2017年7月19日水曜日

『和解』 志賀直哉

志賀直哉の『和解』について。


和解 (新潮文庫)
和解 (新潮文庫)志賀 直哉

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志賀直哉の『和解』について、作者志賀直哉とその作品の主人公順吉について考察する。
始めに志賀についてであるが、志賀は宮城県生まれであるが育ちは東京である。父は経済界で成功した人物である。志賀は生まれてから祖母のもとで育てられる。学習院を経て東大へ進学、白樺派の主流となる。この『和解』という作品を書いていた当時父とは不和であったが、作品を書き上げる途中に「和解」を成し遂げている。
 

『和解』の主人公順吉であるが、その生い立ちについて語られることはほとんどないし不和となった原因について語られるこ
ともない。作品を読んで作者との類似点と見受けられるのは父と不和であることである。作中では妻との結婚に反対されたこと、長女の死のときの父の振る舞い、麻布の父宅に住む祖父母に会いにいく際に父を気にしなくてはならない出来事などが語られるがそれが事実であるかどうかは定かではない。


 ここで私が視点として取り上げたいのは、講義で取り上げられた、志賀の不和の描き方である。講義では不和であった父と子の和解を、その原因を描きそこからの結果としての和解を描く、つまり因果関係を描くのではなく、上記順吉について書いたように感情のもつれの出来事を繰り返し反復することによっていわば習慣的なものとして出来上がった不和というものについて描いている。そこに講義では論理より感情を優先して描く日本文学的志賀直哉像というものを求めていたように思う。それが志賀文学を好むかどうかの分水嶺となるのではないかと話されていた。


 私は上に書いた論理より感情を優先したという『和解』での志賀という作家の語りの独自性からこの作品の主人公順吉の関係性について考察してみたい。『和解』を読んでいて私が思ったのはその感情のもつれの描き方の論理性の高さである。一般に志賀の文章は名文と呼ばれているようだが、私は読んでいてその文章の装飾のなさに違和感を持った。センテンスも短く、その短いセンテンスが連なってできる文章の束が志賀文学の文体の特徴ではないかと思った。志賀のこの文章を名文と呼ぶのならば文章に装飾を凝らすような尾崎紅葉などとは違い、自然主義を徹底したゆえに出来上がった文体が志賀の文体なのではないかと感じた。その文体は私から見るとミニマリズムを徹底した非常に論理的な文章で理知的である。そのような文章が連なることによって『和解』の登場人物の感情の機微が描かれているのではないだろうか。


 『和解』に出てくる人物は非常に理知的である。父は財界で名を上げた人物であり論理展開が理知的で、順吉もその語り口は論理明快である。義母も父と子のあいだを取り持つだけの頭の回転の良さを持っている。祖母も感情を表に出すような人間としては描かれていない。皆が論理的である。つまり彼らは高等な明治のエリートなのであると私は思う。そのような人物たちについてエピソードを通して不和が語られる。父との和解に至ってはそれが顕著に現れている。引用すると父の語りはこうである。「よろしい。それで?お前の云う意味はお祖母さんが御丈夫な内だけの話か、それとも永久にの心算で云っているのか」。このような言い方は感情を重視したものの言い方ではない。その後に続く順吉の科白もそうである。


 結論を言うと、彼らは明治という時代のエリートなのである。教育をしっかりと受けた人物であるからその家族の会話も論理的で理知的になる。エリートの家族の感情のもつれにほかならない。そのようなエリートが織り成す人情劇が当時の人々に受け入れられ志賀が大人気作家となったのだということに私は奇妙を感じる。だが、それは明らかに志賀直哉という作家が『和解』の順吉を含めその家族のような環境で育ったということを語っているのに等しいことが裏付けられると思う。なぜなら『和解』のような家族を書いている志賀自身も作中人物のような論理的、理知的な文体で作品を書いているからである。



 ゆえに登場人物である順吉の語りから順吉には志賀の人間性が投影されているということは十分言うことができるのではないかと思う。以上のことは私小説ではなく本格小説にも当てはまることではあるかもしれないが、私は『和解』を読んでいて、その影に志賀直哉という人物を強く感じた。それは本格小説では可能とされるだろうロラン・バルトのテクスト論のような「作者の死」を拒否する作品の「私小説性」というものが現れているのだと考えたいと思った。

2017年6月7日水曜日

ポストモダン

ポストモダンとはなんのことなのかもうわからない世代がいるという。


僕個人の解釈としては、モダン(近代)の次の価値観を探し求めた時代がポストモダンの時代だった。それは日本にとってニューアカの時代だったろうが、僕にとっては1990年代に触れたドゥルーズ、フーコーの思想だった。


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僕が高校生当時、紀伊國屋書店でたまたま見かけたのが中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ』シリーズ。中学生のときに吉本隆明を読んでいたがまったくわけがわからない馬鹿な学生だった僕にも中沢氏の本は読みやすく中身も目から鱗だった。


まあそれはいいとして、ニューアカの名残と大学時代に触れたドゥルーズとフーコー。これが決定的に僕の思想傾向を決めたといっていい。ポストモダンに触れる前に戦後の文学状況について少し触れたい。


戦後日本の文学は大江健三郎や石原慎太郎、三島由紀夫などがセンセーショナルな作品を発表した。内向の世代と言われる人たちも批判にさらされながらも独自の視線で作品を発表した。安部公房の『箱男』は思想的に読んでも面白い。その後時代は進んで1970年代を迎える。そこに断絶がある。1970年代のある時期から日本の文学には決して無視できない断絶がある。1980年代になるとそれはもう揺り戻しが効かない事態になっていたと僕は思っている。1970年代以降の文化しか知らない日本人が現れたことにより日本はある意味変わった=終わったと言っても良いだろう。


僕はそのことに直感でなんとなく気づいていたのだが、日本文学の歴史を勉強することでそれが間違いでないことに気づいた。本物の作品が消えた。文学だけでなく、映画、絵画、彫刻、建築、あらゆるものから消えた。日本は1970年代から新しい国として生まれ変わったかのように自分たちの歴史を忘れた。それは日本人の習性が消えたわけではない。歴史が消えたのだ。


ドゥルーズが『アンチ・オイディプス』で目指したものは既存の哲学体系、ヘーゲル的哲学体系へのアンチであった、それはもちろんフロイトのエディプスの三角形へのアンチでもある、がそれが日本人にとってはもはや跡形も残らず10年代を迎えている。千葉雅也氏や國分功一郎氏、東浩紀氏などポストモダン思想の後継者的な方々の本が売れていることに光を見たいが実際自分が生活していてポストモダンを感じることなどもはや皆無だ。


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ドゥルーズが描いたもののひとつにエディプスの三角形の批判、スキゾへの逃走がある。今の若い人たち、それに限らず馬鹿な政治家も平気で発言するが、でさえも自分たちの既存の社会的役割を演じることに違和感を感じていない、いやむしろ進んで演じようとしているようにさえ見える。父であること、母であること、子であることに満足しようとしている。学校で良い成績を取ること、いい大学に入ること、いい会社に入ること、いい社員であること。男らしくあること、女らしくあること、先生であること、生徒であること。


ドゥルーズはこのような傾向を神経症的と言ったが、まさに神経症に進んでなろうとしている。人びとが感じる不安をその社会的役割を演じる=権威と同化することにより安心を与えてくれるのだ。そこにポストモダンが目指した現状を改革しようという意志はもはやない。みなが○○らしさを求め、他者に○○らしくあれ、と強制する。まさにモダンへと還っていく退行現象が起きていると僕には見える。


ゆとり世代に対する批判もあったが僕はゆとり世代を否定的には見ていない。彼らは確かに僕の世代より学習にかける時間は少なく知識量も少ないだろう。しかし、ゆとり世代はオルタナティブとして手にいれたものがあるはずなのだ。それを有効に使う、彼らの能力を引き出すことができない上の世代に問題があるのだ。そして一度舵を切ったものをまた戻そうとする。今の学生はまた詰め込みに戻る傾向があるようだが彼らに少なくとも僕の世代と同じだけの知識を吸収する力はない。戻るにはおそらく20年ほどはかかるだろう。


勘違いしないでほしいのは詰め込み教育がよいと言っているのではないということだ。別に勉強などする人はするししない人はしないのだ。むしろ一方的に上から過度に詰め込まれた人間はその後まったく伸びない。それゆえにゆとり教育という発想があったと僕は思っている。僕はポリシーとして自分をその社会的に求められた役割とは別のイメージを与えようとしている。それが奇異に映っているかもしれないが、それが社会の硬直性を打破する、改革することにつながるのだと思っている。


2017年現在、ポストモダンは消えた。あの時代の思想が一過性のものだったのかと考える向きもあるだろうが、僕はそう思わない。あの時代、僕が影響を受けたドゥルーズやフーコーは確かに真実を語っていた。暗黒の中世の時代からルネッサンスの時代を迎えたとき、例えばマキアベリの政治哲学は受け入れがたいものに映っただろう。しかしそれが人間性の政治哲学であったことは間違いない。その人間の時代がドゥルーズのスキゾ概念によって終りを迎えようとしていた。フーコーのいう人間の終焉。


あのときの熱狂。少なくとも知を大衆が手に入れたというあの感覚は偽物ではあるまい。あの時代を生きたものとしてポストモダンが空白の時代だったと言われるわけにはいかない、強くそう思うのだ。

2017年6月3日土曜日

症候と読むことの差

『現代思想』に掲載された、樫村さんの論文「ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読むとドゥルーズの問題点がクリアに示されていて自分のドゥルーズ理解の視野を広めてくれる。96年に発表されたもののようだが、東浩紀さんの『存在論的、郵便的』、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』でも扱われている。


しかし、僕はこの論文を読んでドゥルーズが間違っているとは思わないのである。ニーチェの永遠回帰を病的症候として読むか、それとも隠喩として読むかということは重要であるとは感じない。ラカンの『盗まれた手紙』からドゥルーズとラカンに共通する詐術を見出す点もなるほどと思うのだが、それにより僕のなかでドゥルーズの評価が変わることはない。ただ、本当にこの樫村さんの論文は読んでいて刺激されるし、96年当時を考えるとあの状況でここまで批判的に書けているというのは驚異的だと思う。このあと宇野邦一さんの本が出たりするわけだけど宇野さんの本は読んでいてそれほど論理的に詰められたものとは感じなかった。哲学的というよりむしろ文学的といったほうがいいように思う。ただ、宇野さんの本には文学的アプローチでなければ捉えられないドゥルーズの核心に触れていたように思う。習慣、記憶、そしておそらく言葉の問題。この点を深化させていくと樫村さんの論文とは違う地平が現れてくるように思う。


で、この「ドゥルーズのどこが間違っているのか?」のなかで僕がちょっとブログ記事として取り上げてみたいのは、この論文の是非ではなく、ニーチェの永遠回帰の解釈部分だ。ニーチェについて書かれているものを読むとまずそもそもニーチェはいったいどこまで病んでいたのかということで評価がわかれるように思う。この樫村さんの論文もニーチェの症状は実体的なものであって決して隠喩ではない(それゆえドゥルーズがハイデガーと結合させたのは間違っている)と書いていると思う。他にルー・ザロメとの恋愛により精神を病んだということに重点を置いているものや母と妹のヒステリーの影響をあげている人もいる。そして梅毒の影響の問題などもある。しかしどうだろう。僕はニーチェにそのような身体性を感じていないのだ。直感でしかないのだがニーチェの著作を読んでいて僕はそれを感じない。僕自身が重度の精神的危機に陥った経験があるからなのだが、それゆえ僕の身体性に関わることなので猶の事説得力はないだろうが、どう考えても精神に異常をきたした状態であの文章を書くことは不可能ではないだろうかという疑問を感じざるを得ない。ニーチェの文章の特異さについて書いておられる方もいるが、精神の異常をきたしているのならあの程度の文体で終わるものではない。言いすぎかもしれないが精神に異常をきたしてあの程度の文体でしか書けなかったのならばニーチェという人間の知性と感性は所詮その程度のものだったのだと切り捨ててもいいのではないだろうか(もちろん僕はそう思わないのでニーチェを読んでいるわけだが)。


樫村さんの論文のセクション1で取り上げられているニーチェの永遠回帰(論文では「永劫回帰」である。)について少し考えてみたいと思う。樫村さんはニーチェの現場とドゥルーズの理論について以下のように書いている。

「ニーチェの偽装する力、差異と強度の現場には、あらゆる不幸と興奮が渦巻いているのに、ドゥルーズ(Dz)の即時的差異には、抽象化された整合的理論にふさわしい、穏便な幸福の気配こそが支配的だからである。」

ニーチェの現場とドゥルーズの思想は場が違う。ニーチェのそれは真理=譫妄=病の発生現場である。つまりそこには病の人としたのニーチェがあり、彼が病んでいたからこそ永遠回帰を始めた思想が形成されたと考えているのだろう。もちろんそこには「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての思想であると明記しているわけではあるが。対してドゥルーズは読む人であると言っている。彼は穏健である。ニーチェが実体として感じていたものを彼は読むことで思想としている。彼の病の収集癖がそうさせているのだとも言う。果たしてカフカにおいて『変身』のザムザは症候であるのだが、ドゥルーズにとっては隠喩であるのだろうか。ここに樫村さんはニーチェとドゥルーズに決定的な差があると主張しているのだろう。


僕はこの樫村さんの主張に異論があるわけではない。ニーチェが、

「これは一般に分裂病者が、(本質的に想像的なものー幻想の欠損に由来する)認識ー行動上の困難を、「理性的」推論で補おうとして、ますます混乱に陥る(世界と身体の自明性が崩れる)ことに対応するが・・・」

とあるように分裂病者の症候を表していることはありうるのかもしれない。それにより現実=実体に触れ、混乱をきたし同一律が解体し破壊的支持関係が発動したというのも言い過ぎではないだろう。むしろここに樫村さんの言うような永遠回帰の現れを見ることができるとも思う。


だが、ドゥルーズの考える永遠回帰はまったく別の平面を描いていると言えないだろうか。彼の哲学はニーチェの影響を強く受けているがむろんそれだけではないのは明らかであろう。スピノザの一元論、プルーストの習慣、記憶、そして言葉の問題を考慮に入れただけでもニーチェの哲学とは違う平面で考えなければならないことは自明であろう。確かに隠喩、病の収集癖と言われるものはあるとしてもそれはニーチェの強度とハイデガーの差異を連結するときに不都合が生じているだけで、ドゥルーズの哲学体系、樫村さんが言うようにヘーゲルの『精神現象学』に匹敵する哲学体系の構築に齟齬をきたすような問題であっただろうか。


ニーチェの存在論は精神病特有のものであるかもしれないが、ドゥルーズの存在論は存在そのものを問うている限りそこに問題は生じないのではないだろうか。主体/非主体(存在)の問題はあるだろうが、ニーチェが病にせよなんにせよ同一律から差異に存在論的に迫ったのに対し、ドゥルーズは哲学体系から存在論に迫った。そこには方法論の違いはあるかもしれないがドゥルーズはニーチェを継承して存在論に迫ったということができるように思われる。


余談だが、この樫村さんの論文にはおそらくクロソフスキーの影響があるように思われる記述がある。僕はクロソフスキーについては不勉強で、なおかつ精神分析、倒錯についても書かれているため理解不足でここでなにか意見を述べることはできない、そして記述が長いので引用することもできないのだが、敢えて書かせてもらうと、それは象徴の世界で起こるものであり反復脅迫を悪の要素とし、それにより主体は切り刻まれるという。その至高の真理を永遠回帰としている、というように読める。しかしここでさらに、快感原則に反するものである死への意志を悪とするのでは留まらず、そこに倒錯を持ち込むことにより悪(悪魔)の書き換えをおこない、主体の外在化が起きるとされている。果たして永遠回帰は無害化され、善悪の彼岸が訪れる、とある。事態はそれほど単純ではないようで樫村さんも「実際は遥かに複雑なもの」と書かれている。


精神分析の視点からもう少し詳細な記述があってもよかった気はするし、さらに言えばニーチェの症状をもっと明確に示すことはできるように思うのだが、僕としてはニーチェはパラノとスキゾを行ったり来たりしていたように思う、ここでは立ち入らないでおく。

2017年1月18日水曜日

『こころ』 夏目漱石

二つの孤峰ーー近代的自我・他者・金銭ーー
夏目漱石『こころ』


1二つの孤峰
  ・漱石と鴎外 明治文学のなかで高い峰が二つそびえ立っている。
   いずれの流派、主義に属することがない。「自然主義の藤村、花袋」などと呼ぶことはできない。
  
  ・しかしながらその時々に隆盛を誇っていた文芸思潮の影響は受けている。二人は群れることなく独自の文学を作り上げていった。
  
  ・今まではほぼ時代順に見てきたが、漱石と鴎外は文学史にくくれないため、この二人だけは時代の流れから離れ個人について書いていく。

2夏目漱石の生涯
  ①生没年 慶応3(1867)~大正5(1916)
   ・紅露逍鴎 明治をほぼ全部生き切った明治文学の巨匠。
    彼らと漱石は同時代だが名前は入っていない。
   
   ・漱石の作品史 『猫』明治38~『明暗』大正5
    長い期間活動していたわけではない。そのため紅露逍鴎には入っていない。しかし今我々が読むと紅葉などよりずっと文学的貢献をしてきたと評価できる。
 
   ・鴎外は5年早く生まれ7年遅く死んだ。
    芥川は明治25~昭和2年。
  
  ②複雑な家庭環境
   ・江戸生まれ。夏目金之助が本名。
    夏目家に生まれ里子に出される。また実家に戻る。(塩原姓のまま実家に戻る。落ち着かない生活を送った。
   
   ・幼少期の影響かものごとを考え込んでしまうタイプで一種沈鬱なところがあった。それが作品にも影響しものごとの根底を問う文学になった。
  
  ③英国留学
   ・二松学舎で漢学を勉強。その後に英文学を学ぶ。
    明治33~36にイギリス留学。正岡子規が亡くなったという報を受けて帰国。
   
   ・漱石にとって英国留学は苦しいものだったが、鴎外にとってドイツ留学は楽しいものだった。この点は対比される。
  
   ・英国で漱石が頭がおかしくなったのではないかという噂が流れる。それだけ緊張しながら考えていたということ。英国では日本のやり方となにもかも違う。異国の状況に大変なショックを受ける。
  
   ・日本とは何か。ヨーロッパとは何か。個人主義とは何か。近代とはどういうものなのか。
  
   ・自分とは何かは自分以外のものに触れてみないとわからない。日本人は自分たちが背が低いと知らなかった。他者と比べて初めて自分がわかる。違うものに触れながら、我々とはいったい何なのかと問い始めていった。
  
  ④すぐれた先生
   ・漱石の周りには若い人が集まった。漱石は話し好き。父親としては癇癪持ちだったが青年にはいい先生だった。
  
   ・門弟 寺田寅彦、鈴木美重吉、小宮豊隆、森田草平、野上豊一郎、安部能成、芥川龍之介
  
  ⑤『こころ』の問うもの
   ・人間と人間というのは必ず衝突するものである。人間には他者が理解できない。お金は人間の悪を引き出すものである。近代に生きる我々は新しい時代の我々自身の生き方をまだ見つけ出せていないのではないか。漱石の作品には必ず深刻な問題が現れている。

 
 3時代背景
  ①大正3年
   ・『こころ』の発表された年。晩年の作といえる。明治39年の花袋の『蒲団』以降私小説が主流となっていた。白樺派も含め私小説が権威をふるっていた時代に漱石は『こころ』を書いた。
 
   ・『こころ』は私小説とは呼びがたい。漱石は私小説とはなれ合わなかった。それゆえの孤峰。
 
  ②自然主義との違い
   Ⅰ表現上の問題
   ・違いはいくらでもある。自然主義の作家は自分たちの表現の仕方を平面描写と自称した。あるがままを淡々と描いていくということである。
   
   ・花袋の『一兵卒』は平面描写。主人公は脚気で死ぬ。その死んでいく様子を淡々と描き出した。観察して描き出す自然主義の手法。
 
   ・藤村の『破戒』『新生』もあるがままを淡々と描く平面描写。
 
   ・漱石は平面描写とは少し違う。『こころ』は読んでみると探偵小説っぽい。先生の謎。死をほのめかす。読者は興味を持つ。これは新聞小説だったからということもある。表現上の様々な工夫を自然主義とは別の仕方でしている。
 
   Ⅱ内面の重視・理想という反省
   ・自然主義は「無理想・無解決」。生き方としての理想、人間はどのように生きていくべきかという問いかけはない。『一兵卒』も無解決。問いかけは出てこない。『新生』も姪が妊娠するがただ書いているだけ。反省はない。志賀直哉も生き方への反省はない。
 
   ・漱石の作品には問いかけがあった。理想がある。人間はどのように生きていくことが本当なのか。人間にとって自我はどういうものなのか。
  
   ・中の1 大学を卒業した(今の博士号を取るより偉い)私が田舎に帰る。喜んでいる父が私には馬鹿に見える。卒業証書をうまく飾ることができずコロンとひっくり返る。知識をありがたがることを少し見下す視線の描写。父の心を馬鹿にしたことを反省する気持ち。根本的に考えていこうとする鋭い批判性がある。
 
   Ⅲ社会・国家・時代という視点
   ・自然主義は個人の悲惨を描くことはできる。
    『一兵卒』 個人を描いているが戦争の是非の意識はない。
    『破戒』 苦しんでいく様。差別、社会構造の問題意識がない。天皇誕生日の日にも楽しむことができなかったという描写があるが、ヒエラルキーの頂点(天皇)に対する批判はない。
    社会性を欠いているのが日本的自然主義。
 
   ・漱石 近代とは何か。自分の生きている時代は前の時代とどう違うのか。
 
   ・上の14 明治は自由・独立・己とに満ちた時代である。
    封建時代とは明らかに違うという意識がある。
 
   ・大正3年 『私の個人主義』
    今の時代にも通用する問題意識を持っていた。恐ろしい驚くべき洞察。今の時代も解決しない問題意識を見抜いていた。

 
  4『こころ』論
   非常に面白い小説。細かく読んでいくとものすごく追究すべき問題が出てくる。またおかしなところも出てくる。
 
   ①構成について
   ・成立したときの事情。
    朝日新聞連載 1914(大正3) 4・20~8・11
    重要。構成上の工夫。表現上の工夫。
 
   ・当初の『こころ』は短編集『心』をつくろうと試みていた。しかし、第一編「先生の遺書」が長すぎて断念する。岩波で出版する際に、上・中・下にして出版された。
 
   ②構成上の破綻
   Ⅰ中途半端
    おかしいところ。私の父はどうなったか。中の最後で危篤。私は先生のところに戻る。親父がどうなったかわからない。また先生の遺書を読みながら私がどうなったかもわからない。空白。
 
   Ⅱ作中の矛盾
   ・先生から私、遺書を受け取る。
   「下」と同じ長さ。400字詰め原稿用紙200枚。「中」の16で懐に差し込んだとある。厚くて差し込めない。漱石には書を書くと長くなる癖があった。
 
   ・手紙の数 「上」の9 箱根からの絵葉書。日光から紅葉を封じ込めた封書。「上」の22 帰省中もらった手紙は2通。
   遺書を含めて3通のはず。矛盾がある。
 
   ・手紙の矛盾についてある研究者。帰省中にもらった手紙と遺書は先生から。紅葉の封書は先生の奥さんから。
 
   ・死にそうな父を置いて東京へ向かった。奥さんのところへ向かったのではないか。
 
   ・先生が奥さんを墓参りに連れて行ったか。
   「上」の6 連れて行ったことはない。
   「下」の51 連れて行った。
   長く書いているうちに漱石が忘れたという解釈。1回目は連れて行かれたという解釈も。
 
   ③先生はなぜ自裁したのか
   ・乃木の殉死。我々が生きているのはおかしいのではないかと考えた。←おかしい。先生は世捨て人。引っかかる。
 
   ・プリント1P 丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」
    
   ・松本寛「『こころ論』ーー<自分の世界>と<他人の世界>のはざまでーー」非常にいい文章。ひとつひとつ丹念に書かれている。
   
   ・この講義ではなぜ自裁したのかは話さない。自分で考える。
   
   ④『浮雲』と
   プリント9P
   ・『こころ』と『浮雲』は非常に似た作品。
    『浮雲』は失敗作。善玉悪玉がはっきりしていて相対化されていない。『こころ』とは違う。先生は善悪の矛盾を抱えている。
     
   ・2作とも母子家庭のうちの娘。主人公が入り込んでくる。関係ができそうなところで闖入者が出てくる。本田昇とK。
   
   ・図から言えることは、父がいなくなっているのが近代の社会の問題だということ。近代以降、強い力を持つ中心がなくなった。それは若い人たち、女性たちにとって悪いことばかりではないが、そこに近代の苦しみ(父の不在)を見ることができる。
   
   ⑤深淵としての他者
   ・図2 『こころ』の仕組み。
    読み手
     先生、先生の奥さん、奥さんの若い頃、K、叔父さん、義母はすべて私という語り手を通じて見ることができるもの。私というフィルターを通さなくては見ることができない。
   
   ・先生はKのことを理解していないんじゃないか。私が語った範囲でだけ読者は理解する。私を通してしかアクセスできない。先生の証言を通じてしかKを理解できない。
   
   ・叔父さんは本当に悪人なのか。先生は許していない。果たしてどうなのか。実際はそんな人じゃなかったかもしれない。先生のフィルターを通した叔父さん像。
   
   ・奥さんは先生とKの関係を知らなかったのだろうか。奥さんは知っていた可能性がある。先生と奥さんのあいだにも深淵がある。
   
   ・先生の遺書 事実をそのまま語っているのか。先生の側から見たものが書かれている可能性。嘘が書いてある可能性もある。
   
   ・お互いに理解することができない。他者と他者の物語。理解することのできない他者同士の物語。
   
   ・理解しがたい他者同士の物語。近代を生きる我々の問題。理解も共感もできない他者と他者がつながっていかなくてはならないという現代的課題。テロの恐怖=他者と他者との関係。漱石は非常に優れた文学者であった。

2017年1月9日月曜日

『蒲団』 田山花袋

*ポメラで書いています。

『蒲団』 田山花袋

もう一方の自然主義。私小説。

島崎藤村と並ぶもう一方の牽引役として名前があがる田山花袋。
彼は私小説をどのように展開していったのか。

1.田山花袋について
 ①生涯と作品
  ・館林に生まれる。明治4~昭和5年(1871~1930)。
   一葉、藤村と同じ頃に生まれ、藤村より前に没した。
   外国文学をよく吸収している。この時代は文学、思想をそれなりに吸収できる時代だった。
  
  ・館林藩の侍の子として生まれた。当時の侍は警察官や軍人になるものが多かった。花袋の父は警視庁に勤め西南戦争で死んでいる。

  ・足利、東京で奉公。英語、ヨーロッパ文学を勉強する。将来は軍人か政治家になろうと思っていた。しかし段々文学に興味を持つようになり東京に出てくる。文学に生きていこうと決意。柳田国男と知り合う。

  ・明治22年に尾崎紅葉を訪ねる。直接の指導は受けなかったが作家としてデビューする。硯友会のメンバーに。文学界ともつながりを持つ。

  ・明治30年。国木田独歩、柳田国男(松岡国男)、宮崎湖処子と「抒情詩」作品集(詩集)を出版。このころ花袋は硯友社と関わりを持ちながらもロマン主義的傾向を持っていた。

  ・博文館に就職。雑誌の編集をしながらゾラ、フローベールら自然主義文学を紹介。これは花袋の功績である。

  ・明治35年『重右衛門の最後』
   明治37年『露骨なる描写』←日本の自然主義の始まりの表現。
         日露戦争に従軍。
   明治40年『蒲団』
   明治41年『一兵卒』
         他、『生』『妻』『線』3部作。
    *明治37~40年のあいだに挟まるのが藤村の『破戒』。

  ②花袋と藤村
  ・日本の文学史 ロマン主義 → 自然主義
               詩   →  小説
    花袋は自らの身をもって体現した。他に国木田、藤村。
    花袋は当時重要な位置を占めていた硯友社と文学界とつきあいがあった。重要な人物たちとつきあいを持っていた。

  ・明治37『露骨なる描写』→39『破戒』→40『蒲団』→41『春』

  ・二人の関係 先行する花袋、それを追いかける藤村。花袋が先行していたのは外国文学を知っていたから。

  ・尾崎紅葉が亡くなると、花袋はキラキラした(内容のない)文体ではなく露骨なる描写をしなくてはならないと主張する。自然主義をリードする。しかし自然主義の一番始めの作品は藤村の『破戒』。

  ・花袋は器用ではない。藤村は器用。花袋が自然主義の傾向を示すとそれをうまいことやるのが藤村。

  ・花袋、『破戒』が出て先を越されたという焦り。花袋、『蒲団』を出す。新しい自然主義の傾向を示す。大変な衝撃をもって迎えられた。藤村は『春』を出す。社会性は希薄+フィクション=私小説の時代へ。

  ・花袋のほうが文章が下手。スケール小さいが果たした役割は大きい。吉田精一からの評価が高い。



 2自然主義とは
  
 ①二つの自然主義
  
  Ⅰ『重右衛門の最後』『破戒』『一兵卒』『田舎教師』
  ・これらの作品は社会的問題を織り込んであるフィクション。ある環境のなかに置かれたときに人間と社会はどのような化学反応を示すのか。ヨーロッパの自然主義に近い。
 
  ・『一兵卒』花袋の従軍記者のときの体験が生きている。だが体験がそのまま書かれているわけではない。¬=私小説。私小説ではとどまらないもの。正統的な自然主義の形。

  Ⅱ『蒲団』『春』ほか
  ・たくさんある。大正時代ずっと続いていく。どのようにして生まれたのか。藤村が大きくリードした。花袋、友だちに負けた焦り、いらだち。

  ・藤村は文壇のスターに。そこで乾坤一擲『蒲団』を出す。
   主人公のところに女子大生くらいの女性。主人公横恋慕。女弟子を帰す。蒲団をかぶって泣く。今も気持ち悪いが明治の当時はもっと気持ち悪かった。大変な衝撃を与えた。

  ・『蒲団』の成功で花袋は勝ち。大正文学の主流に。ヨーロッパの自然主義とは違う。正統的ではない。

  ・あんパン、カレーパンは日本的なもの。私小説も日本的なものをつくりあげた。これがダメだということはない。

  ・そもそも自然主義が持っていた問題点が誤解されて輸入された。

  ・科学
   =本質の追求
   =客観的観察
   という2つの本質。
   日本のなかに広く昔からとらえられていたものではない。ヨーロッパから入ってきた。自然科学としてきちんと入ってきたのはこの時代から。

  ・『破戒』『一兵卒』はヨーロッパの自然主義に近い。『蒲団』『春』は客観的観察に偏る。本質の追求が弱くなっている。自分を中心にして半径10メートル以内のことしか書かない。自分の貧困がどんな社会的背景を持っているかには頭がいかない。

  ・『蒲団』芳子をどう思っていたかーー書いている。
       人間にとって性欲はどういうものかーー書かれていない。

  ・私小説が日本文学の主流に。

  ②日本的自然主義の問題ーー『露骨なる描写』

  Ⅰ私小説への偏り
  ・日本的な自然主義へ=私小説へ。
   この自然主義はロマン主義との関係でとらえられていない。前回の川副先生の文章を読む。ヨーロッパはロマン主義に対する反発から生まれた。しかし『露骨なる描写』を読むとロマン主義との対立でとらえられていない。硯友社の美文との関係でとらえられているという極めて日本的な事情がある。

  ・花袋、美文を書くのが上手くない。劣等感を持っている。自然主義を書くなら美文じゃないんだ。日本的事情見いだせる。

  ・「見たまま 聞いたまま 考えたまま」を書いてみたにすぎない。

  ・本質の追究より客観的観察に重点を置く。ずれちゃっている。

  ・硯友社の文章は「見たまま 聞いたまま 考えたまま」を美しい文章に構成しなくてはならなかった。

  ・『露骨なる描写』をもとに日本の自然主義全体が進んでいく。客観的観察へ進んでいく=私小説。そのまま書いちゃう。

  Ⅱ文体の問題
  ・この時代にわれわれの書き言葉が完成した。
   美文は否定。その後の日本語は知らなくても読めるようになる。日本文学の伝統であった様々な修辞法なくなった。見立て、本歌取りなど教養を必要とするものを振り捨てる。伝統と切れてしまった。

 ③その後の私小説
  ・藤村、花袋
   徳田秋声 ←硯友社の流れから
   岩野泡鳴

  ・1葛西善蔵 ←早稲田系貧乏くさい。私小説、大正時代の主流に

  ・それ以外の私小説の流れ
    白樺派 志賀直哉 ←貧乏くさくない。心境小説。

  ・2プロレタリア文学

  ・3モダニズム文学

  三派鼎立ーー三竦み 大正末~昭和始め

 ④なぜ私小説に偏るのか
  ・花袋、なるべくスキャンダラスな素材。乾坤一擲。
   なぜそうなってしまう?
    個々の作家の特性
     藤村、ロマン主義より自然主義。
     日本文学は伝統的に壮大な想像力を作り出すことが得意ではない。日本の美術は些細なものから美を取り出すことは得意。五七五七七という定型に些細な日常を芸術として作り上げていく。『指輪物語』のようなスケールの大きな作品は苦手。
     
     ストイックなものが好き。私小説はまじめに不健康な生活をする。一生懸命破滅する。自分を追いつめていく。この点も私小説と合致するのでは。

 ⑤主題の価値について
  ・私小説みたいなことばかり書いている。酒に溺れ妻に逃げられる。社会的問題を書いていない。それに対してプロレタリア文学がけちをつける。
  
  ・その小説がある主題を持っている。社会的主題が含まれているかどうかは作品の価値とは別。主題については等価である。日本の自然主義より西洋の自然主義が価値が上というわけではない(川鍋)。


 3『蒲団』論ーー事実か否か
  ・私小説の始まり。
  
  ①「女教師」
  ・橋本佳の非常に重要な指摘。『蒲団』に類似した事件がある。「見たまま 聞いたまま 考えたまま」ではないでしょう。

  ②芳子のモデルの証言
  ・美知代の手紙がある。恨みつらみが書かれている。花袋の反応は『蒲団』に出ていない。事実そのままを書いたとは言い難い。

  ③情景描写
  ・9月は10月になった。(プリントの傍線部分)ラストシーン。情景描写がそのまま主人公の心理描写になっている。←花袋は文章下手だったから。見たまま、聞いたままとは言い難い。

  ・傍線 言葉の選び方が新聞の記事のような文章とは違う。
   ラスト 薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた。←本当に風が吹暴れていたか?晴れていたかもしれない。このような場面がラストにふさわしいから花袋は書いたのでは。その通りの情景があったとは考えにくい。
 
  ・『蒲団』は私小説であるが事実をそのまま写したとは考えにくい。文章表現である以上、事実をそのまま書くことはできないのではないか。書き写して文章にすることはできないのではないか。事実そのままを書くことの不可能性。

2016年11月24日木曜日

『偉業』 ウラジミール・ナボコフ 光文社古典新訳文庫

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフロシア語:Владимир Владимирович Набоков 発音 [vlɐˈdʲimʲɪr nɐˈbokəf] ( 聞く)ヴラヂーミル・ヴラヂーミラヴィチュ・ナボーカフ英語:Vladimir Vladimirovich Nabokov [nəˈbɔːkəf, ˈnæbəˌkɔːf, -ˌkɒf], 1899年4月22日ユリウス暦4月10日) - 1977年7月2日)は、帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパアメリカで活動した作家詩人。少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』で世界的に有名になる。昆虫 (鱗翅目) 学者チェス・プロブレム作家でもある。アメリカ文学史上では、亡命文学の代表格の一人である。ウラジミールまたはラジーミル・ナボコフと表記されることもある。


彼が1932年に書いた"Подвиг (Glory)" が1974年に渥美昭夫により『青春』というタイトルで翻訳された。2016年に新訳として光文社古典新訳文庫から『偉業』として出版された。ナボコフはロシア語版、英語版をともに書いており渥美訳の『青春』は”Glory"から、貝澤訳は"Подвиг "からの訳である。僕は貝澤訳を読んだ。以下は貝澤訳について書く。


偉業 (光文社古典新訳文庫)
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”言葉の魔術師”として知られるナボコフであるが僕は高校時代に『ロリータ』を読んだだけであった。手元にある『ロリータ』の巻末を見てみると平成18年11月1日発行とある。つまり僕の高校時代には新潮文庫はいまだ若島正訳の『ロリータ』を出版していなかったようである。おそらく大久保康雄訳で読んだと思われる。最近この若島訳の『ロリータ』を読んでみたがこの作品に対して抱いていたイメージとかなり違った。この記事では『偉業』について書くためこれ以上『ロリータ』には触れないでおく。


ナボコフに言われることとして、要点だけを言って真ん中を抜いてくるという独特の文体の仕組み、彼独特の面白い比喩が挙げられるようだ。言葉遊びも非常に多く使用しその語彙が豊富で沼野允義氏は『賜物』を翻訳したときに辞書を引いても出てこないロシア語がたくさん使われていて自分のロシア語の能力に絶望したというようなことを書いている。対して英語版の作品もほとんどがナボコフ自身の手によるものだが英語版は英語圏に受け入れやすいよう、少々荒っぽい言い方をすれば商品化しやすいように書き換えられた部分が多いようだ。『カメラ・オブスクーラ』は大幅な改変が行われている。


ナボコフ作品の特徴としてジョイスやプルーストの影響が強いであろうことが『偉業』を読んでも推測できる。ナボコフが少なくともベルクソンを熱心に読んでいたという事実はあるようで彼の時間と空間に対する考えはベルクソン的であることも読んでいて感じられる点である。またイメージが様々な事象を移っていくことも指摘されており例えば『カメラ・オブスクーラ』では「赤」というイメージが木苺の赤からマグダの肌の色へと移り最後にはクレッチマーの血の色へと移っていく。イメージとして使われる素材として爬虫類が多いことも知られている。ナボコフは昆虫学者でもある。円城塔氏の『道化師の蝶』がナボコフからインスパイアされたものであることは沼野氏と円城氏の対談から知っていた。


『偉業』を読んだ感想を大雑把に始めに書くと、僕が今まで読んだ作品の中でも異常に細部にこだわりを持つ作品であったという印象である。もちろん『偉業』はナボコフ作品のなかではそのような傾向が特に顕著だと言えない部分があるらしい。しかし一見ナボコフの自伝的作品と名指され作品自体の評価はそれほど高くない『偉業』であるが僕はこの作品をナボコフの自伝的作品とは読んでいないし読み終わったときは優れた作品に出会ったときの感動を覚えた。この作品を読んで思ったのは言葉というものはコンテクストに組み込まれて初めてその本来の意味を確定できるということであった。ナボコフは作品において一見細部にこだわるあまり作品全体のテーマ性のようなもの(それがあるのだとしたら)とは関わりのない別の次元で様々な事象を独特の比喩表現を通して書いていると思われるのだが、言葉といういわば「言の葉っぱ」を喩えるならオセロゲームの優れた打ち手のように素人には一見無意味な一手を数々と繰り出す。その一手一手がゲームが終盤に近づくにつれてパチンパチンと自分の色へと裏返り最後は黒(もしくは白)のイメージで盤上が埋まるのである。それがナボコフの作品を読んでいて感じることだ。極めて具象的でかつ論理的に作品の細部は書かれている、そしてそのひとつひとつの事象が独特のイメージを喚起させるのだが、そのイメージ群が作品を読み終えたときに大きなイメージとして読み手を圧倒する、それが『偉業』を読み終わったときに僕が感じたものであった。


ナボコフは『偉業』の主人公のマルティンについて最初から「冒険のための冒険」しか目指しておらず、「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」だけであると1966年にインタビューを受けたときに述べている。そのような造形をしたマルティンをナボコフはアイロニカルに語っているのか、それとも読者は逆に肯定的にとらえていよいものか、そのことを念頭に置きながら『偉業』について考えてみたいと思う。


『偉業』は第50章で終わっているが第11章が欠けている。ナボコフという作家を考えるとなにか意図をもってしていることは推測できるのだがその意味するところはわからなかった。主人公マルティン・エーデルワイス、その苗字は「高貴な白」という意味を持つ。彼の本作品を通じてのイメージを表しているかもしれない。マルティンの祖父はスイス人で1860年代に妻インドリコフと結婚しセルゲイ・ロベルトヴィチをもうける。マルティンの父である。彼は医者で妻ソフィア・ドミトリエヴナとのあいだにマルティンをもうけるが後に妻と子と別居する。一家はロシアに住んでいたがソフィアとマルティンはヤルタへと移る。ソフィアはロシア的なものを嫌い英国的なものを好んだ。マルティンが母から受けた影響は強い。彼は子供時代から豊かな感受性を持ち合わせていて(幾分神経症的と思われるほどの)、幼少時代自分のベッドの上にかかっていた祖母が書いた水彩画に執着する。その水彩画は風景画で、森林が描かれておりその森の奥へと曲がりくねった小径が続いている。この水彩画の風景がこの作品にとって決定的な意味を持つ。母は幼かったマルティンに寝るときに英語の本を読んでくれるのだがその物語に水彩画と同じ森の小径が出てくるのだ。そのことに母が気づきませんようにとマルティンは今まで味わったことのない胸の高鳴りを感じることになる。この高鳴りの感情がマルティンの人生を以降縛りつけることになる。


ナボコフの文体の特徴として長いシンタックスが挙げられると思うが、それは僕も初めて読んでいった際は苦労されられた。しかし繰り返し読むことによって少なくとも日本語訳については訳者の努力の賜物であると思うのだがそれが心地よく感じられるのだ。僕が普段小説、特に凡庸と言っていいかもしれない小説を読むときに感じる焦りのようなものは僕の心の内に現れることはなく、ナボコフのおそらく知性を感じさせる文章を楽しむことができたようだ。この『偉業』に関してはどこのページを捲ってもそこに書かれている文章は非常に知的で情感に溢れた描写で書かれておりまさに1文字1文字が丁寧に練られて書かれていると実感することができる。話が逸れたので作品内容についての記述に戻る。


ナボコフは作品内のある出来事への布石を作品中の読者の記憶から薄れるほど前に置いていたりする。例えばマルティンが愈々架空の国ズーアランドへと旅立つことになる場面が終盤に描かれるがその前に何度もその動機となり得たであろう出来事を綴っている。『偉業』は約390頁に渡る作品だがその最初の記述は22頁の父とのエピソードから書かれている。この布石の打ち方は上に挙げたようにナボコフがオセロゲームの手を考えるように前もってほとんど関連がないかのように書かれている。同じく母のエピソードも書かれておりマルティンの子供時代がズーアランドへの旅を決意させるような若者に育てたことが暗に意味されているのだろう。他にもキーワードとして書いておきたいのは「Fragile」「グルジア人はアイスクリームを食べない」など。さらに付け加えることになるが、この作品中ではロシア、スイス、フランス、イギリスの様々な都市、そしてその経路(船中、列車内)が舞台となるがこのことはナボコフが旅する作家であったということも重要であるし、それら舞台となった国々の文化が色濃く反映されて作中人物が描かれているためにその人物たちの性格の特徴という点も注意深く読んでいかなければ読者は見誤る恐れがあるだろうということも書いておかねばなるまい。


マルティンは夢と現実を言ったり来たりして自分の記憶を改ざんする癖があるがこれは精神分析的に言えば反復強迫に近いものがあるように思う。病的とまではいかないがマルティンの他人と比べて極めて神経質な性格を物語る癖として作品を読む際には記憶に残しておいてよいだろう。


『偉業』という作品の前半部で特に印象深く本作品で重要な役割を果たしたと思われる出来事にギリシアへ向かう船中でアーラという25歳の婦人とマルティンが出会う場面である。マルティンにとってアーラは大人の女性で初めて恋に落ちる女性となる。彼女は既婚者であり詩人でもある。彼女とのファーストコンタクトは船中での「紫水晶の」という言葉であるが、彼女は次のような詞を書いている。

「紫のシルクの上、帝政風の天幕のもと、
あの人は私のすべてを慰めた、吸血鬼の口で吸いつきながら、
でも明日にはもう二人とも死ぬさだめ、身を焦がして灰になり、
麗しき二人のからだは、砂地へと散り混じる」

不倫の詩であろう。アーラは人気の詩人で貴婦人たちはこの詩を懸命に書き留めるのに夢中になるほどだ。そんなアーラとの出会いにマルティンは心踊らされる。母はアーラのことを悪魔主義と呼びながらもマルティンが恋をしたことには肯定的なようでアーラを受け入れようとする素振りも見せる。アーラについてのマルティンの印象は77頁から2頁ほどかけて詳細に描写されている。この描写は注目すべきであろう。後にこのアーラの印象が「黒い彫像」を見たときに鮮明に浮かんでくるのだ。マルティンにとってアーラは「赤」の存在。アーラのつけていたルビーの指輪は血の象徴であり、この象徴がイメージとして最終盤まで物語に付き纏ってくるのだ。「紫水晶の」をうまく感じ取れないマルティンを子ども扱いするアーラであったが彼女がマルティンの最初の女となる。


イギリスではジラーノフ家の人々と懇意になる。ジラーノフ氏(ミハイル・プラトーノヴィチ)、その妻のオリガ・パーヴロヴナ、その長女ネリー、次女ソーニャ、オリガの妹エレーナ、その娘イリーナである。この中でソーニャはまたこの物語で非常に重要な役割を果たす女性である。登場したこの章は第13章だが以降最終章までソーニャとマルティンとの共通の友人ダーウィンの三角関係に似たものが続く。イリーナは知的障害を持っているのだが彼女も物語で感情をつま弾く役割を果たしているように思う。イリーナについてはなぜこの物語にイリーナのような女性が必要であったのかはよく考えてみる必要がある。ここから第21章に至るまでマルティンのイギリスの特にケンブリッジ大学での出来事が書かれている。ここまで読んだ段階では作品のタイトルとなった「偉業」という言葉は出てこないのもあるし、旧訳の『青春』のほうが適切なタイトルであるかもしれないと考えてしまう人も多いと考える。


この作品で読み手が力を入れて読まねばならないのは第22章、第23章であろう。マルティンはスイスに戻っている。そこでマルティンが険しい岩棚を歩く場面がある。マルティンは後にもう1度岩棚を歩く。マルティンは岩棚の下の奈落の誘惑と闘うがその奈落の奥底には点のように小さな白いホテルが見える。マルティンの傍の岩壁を黒ずくめの蝶々が彼を挑発するかのように昇っていく。この岩棚の体験はマルティンにとって非常に大きなものだったことが暗示されるのだがその後イギリスに戻るとソーニャの姉ネリーとその夫の死去の報せを聞くことになる。ジラーノフ家は喪に服しており、マルティンの体験はジラーノフ家の喪に霞んでいく。それはジラーノフ氏へのマルティンのお悔やみの言葉が洗面所のドア越しに行われることにより強調される。ここで22章は終わるのだがナボコフはさらに次の23章でもジラーノフ家の喪を書くことによりマルティンの体験の意味を書き換えていく。ヨゴレヴィチという場違いな男が訪問しジラーノフ家は益々暗さを深めていく。その後マルティンがチェーホフの短篇集を持って部屋に戻り「犬をつれた奥さん」(示唆的である)を読んでいるとにわかに自分の理由のない不安の原因を悟る。いま自分のいる部屋が亡くなったネリーの部屋だったのだ。するとソーニャが部屋を訪れる。ソーニャはマルティンのいるベッドに乗ってマルティンに話しかけるのだがマルティンはソーニャの訪問の理由に気づかない。彼はスイスの岩棚で奈落の誘惑に勝った自分の話をしてしまう。ソーニャは自分の内面の不安の話をしながらマルティンの毛布にもぐり込もうとする。マルティンはソーニャを抱きしめ唇を頬に押し当てる。ソーニャは両の頬を濡らし部屋を出て行ってしまう。彼女はネリーとこの部屋で明け方まで話していたことを思い出しマルティンを訪問しただけだったのだ。マルティンはあくる日の朝ジラーノフ氏と浴室で対面してしまい彼のばかばかしさはさらに強調され、ソーニャからは「クレチン(低能)」と名指されることになる。この2章で書かれたことが決定的にマルティンのズーアランドへの旅と関わっていることは間違いないであろう。


『偉業』は約390頁の作品だがその中間、ほぼ半ばの第24章の最後198頁において(時間的には作品の結末が書かれた数年後に)マルティンの母ソフィアが「周囲に聞こえるほどのうめき声をあげた」という記述がある。このうめき声がこの作品でのひとつの象徴となっていることもまた疑い得ないだろう。最終盤393頁に次のような記述がある。

「ダーウィンは頬を拭って、ソーニャのほうは見ないようにしていたが、感じていたのは英国人が感じ得る最高に恐ろしい衝動――叫びたいという衝動だった。」

この「叫び」を象徴する人物が作中に存在する。それが上記で少し触れたソーニャの従妹イリーナだ。イリーナは知的障害を持った女性である。しかしここでもナボコフは彼女をただの象徴としては扱っていない。彼女の持つ叫びの原因となった複雑な事情は第36章で語られている。イリーナは14歳のとき暖房客車に母親と乗っていた際にチンピラに絡まれ、別の列車では父親がならず者の兵士たちに窓から捨てられてしまうという事件に遭遇した。その後イリーナはチフスを患い一命はとりとめたが言葉が喋れなくなり唸り声しかあげられなくなったのだった。この叫びや叫びの前の最高に恐ろしい衝動が『偉業』という作品においては感情が盛り上がる場面で何度も登場する。


最後に色のイメージについて少し書いておきたい。マルティンの苗字であるエーデルワイスはスイスの国花で「高貴な白」という意味だということは書いた。この作品で度々登場する色は多い。緑、黒、光や闇など注目すべき色はたくさんあるが白と対比されるものとして赤をあげておきたい。赤をイメージするものとして最初に明確なかたちで現れたのはアーラだ。アーラの指輪の真っ赤なルビー。それは罪、そして血=死をイメージさせるものなのだ。赤はその後煙草の火など至る所でこの作品のイメージをかたづくり、最後にダーウィンのパイプの火となり現れる。そのとき我々はマルティンの結末を物語の筋からでなくイメージから想像することになるのである。彼は自分の生来の「白」のイメージに背き「赤」のイメージに惹かれそれを追い求めた男だったと言えるだろう。


『偉業』はマルティンに焦点を当てて考えた場合、彼のズーアランドへの「冒険のための冒険」でありまさにナボコフ自身が言うように「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」作品であると言うことができる。この作品を読んでマルティンに対してどのような思いを抱くかは人それぞれであろうが僕はマルティンのなしたことは「偉業」であると思う。この作品をまとめることは困難であると感じるので何が原因でなにがこのような結果をもたらしたかを書くことは不毛であろう。ただナボコフの言葉を僕の言葉で言い換えさせてもらうならばマルティンは空の器を取りに行くという偉業に身を投じたのだと言えるのではないだろうか。まだまだ書くべきことはあるのだがこれ以上は冗長になると考えとりあえずここで終わりとしようと思う。また書くべき必要があると感じたならば追記として書きたいと考えている。


*メモとして。
樅の木の森を通る小径。何もかもがじめじめして霞んでいる。靄の奥にある建物。あの絵の中の景色のように謎めいている。黒い小径、濁った水、湿気を含んだ風のなかに灯る火。パイプの火がマルティンの行方を暗示している。

2016年8月31日水曜日

『破戒』 島崎藤村

『破戒』 島崎藤村


一方の自然主義ーー島崎藤村『破戒』


 ・『破戒』を通じて日本の自然主義の一方を考えていきます。差別用語が使われる場合もありますが部落差別を助長するような意図はありませんのでご容赦ください。


1島崎藤村の生涯

①生涯と作品

 ・島崎藤村。明治5年(1873)~昭和18年(1943)。本名島崎春樹。樋口一葉と同一年に生まれ、太平洋戦争の最中に没しました。木曽の庄屋の名家の生まれです。明治14年に兄と一緒に勉学のために上京します。父は厳しい人でしたが精神を病み、座敷牢で亡くなっています。明治学院普通部本科に入学しキリスト教の洗礼を受けます。その後明治女学校の英語の教師となります。そのとき女生徒に恋心を抱きますが打ち明けられないまま辞職し、関西へ行きます。島崎藤村は追い詰められると逃げてしまう(旅に出る)という傾向を持つ人だったようです。

 ・明治26年に『文学界』に参加。北村透谷と共に創刊し、藤村は旅先から寄稿しています。北村透谷は藤村の小説によく出てきます。『破戒』での猪子連太郎は透谷と重ね合わせているのではないかと言われています。

 ・明治29年に東北学院に勤めます。そのとき『若菜集』を発表。「はつ恋」の詩が有名です。その後小諸で教師をしそのとき結婚。『落葉集』を発表します。「椰子の実」で有名です。藤村は『落葉集』を書きながら自然主義的な小説を書こうと考えていたようです。

 ・明治38年に東京へと戻ってきます。明治39年に『破戒』を発表。この『破戒』以前/以降で藤村の作品は浪漫主義的/自然主義的と分けることができます。『破戒』は後者で非常に救いのない暗い小説となっています。この『破戒』が藤村の1度目の転身と言われています。


破戒 (新潮文庫)
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 ・『破戒』は文字通り戒めを破るということです。明治の時代の酷い差別が書かれています。その救いようのない現実を暴き出したところに『破戒』の自然主義的特徴が現れています。

 ・明治41年に私小説『春』を発表。『春』は非常に重要な作品です。『春』以降、藤村は私小説の立場に立ちます。この作品には藤村自身や北村透谷が出てきます。『春』以降が2度目の転身と言われます。

 ・明治43年に糟糠の妻が四女を出産後死去。藤村は切り詰めた生活の中で3人の子を失っていました。その辛い思いもあってか手伝いに来ていた兄の娘と関係を持ち妊娠させてしまいます。藤村はフランスへ渡ります。

 ・大正5年に帰国。大正7年に姪との関係を書いた『新生』を発表。この作品は様々に議論されました。その後『夜明け前』を発表。『東方の門』を執筆途中で永眠します。


②そのポイント

 ・島崎藤村の評価は落ち着いてきているといいます。2点。
  1.放浪すること。この放浪が重要な点で、放浪先の経験を文学に昇華しているのです。明治14年~明治38年までは、関西、仙台、小諸と放浪しました。
  2.ロマン主義から自然主義へ。浪漫主義の代表作は『若菜集』『落梅集』で詩的形式で発表しています。自然主義の作品は『破戒』『春』など小説という形式で発表しています。
  島崎藤村は日本の文学史全体の転回を体現した文学者だと言っていいでしょう。


2文学史的観点から

①藤村の浪漫主義
 
 ・浪漫主義時代の作品は叙情性が非常に豊かです。国木田独歩とも違う感傷的なものです。そこには恋愛感情と旅愁が書かれています。感傷的と言ってもそれは、私とは何か、どうやって生きていけばよいのか、といった深刻な問いを投げかけ、それを自分の内面を持て余してしまうようなものなのです。

 ・ずっと封建的だった社会で恋愛感情の開放を書く事は、特に男性が書くことは「男のくせに」と言われ旧弊な社会との対立は必然でした。そのような社会的背景と照らして読む必要もあります。


②自然主義

 ⅰ自然主義とはなにか
  
  ・自然主義について川副国基は「藤村と自然主義」(『島崎藤村必携』 學燈社)で藤村の自然主義について書いていますが、その解釈は浪漫主義の戦う側面が過小評価されていると言います。国木田独歩の『武蔵野』のところで書いたように浪漫主義の延長が自然主義だと考えると浪漫主義の戦う側面はもっと重視されるべきであると思います。

  ・自然主義とはリアリズムの一つの形態です。現実にありそうなことを現実にありそうに書いてあるか、それによりリアリズムであるかどうかを分けることができます。

  ・明治39年に島崎藤村の『破戒』、明治40年に田山花袋の『蒲団』により日本の自然主義は確立されます。その後の大正文壇の主流は藤村と花袋となります。

 
  ・前にも書いたように自然主義の「自然」は自然科学の自然です。自然科学の方法を文学に応用し社会と人間の関係を冷徹に描き出すという主張、手法が自然主義です。もっとわかりやすく言うと、小説という形式を借りた一種の思考実験とも言えます。ある社会を想定してそこに人間を放り込むと人間はどうなるのか。自然科学のフラスコでの実験を思い浮かべてもらってもいいと思います。

  ・ヨーロッパの自然主義の特徴は、
   1.必ず社会性が織り込まれています。社会と人間の関係を読み解くことが重要だからです。
   2.フィクションであること。この点が日本の自然主義と違う点です。
   坪内逍遥は『小説神髄』でリアリズムとは現実の人物を雛形にして登場人物を造形すると書いています。そのことが別様に解釈されたのではないかと窺われます。
   日本的な自然主義については後に田山花袋の『蒲団』を書く際に触れようと思いますがおおまかに言うと、1.社会性が希薄であること。2.フィクションではない実在の人物が登場すること=私小説が非常に多いということ。この2点に特徴があります。


 ⅱ文体の問題

  ・明治40年に書き言葉の原型が出来上がったことは以前にも触れました。つまり今我々の使っている言葉が自然主義の書き言葉だということです。

  ・ちなみに『破戒』には旧版と新版があります。旧版が発表されたときにその差別的な内容から色々な人たちの心を傷つけることになったため新版が出されました。別名『身を起こすまで』です。

  ・『破戒』はまだルビの振り方に多少の違和感を残していました。「社会」が「よのなか」であったり「思想」が「かんがえ」であったりしています。しかし現在我々が読むことに支障をきたすものではありません。口語としてできあがっていたと言って良いでしょう。同時代の国木田独歩も口語体という点で進んでいましたが藤村は国木田よりさらにちょっとだけ進んでいたと言えると思います。


 ⅲ社会性をはらんだ自然主義

  ・『破戒』はヨーロッパに自然主義にほぼ近いと言えます。第一に部落差別を問題にした点で社会性をはらんでいます。このことは後にプロレタリア文学の側から評価されました。社会性という点では私小説の元祖とも言える田山花袋も『蒲団』以前の『重右衛門の最後』『一兵卒』『田舎教師』などは稚拙ではありますがヨーロッパの自然主義に近かったと言えるでしょう。ただ花袋の場合はどうみてもプロレタリア文学ではありません。花袋に社会主義の思想は見つけられません。


 ⅳ『破戒』後の展開

  ・田山花袋の『蒲団』が私小説の始まりであることは上に書きました。花袋に対抗すべく藤村もそれに続き『春』以降私小説を発表していきます。ただし、『夜明け前』などは私小説の枠組みでとらえるべきではなく、スケールの大きなリアリズムととらえるべきでしょう。私小説で言われることに、半径10メートルの中だけを扱っている、という言い方がありますが『夜明け前』は当てはまりません。

 ・私小説というものはヨーロッパに自然主義の発想にはなかったものなのです。


3作品論

 ・『破戒』の旧版と新版は読み比べるとその当時の問題点というものが浮かび上がりますのでどちらも読んでおくべきではあるのですが、現在書店に並んでいるものは旧版です。

①余計者

 ・日本の近代文学、現代文学は余計者の文学です。その特徴として、主人公が社会の中で中心的な位置にいないこと、人とうまくやれなくて社会に受け入れられていないことが挙げられます。また、作家自身も社会の中枢で活躍した人物ではないこともあります。あえて余計者の位置に自分を置きながら自分の人生の真実を見失うまいとして生きていた人たちです。

 ・余計者が決して正しいというわけではありません。大正の私小説作家で有名な人物は太宰治でしょう。『破戒』も同じく余計者の文学です。主人公の丑松は頭脳は優秀ですが善良で気弱な人物です。社会からいわれのない差別、抑圧を受けています。こういった人物を主人公にすることにより個の側から社会の理不尽を照らし出していくのが余計者の文学だと言えるでしょう。

 ・弱い側から見ると強い者の横暴やインチキが見えてくるのです。『破戒』においては主人公の丑松だけでなく、丑松の尊敬する猪子も社会の理不尽と真正面から闘い死んでいく余計者として書かれています。猪子のモデルは北村透谷であろうと思われますので透谷のイメージを重ね合わせて読んでいくと面白いでしょう。


②『破戒』の諸問題

 ⅰ書き換え

  ・上に書いたように旧版と新版の書き換えの問題があります。藤村自身はたいして書き換えていないと言っていますが実際読んでみると大幅な書き換えがあったようです。被差別部落を指す言葉は書き換えられるか削除されたようです。

  ・さらに藤村自身の被差別部落への差別意識が地の文に出ていたようです。つまり藤村自身が自分の差別意識を相対化するところまで至らなかったということのようです。例えば血筋の問題を書いてある箇所には人種起源説を思わせるものがあると言います。人種起源説は当然明らかな誤りであるのですが藤村はそれを無意識にか書いてしまっているのです。その箇所は新版では撤回されました。

  ・撤回したことは評価できるとともに別の問題も生み出しました。差別意識は差別意識として語られるべきだという問題です。被差別者も差別意識を持っているし、差別意識が自分のアイデンティティになっているということもできるのではないかと言うこともできるからです。それならば藤村は撤回すべきではなかったのではということにもなります。これは非常に難しい問題であると思います。

 ・また、丑松の友だちが丑松を守ろうとする場面があります。そこで友だちは、穢多が追い出されたってなんだ、当たり前じゃないか、きみは穢多じゃないだろう、と書かれています。これが新版では書き換えられています。この場面はもう少し別の書き換えの仕方があったのではないかと言われているようです。旧版、新版を読み比べるときに注目しておきたい点です。

 ・そして最大の問題はその書き換えがあまりに単純に書き換えられたと思われるため物語の重要な要素が失われてしまったのではないかという点にあります。作品中で丑松が追い詰められていく様がピントがずれているように感じてしまうのです。このように書き換えられたことにより非常に難しい問題を抱えてしまうことになりました。


 ⅱ結末

  ・作品の最後に丑松が告白し土下座をする有名な場面があります。それも書き換えにより新版ではなぜ土下座をしているのかがよくわからなくなってしまっています。戒めを破った=破戒をしたことで学校へ行くことができなくなるのですが、その後丑松がどのように生活していったかが書かれていないのです。丑松はテキサスへと旅立つのですがそれが予定調和、ご都合主義に思えてしまいます。本来ならば破戒をした後の丑松の状況のほうが大変なのではないかと思われます。丑松がその後どのように生きていったかを書けなかったのは藤村の限界であったのだと言って良いのかもしれません。


 ⅲ以上のことから

  ・『破戒』は自然主義の始まりの小説であり、また社会的問題を真っ向から取り上げた初めての小説だと言えます。しかし、書き換えの問題や結末の問題など自然主義としては本質的な制約を持っていた小説とも言えます。この両方の点から『破戒』という作品を捉えることが必要であると言えましょう。