2015年7月10日金曜日

存在するのではなく発生する。

かなり前だが、某ブログにおいてデカルト主義についてちらっと書いたことがあったが、それに対して某ブロガーさんに現象学の立場からご指摘を頂いた。果たして主体とは何なのか?その問いに対して僕なりの答えというものは用意していたつもりであったが、現象学、実存主義に対する僕の勉強不足があったために今、さらなる迷いの森に入り込んでしまった感がある。


ただ言えるのは、僕はフランス現代思想を読んできたので、いやこの言い方は曖昧であろう、ドゥルーズ、ラカン、フーコーを少なくとも自分の思考の中心としてきたので、当然の帰結として主体に対して現象学的立場は取れるのだろうか?と少なからず思っている。と、不透明な言い方になるのはドゥルーズは確実にサルトルの影響を受けていると感じられるからだ。いくら素人の生兵法といえどもフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティの影響なしにドゥルーズを語ることは許されまい。




哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)
哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)ジル・ドゥルーズ 加賀野井 秀一

河出書房新社 2010-12-04
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上の本はドゥルーズの哲学者のアンソロジー本である。「哲学の教科書」とあるように、ドゥルーズの様々な哲学者についての全66篇のアンソロジーが収録されている。そして冒頭にドゥルーズの最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」が収録されている。


この本のなかで訳者である加賀野井秀一氏がドゥルーズについて簡潔にまとめた「はじめに――ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」が書かれている。そこでは加賀野井氏のドゥルーズに対するスケッチが書かれている。この文章は非常によく纏められていると個人的に思う。加賀野井氏のドゥルーズのスケッチを足がかりにして人間の主体について少し書いてみたいと思う。


ドゥルーズはその前期に数々の哲学者のアンソロジー本を出している。その後代表的作品、『差異と反復』、『意味の論理学』、後期(もしくは中期)にガタリとの共著、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を出版する、大雑把ではあるが。ドゥルーズの最後の論文は「内在性:1つの生・・・・・」というもので、1995年に『フィロゾフィー』誌に掲載されたものだ。この論文について加賀野井氏は「はじめに――・・・」でこう書いている。


「ドゥルーズはこの小論を、唐突に「超越論的領野とは何か」と問うことから始め、全体を「超越論的領野は内在面によって規定され、内在面は生によって規定される」という命題の変奏とした。彼は言う。「超越的なものは超越論的なものではない」。だがそれをフッサール的あるいはカント的な区別と混同してはなるまい。ドゥルーズにとっての超越論的領野とは、たとえば「非―主観的な意識の純粋な流れ」であり、「前反省的かつ非人称的な意識」であり、「自我のない意識の質的持続」である。これは明らかにサルトルだ。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p14~p15)


この引用からわかるように、ドゥルーズは最後の論文においてもサルトルを意識している。非人称的・絶対的・内在的な意識に帰せられる主観のない超越論的領野をサルトルは提示している。この意識と比較するとき主観や客観は「超越的なもの」であるということになる。


つまり本来ならば超越論的領野としてイメージされるべきはカントであろう。そしてフッサールであるかもしれない。しかし、ドゥルーズにおいては超越論的領野として意識されるのはサルトルであるというのだ。但し、ドゥルーズは歩を進めてベルクソンの概念を導入してはいるが。


さらに加賀野井氏は論を進めて、「内在性:1つの生・・・・・」の論文にあるとおり、「内在」について言及する。


「内在はそれ自身の内にのみあり、何らかのものの内にあったり、それに所属していたりすることはない。そして、内在がもはや自分以外のものへの内在でなくなる時にこそ、人は<内在面>について語ることができるようになる。」(同書p15)


この「内在」という表現が僕には非常に難しい。この内在については、デリダもドゥルーズと論じることがあったならば問題となるのは「内在性」をめぐるものであっただろうと言っている。『哲学とは何か』のなかでドゥルーズはこの「内在面」を「根源的な経験論」と言い換えている。


つまりは内在は主観に所属するものではないということではないか。主観に内在するものは内在ではない、内在のうちに内在がある、それは出来事である。つまり概念である限りでの可能的世界だけである。つまり内在面を語ることができるのは可能的世界の表現もしくは概念的人物としての他者だけであるということだろうか。この誰にも所属していない経験論とはいったい何か。


「つまるところこれは、<知覚の現象学>であるよりもむしろ<概念の内在学>とでも言うべきものとなる。あるいはまた、<生きられたものの現象学>ではなく<生きるものの存在論>と言っても構うまい。概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である。」(同書p16)


孫引きになるが、ドゥルーズの言葉を引用しよう。


「純粋な内在は、1つの生と呼ばれるであろうし、それ以外にはありえない。内在も生への内在ではない。何ものにも内在しない内在は、それ自体が生なのだ。生は内在の内在であり、絶対的内在であって、完全な力であり至福である」(同書p16)


つまり、ここから主体の持つ意味というものの手がかりを得られることになる。ドゥルーズにおいてはデカルトのいうコギトはない。ゆえにコギトのなかに内在云々ということはありえない。そのことは初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」でも書かれている。


論を急ぐのなら、ドゥルーズにおいてはカントのいう超越論的領野というものを肯定はする。しかしそこでドゥルーズがカントを批判していると思われるところは、その超越論的領野がアプリオリに「ある」ということだ。つまり超越論的領野の発生について考えることをカントはしていないということだ。


ドゥルーズの言う、「出来事」とは何か。ここでこの「出来事」に対する捉え方で参考にさせてもらったのは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』である。國分功一郎氏は同書p62で、「ライプニッツ自身が『述語』を『出来事』と同視している」と書いている。その記述を使わせてもらうならば出来事=述語でよいであろう。あらゆるものは出来事(述語)から発生する。そこでは主体を中心にはものを考えられない。その帰結として、発生の原因をどこに求めるのかということになる。それがドゥルーズが初期にこだわったヒュームの経験論へと続くというわけであろう。『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズは「経験論は出来事と他者しか知らない」と書いている。


さらにドゥルーズはガタリとの共同作業から主体への別の着想も得ていたのではないかと考える。ここでヒュームの経験論と接続できるかは僕の能力不足、勉強不足でわからないがガタリのラカン派精神分析からドゥルーズがなにがしかの新しい着想を得ていたのは『アンチ・オイディプス』という著作が存在していることからも明らかであろう。


主体について『アンチ・オイディプス』ではガタリとの共著であることから当然にラカンの理論が応用されているのだろうが(ガタリはラカン派の異端であるが)、そこではフロイトのエディプスコンプレックスが批判の的となっている。フロイトは無意識という偉大な発見をしたがそれをエディプスの三角形というギリシア悲劇の内的イメージに閉じ込めてしまった。ドゥルーズ=ガタリの言わせるところによれば、無意識とは世界であったように思う。ゆえに個の意識ではそれを垣間見ることはできない。この世界の実体を掴むことはなにものにもできない。世界と個をつなぐのはかの有名な概念「欲望する機械」であろう。内在面と噛み合うかどうかはこの欲望する機械が世界とうまく噛み合うかにかかっている。調子が狂えば人は神経症へと向かう。フロイトはエディプス理論によって、ドゥルーズ=ガタリのいうスキゾ経験を主体へと強制するが、ドゥルーズ=ガタリは主体からの逃走線を引く。逃走を助けるものとしてスキゾ分析がある。人間を主体にしない、スキゾという内在面の隙間へと逃走させる。


と、ここまで書いてきたがどうもまとまる気配がないのでこの続き、または修正は次の機会にしたいと思う。しかし、ドゥルーズがサルトルを強烈に意識していた、そして内在という問題こそが鍵であるということ、その内在とうまく接続できなかったが、主体中心の発想からの脱却、出来事=述語に発生の原因を問うているということは確かであろう。


最後に、ヒュームについてドゥルーズの考えが「ベルクソン流の物言いをすれば」という断りつきで注釈されている箇所を引用しておきたい。


「要するに主体とは、初めのうちは1つの刻印であり、諸原理によって残された1つの印象であるが、その印象を利用することのできる1つの機械へと徐々に変わってゆく印象なのである。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p23)


実際書いている時点で既に十数年前の知識のうろ覚えを無理やり組み立てただけのまさに砂上の楼閣の文章になっていることに気づいていたが、なかなかにドゥルーズにおける主体を素人が取り出してみせるということは不可能に近いのではないかとも思う。あまりにも稚拙な内容ではあるが、誰にでもわかるように書く、ということが自分にできる最大限のことであると思うので、その自分に課した使命だけは果たそうと思っている。