2016年5月10日火曜日

『金色夜叉』 尾崎紅葉

尾崎紅葉『金色夜叉』


今の時代の人はどうなのだろう。僕が子供のころにはまだ、『金色夜叉』と聞けばみんな知っていたような気がします。この回では、『金色夜叉』を中心に硯友社の残した功罪について考察します。


1.尾崎紅葉の生涯


  近世文学の継承者

 
  ・時代としては樋口一葉とかぶります。慶應3年~明治36年(1906年)没です。慶応3年は太陽暦なら1868年太陰暦なら1867年になります。どちらにしても江戸の最後です。

  ・紅葉は町人の出身で名は徳太郎と言いました。父は商売を廃業し、角彫りをしていましたが幇間として有名でした。幇間とは太鼓持ちのことで、客席で場を盛り上げる職業です。その父の仕事を紅葉は恥じていたそうです。
  
  ・紅葉は中学で山田美妙と親しくなります。同じ長屋に住んでいたそうです。紅葉は美妙、石橋思案らと明治18年(1885)に硯友社を結成します。明治18年というと坪内が、『小説神髄』を発表した頃です。硯友社は『我楽多文庫』を創刊。この、『我楽多文庫』は同人誌で始めは肉筆で回覧しただけのものでしたが、評判が高くなり活版印刷で一般にも売るようになりました。

  ・3年後に山田美妙が硯友社を離れます。美妙は言文一致においては二葉亭四迷より先んじていましたがスキャンダルで消えました。



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  ・紅葉は、『二人比丘尼色懺悔』(1889)を発表し読売新聞に入社。小説担当記者となります。明治24年(1891)には、泉鏡花、田山花袋、徳田秋声ら弟子が集まって来ます。この紅葉のもとに弟子たちが集まったということが硯友社の非常に重要なことであると思われます。鏡花は日本文学の異端として、花袋、秋声は後の私小説の大家でリアリズム小説を書いた人間です。このような人たちが入門してきたのだということは硯友社の問題点として挙げられるだろうと思われます。

  ・明治30年(1897)に、『金色夜叉』を書き始めています。1903年に休筆。後に胃癌で亡くなり未完で終わります。『金色夜叉』は紅葉の文学の集大成と言えます。江戸から続く近世文学を継承した作品と言えます。



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2.なぜ硯友社か


 ①硯友社とは

  ・硯友社は紅葉を中心とした文学ギルドです。つまり親方としての紅葉がおり、そのもとに弟子たちが集まります。紅葉は弟子たちの生活の面倒や指導をしてやります。弟子たちは紅葉のもとで世に出るのを窺うことになります。このことは紅葉が親分肌の人間で非常に面倒見がよかったことを示しています。弟子たちの指導をしながら仕事のあっせんもしてやったという記述が見られます。

  ・硯友社は読売新聞、博文館、春陽堂といったその当時のジャーナリズムを支配した一流の出版社、新聞社とのパイプがありました。硯友社はそれを背景に明治20年代~30年代の文壇を制覇するほどの勢いを持っていたのです。そしてそのような環境のもとで先の鏡花、花袋、秋声のような弟子たちが切磋琢磨しあいその能力を伸ばしていきました。

  ・しかし、明治20年代末になると川上眉山が硯友社と疎遠になるなど徐々にその結束が弱まっていったことも事実で、紅葉が亡くなったということが決定的に硯友社を衰退させ無くなることの直接の要因になりました。


 ②文学史の傍流に押しやられたかつての主流

  ⅰかつての主流

  ・硯友社は当時の一流でありジャーナリズムを制覇していました。文学において近世文学を受け継ぐ主流であったのです。出版部数においては二葉亭の、『浮雲』などまったく及ばないほど売れていました。

  ・「紅露逍鴎」という当時の文豪4人を準えられますが、今日の僕たちには今一つピンとこない、違和感を感じると思います。それは漱石が入っていないからですが、漱石はこの明治20年代当時はまだ名前を知られていないのです。明治38年に、『吾輩は猫である』、明治39年に、『坊っちゃん』が発表されます。時代がずれているのですね。ですのでこの当時は紅葉は無視することのできない立派な文学者でありました。

  ・では紅葉の文学とはいったいどのようなものだったのかというと、大衆文学、娯楽としての文学を紅葉は書き続けていました。他の3人はいわゆる純文学を書いていました。

  ・『金色夜叉』は非常によくできた娯楽小説で、それを紅葉はきわめて真面目に制作しているのです。真面目に大衆文学を書いていました。


  ⅱ傍流に押しやられた理由ーー文学史観の問題

  ・「紅露逍鴎」のなかで紅葉は今日、文学の主流としては扱われていません。なぜ傍流となってしまったのでしょう。理由はこの国の文学史観にあります。

  a.一般的な文学史

  ・奥野健男のテキスト、『日本文学史』も大まかにはそうなっていますし、この授業でもそうなっていますが、明治文学の主流を坪内逍遥、二葉亭四迷に求めると、その後に浪漫主義(樋口一葉、文学界)、その後に自然主義(明治40年、島崎藤村、田山花袋)ととらえられています。

  b.その史観

  ・この文学史観によると、その当時の大衆にどれだけ読まれたかということについてはあまり考慮されないという特徴があります。では何を前提としてこの文学史観はつくられたのか。それは次のようなことがあります。作者が強い必然性のもとに、私とは、社会とは、ということを追求すること、それは決して娯楽や遊びというものではない、文学とは真面目に探究するもの、という考えが前提にあったということです。そうなると、どうしても紅葉の硯友社文学をうまく史観の流れに組み込むことが難しくなります。

  c.その史観の問題点

  ・この史観に立つと、自我の真面目な追求ばかりに目が行くことになります。それにより大きな問題を見落としてしまうことになりました。文学は真面目な問いかけをするばかりではなく、「笑い・言葉遊び・ナンセンス」といった「人間」を楽しむことも人間存在の追求には必要だという問題です。現在の文学史観によれば文学はどうしても真面目なものだととらえられてしまいその点に目が行きにくくなったという問題点があると思われます。

  ・当時売れたという大衆的人気を追求しないで文学史がつくられてしまっています。どのような大衆文学が好まれたかということは、その時代の大衆の動向がわかる時代を表す一つの側面であります。例えば戦中、戦後に大衆に好まれた文学として中里介山の、『大菩薩峠』、吉川英治の、『宮本武蔵』などが挙げられます。

  ・一般的日本人が何を求めていたのかを明らかにすることができるのです。それがどのような理由で求められていたのか、そのようなことが考慮に入れられず現在の文学史観は語られてしまっています。


 ③硯友社の功罪

  ⅰその功績

  ・硯友社の功績は、多くの読者を楽しませたということです。真面目な研究者はそれを大したことではないと言います。「漫画みたいだ」「自我の追求とは関係のないものだ」などと。しかし、それは決して軽視されるべきではないものだと○○先生はおっしゃいます。

  ・紅葉は作品をつくるのに大変な努力をしていました。それが病気につながったと言えます。硯友社の『我楽多文庫』には小説を載せたいと持ってくる人はほとんどいなかったといいます。和歌、狂歌、俳句ばかりで、仕方がないので紅葉自らが小説を書いていました。現在の文学史の授業では文学というと小説を中心に語られますが、決して小説中心というわけではありませんでした。

  ・つまり『我楽多文庫』のようなものが主流をしめていたのだから、文学を小説中心とは違う方向に引っ張っていくこともできたのではないかと考えられます。小説中心ではない文学の可能性であり、それは近世までの伝統が切れなかった可能生であったということです。そのことについては奥野健男のテキストのP31にもあります。

  ・二葉亭で古典と切れてしまう。『我楽多文庫』は近世文学の影響を直接に受けていたのでまったく違った近代文学が出来上がった可能性があったということです。

  ・また硯友社の同人の一人、山田美妙の問題もあります。美妙の、『武蔵野』の文章は、『金色夜叉』とはまるで違います。後者の装飾で飾り付けた文章とは違って美妙のそれは二葉亭に近いです。美妙は明治18年の時点で試していたのです。二葉亭の、『浮雲』より2年早くです。

  ・硯友社の様々な人がその後重要な働きを演じます。泉鏡花の雅文、田山花袋、徳田秋声の自然主義は大正文学をしょって立つものでした。紅葉という親方=先生の焼き直しで終わらないということに紅葉とその弟子たちの優れたところがあります。

  ・泉鏡花のリアリズムでない文学、独自の美的世界を構築した作品世界。田山花袋、徳田秋声の自然主義、私小説の書き手としての文学の担い手としての役割。紅葉が弟子の才能を伸ばしていったということが硯友社の1番の功績と言えるでしょう。


  ⅱその罪過

  ・一方で硯友社の少し問題視しなくてはならないところもあります。

  a.テキストから

  ・奥野健男のテキストP31を見ます。テキストを見ると、紅葉は文学を遊び以上のものとは見ていなかったとあります。自我・社会の問題を真面目に探究はしませんでした。もし紅葉が自我と社会の問題を必然性をもって書かなくてはならないと気づいていたとしたらその豊かな物語性、大衆性をあわせもった真面目で面白い作品が生まれていたかもしれません。しかし、実際はそれ以上のものは生まれませんでした。

  b.その他

  ・紅葉が亡くなった後に、花袋は有名な評論、「露骨なる描写」により自然主義宣言をします。この自然主義宣言にはどのような問題があったのかというと、花袋の美文への反発があります。紅葉の残したようなごてごてした文章への反発です。キーンの、『日本文学史』によると、花袋は美文を苦手としていてその文壇の流れを自分の方へ持って来ようとした意図というものが書かれています。

  ・『金色夜叉』は飾りの多いごてごてした文章で書かれています。冒頭にダイヤモンドが出てくる場面がありますが非常にごてごてとして飾りの多い文章です。また、熱海でお宮を足蹴りする場面も今読んでみると笑ってしまうほどの文章となっています。

  ・民友社という結社がありました。国木田独歩と関わりの深い結社です。民友社は社会問題を取り扱っており、硯友社を否定していました。民友社の存在は文学そのものを否定するもの、真面目なものをも否定することになります。民友社は文学否定の流れをつくってしまいます。北村透谷はそれに対し、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と民友社を批判しました。透谷は硯友社も民友社も批判しました。


3.『金色夜叉』について

 娯楽の超大作

  ・『金色夜叉』は非常に面白い作品です。紅葉の文学全体に言えることですが、善悪正邪の心の内幕(人情)をうまく書いています。そのことについては紅葉は非常に真面目に追求しました。暑苦しいほどにこてこてに描いています。


 坪内逍遥と近世文学

  ・主人公の貫一は心が弱い。お宮に裏切られ高利貸し(かんばしくない職業)を生業とします。いかにも人間のやりそうなことです。この主人公の造形には逍遥の影響があるでしょう。しかし、根本のところに何があるかまでは突き刺さっていません。つまり描写が大変表面的なのです。女にふられ絶望のあまり高利貸しになる、その間の心の葛藤が描かれていないのです。

  ・よって娯楽以上の感銘は残らないのです。『金色夜叉』を読んで人生に影響を受けたという人はいないでしょう。紅葉の当時の作品は「写実派」と言われました。その対義語に理想派があります。現実の問題を「心の弱い人間」「醜い考え」「体を売る女」などで描きますがどれもオーバーなメロドラマにしか読めません。人情の根本の追求までには至っていないということができると思います。

  ・『金色夜叉』は近世文学から受け継いだものを色濃く残していますが、戯作の焼き直しとも取れてしまいます。近世文学に装飾を施しただけだと。配布プリントでは1,4,7,8が飾りの多い文章、5,6,9がプロットの問題を孕んでいます。プロットの問題は、偶然の出会いで物語が展開するという純文学では禁じ手である手法でそれは戯作、落語の展開と同じです。

  ・『金色夜叉』は厳しい目で見れば戯作の焼き直しと取られますが、肯定的に捉えた場合に、この作品は近世文学を受け継いでいる作品とも取れると思われます。