2015年3月5日木曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その3

平野が使った擬古文ですが、そもそも擬古文とはなんなのか。手元の三省堂新明解国語辞典によると、


【擬古】
(よき時代であるととらえられる)昔のスタイルをまねること。
【――文】
雅文や、上代の古文のスタイルに倣って作られた文語文。[狭義では、国学者や江戸時代の文人によって作られたものを指す]


【雅文】
[後代から見て典雅とされる文章の意]主として平安時代の仮名文。[広義では、擬古文を指す]


とあって堂々巡りしそうな感じですが、勉強をしっかりされてきた方なら高校時代の先生などからしっかりと教えてもらっていそうな気がします。残念ながら僕は真面目な生徒ではなかったので分かりませんが、擬古文として模範的に出されるものに森鴎外の『舞姫』があります。上の説明を見ると『舞姫』はどうみても雅文じゃないから擬古文じゃないだろう、と思われる方もいるとは思いますが、ここでともすけ的に解釈して結論を出します。



ずばり現代の言文一致体より前の日本語の文章(漢文を除く)は我々にとっておそらくすべてが古文であり、現代の作家は勿論我々がそれをまねた場合には擬古文となる。例えば鴎外の『舞姫』は明治のあの頃において二葉亭四迷の『浮雲』など言文一致で書かれた作品があるなかであえて文語文で書いたという意味ではその時代においても擬古文であった可能性もある。多分擬古文とは呼ばれず単に文語文であったとは思いますが。



もうひとつ問題となるのは平野が京都大学出身ということです。調べてみると京都大学の入試の二次試験には擬古文が出るらしく(今もどうかはわかりませんが、少なくとも平野の時代には出ていたようです)擬古文に対する平野の理解度というのは相当に高かっただろうと推察されます。これは京都大学出身者、もしくは京都大学の二次試験対策をしていた人に聞くしかありませんが残念ながら僕の周りにはいません。



さらに擬古文と言われることに対しての平野の意見を引用します。
「この小説の文体を評して、擬古文とする向きがあった。私はこれが甚だ不満である。慥かに私は、執筆に丁って、鴎外の史伝物あたりの文体を念頭に置いてはいた。が、別段、擬古文を書いたという積りはない。擬古文とは、抑々或る理想とすべき時代以降、現代に至るまでの言葉の変遷を否定する態度である。鴎外に範を採った擬古文と云うならば、彼以降の日本語の成熟は、顧ないと云う態度である。それが一個人の趣味の次元に止まるならば良い。だが私は、自分の書く小説が単なる趣味的なものに止まる事を欲せない。私は飽くまで、今日までに日本語が獲得して来た表現を踏まえた上で、鴎外的な文体を積極的に取り込んだと云うに過ぎない。事実、好むと好まざるとに拘らず、この小説の中には、明治期には看られなかったような表現が多く使用されている筈である。」(「『日蝕』の為に」『モノローグ』)



『日蝕』での平野の文章を見ればわかる通り擬古文というにしては拙い印象を受けます。これはもう平野文という造語で表現した方がいいかもしれません。基本的にルビを多用し、文法的にも現代文に則って書かれているように思います。ゆえに読みにくいということはないです。青空文庫の『舞姫』などは読むのに手間がかかりますからね。ということで平野は鴎外的に漢字表現にはこだわったけれどもそれを別にすれば現代文の手法で書いたといっていいと思います。石原慎太郎は擬古文と言いますがこれに対し平野が反発したということでしょうか。作者が作品を書き上げた後にこのような釈明をするというところに当時の平野の若さを感じるように思います。



ということで続く。
次は神学、特にトマス・アクィナスについて私見を述べたいと思います。

2 件のコメント:

  1. まあね、イシハラ氏が無知なんだと思いますよ、思うだけですけど。わたくしヒラノ氏の作品、一編たりとも読んでないので、なんともいえませんがねー。イシハラ氏のはちょびっと読んで、ああこりゃ(以下自粛)と思ったものですから…

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  2. コメントありがとうございます^^

    若かりし頃?の僕の平野啓一郎の『日蝕』レビューですが、ひとつ訂正させていただくと、鴎外が『舞姫』で使った文体はまさに平安期の雅文体でしたね。だから擬古文。
    ではなぜ擬古文を使ったかというと、吉本隆明に言わせると「言文一致」の流れのなかで、西洋的内面の告白と情景描写を両立させるための文体の強度が必要だったと。その強度を持っていたのが雅文体だったとの鴎外の判断ですね。
    対して、「言文一致」が要請されていない現在においてなにゆえ平野氏が擬古文を使う必要があるのかと。そこに石原氏のお冠があるのだと思いますが、読んだ僕から言わせると、平野氏の文体は擬古文ではない。平野文です。石原氏はちょっと読み誤ったかなと思います。

    石原氏消えましたね~。もう完全に過去の人。僕は石原氏の作品をほとんど読んだことがないのですが、ここまで書いてよかったのかな…なんか障碍者の女性をぼこぼこにする話だけ読んだ気がする。
    『日蝕』には永遠回帰のなかで生きる鞦韆乗りの子が現れていて、それが異様な不気味さを出していたという記憶があります。平野啓一郎、どうなのでしょうね。また読んでみるかな~。あんまりピンと来てないという部分はあります。三島由紀夫との共通性については本人があるといっているようだからあるのでしょうね。
    平野氏は少なくとも同世代人の僕にとっては22歳くらい?の段階ではかなり差をつけられてたなという印象があるのです。『日蝕』の衝撃というのはありました。

    それで、この『日蝕』レビューはその6まで続いたのですが、途中からアニメとか入れて脱線してよくわからないままさようなら、的な終わり方をしているのですが、個人的には気に入っているレビューなのですよ。だからコメントしてくれて嬉しかったです。師匠、ありがとう!

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