さて、『日蝕』ですが、日野啓三の論評から見ていきますと、
日野啓三
「近代小説の正統(ルビ:オーソドックス)の道に自覚的に立とうとする作品として、(引用者中略)推す。気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白に、私は飽き始めている。」「意識的な書き言葉の格調を、最後まで担い通したのは見事である。」「矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者(ルビ:アンドロギュノス)は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。」
読んだ方ならわかると思いますが、近代小説の正統であることは疑いがないと思います。この作品のために1年を費やしたというだけあってさすがに考えられた作りになっています。日野のいう「気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白」というものがどういうものかは分からないですがその当時はそのような気分的なものがあったのでしょう。擬古文のようなものを使った文体を評価し、いわゆる三島由紀夫のロマン主義の系譜に連なる作家であるだろうことを平野との対談で示唆しています。平野は三島の秩序ある文章にシンパシーを感じていたようです。「矛盾した記述は矛盾のままに」は後で述べます。
対して、
石原慎太郎
「いろいろ基本的な疑義を感じぬ訳にはいかない。」「この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。」「浅薄なコマーシャリズムがこの作者を三島由紀夫の再来などと呼ばわるのは止めておいた方がいい。三島氏がこの作者と同じ年齢で書いた「仮面の告白」の冒頭の数行からしての、あの強烈な官能的予感はこの作品が決して備えぬものでしかない。」
まず擬古文かどうかというところに検討の余地があるように思います。石原の言う様に本作における文体が擬古文であるのならば石原の言うこともまんざら間違っていない、ということになると思います。三島由紀夫の再来と呼ばれることに対する三島の同世代人としての反発はあったように思います。『仮面の告白』と比較すると私見を述べると石原のいう官能的予感は比べるまでもなく三島のほうが圧倒的に上でしょう。ただ、僕が平野を擁護したいのは、三島がその作家としての特徴が早熟性にあり、『金閣寺』が頂点であったことに疑いはないと思います。『豊穣の海』はすかすかで様式美としての完全性はあると思いますが官能的予感というものはない。対して平野は今という地点から見ると彼は早熟型ではない。ある意味晩成型であるという予感がします。故に『日蝕』はその平野の出発点だと考えれば十分可能性に満ちた作品であったと言えるように思います。三島の再来というには言い過ぎの感はありますが、三島タイプの作家であることはこれは疑いの余地はないように思われます。
ということで続く。
次は平野の用いた文体は本当に擬古文なのか、について考えてみたいと思います。
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