2015年3月3日火曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その1

『日蝕』 平野啓一郎。


平野啓一郎というと1975年生まれで僕より一つしたです。
平野が芥川賞を受賞したときは読みましたね。
同世代が在学中に獲ったのだと。
その前に母校で同郷の藤沢周が獲っていたのですが平野にはそれとはまた別のなにやら焦りにも似た気分を感じました。



この『日蝕』については様々な意見があり、結局そのまま掘り下げられずに終わった感があります。
平野も新たな挑戦を新しい作品で繰り返していますしね。
しかし僕としてはこいつをどうにかしておかないと喉に小骨が引っかかった感じでどうにも気分がよくないのです。
ということで改めて読み返してみたのですが、どうやら明確なことは言えそうにありません。
そもそも簡単に言えたら文学としては失格ですよね。
ということで頭に引っかかったことを書きながら、この記事を読んだ誰かが読んでくれればいいなと思いつつ書きます。



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まず第一に平野のこの言葉をあげておきたいと思います。
「結局私は、芸術作品とはそうした合理的に解釈可能な部分が完全に組み尽くされた後に漸く始まるものだと思っている。作品は或る表現不可能な絶対的なものの表に現れている現象のようなものである。それは最終的には越えられねばならず、モティーフとはその現象を動かす一つの要素に過ぎない。」(「『日蝕』の為に」『モノローグ』)



「芸術作品とはそうした合理的に解釈可能な部分が完全に組み尽くされた後に漸く始まるものだと思っている。」の部分は同感ですね。ここまで到達してからこその文学でしょう。ということで解釈可能な部分を僕なりに考えてみたいと思います。まあ結局のところその「文体」と「神学と錬金術」になると思います。逆に疑問が残って読んでくれた皆さんを混乱させることにならなければいいのですが。そしてそれに敢えてサブカルチャーの要素も取り入れてみたいと思います。
その前に芥川賞選考委員の方々のコメントを。




肯定者と否定者のコメントをあげておきます。


日野啓三
「近代小説の正統(ルビ:オーソドックス)の道に自覚的に立とうとする作品として、(引用者中略)推す。気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白に、私は飽き始めている。」「意識的な書き言葉の格調を、最後まで担い通したのは見事である。」「矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者(ルビ:アンドロギュノス)は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。」



石原慎太郎
「いろいろ基本的な疑義を感じぬ訳にはいかない。」「この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。」「浅薄なコマーシャリズムがこの作者を三島由紀夫の再来などと呼ばわるのは止めておいた方がいい。三島氏がこの作者と同じ年齢で書いた「仮面の告白」の冒頭の数行からしての、あの強烈な官能的予感はこの作品が決して備えぬものでしかない。」



日野啓三は後に平野啓一郎と対談をするなどかなり平野に好意的です。
対する石原慎太郎は否定的です。石原は何者に対しても否定的ですが彼の求めるサルトル的な人間はもう文学では出てこないと思います。ゆえに選考委員を辞められたのも致し方ないことだと思います。



ということで続く。

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