1.必ず社会性が織り込まれています。社会と人間の関係を読み解くことが重要だからです。
   2.フィクションであること。この点が日本の自然主義と違う点です。
   坪内逍遥は『小説神髄』でリアリズムとは現実の人物を雛形にして登場人物を造形すると書いています。そのことが別様に解釈されたのではないかと窺われます。
   日本的な自然主義については後に田山花袋の『蒲団』を書く際に触れようと思いますがおおまかに言うと、1.社会性が希薄であること。2.フィクションではない実在の人物が登場すること=私小説が非常に多いということ。この2点に特徴があります。


 ⅱ文体の問題

  ・明治40年に書き言葉の原型が出来上がったことは以前にも触れました。つまり今我々の使っている言葉が自然主義の書き言葉だということです。

  ・ちなみに『破戒』には旧版と新版があります。旧版が発表されたときにその差別的な内容から色々な人たちの心を傷つけることになったため新版が出されました。別名『身を起こすまで』です。

  ・『破戒』はまだルビの振り方に多少の違和感を残していました。「社会」が「よのなか」であったり「思想」が「かんがえ」であったりしています。しかし現在我々が読むことに支障をきたすものではありません。口語としてできあがっていたと言って良いでしょう。同時代の国木田独歩も口語体という点で進んでいましたが藤村は国木田よりさらにちょっとだけ進んでいたと言えると思います。


 ⅲ社会性をはらんだ自然主義

  ・『破戒』はヨーロッパに自然主義にほぼ近いと言えます。第一に部落差別を問題にした点で社会性をはらんでいます。このことは後にプロレタリア文学の側から評価されました。社会性という点では私小説の元祖とも言える田山花袋も『蒲団』以前の『重右衛門の最後』『一兵卒』『田舎教師』などは稚拙ではありますがヨーロッパの自然主義に近かったと言えるでしょう。ただ花袋の場合はどうみてもプロレタリア文学ではありません。花袋に社会主義の思想は見つけられません。


 ⅳ『破戒』後の展開

  ・田山花袋の『蒲団』が私小説の始まりであることは上に書きました。花袋に対抗すべく藤村もそれに続き『春』以降私小説を発表していきます。ただし、『夜明け前』などは私小説の枠組みでとらえるべきではなく、スケールの大きなリアリズムととらえるべきでしょう。私小説で言われることに、半径10メートルの中だけを扱っている、という言い方がありますが『夜明け前』は当てはまりません。

 ・私小説というものはヨーロッパに自然主義の発想にはなかったものなのです。


3作品論

 ・『破戒』の旧版と新版は読み比べるとその当時の問題点というものが浮かび上がりますのでどちらも読んでおくべきではあるのですが、現在書店に並んでいるものは旧版です。

①余計者

 ・日本の近代文学、現代文学は余計者の文学です。その特徴として、主人公が社会の中で中心的な位置にいないこと、人とうまくやれなくて社会に受け入れられていないことが挙げられます。また、作家自身も社会の中枢で活躍した人物ではないこともあります。あえて余計者の位置に自分を置きながら自分の人生の真実を見失うまいとして生きていた人たちです。

 ・余計者が決して正しいというわけではありません。大正の私小説作家で有名な人物は太宰治でしょう。『破戒』も同じく余計者の文学です。主人公の丑松は頭脳は優秀ですが善良で気弱な人物です。社会からいわれのない差別、抑圧を受けています。こういった人物を主人公にすることにより個の側から社会の理不尽を照らし出していくのが余計者の文学だと言えるでしょう。

 ・弱い側から見ると強い者の横暴やインチキが見えてくるのです。『破戒』においては主人公の丑松だけでなく、丑松の尊敬する猪子も社会の理不尽と真正面から闘い死んでいく余計者として書かれています。猪子のモデルは北村透谷であろうと思われますので透谷のイメージを重ね合わせて読んでいくと面白いでしょう。


②『破戒』の諸問題

 ⅰ書き換え

  ・上に書いたように旧版と新版の書き換えの問題があります。藤村自身はたいして書き換えていないと言っていますが実際読んでみると大幅な書き換えがあったようです。被差別部落を指す言葉は書き換えられるか削除されたようです。

  ・さらに藤村自身の被差別部落への差別意識が地の文に出ていたようです。つまり藤村自身が自分の差別意識を相対化するところまで至らなかったということのようです。例えば血筋の問題を書いてある箇所には人種起源説を思わせるものがあると言います。人種起源説は当然明らかな誤りであるのですが藤村はそれを無意識にか書いてしまっているのです。その箇所は新版では撤回されました。

  ・撤回したことは評価できるとともに別の問題も生み出しました。差別意識は差別意識として語られるべきだという問題です。被差別者も差別意識を持っているし、差別意識が自分のアイデンティティになっているということもできるのではないかと言うこともできるからです。それならば藤村は撤回すべきではなかったのではということにもなります。これは非常に難しい問題であると思います。

 ・また、丑松の友だちが丑松を守ろうとする場面があります。そこで友だちは、穢多が追い出されたってなんだ、当たり前じゃないか、きみは穢多じゃないだろう、と書かれています。これが新版では書き換えられています。この場面はもう少し別の書き換えの仕方があったのではないかと言われているようです。旧版、新版を読み比べるときに注目しておきたい点です。

 ・そして最大の問題はその書き換えがあまりに単純に書き換えられたと思われるため物語の重要な要素が失われてしまったのではないかという点にあります。作品中で丑松が追い詰められていく様がピントがずれているように感じてしまうのです。このように書き換えられたことにより非常に難しい問題を抱えてしまうことになりました。


 ⅱ結末

  ・作品の最後に丑松が告白し土下座をする有名な場面があります。それも書き換えにより新版ではなぜ土下座をしているのかがよくわからなくなってしまっています。戒めを破った=破戒をしたことで学校へ行くことができなくなるのですが、その後丑松がどのように生活していったかが書かれていないのです。丑松はテキサスへと旅立つのですがそれが予定調和、ご都合主義に思えてしまいます。本来ならば破戒をした後の丑松の状況のほうが大変なのではないかと思われます。丑松がその後どのように生きていったかを書けなかったのは藤村の限界であったのだと言って良いのかもしれません。


 ⅲ以上のことから

  ・『破戒』は自然主義の始まりの小説であり、また社会的問題を真っ向から取り上げた初めての小説だと言えます。しかし、書き換えの問題や結末の問題など自然主義としては本質的な制約を持っていた小説とも言えます。この両方の点から『破戒』という作品を捉えることが必要であると言えましょう。

2016年8月30日火曜日

『武蔵野』 国木田独歩

『武蔵野』 国木田独歩


浪漫主義から自然主義へ・文体の問題


1国木田独歩の生涯

①生涯と作品

 ・明治4(1871)年に生まれ明治41(1908)年に没。まさに明治生まれの人です。37年という短い生涯でした。東京専門学校を中退しています。明治24年にキリスト教の洗礼を受けていてキリスト教に対する理解の深かった人です。国木田の時代はヨーロッパの様々な考え方が日本人のものとなりつつあった時代でした。

 ・明治25年にイギリスの詩人ワーズワースに触れます。このことは国木田の文学に非常に大きな影響を与えることになります。明治27年に日清戦争に従軍します。帰国後明治30年に『抒情詩』を田山花袋、柳田国男と発表。明治34年に『武蔵野』という「武蔵野」を含む作品集を発表します。


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 ・明治30年に発表した『抒情詩』は共著の詩集です。その作風は浪漫主義的でありました。「独歩吟」が非常に有名です。この当時柳田国男も詩を書いていました。

 ・明治34年の『武蔵野』には「武蔵野」「忘れえぬ人々」「源おじ」が収録されています。明治37年に『牛肉と馬鈴薯』を発表。明治40年に『窮死』を発表。

 ・国木田は浪漫主義から自然主義へと移り変わる時代を生きました。国木田は経営していた会社が傾き、胸の病気も悪くなっていき亡くなってしまいました。国木田は骨の髄まで浪漫主義的作家でした。自然主義的作品を書いたのは国木田の身体が弱っていったことと関係があると捉えるのが一般的のようです。


②その問題点

 ・短編「武蔵野」ですが、この随筆とも言えるものはワーズワース、ツルゲーネフの影響が色濃い作品です。国木田の時代の人々は外国の文学・思想を自分たちのものとして消化できた時代の人々でした。

 ・国木田は短編の名手で今読んでもその輝きを失っていません。短編の創始者としても国木田は高い評価を受けています。国木田は短い文章の中に詩的な思いを存分に残すことができる才能を持っていました。

 ・また社会に対する関心も非常に強く、尾崎紅葉のときに触れた民友社の設立にも関わっていました。平民主義を掲げ、反差別、平等思想を持っていました。社会を変えていこう、よくしていこうという強い思いは小民(=大衆、庶民)への共感として国木田の作品のどこからでも立ち上がってきます。代表的なものとして「忘れえぬ人々」「源おじ」「窮死」が挙げられます。

 ・民友社が国家主義へ向かうと国木田は文学へと重点を移していきます。社会的関心は持ちながら文学へと傾いて行ったのです。「政治から文学」へという移行は小田切秀雄など風潮としてあったようです。北村透谷が自由民権運動に挫折し文学へと移ったのもその一例です。これらの移行は魂に関わる問題だったのです。

 ・纏めると、国木田はローマン派の詩人として『抒情詩』『武蔵野』でスタートし、ローマン派の詩人として仕事を始めましたが『牛肉と馬鈴薯』以降リアリズム小説の作家へと移っていきます。それは島崎藤村、田山花袋なども同じでした。その当時の一般的傾向というものだったとも言えます。


2浪漫主義

①浪漫主義とはなにか

 ・浪漫主義とはなにかについても樋口一葉のときに書きました。再度書くと、浪漫主義の傾向は文字通りロマンチックな傾向で作品としては「独歩吟」「武蔵野」が挙げられ、現実よりも夢見るような世界への逃避という傾向があります。島崎藤村の詩を見ればわかるように非常に夢見がちな世界観を持っています。

 ・またそれのみならず恋愛感情をも含む自我の開放というのがもうひとつの大きな目的としてありました。自分らしい生きかたの追究です。当時は古くさい社会とのぶつかり合いは避けられませんでした。封建的社会との対立は必須でした。

 ・社会への批判という一面、戦う浪漫主義という一面は忘れることはできません。北村透谷や樋口一葉から国木田までそれは一貫しています。一葉は「女なりけるものを」と女だからといって制限されることはおかしいのではないか、女性だからといって何故苦しまなくてはならないのかということを「叙情性と批評性」を混じえて作品を書いています。「叙情性と批評性」は国木田にも当然見受けられます。


②独歩における浪漫主義

 ・国木田の浪漫主義の特徴として3点が挙げられます。1叙情性と2叙景を描きながらいかに生きるべきかという3社会の問題を描き出していることです。この3点がしっかりと結びついています。

 ・傷つきやすい自我を叙情的に表現するという手法です。傷つきやすい自我を肯定する傾向は「独歩吟」「武蔵野」に見られます。

 ・叙情性と叙景は強く結びついていて切り離すことはできません。それが社会に対する問いを非常に強く発生させることになります。「忘れえぬ人々」における登場人物の問いは国木田の問いといっていいでしょう。

 ・人間に対する信頼が非常に温かに流れているのが国木田の作風です。小民に対する温かなまなざしも同様です。国木田の作品には酷い人間は出てきません。

 ・そういった描き方が浪漫主義の特徴であったのです。それに代わる自然主義では悪を誇張して書くという手法も出てきます。


3自然主義へ

 ・その後文芸史の主流は自然主義へと向かいます。では自然主義とはどういったものなのでしょうか。


①自然主義とは

 ・19世紀後半にフランスの作家エミール・ゾラを中心にして起こりヨーロッパ各国へと広がった文芸思潮のことを言います。

 ・国木田の「武蔵野」は自然主義ではなく浪漫主義にくくられます。

 ・自然主義の「自然」とはイコール自然科学で、自然科学の方法を文学に応用したものです。つまり物理・化学・数学の方法が応用されたのです。

 ・それによりどんなものが描き出されたかというと、社会・人間の2点が挙げられます。社会と人間の関係を客観的かつ冷徹に描き出す主張、方法です。広く言えばリアリズムの手法のひとつと言えるでしょう。リアリズムの手法というのは現実にありそうなことを現実にありそうに書くという手法です。対立するものとしては泉鏡花の書くような神秘的作品が挙げられるでしょう。

 ・自然主義はヨーロッパで大流行し、日本でも明治40年前後から主流となります。それは大正時代まで続きました。保守本流です。昭和の始まりに三派鼎立の時代がありましたが、その一翼の私小説は自然主義の流れを汲んでいます。私小説は今でも芥川賞を受賞している作品もあるので今の時代にも続いているとも言えるでしょう。

 ・本家のヨーロッパではロマン主義の対極にあります。傷つきやすい自我を叙情的に書くのに対して厳しい現実を容赦なく客観的に書くという手法です。ロマン主義の反動ともいえるでしょう。


②文学史的展開ーー浪漫主義から自然主義へ

 a.浪漫主義から自然主義への展開における日欧の相違

 ・ロマン主義から自然主義への移行はヨーロッパの文学史においては一般的なことですが、ヨーロッパと日本では多少の違いがあります。先にも書きましたがヨーロッパの自然主義はロマン主義への反発として生まれた側面が大きいです。


 b.反発・内的必然・個人的理由

 ・日本でも浪漫主義に対する反発の側面はありましたがそれだけでは片付けられない点があります。まず内的必然が挙げられます。浪漫主義は自我の追究があり、自分らしく生きるにはどうすればよいのかということを強く訴えかけていました。それに加えて古くさい社会=封建社会との対立があったことは何度も書きました。

 ・その中で潰されていく人間たち、それを重点的に書いていく、それに重心を傾けていく傾向が日本ではありました。それを見る角度を変えてみると自然主義となっていったのです。つまり浪漫主義を徹底していった結果自然主義になっていったのです。

 ・日本ではこの見方というのは重要です。島崎藤村や与謝野晶子は社会と向き合い対立しました。そこから自然主義へと内的必然として移っていったのです。

 ・また、個人的理由として島崎藤村、田山花袋という人々がそもそもリアリズムで実力を発揮する素養を持っていたということも挙げられます。島崎藤村は浪漫主義的作品も上手いのですが圧倒的に自然主義的作品を多く残しています。田山花袋は浪漫主義的作品、特に詩ではその才能を発揮することができず自然主義の飾り立てしない文章でこそその才能を発揮することができたといえるでしょう。

 ・国木田は上の2人とは違い、骨の髄まで浪漫主義の詩人でした。しかし後年は自然主義的作品を書いていきます。


③独歩の自然主義的傾向

 ・明治40年に『窮死』を発表します。その筆致は非常に冷たく、冷徹な視点で希望の持てないリアリズムの文学を書き上げます。

 ・明治37年の『牛肉と馬鈴薯』以降リアリズムへと傾斜し、『窮死』までが国木田の自然主義的作品です。

 ・日本の自然主義はこの間、田山花袋が明治35年に『重右衛門の最後』、明治37年に『露骨なる描写』を書き、島崎藤村は明治39年に『破戒』を書いています。

 ・ゆえに国木田は日本の初期の自然主義の一翼を担っていたと言えましょう。リアリズムへ傾斜していったことは間違いありません。しかし国木田はそれにより身も心もぼろぼろとなります。骨の髄から浪漫主義的詩人であった国木田にとって無理がたたったのです。

 ・国木田は37歳という若さで命を落としますが、彼が長命であったならば日本独自の自然主義が出来上がっていたであろうと思われます。


4文体ーー日本の自然主義のもう一つの問題

 ・日本の自然主義は浪漫主義の追究した自我の問題、社会の問題の延長線上で生まれました。さらにそれに加えて文体の問題が挙げられます。この自然主義の文体がその後の日本の文章のスタンダードになっていくのです。

 
 a.口語へ

 ・田山花袋は『露骨なる描写』で硯友社的美文に対する反発を表明しました。それは花袋が美文を上手く書けなかったことに起因し、それゆえ美文を批判したのです。

 ・花袋の主張した自然主義の文章は読んでいても面白くありません。しかしそれが花袋により自然主義を推し進めるものとなったのです。この時期が日本の近代的な小説の言語が確立される時代と重なります。

 
 b.現代の文章表現の源流

 ・明治34年に発表された『武蔵野』の「武蔵野」「忘れえぬ人々」は我々が今読んでいる文章となんら変わりません。しかし、「源おじ」は文語で書かれています。『武蔵野』という作品は非常に不思議な作品集で文語と口語が混じっているのです。

 ・つまり『武蔵野』出版当時にはまだ小説の言語ははっきりとした方向を持っていなかったということです。しかし、国木田が口語に傾斜していることは窺えます。

 ・樋口一葉の『たけくらべ』のような文語が明治28~29年、尾崎紅葉の『金色夜叉』のような地の文が文語で会話文が口語というものが明治30年にありました。それが口語へと傾斜したのが明治34年ということも言えるのではないでしょうか。それは二葉亭四迷の言文一致をより洗練された形で示したとも言えると思います。

 ・そして明治40年頃、島崎藤村の『破戒』、田山花袋の『蒲団』の出現で、我々の使う言葉の原型が口語体の確立という形でほぼ完成するのです。

2016年7月22日金曜日

『人間失格』 太宰治

夏真っ盛りである。自分は訳あって太宰治を読むことになり5月からちくま文庫版の全集を読んでいる。太宰の作品で最も有名なものは『人間失格』らしい。自分は『走れメロス』ではないかと思っていたが『人間失格』が夏目漱石の『こころ』と並ぶベストセラーだということだ。


ということで自分は今年の始めに『人間失格』を読みたいと言った愛弟子青年Kに『人間失格』を含む本を贈呈した手前、ここで『人間失格』について自分の思うところを書いておくべきではないかと思い至った。この記事は漱石の『こころ』における「先生の遺書」と同じである。Kよ、心して読むように。



斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)
斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)太宰 治

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太宰治。
本名津島修治1909~1948。青森県津軽郡出身。家は大地主で父は貴族院議員も勤めている。中学の頃より作家志望であった。弘前高校を卒業後、東京大学仏文科に入学。その後中退。東大入学の頃より井伏鱒二に師事していた。1935年には佐藤春夫に師事。田中英光と交流。戦後は無頼派と言われた。1930年、田部シメ子と入水自殺を図る。1937年、小山初代とカルモチン自殺を図る。1948年、山崎富栄と入水自殺を図り、死亡。


『人間失格』の作品の構造を見てみよう。まず「はしがき」があり、「第1の手記」「第2の手記」「第3の手記」があり最後に「あとがき」がある。「はしがき」と「あとがき」の主人公は作家であろう。対して「手記」の主人公は大庭葉蔵である。上に書いた太宰の経歴を見る限り大庭葉蔵=太宰治という見方ができると思われる。また「あとがき」に出てくるスタンド・バアのマダムは「手記」にも登場する。そのマダムから葉蔵と思われる3葉の写真と3通の手紙を渡されるので、葉蔵と作家は同じ舞台(日本)の違った時間軸にいるということがわかる。


太宰という作家について詳しく書かれた本が出版されている。奥野健男の書いたものである。


太宰治 (文春文庫)
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読むと奥野の太宰への思い入れを感じることができる。この記事での奥野についての記述は上の本から取っている。今は絶版状態で入手困難であるので図書館か古書で入手してもらいたい。


奥野健男は太宰という人間を分裂性性格であると断じている。その根拠は奥野の書に直接当ってほしいが、『人間失格』の「第1の手記」からも窺える。駅のブリッジの件や、食事というものへの無関心、父にお土産を聞かれたエピソードなど、葉蔵は生活の営みに対する実感というものをまったく感じることができないという性質を持っている。それはナルシシズム、他者への恐怖と繋がっていくのだが、奥野はその原因として先天的(遺伝的)にまたは環境的に培われた(封建制や下男、女中による性的虐待など)ものとして分裂性性格があると書いているのである。


太宰に対してシンパシーを抱く人たちは現代でも多くいると思うが、彼らはおそらく太宰の上記の気質を自己も内包していると感じているのではないか。太宰は少年期、芥川龍之介に心酔していたらしいが、芥川の自裁のあと、『如是我聞』で志賀直哉に次のようなことを書いている。


「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
日陰者の苦悩。
弱さ。
聖書。
生活の恐怖。
敗者の祈り。
君たちは何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。」(『如是我聞』 青空文庫)


如是我聞
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志賀直哉は小説の神様とまで言われた日本人の心性を直感的に鋭くとらえた作品を残している。高校教科書でも「城の崎にて」が載っていると思うが、「小僧の神様」などは読んだ人もいるかもしれない。志賀は文学史的には白樺派に属し調和型の私小説作家と区分されている。志賀の恐ろしいところは弱者に対する思いがあまりにも薄いことである。彼は太平洋戦争という国難においても戦前、戦中、戦後とそのアイデンティティは変わらなかった。白樺派の作家たちは特殊であると僕は思うので是非直接読んでみて欲しい。


『如是我聞』に戻るが、太宰が挙げているものを芥川が本当に苦悩していたかというと僕としては多少のズレはあるように感じる。それは別の人間がまったく同じ感情を抱くということはありえぬのだから当然であるのでここでは問題にしない。ただ、志賀に対する太宰の怒りというか訴えは真実であろう。芥川の晩年の作品を読むと感じられるあの鬼気迫る自己の精神のクライシスは太宰も共有していたように思う。それゆえ志賀のようなアイデンティティの振れぬ人物に太宰や芥川のような揺れ動く人間の苦悩は全くと言っていいほど理解できなかったであろう。太宰は初期の作品『葉』においてすでにヴェルレエヌから「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」という文章を引いている。太宰のアイデンティティの著しいほどの不安定は晩年まで、『人間失格』まで続いていたのであろう。


では『人間失格』という作品について見てみる。上に書いたとおり3通の手記を「はしがき」と「あとがき」で挟んだ構成になっている。ここで真っ先に出るであろう疑問は、なぜ3通の手記だけではいけなかったのか、ということである。なぜ「はしがき」と「あとがき」が必要であったのかということだ。太宰は実はこの『人間失格』の前に『トカトントン』でメタ視点を置く手法を試みている。『トカトントン』を精読してみれば分かるが、終盤部に私と某作家を見ている人物が現れる。僕はこの人物が太宰であると思う(正確に言えば私も某作家も太宰であろう)。

「この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。」(『ヴィヨンの妻』「トカトントン」p63 新潮文庫)


ヴィヨンの妻 (新潮文庫)
ヴィヨンの妻 (新潮文庫)太宰 治

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この『トカトントン』という作品は非常に企まれている。優れた作品であると思うので読んでみて欲しい。太宰は企みの多い作家なのである。僕は『トカトントン』と同様に『人間失格』にもからくりがあると考える。太宰は葉蔵=太宰などと読み手に容易に読ませるような作品は書かない作家なのである。ゆえに「はしがき」と「あとがき」には当然意味が有る。


僕の考えを書こう。『人間失格』において葉蔵=太宰であるとは言える。しかし、葉蔵のすべてが太宰であるとは考えにくい。つまりは葉蔵は太宰の一部ではないかということだ。なぜそのように言えるかの根拠は先に書いたように、この『人間失格』は構造的にメタ視点を持たせており、葉蔵という人物をその葉蔵の主観と、作家の客観およびバアのマダムから見た葉蔵と多視点から相対的に見せることを意図しているように思えるからである。葉蔵という人物を一言でいうならば弱者である。意志薄弱であり他人の自分評におびえ道化を演じる弱さ、そしてその行動の幼稚さ、ナルシシズム。このような人間に対する深い同情を太宰は禁じ得なかっただろうが、それが自分であることには同様の嫌悪を持っていたであろう。他者を赦すことで自分を赦そうと企むがそれができぬアンチノミー。それが太宰である。


『人間失格』は太宰の遺作である。『グッド・バイ』があるが未完であるからそう考えても良いだろう。太宰はこの『人間失格』に己の集成を書き残したと考えることができる。そしてそれは「人間、失格」である葉蔵=太宰の「罪」の魂である。太宰は葉蔵という人物を書くことによってこの世界に自分の罪の告白をしたのだ。そしてそれにより自分の魂の救済を試みたのだと僕は考える。罪のアントは罰である。太宰は『如是我聞』に「聖書」という言葉を書いている。太宰は己が死んだときには神による審判を受けねばならない。そのための命懸けの闘いが『人間失格』という作品で行われたのではないか。そして葉蔵が罰せられることにより太宰は罪を償うことができこの世を去ることができたのではないか。そのように考えなければこの作品の構造の意味を理解することは難しいと考える。


太宰は作品に3つの手記を挟むことによって葉蔵=罪なる自己を相対的に描くことを可能とせしめた。太宰という人物の作品の全体を鳥瞰してみてほしい。彼は常に『人間失格』のような無頼の作品ばかりを書いてきたわけではない。僕の心動かされた『走れメロス』や『黄金風景』などといった作品には別の太宰もまた書かれている。吉本隆明は『人間失格』には、

「中期の健康な市民であろうと心がけた、そういう時代の作品と生きかた、つまりそういう時代を通過した太宰自身が含まれていないようにおもわれます」(松本和也『太宰治『人間失格』を読み直す』p17 水声社)

と書いており、精神の自伝としては足りないと書いている。僕もその通りではないかと考える。太宰という人間が、その魂が芸術家として持つ性ゆえにその自己の持つ罪を作品という形で罰したくなった、しなければならなくなったのではないかと僕は考えるのだ。よって僕は、葉蔵は太宰の「罪」なのだと結論づける。私小説の読み方のように登場人物を安易に作家とするような読み方は『人間失格』においてはできないと僕は考える。


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蛇足ではあるが、もう一つ考えてみたいことがある。以上のように読んでいったときに葉蔵という人物を太宰はフィクションとしてどう捉えていたのだろうかということだ。もちろん太宰は個人的には罪として捉えていたということは書いた。だが太宰は作家である。作家としての太宰は読み手に葉蔵をどのように読ませたかったのだろうかということだ。奥野健男の取るように太宰を分裂性性格と見たならば、太宰と同時代の読み手は太宰自身の精神のクライシスの問題を葉蔵に仮託したと読んだだろうと推測される。太宰の死を終着点とした個の実存の問題であると。それは奥野の著書を読むと窺われることだ。一方現代の読み手はどう読んでいるのか。先にも引用した松本和也の『太宰治『人間失格』を読み直す』に書かれていることで実際書に当たって欲しいが、太宰の問題は現代においてはコミュニケーションの問題へと帰結するのだと述べている。現代のようなモノにあふれた時代においては人でさえも物象化し自己に対する実感を持てなくなっている。社会のなかで極めて浅く表面的にしか生きることができない僕たちの存在の軽さの問題に太宰の問題が重なってくる。ちなみに松本の書には作家綿矢りさの太宰についての発言が引用されている。そこで綿矢は『人間失格』を読んだときに自分が漠然と考えていた内面の問題がすべて書かれていたと発言している。綿矢の高校の頃の発言のようだが作家としての言葉としては少々残念ではあると思う。綿矢をフォローするならば、綿矢の作品は彼女が太宰が書いた以外の現代に即した内面の問題を書いているのだろうと言えるということだ。


太宰が『人間失格』を通して書きたかったこと、それは人間が社会のなかで生きていく際に必ず向き合うことになる「倫理性」の問題ではないのか。志賀を批難したアイデンティティの問題も倫理性と表裏一体の問題であろう。『人間失格』は、この「倫理性」との対決、アイデンティティとの対決に敗北した太宰が最後に自分の罪を告白し罰を受けることを是とした物語ではなかったのではないだろうか。僕は世間で言われているようなナルシシズムに浸った「太宰神話」は太宰に対する壮大な読み違いだと思っている。もちろんそう読んでいる人がいても僕になにかを言う権利はないのだが。太宰治は一人の人間であった。しかしその創り出された作品は芸術の高みに至った。太宰は太宰自身が心酔した芥川のように同じく「人工の翼」を持って空へと舞い上がったのだ。読み手が「太宰神話」のような読み違いをするのならばそれは太宰を空から再び大地へと引きずり落とすことにならないだろうか。太宰は極めて偉大な作家である。太宰はナルシシズム的な読みをしている者たちを天上でうすら笑っているのではないだろうか。なぜなら葉蔵のような人間を最も嫌っていたのも太宰自身だからである。


最後に近代文学について。作家である辻原登は近代人、近代小説について次のように述べている。

「近代人とは、つまり、自己を意識した一人の人間のこと。そして、近代小説とは、物語が物語を意識したもの。つまり、物語が物語を疑う。これが近代小説の、構造的に最も特徴的なことだと思います。」(『東京大学で世界文学を学ぶ』p346 集英社文庫)

太宰こそが近代人、そして近代小説を見事に書き上げた作家ではないだろうか。


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*芥川龍之介に対する「人工の翼」については吉本隆明の「芥川龍之介の死」を参考にした。晶文社の『吉本隆明全集5』に収録してある。


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2016年7月20日水曜日

『僕だけがいない街』 にゃんく先生の(あらすじ)と(見どころと感想)

アニメ化、映画化もされ一区切りついたかに見える『僕街』ですが、どうやらスピンオフ的なものが続くようです。
マンガ大賞は受賞できませんでしたが近年稀に見る密度で描かれた作品であろうと思います。
僕の感想を付け加えて記事としたかったのですが時間の都合とまだ旬のときに記事にしたいと思いアップします。
僕の感想は後日補足という形で付け加えたいと思います。


にゃんく先生のあらすじ。

『僕だけがいない街』三部けい
(あらすじ)
 主人公は、漫画家・藤沼悟です。
 彼は再上映(リバイバル)と呼ぶ特殊な能力を持っています。
 それは、自分以外の誰かが被害者となる事故や事件が起こる時に発生します。
 たとえば、トラックの運転手が運転中に死亡していて、交通上の大惨事が発生するシーンに悟が居合わせると、再上映(リバイバル)が発生し、事故直前まで時間が巻き戻ります。その間、悟の記憶だけが継続しているので、自分が未来から過去にさかのぼっていることを覚えています。そのため、周囲の違和感を探し出し、未然に交通事故を防ぐ措置をとることができます。
 再上映(リバイバル)は、主人公の意志とは無関係に発生します。
 そのため、悟は日常生活で頻繁に再上映(リバイバル)に遭遇し、結果的に自らを危険にさらしながら、他者の安全のために奔走することになります。
 あるとき悟は、再上映が発生したため、連続誘拐事件を未然に防ぐことになりますが、
その結果として、自分の母親を犯人に殺されるという悲劇に遭遇します。
 その母親殺しの犯人を追跡するうちに、巧妙な罠から、悟は、自分が母親殺しの犯人にされてしまいます。
 追い詰められ、警察に逮捕されたとき、再び再上映(リバイバル)が起こり、悟は1988年、自らが小学5年生の時点に時間が巻きもどります。
 それまで、それほどの規模の再上映(リバイバル)が発生したことがなかったために悟は驚きますが、後になって、これはその年発生した連続児童殺害事件の発生前まで時間がさかのぼっていることに気づきます。
 悟は、未来で殺されることになる同級生。雛月加代の被害阻止のため奔走します。
 一度は失敗し、犯人により雛月は殺されてしまいますが、再び再上映(リバイバル)が起こり、悟のたゆまぬ努力と同級生たちの協力を得た結果、雛月殺害事件を回避することができます。
 そして、未来で殺害されることになっていた、第二の被害者の事件回避にむけて行動していたところ、悟は犯人から盗難車の中に閉じ込められ、車ごと池の中に沈められてしまいます。
 悟は一命をとりとめますが、長いあいだ植物人間状態で入院をつづけます。医師からも回復は不可能だと宣言されてしまいます。
 彼が目覚めるのは15年後、奇跡の回復により意識を取り戻します。
 しかし記憶の一部が喪失状態に陥っており、自らを殺そうとした犯人が誰であるか覚えておらず、自分の身に備わった特殊な能力である、再上映(リバイバル)の能力のことも忘れてしまっており、小学5年生から止まったままの自分の知能に、不自然な知識が備わっていることに違和感を覚えますが、夢の一種ではないかと自分を納得させようとします。
 悟が長い眠りから目覚めた出来事は、マスメディアの報道により世間に知れ渡ることになり、1988年当時とは職を変えた犯人が、今度こそ悟を殺害するために、彼に接近を試みてきます。
 悟の記憶が蘇り、彼が試みようとした犯人捜しの結果が先に実を結ぶか、犯人側の藤沼悟殺しが先に成立してしまうのか、物語は予断を許さぬクライマックスへ向けて進行します。



そしてにゃんく先生の見どころと感想です。

(見どころと感想)
 2012年~2016年まで連載された三部けいの漫画です。
 アニメ化及び映画の実写化もされ、漫画は累計200万部以上をほこるヒット作です。
 2016年現在、マンガ大賞に3年連続ノミネートされています。

 連続誘拐殺人事件を阻止しようとする主人公・藤沼悟と犯人との攻防を描いた作品です。
 悟には、リバイバルという、タイムワープの特殊な能力がありますが、その能力は自発的に発動することができず、それが発生するのは常に誰か他人の危機に際してです。
 そういう制約があるため、必然的に悟は他人のために奔走するはめになり、結果、自分に得になることはなくて、良くて現状維持、悪くて数十年に及ぶ植物人間状態という最悪の結果をもたらします。
 他人のために汗をながしていた悟が、大変な喪失を経験するのを読んで、共感というか肩入れをしない読者はいないのではないでしょうか。
 読んでいる方としては、そんな悟がかわいそうだと思いますし、彼の身に危険が及べば、しぜん手にちからが入ります。
 文学も含め、今まで誰も挑もうとしなかった、大きな実験に挑戦しているように見えます。それは破綻ギリギリのところで成功していると思います。

 ダイナミックに時空間を前後することのできる能力(というか習性)を主人公に与えたことで、歴史の闇を白日の下にさらすという困難なストーリーを可能にしています。
 それがこの作品にそれまでにない新しさ、スケールの大きさを付与していることは確かです。
 これを読んだ小学生や子供たちは、いろんなことに疑問を抱くようになると思います。
 たとえば、子供には、学校の先生が言うことは絶対正しいという思い込みのようなものがすり込まれやすいですが(虐待を受けていた雛月が、暴力をふるわれている状況でも親のことを信頼していたのと同じように)、この漫画を読めばそういうことはない、学校の先生を含めた、自分の親に対してすら、正しいことを常に言っているわけではない、最終的に起こる結果は、誰が何と言おうと、自分が引き受けなくてはならないのだという現実に、気づかされることになるのではないでしょうか。
 いろんなことを疑ってかかるということは、大切なことです。作中登場する、「ユウキ」という青年のように、「あの人は犯人だ」と決めつけられて、悲惨な生涯をおくる人もいます。
 会話もまともに交わしたことがない人間を、噂だけで悪いと決めつける。
 世間はそういう残酷なところがあります。
 けれど、「ユウキ」青年は、一貫して無罪を主張していました。悟も「ユウキ」さんの人柄を知っているために、彼が殺人などを犯すはずがないと思い、真犯人を独自に捜そうとします。その結果、思いもよらなかった犯人があらわれ、悟と真犯人との、時空を超えた長い年月の戦いがはじまります。(この戦いは、悟が母親を殺されたときからはじまっています。)
 タイトルの意味がわかる時、「目から鱗」感があります。
 難しいことも考えさせてくれるし、とにかくおもしろく読める作品です。


にゃんく先生の本はこちらで読めます。
http://p.booklog.jp/users/nyanku


日本のマンガのレベルは高いです。『僕街』はよく考えられたプロットとエンタメ性で抜きん出いたと思いますが日本的風土を醸し出すような作品ではなかった気がします。そこが受賞を逃した要因のひとつだったのかなと思ったりします。
アニメと漫画では終わり方が違うので両方見てみることをオススメします。

2016年5月10日火曜日

『金色夜叉』 尾崎紅葉

尾崎紅葉『金色夜叉』


今の時代の人はどうなのだろう。僕が子供のころにはまだ、『金色夜叉』と聞けばみんな知っていたような気がします。この回では、『金色夜叉』を中心に硯友社の残した功罪について考察します。


1.尾崎紅葉の生涯


  近世文学の継承者

 
  ・時代としては樋口一葉とかぶります。慶應3年~明治36年(1906年)没です。慶応3年は太陽暦なら1868年太陰暦なら1867年になります。どちらにしても江戸の最後です。

  ・紅葉は町人の出身で名は徳太郎と言いました。父は商売を廃業し、角彫りをしていましたが幇間として有名でした。幇間とは太鼓持ちのことで、客席で場を盛り上げる職業です。その父の仕事を紅葉は恥じていたそうです。
  
  ・紅葉は中学で山田美妙と親しくなります。同じ長屋に住んでいたそうです。紅葉は美妙、石橋思案らと明治18年(1885)に硯友社を結成します。明治18年というと坪内が、『小説神髄』を発表した頃です。硯友社は『我楽多文庫』を創刊。この、『我楽多文庫』は同人誌で始めは肉筆で回覧しただけのものでしたが、評判が高くなり活版印刷で一般にも売るようになりました。

  ・3年後に山田美妙が硯友社を離れます。美妙は言文一致においては二葉亭四迷より先んじていましたがスキャンダルで消えました。



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  ・紅葉は、『二人比丘尼色懺悔』(1889)を発表し読売新聞に入社。小説担当記者となります。明治24年(1891)には、泉鏡花、田山花袋、徳田秋声ら弟子が集まって来ます。この紅葉のもとに弟子たちが集まったということが硯友社の非常に重要なことであると思われます。鏡花は日本文学の異端として、花袋、秋声は後の私小説の大家でリアリズム小説を書いた人間です。このような人たちが入門してきたのだということは硯友社の問題点として挙げられるだろうと思われます。

  ・明治30年(1897)に、『金色夜叉』を書き始めています。1903年に休筆。後に胃癌で亡くなり未完で終わります。『金色夜叉』は紅葉の文学の集大成と言えます。江戸から続く近世文学を継承した作品と言えます。



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2.なぜ硯友社か


 ①硯友社とは

  ・硯友社は紅葉を中心とした文学ギルドです。つまり親方としての紅葉がおり、そのもとに弟子たちが集まります。紅葉は弟子たちの生活の面倒や指導をしてやります。弟子たちは紅葉のもとで世に出るのを窺うことになります。このことは紅葉が親分肌の人間で非常に面倒見がよかったことを示しています。弟子たちの指導をしながら仕事のあっせんもしてやったという記述が見られます。

  ・硯友社は読売新聞、博文館、春陽堂といったその当時のジャーナリズムを支配した一流の出版社、新聞社とのパイプがありました。硯友社はそれを背景に明治20年代~30年代の文壇を制覇するほどの勢いを持っていたのです。そしてそのような環境のもとで先の鏡花、花袋、秋声のような弟子たちが切磋琢磨しあいその能力を伸ばしていきました。

  ・しかし、明治20年代末になると川上眉山が硯友社と疎遠になるなど徐々にその結束が弱まっていったことも事実で、紅葉が亡くなったということが決定的に硯友社を衰退させ無くなることの直接の要因になりました。


 ②文学史の傍流に押しやられたかつての主流

  ⅰかつての主流

  ・硯友社は当時の一流でありジャーナリズムを制覇していました。文学において近世文学を受け継ぐ主流であったのです。出版部数においては二葉亭の、『浮雲』などまったく及ばないほど売れていました。

  ・「紅露逍鴎」という当時の文豪4人を準えられますが、今日の僕たちには今一つピンとこない、違和感を感じると思います。それは漱石が入っていないからですが、漱石はこの明治20年代当時はまだ名前を知られていないのです。明治38年に、『吾輩は猫である』、明治39年に、『坊っちゃん』が発表されます。時代がずれているのですね。ですのでこの当時は紅葉は無視することのできない立派な文学者でありました。

  ・では紅葉の文学とはいったいどのようなものだったのかというと、大衆文学、娯楽としての文学を紅葉は書き続けていました。他の3人はいわゆる純文学を書いていました。

  ・『金色夜叉』は非常によくできた娯楽小説で、それを紅葉はきわめて真面目に制作しているのです。真面目に大衆文学を書いていました。


  ⅱ傍流に押しやられた理由ーー文学史観の問題

  ・「紅露逍鴎」のなかで紅葉は今日、文学の主流としては扱われていません。なぜ傍流となってしまったのでしょう。理由はこの国の文学史観にあります。

  a.一般的な文学史

  ・奥野健男のテキスト、『日本文学史』も大まかにはそうなっていますし、この授業でもそうなっていますが、明治文学の主流を坪内逍遥、二葉亭四迷に求めると、その後に浪漫主義(樋口一葉、文学界)、その後に自然主義(明治40年、島崎藤村、田山花袋)ととらえられています。

  b.その史観

  ・この文学史観によると、その当時の大衆にどれだけ読まれたかということについてはあまり考慮されないという特徴があります。では何を前提としてこの文学史観はつくられたのか。それは次のようなことがあります。作者が強い必然性のもとに、私とは、社会とは、ということを追求すること、それは決して娯楽や遊びというものではない、文学とは真面目に探究するもの、という考えが前提にあったということです。そうなると、どうしても紅葉の硯友社文学をうまく史観の流れに組み込むことが難しくなります。

  c.その史観の問題点

  ・この史観に立つと、自我の真面目な追求ばかりに目が行くことになります。それにより大きな問題を見落としてしまうことになりました。文学は真面目な問いかけをするばかりではなく、「笑い・言葉遊び・ナンセンス」といった「人間」を楽しむことも人間存在の追求には必要だという問題です。現在の文学史観によれば文学はどうしても真面目なものだととらえられてしまいその点に目が行きにくくなったという問題点があると思われます。

  ・当時売れたという大衆的人気を追求しないで文学史がつくられてしまっています。どのような大衆文学が好まれたかということは、その時代の大衆の動向がわかる時代を表す一つの側面であります。例えば戦中、戦後に大衆に好まれた文学として中里介山の、『大菩薩峠』、吉川英治の、『宮本武蔵』などが挙げられます。

  ・一般的日本人が何を求めていたのかを明らかにすることができるのです。それがどのような理由で求められていたのか、そのようなことが考慮に入れられず現在の文学史観は語られてしまっています。


 ③硯友社の功罪

  ⅰその功績

  ・硯友社の功績は、多くの読者を楽しませたということです。真面目な研究者はそれを大したことではないと言います。「漫画みたいだ」「自我の追求とは関係のないものだ」などと。しかし、それは決して軽視されるべきではないものだと○○先生はおっしゃいます。

  ・紅葉は作品をつくるのに大変な努力をしていました。それが病気につながったと言えます。硯友社の『我楽多文庫』には小説を載せたいと持ってくる人はほとんどいなかったといいます。和歌、狂歌、俳句ばかりで、仕方がないので紅葉自らが小説を書いていました。現在の文学史の授業では文学というと小説を中心に語られますが、決して小説中心というわけではありませんでした。

  ・つまり『我楽多文庫』のようなものが主流をしめていたのだから、文学を小説中心とは違う方向に引っ張っていくこともできたのではないかと考えられます。小説中心ではない文学の可能性であり、それは近世までの伝統が切れなかった可能生であったということです。そのことについては奥野健男のテキストのP31にもあります。

  ・二葉亭で古典と切れてしまう。『我楽多文庫』は近世文学の影響を直接に受けていたのでまったく違った近代文学が出来上がった可能性があったということです。

  ・また硯友社の同人の一人、山田美妙の問題もあります。美妙の、『武蔵野』の文章は、『金色夜叉』とはまるで違います。後者の装飾で飾り付けた文章とは違って美妙のそれは二葉亭に近いです。美妙は明治18年の時点で試していたのです。二葉亭の、『浮雲』より2年早くです。

  ・硯友社の様々な人がその後重要な働きを演じます。泉鏡花の雅文、田山花袋、徳田秋声の自然主義は大正文学をしょって立つものでした。紅葉という親方=先生の焼き直しで終わらないということに紅葉とその弟子たちの優れたところがあります。

  ・泉鏡花のリアリズムでない文学、独自の美的世界を構築した作品世界。田山花袋、徳田秋声の自然主義、私小説の書き手としての文学の担い手としての役割。紅葉が弟子の才能を伸ばしていったということが硯友社の1番の功績と言えるでしょう。


  ⅱその罪過

  ・一方で硯友社の少し問題視しなくてはならないところもあります。

  a.テキストから

  ・奥野健男のテキストP31を見ます。テキストを見ると、紅葉は文学を遊び以上のものとは見ていなかったとあります。自我・社会の問題を真面目に探究はしませんでした。もし紅葉が自我と社会の問題を必然性をもって書かなくてはならないと気づいていたとしたらその豊かな物語性、大衆性をあわせもった真面目で面白い作品が生まれていたかもしれません。しかし、実際はそれ以上のものは生まれませんでした。

  b.その他

  ・紅葉が亡くなった後に、花袋は有名な評論、「露骨なる描写」により自然主義宣言をします。この自然主義宣言にはどのような問題があったのかというと、花袋の美文への反発があります。紅葉の残したようなごてごてした文章への反発です。キーンの、『日本文学史』によると、花袋は美文を苦手としていてその文壇の流れを自分の方へ持って来ようとした意図というものが書かれています。

  ・『金色夜叉』は飾りの多いごてごてした文章で書かれています。冒頭にダイヤモンドが出てくる場面がありますが非常にごてごてとして飾りの多い文章です。また、熱海でお宮を足蹴りする場面も今読んでみると笑ってしまうほどの文章となっています。

  ・民友社という結社がありました。国木田独歩と関わりの深い結社です。民友社は社会問題を取り扱っており、硯友社を否定していました。民友社の存在は文学そのものを否定するもの、真面目なものをも否定することになります。民友社は文学否定の流れをつくってしまいます。北村透谷はそれに対し、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と民友社を批判しました。透谷は硯友社も民友社も批判しました。


3.『金色夜叉』について

 娯楽の超大作

  ・『金色夜叉』は非常に面白い作品です。紅葉の文学全体に言えることですが、善悪正邪の心の内幕(人情)をうまく書いています。そのことについては紅葉は非常に真面目に追求しました。暑苦しいほどにこてこてに描いています。


 坪内逍遥と近世文学

  ・主人公の貫一は心が弱い。お宮に裏切られ高利貸し(かんばしくない職業)を生業とします。いかにも人間のやりそうなことです。この主人公の造形には逍遥の影響があるでしょう。しかし、根本のところに何があるかまでは突き刺さっていません。つまり描写が大変表面的なのです。女にふられ絶望のあまり高利貸しになる、その間の心の葛藤が描かれていないのです。

  ・よって娯楽以上の感銘は残らないのです。『金色夜叉』を読んで人生に影響を受けたという人はいないでしょう。紅葉の当時の作品は「写実派」と言われました。その対義語に理想派があります。現実の問題を「心の弱い人間」「醜い考え」「体を売る女」などで描きますがどれもオーバーなメロドラマにしか読めません。人情の根本の追求までには至っていないということができると思います。

  ・『金色夜叉』は近世文学から受け継いだものを色濃く残していますが、戯作の焼き直しとも取れてしまいます。近世文学に装飾を施しただけだと。配布プリントでは1,4,7,8が飾りの多い文章、5,6,9がプロットの問題を孕んでいます。プロットの問題は、偶然の出会いで物語が展開するという純文学では禁じ手である手法でそれは戯作、落語の展開と同じです。

  ・『金色夜叉』は厳しい目で見れば戯作の焼き直しと取られますが、肯定的に捉えた場合に、この作品は近世文学を受け継いでいる作品とも取れると思われます。

2016年4月27日水曜日

『にごりえ』『たけくらべ』 樋口一葉

樋口一葉 『にごりえ』『たけくらべ』



にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)
にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)樋口 一葉

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1樋口一葉について

①生涯と作品
 
  ・1872年(明治5)~1896年(明治29年)没。樋口一葉は明治生まれの人で、明治の子といえるでしょう。活動期間は短期間です。この短期間で5千円札になるほどの功績を果たして残したのか。一葉は明治の女性作家のなかで他を圧倒する実力を持ちます。

  ・一葉は東京の下級役人の子として生まれたそうです。父は株を買って侍になりましたが直後に明治維新が起きてパーになったそうです。一葉は勉強好きな人でしたが、その母は女に学問は不要という考えを持っていました。封建的な母だったのです。一葉は小学校高等科を首席で卒業しましたが進学はできませんでした。そのことについて一葉は日記に「死ぬばかり悲しかった」と書いています。

  ・その代わり当時の女子の教養として和歌を習うことは許され、中島歌子の歌塾で学びます。ここで、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などを勉強しました。これが後の一葉の文学の素養となったそうです。

  ・その後、一葉の父は事業に失敗します。兄が死に、そして父も明治17年に死にます。一葉は女戸主となって家族の生計を立てなくてはならなくなりました。

  ・一葉は、東京朝日新聞の小説記者半井桃水のところで勉強をします。一葉は密かに半井を慕っていたようです。しかし歌塾で半井との関係を噂されたため半井と別れることになります。このことについてはキーンの、『日本文学史 近代・現代篇1』では、「都の花」とのパイプができたため半井を切ったとあります。一葉は家族を食わせていかなければならなかったためより稼げる方をとったというのが本当のところではないのでしょうか。

  ・一葉の暮らし向きは楽ではありませんでした。明治26年に下谷龍泉寺という吉原遊廓の近くに引っ越して商売を始めます。荒物・駄菓子を商う商売をしていたそうです。しかし、このことが後の一葉にとって非常に大きな転機になったのではと○○先生はおっしゃります。

  ・明治26年頃、島崎藤村たち「文学界」の人たちと付き合うようになります。「文学界」とは今の文芸誌のそれではなく、北村透谷と藤村らが始めたローマン主義的傾向の雑誌です。

  ・ここで川鍋先生は一葉の性格を物語るひとつのエピソードを挟みます。明治27年に一葉は相場師になろうとしています。金を稼ごうと必死だったのです。占い師の元を訪れたりしています。その占い師に妾になれと言われたらしいです。一葉は非常にしたたかで危ない橋を渡るような性格をしていて、それが作風にも現れているのだろうと○○先生はおっしゃっていました。

  ・明治27年に、『大つごもり』、明治28年に、『にごりえ』、明治28~29年に、『たけくらべ』と下谷龍泉寺に住んでいた頃に書かれた作品が集中的に発表されます。文学史ではこの期間を「奇蹟の14ヶ月」というそうです。他の一葉の作品は甘いところがある。しかしこの期間には奇蹟としか言い様のない作品群が作られた。それは下谷龍泉寺で様々な人間の姿を体験したことにより開花したのだろうと。

  ・森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨は書評で、『たけくらべ』を絶賛しました。鴎外と露伴は非常に厳しいことで知られていましたから一葉は彼らに評価されたことで一躍文壇のスターとなりました。しかし明治29年に胸の病気で亡くなってしまいます。


②その問題点


  ・一葉について考えるときにどこを見ていったらいいのか。まず第1には父親のことです。一葉の父親は強い上昇志向を持っていました。しかし、その才能を開化することができずに亡くなります。一葉の家は貧乏でした。そのために一葉は学問を続けられなかったという側面もあります。その代わりに歌塾で高い教養を身につけました。このことは一葉の持つ批判精神に結びついています。自分よりも勉強ができずに境遇だけ恵まれている人への恨みが日記に残されています。田邊(三宅)花圃など歌塾の友人が先にデビューをした際にも大したものも書いていないのにとコンプレックスを持っていました。

  ・一葉のその批判精神はどこへ向かっていったのか?
    
    封建制
    女性
    金銭

   の3つです。この3点に関して一葉は鋭い追求をしています。人間とはいったどういうものなのかという探求精神を持つことになりました。

  ・一葉は古典の素養を持っていました。二葉亭以降の作品は古典の素養がなくても読むことができます。しかし、近世以前のものを失ってしまうよくない一面を持っていました。一葉の作品には古典の素養がまだ残っていた。このことは非常に重要です。一葉がもし生きていたならば現代の文学は今ほど古典と切り離されたものとはならなかったでしょう。これは日本文学の致命傷と言えるかもしれません。日本人が日本の文学を読まない。西洋の文学の素養を持っていないのに西洋の小説を読む。それは戦後どちらも古典の素養を持たないのなら西洋のものをという方向に安易に進んでしまった日本人の西洋の文化に対するコンプレックスという側面もあったのではないかという気がします。

  ・一葉の作品の特徴について挙げられるのは、雅俗折衷体です。雅な文章(地の文)と俗文(会話文)との組み合わせ。そして「見立て」です。「見立て」は古典的手法で谷崎潤一郎なども使っていますが、『たけくらべ』には源氏物語の素養を下敷きにした場面展開が見られます。現代の作家で書ける人はほとんどいないと○○先生はおっしゃっていました。

  ・下谷龍泉寺での生活で人間観、社会観に決定的な深みを与えられた一葉でしたが、また仕事も非常に忙しかったのです。その生活のなかで日記を書いているのですが、それは短い文章でスパッと書かれた切れ味のよいものでした。その理由は当然忙しくてだらだら書く時間がなかったからです。そのことが「奇蹟の14ヶ月」を創り出したといえるでしょう。


2擬古文は近代文学か

 
 ①まずは作品を味わう

  ・『にごりえ『『たけくらべ』『大つごもり』は言文一致体とは随分違います。古典のような文章で書かれています。これを擬古文と言いますが、果たしてこれは近代文学なのか?つまり言文一致体で書かれていないのに近代文学と呼んでいいのだろうかという問題です。

  ⅰ文体について
  
  ・地の文 文語 ← 何を言っているのか分からないところが多い。
   会話文 口語 ← 読める。
   「雅俗折衷体」です。

  ・上記の作品は明治27年~29年の文章です。『浮雲』は明治20年~22年に書かれています。つまりこの当時でもまだ言文一致体が覇権を握っていたわけではなかったということです。明治40年の田山花袋の、『蒲団』で言文一致体(口語)の確立となりますが、この時期はまだまだです。一葉の文章は古典の素養がないと読めない、理解できない文章でした。それでも高い評価を受けていました。

 
  ⅱ作品について(梗概)

  ・『大つごもり』『にごりえ』『たけくらべ』のあらすじについて中心に話します。『たけくらべ』は、『日本文学全集』で川上未映子の現代語訳が出ています。


樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鴎外 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13)
樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鴎外 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13)夏目 漱石 森 鴎外 川上 未映子(たけくらべ)

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  a.『大つごもり』梗概
   貧しい家の女性お峰がよその家に奉公に出る。実家でどうしても金が必要であった。お峰は主人の金に手を出してしまう。それをドラ息子がお峰を相当助けてくれた。という話らしいです。大つごもりとは大晦日。

  b.『にごりえ』梗概
   一葉の作品のなかで異様に迫力のある作品。抒情的な要素が少ない。不幸な生い立ちをしたお力が主人公。お力は酌婦です。お酌をする女ですが、それを装った売春婦です。本来生まれは悪くなかったけれど、父親が志を得ることができず家が傾いて酌婦となりました。

  c.『たけくらべ』梗概
   舞台は吉原遊廓。現代の中学生くらいの少年少女の群像劇です。大人たちはほとんど出てこず、子供たちの生活が描かれているだけです。主人公の美登利の姉は売れっ子の遊女です。周りの大人の男たちは美登利にちやほやします。男たちにとって美登利は期待される商品として見られているのです。美登利は作品の終盤ではその将来に期待されお金が回ってくるようになります。

   駄菓子屋で友人たちにお菓子をおごってあげたり、旅芸人にお金を投げ入れて芸をさせたりしました。それと同じく喧嘩や淡い恋心も書かれています。美登利はそんな生活をしているうちに大人の世界に取り込まれていきます。そんななかで少年信如と美登利は気持ちが通じ合っていました。しかし、それを通わせることができないまま信如は坊主になってしまいます。

  d.共通点

  ・3作品に共通するところは非常に多いです。

   金
   性
   差別

   です。金は、『大つごもり』では主人の金に手を出しますし、『にごりえ』では金があったならば酌婦などしていません。『たけくらべ』では金により矛盾なものが露出しています。美登利の金回りがいいこと=美登利は金によって自分の人生が決まっていることを示します。

   性は、男性優位の性の社会であることです。封建制では圧倒的に男性優位と一般論でいうことができます。その一般論では片付かない事を一葉は語っています。『にごりえ』では売春=体を売る=商品になる。『たけくらべ』では、姉は売れっ子の遊女。美登利は期待されています。男性優位の性社会がそこにはあります。

   差別について。『大つごもり』では金のある家はなんでもできる、金のない家は金に手をつけ金持ちに助けられる。『たけくらべ』は吉原遊廓という囲いのなかで商売をしています。制度内での売春婦です。『にごりえ』ではもっと酷く、制度外の売春婦で更に差別されています。平等などというものは絵に書いた餅なのです。

  ・『たけくらべ』では祭りが2回書かれていますが、1回目のとき長吉は美登利に対して「乞食」といいます。美登利=乞食なわけですが、今でも差別用語ですがその当時も差別用語でした。『たけくらべ』『にごりえ』においての性風俗における女性の矛盾点が描かれています。

  ・美登利がやがて大人の体になったとき、金は嘘の仮面を剥ぎ取って美登利を一生縛り付けるものになります。信如との恋など成就するはずがなかったのです。

  ・一葉の作品が面白いのはストレートな社会批判ではないというところです。それは自然主義文学もそうですがプロレタリア文学とは違います。非常に優れた深い抒情性を持っています。この抒情性が一葉作品の大きな特徴です。『にごりえ』は若干薄いようですが。一葉の作品は上でも書いたようにこの抒情性と鋭い社会批判の両方を併せ持った優れた味わいを持っていると言えるでしょう。

  ・さらに一葉の文学には「空白」があります。『にごりえ』のお力と昔馴染みの客が死んだ様子は直接は書かれていません。町の噂という感じで書かれています。『たけくらべ』でも美登利は2回目の祭り以降様子が様変わりして急にしおらしくなります。美登利は「大人になるのは嫌なこと」と言います。これが何を意味するのかの解答を得ることはできません。対して『大つごもり』ではオチが全部ついていて空白がありません。正統派ミステリーといった感じです。『大つごもり』の評価が若干下がる理由の一つでしょう。

  ・一葉は空白をわざと使ったと思われます。『にごりえ』『たけくらべ』の方が文学に対する理解が深まっていると言えます。

  ・ほかに挙げる共通点として、描写が的確であることがあります。風景、登場人物を生き生きと描き出すセンスは抜群です。対してマイナスの面として人物造形がやや類型的であると言われています。

  ・結論としては、『にごりえ』を除いてやや甘い感傷に流れる傾向がなくはないですが物語を非常に冷静に見ていると言えると思われます。温かい目で人間を見ているゆえに人物造形が類型的、感傷的になるとも言えるでしょう。一葉作品はこれらの点を総合して近代文学の名作中の名作と言えるのではないかと思われます。


 ②近代文学か
  
  ⅰ『文学界』――浪曼主義と

   ・今の雑誌『文学界』とは違います。キリスト教系のところから生まれた雑誌らしいです。北村透谷や島崎藤村を中心にしていた雑誌で浪曼主義の運動をリードしていた雑誌でした。北村透谷はこの講義を通してあまり触れられませんが浪曼主義の理論的仕事をした人たちに深い影響を与えた人ということでした。島崎藤村の作品に度々現れます。透谷は、文学にはいったいどんな価値があるのかということを考えた人でした。現代の僕らは例えばイーグルトンの本など様々読めるわけですが、この当時の人々にとって透谷は特別で、この当時としては驚くべき水準で書いていたそうです。「文学は実際の役には立たないが、精神に役立つものではないか」と考えます。これは「人はパンのみに生きるにあらず」というキリスト教の精神から透谷が文学的価値を見出したと考えられる一文だと思われます。

  ・浪曼主義とは何かについてまとめておきましょう。「ロマンチック」という言葉通りに理解しても間違いではないですがそれは浪曼主義の一面でしかありません。浪曼主義的な傾向の作品として島崎藤村の、『若菜集』収録の「はつ恋」や、『落梅集』収録の「椰子の実」など今読むと感傷的すぎると感じるかもしれない詩です。現実というよりは夢想的な世界に逃避するような態度を取ります。また、与謝野晶子の情熱的な詩も浪曼主義です。肉体、恋愛感情を率直に描いている詩ですが、これはその当時の封建的な考えが残っていた社会で恋愛感情を率直に書くなどということはなかなかできないことでした。浪曼主義者たちが恋愛感情を開放したと言えるでしょう。その根底にあるのは、「自分らしくありたい」ということです。そのような思想とそれを禁止する旧弊な社会との対立という視点も浪曼主義を語る上で必要なことです。

  ・つまり浪曼主義とは、 
   
   1.夢想に逃避する態度
   2.旧弊な社会と闘う浪曼主義

   という2つの側面があります。特に旧弊な社会と闘い自死した作家として北村透谷がいます。一葉もこの浪曼主義的傾向を持っていたと言えるでしょう。一葉の作品の特徴として抒情性と批評性が根本的に繋がっていて離れない点があります。ただ、一葉と透谷のあいだには直接的な影響関係はありません。

  
  ⅱ一葉作品に描き出された問題

  ・一葉の作品にはジェンダーの問題が内包されています。

   少年少女の問題
   近世封建制の問題
   人間、社会というものの問題

  を作品は力強く語っています。女性のプロテストの問題です。作品においては社会に対する直接的な批判は書かれていませんが、女性のプロテストと抒情性が合わさって高度に洗練されて描かれています。近代文学の必然として、わたしとは、社会とは、という問題が書かれています。いかに文章が雅俗折衷文で書かれていて古くさく見えても一葉作品は近代文学であると言えます。


  ⅲまとめ

  ・一葉作品は、女性の側からの批判を含んだ近代批判の作品と言えます。坪内はそれを根っこまでは掘り崩すことはできませんでしたが、一葉は奥深くまで明確に捉えらることができたということです。このことから、明治28年から29年には西欧近代文学が日本の文学にしっかりと根付いていたと言えるのではないでしょうか。二葉亭が、明治20年から、『浮雲』で切り開こうとしたもので一部の人々にしか理解されていなかったものがやっと理解されてきた時代だと言えるのではないでしょうか。


③作品論――空白について

  ・『にごりえ』の心中の真相や、『たけくらべ』の2回目の祭りの後の美登利の変化の理由など、謎が回収されないまま終わりになっています。その謎が空白です。この空白の技法は一葉は、『大つごもり』での反省点としてその後書き方を変えたのではないかと言われています。また、短歌的技法を使ったのではないかとも言われています。短歌では字数の制限上必ず空白が残ります。それを小説の世界に導き入れたとも考えられます。

  ・○○先生は空白の技法を高く評価しておられます。この技法により物語世界が閉じていかなくなる。よって読者がこの空白に対して色々な形で参加することを可能にするという効果をもたらすのだと。

  ・『たけくらべ』での空白を、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨は、美登利の身体に変化が起こったと解釈しています。佐多稲子は、美登利は初見世をさせられてしまったのではないかとします。これはグロテスクな話で美登利は作中では中学生で体を売ることを強制されたということになります。それも高値で取引されたのではないかと。

  ・前田愛は佐多の意見に反論しています。結局作品の中からはひとつの解釈を示すことができない問題が空白なのです。只、佐多は、体の変化が訪れたことや初見世は女にとっては自分の人生がいかなるものかを思い知らされた重大な問題である、と言っています。この言葉は、佐多が生きてきたなかで人間として、女性について、金銭について、性について、一生分の重みを持って吐き出した言葉ではないだろうかと○○先生はおっしゃっていました。

  ・そうやって優れた作品の空白に触れることによって僕らは様々な読み方ができるということは、我々自身を語ることであり、我々の人生を語ることでもあり、ひいては我々自身を知ることでもあるのでしょう。小林秀雄は「作品を知ることは我々自身を探究することである」と言っています。一葉の作品はそういう意味においても非常に価値のある作品であるということができるでしょう。

2016年4月17日日曜日

『浮雲』  二葉亭四迷

第2回 近代文学の始まり・言文一致の問題

二葉亭四迷『浮雲』


1文学史における『浮雲』
  
  ・今回の講義では二葉亭の、『浮雲』を扱ったわけですがそれはやはり前回の「近代史の始まり」論争があり、それとの関連で言文一致が問題となります。


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 ①位置づけ
  
  ・『浮雲』を近代文学史上でどのように位置づけるか。○○先生はここをかなり端折られて、結論を言うと、と言って坪内の、『小説神髄』との成立年の差はわずか数年でしかないので、どちらも日本近代文学の始まりと言ってよく、片や小説、片や評論ということで、2つ合わせて「日本近代文学の始まり」と言っていい、それに異論はないと思うと仰ります。そうなると、第1回から書いている明治18年説VS明治20年説って何だったの?と思うわけですが、そこはね、僕も大人なので自分で調べますわ。わからなかったらメールで質問してみるかな。

  ・『浮雲』とそれ以前の(江戸)小説には断絶があります。坪内の言う、人情を書いているかどうか、正邪善悪と勧善懲悪の差など。このことはつまり、『浮雲』は江戸の文学を正当に受け継いでいないということです。近代小説はそこからズレたところから始まっている。非常に象徴的作品だったということです。

  ・なぜ二葉亭がそんな小説を書けたかは前回も書いたと思いますが、二葉亭の素養がなにより大きい。二葉亭は外国文学から受けた影響が非常に大きかった。近世文学も好きだったのだけど、その影響は表面的なものだったそうです。江戸以前の文学=近世文学との断絶、親の遺産を受け継がなかった、それが日本の近代文学の大きな特徴と言えるでしょう。

 
②二葉亭四迷について

  ・明治の文学史を考えるときに外すことのできないキーマン二葉亭。その人物像に迫ってみましょう。

  ⅰ生涯と作品

  ・1864年(元治1)~1909年(明治42年)没。ほぼ明治とともに生きた人物と言えましょう。本名は長谷川辰之助。尾張藩士の子で江戸に生まれました。『浮雲』でも市ヶ谷周辺の景色が描かれています。明治維新後にフランス語を勉強しています。余談ですが明治の文人は雅号を持っていました。鴎外や漱石もそうです。この文章では長谷川辰之助は二葉亭四迷で通していこうと思います。

  ・二葉亭は最初から作家になろうと思っていたわけではなく、軍人になろうと思っていました。しかし二葉亭は目が悪かったのですね。それで受験に失敗してしまいます。それから外交官志望に転じます。東京外国語大学に入学しロシア語を専攻します。二葉亭は、ロシアの南下政策に対して義憤を抱いていました。「お国のために何かをしたい」そんな強い思いを持っていたのですね。

  ・侍の子であったために社会というものに対する問題意識を強く持っていたという出自の問題もあります。当時の侍の子は軍人や警察官になった人が多かったらしいです。島崎藤村の、『破戒』を読むと、登場人物の敬之進が、士族で何とか生き残れたのは役場へ出るとか学校へ勤めるとか、それ位のものさ、と話しているのですが。敬之進が60歳くらいですから時代的にも合っている。どうなのでしょう。

  ・東京外語大では、グレイという先生に教えを受けます。グレイは教材にロシア文学を使ったのです。そこで二葉亭とロシア文学との出会いがあったわけです。そして文学の眼を開かせられます。しかし卒業間近に問題が起きます。東京外語大と一橋大学が併合されることになったのです。二葉亭はそれが気に入らなくて大学を辞めてしまいます。一橋は商人の子が通う大学でした。士族の自分が同じところで学ぶことはできないと考えたのではないでしょうか。○○先生は「そりが合わない」と表現していました。

  ・そして明治18年、二葉亭は坪内を訪ねます。どこで、『小説神髄』を手に入れたかは触れていませんでしたが、付箋をベタベタ貼り付けて坪内に話を聞きに行きました。前回も書きましたね。そして坪内から指導を受けて、『浮雲』を発表。明治20年に第1篇、明治21年に第2篇、明治22年に第3篇です。

  ・ここでひとつ問題になるのが、坪内の指導がどこまで、『浮雲』に影響しているかです。○○先生は、坪内の指導というより、坪内の手により様々訂正、加筆がされたのではないだろうかとおっしゃっていました。坪内が冒頭のほとんどに手を入れたのではないかと。それだけ坪内の影響力というのは当時強く、『浮雲』の最初の出版の際も「坪内雄蔵」という坪内の本名の名義で出版されています。坪内のネームバリューの大きさを窺わせますね。明治22年に完結したわけですが、実際には二葉亭の目論見としては続く予定でいたのそうです。未完のまま終わりましたが。

  ・二葉亭は波乱の生涯を生きていました。明治15~16年と文学の世界から離れます。政府・陸軍関係の語学の仕事、情報関係の仕事をしていたそうです。その後商売を起こします。日露戦争前にはハルビン、北京に行きます。その後日本に帰国し大阪朝日新聞の東京出張員になります。二葉亭は作品を明治39年、『其面影』、明治40年、『平凡』を書いていますがこの2つくらいしか書いていません。当時の風習として新聞に書かれる小説はその新聞記者が書いていたそうです。

  ・その後朝日新聞の特派員としてロシアに赴きますが、胸の病気を患い、明治42年インド洋ベンガル湾で命を落とします。ここで注意しておきたいのは、二葉亭は文学一本の人ではなかったのだということです。


 ⅱその問題点

  ・問題点を挙げてみましょう。まず1つめは、明治の文学を担った人たちには士族の子が多かった。二葉亭も士族の子です。前にも書きましたが侍の子は高い教養を持っていたからです。しかし必ずしも社会的によい地位を得られなかったため社会に批判的な目を持っていました。2つめは士族の子は社会に対する強い関心を持っていました。二葉亭も軍人になり語学・情報関係の仕事をしていました。他の士族の子の文人として樋口一葉、北村透谷、夏目漱石、森鴎外などなど挙げられます。彼らに共通するところは、社会に対する強い関心を持っていたということです。

  ・「政治から文学へ」。小田切秀雄はこの視点に注目しました。例えば、北村透谷は自由民権運動に敗れ文学の世界に来ました。小田切秀雄その人もそうでした。3つめとして、二葉亭のロシア文学への素養の深さが挙げられます。当時の語学の勉強というものは、自分で辞書をつくりながら勉強をするというまさに一から(0から?)の勉強です。ゆえに非常に厳しいものでした。

  ・二葉亭の作品は近世文学とはまったく別の土壌から生まれたといえるわけですが、それと対照的な人物として尾崎紅葉が挙げられます。彼は硯友社を立ち上げ外国文学の影響を受けた作品を書いていますが、その作品には近世文学の要素も大きく受け継いでいました。

  ・二葉亭はではロシア文学からどのような影響を受けたのでしょうか。第1回の記事でも書きましたが、「わたしとは何か」「社会とは何か」という視点です。わたしと社会との関わりとはいったいどいういうものなのかという視点は、日本の近世文学にはなかったのです。これは確実にロシア文学から二葉亭が吸収したものでしょう。

  ・ロシアも日本も世界のなかでは後進国でした。ロシアは帝政ロシアの前近代的仕組み、日本は封建制の仕組みを壊して早急に近代化しなくてはならないという使命を帯びていました。近代化の波にもみくちゃにされながら必死の思いで西欧化しようとしていたという点に共通点がありました。そのなかで人々は大変な苦しみを経験することになりましたが。

  ・『浮雲』で文三は開化された近代的知性の持ち主で、外国語ができ論理的なものの考えもできるエリートでした。文三以外の人物は、無教養で封建的人間として描かれます。友人の昇は別かもしれませんが。つまり、『浮雲』という小説は当時の開化した人間の生きづらさを描いた作品であったのですが、それはロシア文学からの強い影響があって書かれたものだったのです。

  ・二葉亭は文学一筋に生きた人間ではありませんでした。政治→文学→政治と職を転々としました。その当時の文学の価値とはいかなるものだったのでしょうか。そして現在の僕たちにとって文学の価値は?文学とは役に立たないものなのでしょうか、価値のないものなのでしょうか。それを自分なりに考える必要があると○○先生はおっしゃっていました。みなさんひとりひとりが考えてみてくださいと。



2『浮雲』論

 ①『浮雲』はなぜ近代文学なのか

  ・『浮雲』は岩波文庫や新潮文庫、青空文庫で読めます。非常に古くさくてよくわからない箇所もありますが近代文学と言えるでしょう。ではなぜそう言えるのでしょうか。


  ⅰ逍遥の問題意識を徹底化
 
  ・『浮雲』では、『小説神髄』で書かれている、善悪正邪の心のうちをもらさず描かなければならない、それが人間を書くということだ、という意識を徹底化しています。勧善懲悪は否定されます。勧善懲悪の否定は坪内が初めて言い出したことだそうです。二葉亭はさらに坪内の問題意識を徹底的に描きました。人間の根本のところに何があるのか、社会との関係をどのように捉えるのがよいのかということです。坪内はこの点をよく理解していませんでした。それゆえの、『当世書生気質』の失敗がありました。

  ・『当世書生気質』は読むとそれなりに面白いのですが、二葉亭が意識した内容の深みまでは到底達成していません。戯作レベルだと○○先生は仰ります。人間の心の奥深くまでは達していない。それに対して、『浮雲』は達していたと評価します。根本に潜む社会の問題、他者との関係がきちんと描かれていると。

  ・坪内は、人生への批判がなくては駄目だ、と言いましたが、『当世書生気質』ではそれをうまく書くことができませんでした。それが、『浮雲』では達成されています。『浮雲』を読んで当時の人びとは人生について根本的に考えることができたのです。

  
  a.内容

  ・奥野健男の、『日本文学史』のP28の第1段落を読むとわかります。引用します。
 
  「ではなぜ『浮雲』を近代文学のはじまりとするかといえば、それは作者と主人公、つまり作者と小説の構成とが抜き差しならない強い関係で結ばれている点にあるのです。近代的自我にめざめ、人間的に生きようとする青年は、当時の日本の藩閥政治を中心とする現実社会には受け入れられず、疎外され、孤立しなければならぬという作者の実感がこの作品の底にあるのです。それははっきりいえば、現実の体制的、主流的風潮に対する告発復讐の意識です。それが日本の現実に違和感を抱いていた当時のめざめた青年たちに、文三の悩みはひとごととは思えない切実な共感を抱かせたのです。」(『日本文学史』P28)

  ・当時の人々にとって文学は、遊びではなく、極めて真面目な研究であったということです。わたしとは、社会とは、ということと真剣に向き合わなければならなかったわけですね。


 b.文体

  ・そのためにはそれを表現しうる文体を新しく創り出さなければならなかったわけです。『浮雲』は実験的でラディカルなものと評価され、ある程度の成功を収めました。

  ・『浮雲』は言文一致体の始まりの作品のひとつと言えます。それ以前に山田美妙が言文一致体を試みたりしていましたがそれよりも二葉亭は徹底していました。美妙はそれにスキャンダルで消えます。

  ・言文一致体は現代の僕らが使う書き言葉です。学校や新聞はこの文体で書かれています。言文一致体は古典の素養も要らず難しくない、つまり少なくとも現代ではほぼ誰もが読むことができます。当時はこのようなスタイルで書くことは確立していなかったので誰もが手探りでした。この時代の作家たちの作品に触れてみてください。様々な文体が試されていることがわかるでしょう。例としては、樋口一葉の、『にごりえ』、『たけくらべ』。幸田露伴の、『五重塔』。これらの作品は、『浮雲』以降に書かれたものですが、『浮雲』より読みにくいです。ゆえに二葉亭は「内容」、「文体」ともに日本の近代文学の始まりをつくった人だと言えるでしょう。


 ②偉大なる先駆・偉大なる失敗作

  ・『浮雲』は未完でした。二葉亭の最終的なプランでは、主人公の文三が発狂して終わる、というプランを考えていたようです。しかし、『浮雲』という作品があまりにも不安定だったために第1篇、第2篇、第3篇と書かれているうちに文体もおかしくなってきます。読んでみるとよくわかることです。第1篇では戯作や落語を手本にして書かれています。三遊亭圓朝の影響があるでしょう。

  ・第2篇になると、非常に心理描写が濃くなってくる。ここまで読み続けてきた人は、ずいぶん不安定になったなと感じるでしょう。そして人称、作者の位置が安定してこなくなる。読んでいて非常に面白いのではありますが、近世小説の軽さ、皮肉が前面に出てきています。そうかと思えば、作者が文三の内側にいるのか、文三になりきっていると言っていいのか、作者は登場人物の内面を含めて全部わかっているような書き方をしています。お勢のことを「尻の軽いどうしようもない女」だと二葉亭が言ったり、作者の位置が安定してこなくなります。

  ・中村光夫は、『二葉亭四迷伝』に書いています。『浮雲』は失敗の多い作品だったと。ほとんどお手本にするものがなかったので落語、戯作を参考にしたり二葉亭は悪戦苦闘している。中村は、偉大なる先駆、偉大なる失敗作、と評しています。


 ③日本近代文学一般の原型

  ・『浮雲』には、近代文学の始まりというだけであるだけでなく、その後展開される文学の色々な問題点が隠されています。それを見ていきます。


  ⅰ<余計者>

  ・『浮雲』には、

  強い必然性
  わたしとは
  社会とは

  を考えたときに、社会/人間(個人)、との関係が描かれたわけですが、それに留まらず、社会↔個人の対立が描かれています。また、プランとして、近代↔封建、が書かれる予定でそのなかで文三は追い詰められて発狂するというプランが用意されていました。この図式に当てはまる近代小説は多いように思われます。

  ・では、なぜ対立しなければならないのか。個人の側に視点を向けてみると、真っ当であるが故に抑圧される文三のような個人を描くことは、今まで見えてこなかった社会の真実をあぶり出すことになります。抑圧され死んでいく側からの見えてくる真実の姿=<余計者>を書くことによってそれは積極的な価値を持つことになりました。

  ・強い側(社会)から書いてもそれを見出すことはできないということです。この書き方の手本はロシア文学にあるようです。それを象徴するもので日本独自の形態と言われるものに私小説があります。大正時代の破滅型の作家たちの描く主人公はろくでもない奴ばかりです。彼らは<余計者>なのです。彼らが社会でもみくちゃにされる姿を通して人間と社会の本質を見出していくのが私小説です。

  ・太宰治の、『如是我聞』があります。太宰の書く小説の主人公は<余計者>です。太宰は社会の片隅で滅びていく余計者にこそ人間の真実がある、と考えていました。太宰は、芥川の苦悩が志賀直哉にはまったく分かっていない、と言っています。

  「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
  日陰者の苦悶。
  弱さ。
  聖書。
  生活の恐怖。
  敗者の祈り。
  君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。」 

太宰は他に、『畜犬談』で、「芸術家はもともと弱い者の味方だったはずなんだ」と書いています。負けていく中から真実を捉えていこうという姿勢を取ります。

 
  ⅱリアリズム

  ・『浮雲』はリアリズム小説と言われますが、その定義は非常に難しいです。現実にありそうなことを現実にありそうに書くことがリアリズムの定義と言っていいでしょう。それに反対するものに、作家泉鏡花の作品や水木しげるの作品があると○○先生はおっしゃります。

  ・『浮雲』は正確に言うと、リアリズム小説のなかでも写実主義と言われるものになります。近代日本はリアリズム小説を書くことを目指していたようです。その象徴が、『浮雲』になるのですが。日本では坪内、二葉亭の功績?によりローマンの文学が育たなかったのです。ローマンとはロマン、空想的、冒険的、伝奇的要素を持った小説のことです。江戸期の式亭馬琴の、『南総里見八犬伝』のようなものは否定しました。

  ・坪内は近世文学を否定しましたから、リアリズムがいいんだと頑なに言い続けました。それを二葉亭が実作として、『浮雲』を創り出しました。それにより日本の小説はそれから長くリアリズム中心の小説がヘゲモニーを握ることになります。

  ・トールキンの、『指輪物語』などが出てくる土壌を失ったのです。そのことは非常に残念であると○○先生はおっしゃっています。リアリズムは面白くない、非常に残念だと。


 ④小説言語の問題

  ・言文一致の問題のことです。それを取り上げます。


  ⅰ手本

  ・二葉亭は戯作、落語を手本としました。この講義は、『浮雲』に焦点を当てられているためか、二葉亭が、「あいびき」を翻訳するときにどのようにしたのかということは触れられていませんでした。故にここでは戯作、落語を手本としたということで進めていきます。


  ⅱ地の文の問題

  ・圓朝の、『怪談牡丹灯籠』、為永春水の、『春色梅児誉美』の影響が見られます。まず二葉亭は圓朝の落語を参考にします。落語というのは落語家が話しているのを文字にしたわけですから言文一致している。問題となるのは地の文です。落語に地の文はないですから。それをどうするかに二葉亭は非常に苦労しただろうと思います。そしてもう一つの問題が韻の問題です。『春色梅児誉美』は人情本でそれを参考にしたわけですが、この作品は七音五音で書かれていて非常にリズムよく書かれています。それを近代小説においては捨てなければならない、と二葉亭は考えたのでしょう。二葉亭もかなり苦しんだらしいのですが。


  ⅲその後の展開

  ・ここで最後に確認しておきたいのは、言文一致体が始めから近代小説の文体の覇権を握っていたわけではないということです。先程も書きましたが、幸田露伴の、『五重塔』が明治25年、樋口一葉の、『たけくらべ』が明治28~29年の発表です。

  ・明治40年頃に日本は自然主義が主流となりますが、それとともに言文一致体が主流となります。それにより僕らの今読み書きしている口語文の基礎となった文体が確立されるのです。つまり覇権を握ったのです。この平易な文章の創出は読むために必要な古典等の教養を不要なものとしました。樋口一葉や幸田露伴は古典の素養がないと読みきることはできません。

  ・僕らの現代の世界はありがたいと言えるのですが、日本の近代文学が江戸以前の古典と切り離されてしまったという大きな弊害も生じてしまったのです。

2016年4月13日水曜日

『小説神髄』 坪内逍遥

某大学の通信教育部の某講義を自分なりにまとめたものです。
備忘録として残しておきます。
講義内容と違った部分があったとしても責任は持てません。
あしからず。



1 「近代文学」について


①近代文学はいつ始まったか
 ⅰ明治18年(『小説神髄』)か、明治20年(『浮雲』)か
   
  ・多くの学説が、明治18年説を取っているらしいです。明治18年、明治20年以外からという説もあるらしいけど触れなかったのであとで補足できたら補足します。明治20年説は、小田切秀雄を挙げてました。小田切は○○大の教授だったのでやたらと出てくると思いますよ。去年の教養の「文学」のときも柄谷行人がやたら出てましたし。この講義では明治18年説で話を進めていくということでした。


 ⅱ『小説神髄』を近代文学の始まりとする理由
  
  ・1つの大きな理由として、『小説神髄』が二葉亭の、『浮雲』から始まっていく近代小説に大きな影響を与えたからだと。二葉亭が坪内のところに付箋をベタベタ貼り付けた『小説神髄』を持って質問にやってきて坪内から指導を受けたというエピソードを話してました。これは去年も聞いたなと。正直去年の中澤忠之先生ってかなり優秀な先生だった気がします。まあ対面式のスクーリングとメディアスクーリングの違いもあるし、レポートの難易度とかでこっちの方が厳しいかもしれないのですけど。

  ・2つめの理由として、『小説神髄』のなかに新しい発想があったのではないかと考えられると。つまり近世文学とは一線を画するなにかがあった。それは、まったく不十分ではあったが、文学=美術(芸術)と捉える発想ではないかと。西洋的な小説のイメージですね。近世文学は娯楽であった。だからお上からも風紀を乱すものとされて刑罰まで科されたことがあったと。文学というものは道徳的でなくてはならない、そんな感じであった。つまり江戸幕府の儒教道徳の縛りがきつかったのだと。そこにそれとはまったく違う発想を坪内が、『小説神髄』で持ってきたのだという考えですね。先にも書きましたがまったく不十分なものだったのですけど。まあ、『小説神髄』を読んで知的エリートたちに新しい時代が来たな!と思わせるものだったのだろうと思います。

  ・以上の2点から、『小説神髄』を始まりとする明治18年説が有力だろうということになります。小田切秀雄の主張も読んでみたいですね。僕が持っているのは、『文芸学講義』と『文学概論』です。恥ずかしながらほとんど読んでいないのですが、前者は創作に重点が置かれているようです。書かれているのは後者のほうなのかな。後者の方が圧倒的に詳しく書かれていて、海外文学まで触れられています。


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②近代文学とはなにか

 ⅰなぜ18年~20年なのか

  ・政治上は年号が変わった明治初年から近代は始まったわけですが、文学の場合(政治もそんなにすぐ根付いたとは思えませんが)は、約20年の年月がかかったと。政治経済はシステムの問題で喫緊の課題ですからすぐ変わったのだろうと思われますが、文学は精神の領域の問題であるため20年かかったと。その20年にしても長くはなかったと考えられるということで。明治の始めの段階ではまだ仮名垣魯文が人気でしたから、まあそんなものかなと。

  ・現代で考えますと、20年前だと1996年。村上春樹が、『ねじまき鳥クロニクル』を書いたり、よしもとばななが、『キッチン』を書いた…のは1988年くらいかな、『アムリタ』が1994年ですね。その頃と今ではそんなに変わっていないという説明でした。社会情勢、政治情勢はとんでもなく変わってますけどね。文学は変わってないんだと。そういうことなのでそういうことにしておいてください。1948年に死んだ太宰治を最近の人と言ってましたからそんな感覚だということで。

  ・明治の初めにロシア文学が日本に入ってくる。なにが入ってきたのかの説明はなし。明治元年を1869年とすると、ドストエフスキーの、『地下室の手記』や、『罪と罰』、『白痴』などが入ってきていた可能性は高い。それに東京外国語大学の二葉亭がいた頃には、『カラマーゾフの兄弟』まで五大長編は全て書かれています。ロシア語専攻の二葉亭は読んでいただろう。まあ実際翻訳したのがツルゲーネフの、『あいびき』なのでそこはまた後で調べて補足しますけど、トルストイも合わせて近代最強のロシア文学に原書で触れていたのは大きなアドバンテージだっただろうと思います。

  ・政治に話を戻しますと、明治7年に自由民権運動があって、日本に「自由」と「民主主義」が入ってきた。明治初年から7年経っている。政治もすぐ根付いてないじゃないかよ!とツッコミをいれたくなるところですが、メディアスクーリングなので画面を見るしかない。メールで質問はできるんですよ。回数制限はないように思います。まあこんなくだらないこと質問しないですけど。で、大衆は「自由」、「民主主義」を徐々に自分たちのものにしていったと。帝国議会ができたのが1890年(明治23年)なので、ほら結局政治も文学も20年くらいかかるんだよ、と僕は思うのですが、「自由」、「民主主義」も精神の領域の問題ですからね。


 ⅱ近代文学の課題

 ・全15回を勉強してみてから考えてほしいということでした。「近代文学とはなにか」という大きな問題ですね。ここではあくまで一般論としてはこういう課題がある、ということで挙げられていました。では何を課題としたのか?

 
 ・3点挙げられます。
  1.必然性
  2.わたしとは
  3.社会とは

  これは奥野健男が挙げたらしいです。太宰治研究で有名な方ですね。メディアスクーリングではない方では奥野健男の、『日本文学史』がテキストになってます。この3点を合わせて、「自我の問題」と研究者のあいだでは言われているそうです。極めて深刻な問題として追求されていると。近世文学が遊び(「命懸けの遊び」だそう)と言われていたのとは対照的ですね。では説明をしていきましょう。

  近代文学には必然性がないと駄目だと。これは現代のいわゆる純文学でもよく言われることなので納得はいきますよね。僕の考えが浅い可能性はありますが取り敢えず。「必然性」を書かなくては駄目なんだという問題意識。これが「わたしとは」、「社会とは」と関連していく。わかりやすい例として『浮雲』が挙げられていました。


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  『浮雲』で見落としてはいけない、というか二葉亭が書いていたのは、
   ・個人を抑圧する社会
   ・社会に敗れていく個人

  この2点です。現代の僕らが読むと、文三の情けなさというのが際立つだけ、というように読めますが文三の情けなさには理由があったのだと。この2点を挙げて考えてみれば、『浮雲』の時点では小林秀雄が私小説に欠けていると言っていた社会の問題も書こうとしている、リアリズムが成り立つ、少なくとも成り立たせようとしている二葉亭の意識というものを感じ取れると僕は考えます。

  ちょっと話はズレますが、文三が生きている明治の新しい社会というものが、市川真人の言わせるところの「恋愛と結婚と性が結びつかない」社会ではなくなった、西欧近代のキリスト教的社会のモデルに変わっていっているのに、文三の叔父叔母は封建主義の生き残り的な存在なわけですよね。そこで江戸というものを残して威張っている、陰湿な社会のなかで文三が滅んでいくという物語を二葉亭は書いていると。漱石の『坊っちゃん』と真逆ですね。

 *ドナルド・キーンの『日本文学史 近代・現代篇一』によると、文三は士族道徳の生き残りとされていて、昇が西洋かぶれの立身出世男とされています。お勢も西洋知識にかぶれている「浮雲」のような女とされています。キーン氏の書く通りであるならば漱石の、『坊っちゃん』と同じ図式ということになります。となると『浮雲』という作品が、『坊っちゃん』の約年前に書かれたことやそのリアリズム描写の徹している(少なくとも第1篇は)も考えるに、『浮雲』は日本文学史上なお評価される作品となるでしょう。
 
  文三は優秀な男で、その優秀な男が古くさい社会に押しつぶされていく(文三の上司も友人の昇も古くさい男なのでしょう)、そんな物語のなかで、「わたしとはなにか」、「社会とはなにか」で悩む文三という主人公を創り出した二葉亭。こんな主人公を書かなくてはならない、これが二葉亭にとっての「必然性」ということなのでしょう。それゆえに、『浮雲』は近代というものにふさわしい内容を持った小説として評価されたということではないでしょうか。

  ここで再度確認すると、近代文学とは、近世文学とは違う、かつ遊びではない、ということです。坪内逍遥はそれまでの日本的なものは駄目なんだと全否定にかかったわけだろうと思います。近世文学に似るものは絶対に避けなくてはならないという西欧にどっぷり嵌っていたということだろうなと。その割には、『当世書生気質』が実作としては評価されずに終わったというのが坪内にとっては残念なことであっただろうと思います。



2『小説神髄』論

 ①坪内逍遥について
  
  ・○○先生はまず始めに、『小説神髄』は文学を学ぶ人だけでなく、文化全般を知るためにも誰もが読んでおかなければならない作品だと言っておられました。確かに、『小説神髄』は文学だけを語っている作品ではないですよね。江戸から明治へと変わる変革期に坪内が、次の時代はどのようにあるべきかを書いた作品として読めるわけです。

  ・坪内逍遥は、安政6年(1859)に生まれ、昭和10年(1935)に没します。江戸の末期からごく最近まで生きたと言っても間違いではない…と○○先生は言うのだけれど、最近じゃないだろうとw うちの親でも昭和20年代生まれですからね。僕にとっては過去の人という印象は強いです。まあそれは置いておいて、坪内は尾張藩の武士の家の出です。後輩に二葉亭四迷がいますね。だから二葉亭は坪内のところに来たというのもあるのかでしょう。

  ・重要な点は、武士の家、侍の家の子であるがゆえに、坪内は厳しい教育を受けていたということです。旧武士階級が近代文学で果たした役割は非常に大きかったということで、なぜかというと、没落したからですね。食うのに1番困っていたのが旧武士階級だったと。ゆえに社会に対して鋭い視線を向けているわけですね。自分たちを冷遇する社会に対して批判的だった。他の階級出身者が見逃してしまうところまで見えていたということです。武士階級出身者は他に北村透谷や樋口一葉を挙げていましたけど、たくさんいますよね。

  ・坪内は子供の頃から歌舞伎、戯作が好きでたくさん読んでいました。近世芸術に、もちろん近世小説というものにも造詣が深いわけです。ですが当時のインテリのパターンに漏れず、近世というものを全否定しました。西欧文明の洗礼を受けると、それまでの日本の近世芸術が取るに足らないつまらないものに見えてしまった。そう言った記述は、『小説神髄』のいたるところにあります。

  ・坪内の経歴を見ていきます。明治9年に東京に上京してきます。そして東京開成学校に入学し、英文学を学ぶ。この英文学と、子供時代に好きだった歌舞伎や貸本が坪内の教養の基礎となったということだそうです。漱石の漢文と英文学も同じで国内国外両方の素養が必要だったということですね。その後坪内は色々な国の文学を勉強します。

  ・明治16年に東大政経を卒業。学士の称号を得ます。この当時の学士は今のように大学乱立の時代ではなかったので非常に珍重されたものだったそうで。学士様が言うのなら!みたいな。その学士坪内逍遥が、小説というものを、『小説神髄』で大真面目に論じたことが大変な衝撃であった、ということらしいです。

  ・小説はそれまでは上等なものではないとみなされていました。それがとても大切で真面目なものなのだと坪内が言い出したわけですね。ちなみに二葉亭は本名を長谷川辰之助というのですが、文学をやると父に言ったときに、父が、「くたばってしめぇ」と言ったところから「二葉亭四迷」というペンネームがつけられたと言われますが、あくまで都市伝説だそうです。

  ・この当時は人情本などがお上に1ヶ月の手鎖の刑に処せられるなどという時代だったのですが、そんな状況下で坪内が、学士様が大事だと言った、ということが世間では大きな衝撃と受け止められたようです。

  ・坪内はその後、東京専門学校(後の早稲田大学)の講師となります。そこでシェイクスピア研究をし、翻訳をしました。坪内のシェイクスピアの翻訳は有名ですよね。明治18年に、『小説神髄』。ほぼ同時期に、『当世書生気質』。残念ながら実作としては評価は得られず、江戸文学に飾りをつけただけだとみなされました。はっきり言うと、『当世書生気質』は中途半端な小説だということで。


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  ・前にも書きましたが、小田切秀雄先生は、『小説神髄』は近代文学の始まりに当たらないと言っています。○○先生は、小田切先生の弟子ですが、『小説神髄』でよい、という立場を取っているようです。

  ・明治19年に坪内、二葉亭と出会う。そして明治20年に二葉亭、『浮雲』を発表。明治23年に坪内、早稲田の文学科の創設に尽力。明治24年に雑誌、『早稲田文学』を創刊。今でも続いてますね。川上未映子や黒田夏子などの芥川賞受賞者を輩出しています。当時は大正時代の私小説が多く発表されていたそうです。



②『小説神髄』の主張

   ・『小説神髄』の抜粋がプリントで配られているのですが、このブログだと貼付ができないようなので、後で抜粋部分を調べてページ数を書いておきましょう。
 
 ⅰ「人情」の描写・リアリズム
  
   ・「小説の主眼」の抜粋部分から、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。」と、有名な箇所が抜き出されています。「小説の主脳=人情」だと。人情は、人の心、考え方、心の内幕、というほどの意味だということでよいかと思われます。現在の僕らにとっては至極当たり前の主張に感じられますが、これがその当時は大変重要な主張だったのだということです。

   ・坪内のまず念頭にあったのが曲亭馬琴の、『南総里見八犬伝』で、それを否定しようとしたわけです、好きだったにも関わらず。日本的なファンタジー、ロマーンというやつ、壮大なスケールで描く嘘物語は駄目だと。余談ですが、NHKで今やっている上橋菜穂子の『精霊の守り人』は勧善懲悪ではない壮大なスケールの物語ですね。なかなか見ごたえがあるのではないかと思って観ています。

   ・まあ、そういう嘘物語を否定し、現実の世界を描いていくあるいは、現実に起こりそうなことを描いていく、そう、リアリズムの手法によって人間の心を描くのが正しいのだと坪内は主張したわけですね。「善悪正邪」の心の内幕を漏らさず描くことが必要だということです。本当に現代の僕らから見ると普通のことなのですが、テレビドラマの、『水戸黄門』とかは勧善懲悪ですよ、それまでは善悪正邪、つまり善玉は良いことしかしない、悪玉は悪いことしかしない、という作品ばかりだったわけです。そして善玉が必ず勝ってめでたしめでたしと。

   ・リアリズムは違います。上の、『浮雲』の文三がそうであったように、現代の作品でもままそうであるように、リアリズムは正義(「正義」の定義が曖昧ですが)が負けることもありますよね。坪内は勧善懲悪は駄目だ、いい人だって悪いことを考えるのだし、悪い人だっていいことを考えることがあるのだと。それを漏らさず書かなくてはならないのだと主張するわけです。

   ・坪内のいう「人情」とは、人間を表面的に描くのでは駄目で、その奥深くまで描かなくてはならないということで、それを主張したわけです。これは当時としては革命的で大変な主張だったわけですが、残念ながら、『当世書生気質』では上っ面しか描けてないではないかと非難されることとなります。坪内自身も論としては書けてもまだ実感としてよくわかってなかったということですね。


 ⅱ小説の目的と効果

  ・「小説の主眼」のところに、「まことにモーレイ氏のいへるがごとく、苟にも文壇の上に立ちて著作家たらんと欲する者は、常に人生の批判をもてその第一の目的とし、しかして筆を執るべきなり。」とあります。ここで挙げられている「(小説の)第一の目的」を○○先生は、「人生の批判」と解釈しています。ここでの「批判」は日常僕らが使う「相手を責める」などという意味ではなく、カントの使うような、「根本的に考える」といった意味です。人生を根本的に考えるのが小説だと坪内は考えたのだと○○先生は言っています。

  ・「小説総論」からの抜粋、「小説の裨益」からの抜粋から、芸術の目的とは何かについて坪内がどう考えていたかを考えるに、芸術の目的とは、「娯楽」であると。決して「教育的効果」をもたらすものではないのだと。ちょっと「あれ?」と思った方もいると思いますけどそれはあとで説明します。当時小説家はお上から睨まれる存在でした。儒教道徳が根強かった時代に前に触れた人情本など風紀を乱すものだったわけですよね。坪内はそれに対して、小説というものに教育的効果など期待してはいけない、「小説の目的」は楽しませることなのだと主張したわけです。まあ、『小説神髄』のほかの部分では、近世文学は娯楽で駄目だと言っていたくせに、今度は小説の目的とは娯楽なのだと言っているわけで、坪内の矛盾は明らかなわけです。後者が抜粋されている部分として「小説の裨益」の箇所と、「小説脚色の法則」の箇所があります。これもあとで岩波文庫版のページ数を書き足しておきましょう。こちらは芸術の効果は、教育的効果なのだと。なければただの玩具に過ぎないとまで書いています。

  ・これはどういうことよ、と思うわけですがこの点は個々人で考えてくれということでしたが、○○先生は、教育的効果は優れた芸術ならば勝手についてくる、と説明されていました。坪内は文学には効用があると、いわゆる効用説と言われる立場を取ったらしいです。文学って実際社会で役に立ちますか?という一般人が考える素朴な疑問がありますよね。坪内は、文学は役に立たないと言い切れなかったのです。だから文章が錯綜しているというわけのようです。これに対して北村透谷はひとつの考えを打ち立てたらしいですが詳しくは説明されなかったです。気になりますね。


 ⅲ近代主義の思想

  ・「小説総論」からの抜粋があり、そこでは詩など他ジャンルとの比較が論じられています。現在の僕らにとって短歌や俳句などと小説は相並ぶもので、いわばジャンルが違うという認識ですよね。それが坪内によると、当時はと言っていいのか、短歌や俳句と小説は序列があると言います。つまり、短歌や俳句は字数制限や音韻の問題で縛られる制限された表現方法で、小説という散文においてこそ人間の複雑な感情は最もよく表現できるのだ、という考え方であったように思われます。当時の日本のインテリはそう考えていたようですね。短歌など取るに足りない、西欧の近代小説こそが複雑な心を表現できるのだと。

  ・近代主義というやつです。かぶれているのですね。江戸以前を全否定したい。それが、『小説神髄』には非常に色濃い。西欧への劣等感がなせる技とも言うべきですね。


 ⅳ文体論

  ・さて、文体ですが、「文体論」の箇所が抜粋されています。そこで坪内は、新しい時代にふさわしい文体とはいかなるものかについて書いています。「西洋の諸国にては言文おおむね一途なるから」とあります。つまり、ここから言文を一致させようぜ、という発想が出てくるわけです。それを二葉亭四迷が受け継いだわけです。これは当然現代の僕らの口語体へとつながっていくものです。だから僕らの書き言葉の基礎をつくったのは坪内だと言えるということですね。この言文一致なのですが、問題は二葉亭の言文一致体が、明治40年頃に顕著になる自然主義にもつながっていくわけです。このことは次回に述べられるでしょう。


③『小説神髄』の文学史的位置づけ(まとめ)

  ・まとめに入ります。まず、『小説神髄』において坪内は文学を真面目なものとして考えました。これは大変画期的なことでした。そして人間の心の問題を重視しました。小田切秀雄が批判したように不十分ではあったのですが、一応善悪正邪入り混じった人間を書けと言ったと。儒教道徳に侵された式亭馬琴のような作品を批判しました(かなり及び腰だったようです)。そして文学にはどのような効用があるのかを探求しました。『小説神髄』では答えは出ていませんが向き合ったことに意義があると言うことでした。

  ・『小説神髄』は、その新しさゆえに近代主義の特徴が非常に強く表れている作品であると。それまでの江戸文学を全部否定する、まさに文明開化とは西欧化だ、という感じですね。そしてそのためにも新しい文体を創り出さなければならないという発想まで行き着いた。今日の口語体を創り出す端緒になったという意味でも大きな意義があったのだということです。



以上が第1回の講義内容でしたね。どんなものでしょう。これを全15回書くとなると無理じゃね~のと思わなくもないのですけどね。坪内逍遥についてはポイントは押さえられているとは思うのですが、大学の専門科目としてはどうなんだろう。この講義を足掛かりにして自分で深めていく作業は当然求められるでしょうが。

2016年3月28日月曜日

『僕だけがいない街』 三部けい

3月28日現在、テレビアニメ終了、藤原竜也、有村架純で映画化されている、『僕だけがいない街』。
漫画大賞ノミネート作品です。
アニメの方は、フジテレビのノイタミナ枠でやっていたので観ていました。
最終話はまだ観ていません。
映画も観ていません。
漫画はいま4巻の途中あたりまで読んでいます。
結構中途半端な状況です。

なので、ライター、作家、文芸評論家のにゃんくさんに、「あらすじ」を書いていただきました。
にゃんくさんに仕事を依頼したい方はこちらまで。
https://coconala.com/users/252145

実力のほどは「あらすじ」を読んでご判断してみてください。


僕だけがいない街 (1) (カドカワコミックス・エース)
僕だけがいない街 (1) (カドカワコミックス・エース)三部 けい

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「『僕だけがいない街』三部けい
(あらすじ)
 主人公は、漫画家・藤沼悟です。
 彼は再上映(リバイバル)と呼ぶ特殊な能力を持っています。
 それは、自分以外の誰かが被害者となる事故や事件が起こる時に発生します。
 たとえば、トラックの運転手が運転中に死亡していて、交通上の大惨事が発生するシーンに悟が居合わせると、再上映(リバイバル)が発生し、事故直前まで時間が巻き戻ります。その間、悟の記憶だけが継続しているので、自分が未来から過去にさかのぼっていることを覚えています。そのため、周囲の違和感を探し出し、未然に交通事故を防ぐ措置をとることができます。
 再上映(リバイバル)は、主人公の意志とは無関係に発生します。
 そのため、悟は日常生活で頻繁に再上映(リバイバル)に遭遇し、結果的に自らを危険にさらしながら、他者の安全のために奔走することになります。
 あるとき悟は、再上映が発生したため、連続誘拐事件を未然に防ぐことになりますが、
その結果として、自分の母親を犯人に殺されるという悲劇に遭遇します。
 その母親殺しの犯人を追跡するうちに、巧妙な罠から、悟は、自分が母親殺しの犯人にされてしまいます。
 追い詰められ、警察に逮捕されたとき、再び再上映(リバイバル)が起こり、悟は1988年、自らが小学5年生の時点に時間が巻きもどります。
 それまで、それほどの規模の再上映(リバイバル)が発生したことがなかったために悟は驚きますが、後になって、これはその年発生した連続児童殺害事件の発生前まで時間がさかのぼっていることに気づきます。
 悟は、未来で殺されることになる同級生。雛月加代の被害阻止のため奔走します。
 一度は失敗し、犯人により雛月は殺されてしまいますが、再び再上映(リバイバル)が起こり、悟のたゆまぬ努力と同級生たちの協力を得た結果、雛月殺害事件を回避することができます。
 そして、未来で殺害されることになっていた、第二の被害者の事件回避にむけて行動していたところ、悟は犯人から盗難車の中に閉じ込められ、車ごと池の中に沈められてしまいます。
 悟は一命をとりとめますが、長いあいだ植物人間状態で入院をつづけます。医師からも回復は不可能だと宣言されてしまいます。
 彼が目覚めるのは15年後、奇跡の回復により意識を取り戻します。
 しかし記憶の一部が喪失状態に陥っており、自らを殺そうとした犯人が誰であるか覚えておらず、自分の身に備わった特殊な能力である、再上映(リバイバル)の能力のことも忘れてしまっており、小学5年生から止まったままの自分の知能に、不自然な知識が備わっていることに違和感を覚えますが、夢の一種ではないかと自分を納得させようとします。
 悟が長い眠りから目覚めた出来事は、マスメディアの報道により世間に知れ渡ることになり、1988年当時とは職を変えた犯人が、今度こそ悟を殺害するために、彼に接近を試みてきます。
 悟の記憶が蘇り、彼が試みようとした犯人捜しの結果が先に実を結ぶか、犯人側の藤沼悟殺しが先に成立してしまうのか、物語は予断を許さぬクライマックスへ向けて進行します。」


コミックスの巻末のコラム漫画みたいなものによると、三部さんは『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦先生のアシスタントをやられていたようですね。リバイバルという発想が、ジョジョの第3部のディオのスタンド「ワールド」の発想に近いかなとか思いました。あとは少女漫画によくある心象風景を書くときの手法が相当多用されていると感じました。全体的にはリバイバルで失敗した過去を修正し、よりよい未来を取り戻そうという物語で、主人公が失敗ルートに入らないように成功ルートを探す、というところにサスペンスの要素がかなり入っています。というかサスペンスでしょう。僕は4巻途中までしか読んでいないので、主人公がどうしてリバイバルという能力を身に着けることができたのかに1番興味を持って読んでいます。もしかしたら説明されないまま終わるかも…とちらっと感じながら読んでいます。詳しくは後日再度記事にしますが、そこにはにゃんくさんの「見どころと感想」も掲載します。そしておまけとして僕の読後の感想も添えたいと思います。


それでは、まだ読んでない方、アニメ、映画も含めて、『僕だけがいない街』を楽しんでください。

2016年3月14日月曜日

今年度の公立高校入試について考えたこと

2016年3月8日、9日と新潟県では公立高校の入学試験が行われた。


今日、3月14日は合格発表。受かった受験生、落ちた受験生ともに自分を褒めてやってほしい。受験までに積み重ねてきた努力、それとともに身に着けた力というものが君たちの本当に手に入れたものなのだから。



さて、今回の入試問題だが、まず数学。1番目を引くのは大問6がとんでもなく簡単だったという事実だろう。つまり大問1から順番通り解いていった受験生で、この問題までたどり着かなかった場合は合否を左右するほどのハンディキャップを負うということになる。また縦になってしまったが問題を貼っておく。



















































































大問6は僕なら5分で解ける。空間把握能力を問われる問題であったが、近年稀にみる容易な問題。毎年大問6の特に(3)以降(今回はない)の正答率は1%未満なのだ。つまり捨て問が来るところを今回は解かせてきた。


大問5は規則性の問題。僕は解いていてここに最も時間を取られたが、それほど難しい問題ではない。折り紙を使った問題だが、これと似たような問題が平成24年、平成26年と出題されている。つまり過去問研究をしておけば今年は規則性の似たような問題が出るということは想定の範囲内なのである。僕も直前期の授業では規則性の問題は要注意と言っておいた。


大問4はグラフと関数の問題でこれは毎年出題される。これは問題はないと思う。ろうそく2本がどのように溶けていくかをイメージできればなお容易に解けるだろう。2本のろうそくの傾きが問題では事前に与えられているので、それを使って方程式をつくればいい。


大問3の証明の問題も毎年出題される。今回は三角形と円ということで当然円周角を使う問題だと予想することができる。そして二等辺三角形の性質を使って合同を証明する。合同が苦手な人はやや手こずる気もしないではないが、実際この手の問題しか証明問題は出ない。ここでは時間をかけたくないだろう。


大問2に関しては何も問題はない。


大問1は(7)と(10)が新潟では例年にないちょっとひねった問題ではあったが基本を理解していればこれも問題はない。


ということで数学に関しては難問がまったく出題されないというのが今年度の特徴であった。問題は、これを50分で解くということだが、類似問題の頻出、大問6が容易で非常に早く解けるということから考えると、数学の得意な受験生ならば100点を狙えた問題ではなかったかと思う。ちなみに画像では青ペンで「A」、「A+」などとつけているがこれは僕なりの難易度評価である。最高難度を「C」としてつけている。大問1の(1)は本来「A」なのだが、僕が中央値の出し方を度忘れしてしまったため「B」となっている。つまり問題を解きながら難易度をつけたということだ。



では社会。






社会は例年通り、大問1,2が「地理」。大問3,4が「歴史」。大問5,6が「公民」であった。まず結論を言うと、記述式の難度が若干高かった気がする。それと時事問題に弱い受験生にも難しい問題があったように思う。全体的に難しかったとも言えるが、単なる知識ではない問題を多く出してきたところを考えると一般的には良問といえるものが多かったのだろうと思っている。


地理に関しては、「地図」、「表」、「グラフ」の読み方が身についているかを問う問題が主であった。「時差」を問う問題も毎年出題されているし奇抜な問題というのはひとつもなかったように思う。新潟県の問題ということで北陸地方の特色を問う問題が出題されているが、受験生には想定の範囲内であっただろう。差がつくとしたら記述問題であろうか。


歴史に関してもやはり過去問の焼き直し的なところがあった。歴史だけに時事問題を挟むということもなくスタンダードに作問してきたなという印象を受ける。大問3(6)の唐獅子図屏風は過去問で出題されていてこれが正答という落としてはならないボーナス問題だったと言えるだろう。他は大問4(3)領事裁判権が撤廃された条約だが、直接この条約名を知らなくても他の3つの条約が締結された年号はわかるので消去法で解くことができる。歴史もやはり記述問題で差がつく気がするが、大問3(3)は聖武天皇の鎮護国家思想を押さえていれば容易に解けたので歴史ではそれほど差はつかないかと思われる。


公民は、現代社会に対してどれほど高い意識を持っているかで差がつくので受験生のなかでも苦手としている人は多い。例えば大問5の(1)①②などは大人にとっては非常に容易な問題ではあるが現代社会への意識の薄い受験生には難問となる場合がある。そういう意味において差がつくとしたら公民ということになるだろう。大問6(2)の正答UNHCRも難問と言えるかもしれない。現代社会を苦手とする受験生には今年度の問題は少々厳しい問題となったであろう。



続いて国語。



 
 


国語で最初に言っておきたいのは大問4。大問4は平成25年、26年、27年と哲学的テーマを持ってきていた。「世界」→「言葉」、「言葉」→「世界」、といった、「世界」を人間は「言葉」によってどう表現するか。そして「言葉」によって文節された「世界」の貧しさを人間は詩や小説といった表現によっていかにして取り戻そうとしてきたのか。そのような問題が例年出題されていて、今年度は「芸術」をテーマに持ってきた。今回も哲学的テーマであったと言えるだろう。この傾向は当分変わらないと思われる。ゆえに今後も小説が出題されるということもほぼないだろうと思われる。


では大問一、二。漢字、文法の問題でこれらに関して言うことはない。普段の勉強で身につけておくべき事柄である。


大問三。古文。『弁内侍日記』より。例年、歌を詠う習慣、蹴鞠などの風習、楽器の心得など中学までの古文の素養を問われる問題が出題されている。今年度は蹴鞠のルールという少々細かな点が出たかなという印象を受けたが、(一)の問題などは古文の知識がなくとも解ける問題ではあっただろう。古文をある程度の量読んでいれば文意を取ることはそれほど難しくはなかったように思われる。


大問四。自然と人間の関係。そこからどのようにして芸術というものが生まれてくるのか。その繊細な過程を追っている文章である。国語全般に言えることだが小手先の技術で得点を稼ぐことができる問題が入試では出題されることも事実ではある。しかし、文章の本意を読み取るにはただひたすらに本を読むことを続けるしかないのである。そのためには辞書を引くことも当然必要であるし、ある程度の文法を学ぶことも必要(場合によっては複数の文法)である。(二)(三)は文意を取れれば前後の文章を組み合わせてできる基本問題。(四)からこの文章の核心に触れた問題となっていて傍線(3)から後5行目に書かれている、「彫刻の技術は~」から人間の石(自然)との向き合い方を引っ張ってくる必要がある。(六)は最後の段落をまとめる。「人間(のからだの一部分)」=「物」というポイントは外すことはできないであろう。


国語も難易度としては、例年より比較的低め。2日目の学校独自検査も含めての学習が必要ということがあり、受験生への配慮もあったのではないだろうか。それゆえに得点できた人はかなりの高得点となったのではないかと思う。


以上、3科目について今年度の入試問題の傾向について感想を書いてきたが、合否結果というのはあくまで相対的なものであり、自分が満足のいく得点を残してもそれを上回る人が多数ならば結果は変わってくるのである。受験生は受験に向けてこの3年間で学んだ知識を血肉にして、高校生活の糧にしてほしいと思う。当然のことながら高校で学ぶことというのは中学以上のものである。大学なら更に然り。大学進学を志す人は、高校受験とは比較にならない次元の問題が待っているのだということを肝に銘じて高校生活を送ってほしい。高校では当然勉強だけが待っているわけではない。行動半径も交際範囲も広がり楽しいことも辛いことも含めて、今までにない新しいことが待ち受けている。終わってみれば高校受験などは大したことではなかったのだと思うのである。ただ、それを目標に自分をいかに鍛えることができたか、それが受験で最も重要なことなのである。


結果は人生を大して左右しない。受験生の皆さん、長かった受験勉強本当にお疲れさまでした。高校ではさらに多くのことを詰め込まれるわけだが、君たちは3年間で大きく成長してそれを受け入れるだけの能力を既に手に入れているはずである。受験の結果がよくなかった人もそれは今だけのことである。1月経てば忘れてしまうので、今だけは自分の何が足りなかったのかということだけは、自分で引き受けて考えてみてほしい。内省することができる人間だけが成長するのだ。それができたならば高校生活はより充実したものとなるだろう。高校生活は楽しい。夢と希望を持って高校という新しい舞台に挑んでほしい。そして人生を楽しめる人間に育ってくれることを心から祈っている。

2016年1月3日日曜日

『風の歌を聴け』 村上春樹

久方ぶりです。ご無沙汰しておりました。

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今回は村上春樹のデビュー作、『風の歌を聴け』を紹介したいと思います。
長く離れていたので「ですます調」ではなかった気がします。
ではそれを修正して、この作品について少し書いてみたいと思う。


村上春樹はこの作品で、群像新人賞を受賞した。芥川賞の候補作にもなったが受賞は逃す。この作品にまつわるエピソードがある。春樹はどうしてもこの作品の書き出しをうまく書けないでいた。そこでタイプライターを取り出し、出だしを英語で書いてみた。するとすんなりと書くことができたのだということだ。春樹は日本語に付着する余分な意味に悩んでいたのだろう。それを英語という異国の言語で書くことによってそぎ落としたのだと思われる。春樹の文体からミニマルを感じるという人もいるのではないだろうか。このエピソードは噂では聞いていたのだが最近発売された、『職業としての小説家』に春樹自身が書いていたので噂は真実であったのだろう。


この作品を僕は今回読み直してみたわけだが思ったことはやはり当時の時代の香りが強い作品だということだ。もちろん現在時から読み取れることは多くある。だがその当時はかなりセンセーショナルなものとして読まれたのではないかと感じるのだ。この作品は作家の処女作としては優れてよく企まれている、戦略的だと感じる。そして春樹の作品にある、春樹の、世界に対する姿勢、ひとつのポーズを取っているあの姿勢がよく出ている。ゆえに当時の文壇だけでなく当時の人々に流れていた空気のなかでも新鮮に見えたということは言えるだろう。


あらためて作品を読んでいくと顕著であると僕が思うのが、「逆接の接続詞の多さ」と「シンプルな文章」、そして「短い断章」で区切ってあることだ。まず何かをある姿勢でぽいっと投げかけ、それに対して逆接を持ってくる。そしてここが特徴だがその答えが微妙にずれている。特に前半部はそのずれがおそらく普通に学校教育を受けた人間が読んだら、煙に巻かれたように感じるほどなのだ。はっきり言えば、そこには意味のない極めて軽い文章が羅列してある。


いったいどういうことなのだ。これが全共闘の世代の後に現れた、新世代ポップスの香りを持った文学なのか、と僕はあくまで想像することしかできないのだが例えばこんな会話がある。

「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか? きっと何もかも上手くいくぜ。」
「手始めに何をする?」
「ビールを飲もう。」

何でもできると言っているやつら(僕と鼠)がやることがビールを飲むことだ。60年代の学生たちは学生紛争のなかで戦っていた。学生たちにとって何でもできるならば世界を変えるために力を使えと言いたかったかもしれないし行動を起こせと言いたかったかもしれない。しかし彼らはビールを飲む、と言った。こういうシラケ感、肩透かし感、諦念がこの作品では基調としてあるかのように描かれている。少なくとも主人公と鼠は行動によって世界を変えることを完全に諦めている。むしろ世界には鼻から期待していないと言ってもいい。


僕が小説家になろうと目指していたときに少なからず影響を受けた人物がいる。その人は渡部直己なのだが(彼は、『それでも作家になりたければ漱石に学べ!』などを書いている)、彼によると春樹の作品はチャリティー文学でしかないらしい。春樹の、『風の歌を聴け』も、『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』のなかで渡部独特の皮肉をまじえて批判している。渡部の読みは僕が学生時代に多大なる影響を受けたフランス現代思想の影響下にあるよう(蓮實や柄谷をよく引き合いに出す)だが、確かに彼が言うようにこの作品からは、ドゥルーズの言うような文章からの複雑な豊饒性、具象性の現れというものはない気がする。


渡部についてどうこういうことはないのだがあえて僕は思うには、渡部の春樹評価はもうちょっと古いかなと思う。なぜそう思うかを説明する前に、僕が春樹の作品を読み始めたのが、『ねじまき鳥クロニクル』以降だったということを知っておいていただきたい。『ねじまき鳥クロニクル』は春樹作品のなかではデタッチメントからコミットメントへと方向転換をし始めたターニングポイントとして位置付けられている。僕もそう思う。それ以前の作品はどうしても読んでいて欠けている部分があった。そう指摘されてもしかたがないところはある。現実への有効的効果がほぼないということ、政治性の欠如と春樹の思考パターンに現れている自己中心性(極めて神経症的な)、つまり他者の存在への歩み寄りがない。そのあたりを渡部直己は、『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者についてのルポルタージュを引き合いに出して洒脱に批判している、もちろん痛烈に批判しているといってもいい。


『ねじまき鳥クロニクル』以降に関しては僕はほぼリアルタイムで読んできた。その当時の空気を感じながら読んできた体験から春樹を評価すると、彼は少しずつ世界や他者について考え始めた、それまでは本当に一定の読者に自分なりのメッセージを作品に乗せているだけでいいやと考えていた節があるような気がしたが、明らかに変わっていったと言えるだろう。もともと春樹は文章を書く才能は持っていて、それをスタイリッシュな文体でいわゆる日本では純文学と言われるような要素を持たせつつ、物語の骨格までも様々なパーツに分解して再構築しなおすというポストモダン的な技術も持ち合わせた優れた作家だったと思うのだが、それ以前の作品には先ほど書いたように送信されたメッセージに非常に受けが悪い部分がある、何を言っているかわからない部分があるとは思う。


『風の歌を聴け』に話を戻すと、この作品は作中の「鼠」が「僕」の誕生日であり、クリスマスイブに毎年送ってくる本を僕たちが読んでいるという構造になっている。今ではそれほど目新しくはないし、お洒落でもないかもしれないけれどとても面白い仕掛けになっている。そしてこの「鼠」という男がとても興味深い人物で、彼は、『風の歌を聴け』を含めた、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』のいわゆる「鼠三部作」に登場している。一説には、『ノルウェイの森』にも登場しているのではないかとも言われている。


鼠は登場した時点で「なにか」に負けている。彼はいったい何をそんなに絶望しているのだろうと不思議に思うわけだが、それが作中第31章で、ある手がかりが与えられることになる。彼はおそらく学生運動の活動家であったのではないかと思う(作品の時間の流れをを見ると矛盾はあるのだが)。そしてそれには彼の「家」に問題があった。その矛盾を抱えながら鼠は活動していたのだろう。そして彼は敗れた。敗れた人間には何も残らない。彼は「ジェイズバー」で飲んだくれることになる。そんな彼が自分の心境を語る場面が第31章なのだ。何もかもあらゆるものに意味を見いだせない、そして意味を見いだせないそのことに取り立てて不都合を感じていない主人公の「僕」に対し鼠は語るのだがこのバーでの会話が非常に興味深い。


僕らがある存在と対峙するとしよう。その存在がある程度の大きさ、自分に見合った相手であるならばいいが、それを遥かに凌駕する大きさ、とてつもない大きさの存在だったとする。そうすると僕らはその存在の概観さえもつかみ取ることができないのだ。その巨大な存在の本質を明らかにすべくその抽象性をなんとか引き出そうとするがそれができない。その結果、僕らに見えてくるものはその存在のあくまで表面の具象性でしかないのだ。その巨大な存在の一部分をこと細かく描写することしかできない。それが僕らの限界なのだと。


だから鼠は諦める、そして自分にとってなんらかの自分が啓発されていくような文章を書いていきたいと決意する。彼は戦いに敗れて目的を失った。その代わりに今度は自分のために作品を書こうと考え、そして毎年「僕」に本を書いて寄越すようになる。


この、『風の歌を聴け』には、その時代を生きてきた人間たちの人生の、意識の断片が書かれている。僕、鼠、小指のない女、DJ、病気と闘っている少女、レコードを貸してくれた女、ジェイ・・・。そんな人々が抱えている社会に対する大きな、そして漠然としたあの当時の問題を春樹は「ずれ」と「逆接」という手法を使って(まだこの作品の時点ではシンプルにすぎるが)、巧みに描き出していると思う。この作品の驚くべきところは会話がかみ合っているところがまったくといっていいほどないところだ。しかし、それは春樹の企みであることは確かであろう。それが意識的なのか無意識的なのかはわからないのだが。そして加藤典洋が、『村上春樹 イエローページ』で書いているように、もしかしたら鼠は異世界にいるのかもしれない。


この作品の評価すべきところは、後半部であって前半部はそのための準備された無意味な軽さでしかないように僕は思う。特に第28章で突然街について話し出す。ここから加速度的に物語のエンジンの回転数が上がっていく。登場人物たちの抱えている不安や悲しみの叫びといったものが露わにされていく。この点をナルシシズムなのだといったらそうなのだろうと思うのだが、それをナルシシズムというだけで終わらせることができないような物語構造を春樹は前半部で準備していると思う。この作品はナルシスに浸らなくても、感傷的にならなくても少なくとも作家の処女作としては抜群によくできていると思う。確かに、世界との関わりに関しては、特に政治性においては、無関心の立場を取っているのだが彼らがその時代を生きていたのだという息吹を感じることができる。それは言えるように思う。


最後に作家の資質について付け加えておきたい。作家というものは文章を書ければいいというものではないと僕は考える。あくまで僕の理想とする作家像である。それは教養人でなけらばならない、あらゆるジャンルを網羅する広い文化的な知識を持ったものであることが理想とされるだろう。現代日本の教育制度で高い偏差値を取っているとか(もちろん低ければなにかと問題はあると思うが)、特に国語の成績がよかった、文章を書くのが得意だったということでは全然ない。まず第一に必要とされるのはそれが常人を遥かに超えた文化を自分のうちに抱えていること、それを開陳すべくその手段として文章を書いているのだということだと思うのだ。そのようなものの名前を挙げれば夏目漱石や谷崎潤一郎などがあげられると思う。僕の定義に当てはまる現代の作家はあまりに少ないと思う。学校でしっかり勉強してきて努力を重ねていい文章を書けるようになった、というものではないというのが僕の考えだ。


文学を芸術なのだと考えるのならば、才能のない人間はいくら努力しても優れたアートをつくることはない。つくれるのだ、特に小説というジャンルにおいては、という考えを持っている人がいるかもしれないが、それは芸術性というものを排除した上での小説というものだと思う。それならば書けると思う。そのことは村上春樹がすでに証明している、彼はこつこつとただひたすら努力してきたのだということを、『職業としての小説家』に書いている。ただ彼はそういうスタンスを取りながらも少なくない才能を持っていたように思うが。


この、『風の歌を聴け』は言葉でなにかを表現することの難しさ、ほぼ不可能であるということを書いていると思う。それを「書かない」という方法論でなんとか「書く」ことができないだろうかと悪戦苦闘してきた、それは春樹がこの処女作から現在にいたるまで通底しているテーマだと僕は思う。


最近、『村上春樹は、むずかしい』という本を加藤典洋が出した。久しぶりの加藤典洋の村上春樹論ではないだろうか。僕も買ったのだがまだ読んではいない。春樹を加藤典洋のように肯定する人もいるが、一方で柄谷行人や渡部直己のように否定する人もいる。といっても後者のここ最近の作品に対する評価はあまり読んだことがないので、もしかしたらもう評価の対象にはなっていないという可能性もあるのだが。


このような賛否両論のある春樹だが、僕は『1Q84』では何かひとつ乗り越えたなという印象を受けた。彼の作品のなかで溜まっていた澱のようなものがなにか昇華されたのではないだろうかと。しかし新しいステージへと向かうのかと思われた春樹だったが、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』ではあれ?と思った部分があり、話自体は面白かったのだがまだどのような評価をしたらよいのだろうかと僕は迷ってしまっていて未だに保留している。


ということで正月早々、『風の歌を聴け』と春樹の作品で始めたのだが、それは僕が春樹が基本的に好きだからだ。そのスタンスは変わらないだろうと思う。しかし他の春樹ファンと話す機会があるとかなり違った読み方をしているな・・・と不安を持ってしまうのだが。だが自分独自の読みができないのならば読まなくてもいいだろうということにもなるであろう。


ということで新年の初めは、『風の歌を聴け』であった。