2018年1月29日月曜日

「わたし」について考察したあと。

こんにちは。

最近は夏目漱石の『こころ』を読んでいました。『こころ』は僕が最初にまともに読んだ小説です。僕は『こころ』を読んだとき、僕という存在を根本から考えさせられる、そういう体験をしました。それはいったいなんだったのでしょう。そのなかの大きな要因のひとつに、「下 先生と遺書」があると僕は考えます。




「下 先生と遺書」は先生がもうひとりの主人公「私」に向けた手紙=遺書です。この遺書は先生の実体験をもとに書かれています。漱石の『こころ』という小説のなかに存在する先生が私に過去を告白する。そういう形式を取っています。先生は遺書を書いたわけですが、それが僕には先生の私小説のように読めました。僕はきっとその私小説のもつ吸引力に惹かれていったのだと思います。僕は先生の遺書から先生の「わたし」を感じ驚愕し震え戦いたのです。

これは私小説の元祖といってもいいかもしれないジャン・ジャック・ルソーの『告白』に近いかもしれません。僕はこの小説を無視することはできないです。自分の過去を赤裸々に告白する。

「最後の審判のラッパはいつでも鳴るがいい。わたしはこの書物を手にして最高の審判者の前に出ていこう。高らかにこう言うつもりだーーーこれがわたしのしたこと、わたしの考えたこと、わたしのありのままの姿です。よいこともわるいことも、おなじように率直にいいました。何一つわるいことをかくさず、よいことも加えもしなかった。(略)永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりないわたしと同じ人間を集めてください。わたしの告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹を立て、わたしのみじめさに顔を赤くするなら、それもいい。彼らのひとりひとりが、またあなたの足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、「わたしはこの男よりいい人間だった」といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです。」(『告白』 J・J・ルソー)

先生の遺書とルソーの『告白』の恐ろしいまでの切迫感。これが僕のいう「わたし」の謎です。その謎を僕は追いかけてきました。しかし最近になりますが、芥川龍之介の「藪の中」を読んだのです。


藪の中 藪の中
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「藪の中」は説明する必要のないほど有名な作品ですので説明はしませんが、多襄丸、妻、死んだ夫の3つの視点からひとつのある出来事が描かれています。ここで使われているのはWikipediaにありますように内的多元焦点化という手法です。僕もよく理解していませんが、「藪の中」は3人がそれぞれ事件の起こったことについて証言しています。そしてそれぞれ3人の言っていることがかみ合わない。これはどういうことだろうという話です。

僕は「藪の中」を読んで気づきました。ひとりの人間=「わたし」が真実だと思うことをどれだけ切実に訴えても、三人称視点で書いてしまうと「わたし」が本当の真実だと思ったことが実は真実ではなくなるのだと。多襄丸にとって、妻にとって、夫にとっては真実であることが三人称という視点で見ると本当に自分の思い込みのようなものになってしまう。さらに技術的には三人称の特性として語り手が隠蔽されてしまうために真実は現れてきません。

僕はそれを考えたとき、『こころ』の先生の遺書は先生にとっての真実でしかなく、実際起きた出来事はもしかしたらそうではなかったのだろう部分を多く占めているのではないかと思いました。しかし先生は書いた。そうせざるを得なかったからです。僕たちも相手に自分の思いを伝えるために何かを書いたことがあるでしょう。その方法は告白になるように思います。そして日本近代文学の王道であった私小説も自己暴露という性質を多分に抱えているためにそのような要素が大きいのではないかと思います。飛躍しますが、つまり日本の近代小説で僕がもっとも考え重要だと思っていた「わたし」は一人称に現れるわたしであり(三人称の私小説もありますが)、それは三人称で描かれるとそのフィクション性が暴露されてしまうのではないか、と僕は感じるに至りました。もしかしたら私小説作家たちはそのことに自覚的に作品を書いていたのではないかと思ったりしました。それはあまりにも悲しい。ですがそれゆえに尊い気がします。

最近読んだ本に、佐々木敦の『新しい小説のために』があります。この本では新しい私小説の方法が検討されています。わたしというのは本来ひとつの決まった形はもっていない。接する相手やその場所、時間によって様々なわたしを使い分ける。そういう時代に強固なわたしなど必要があるのか。そのときそのときで自分を変化させていく、平野啓一郎のいう「分人」という概念もそれに近いかもしれません。そしてこの本ではさらに踏み込んで、わたしという身体的制限さえ超えていこうとしています。SNSというコミュニケーションツールが日常化したとき、わたしはそのSNSの一部となります。そこでは自分の意見と他人の意見の境界が不分明になっていく。あるグループの一員として、わたしの代わりはいくらでもいそうな、そんなコミュニティのなかで自分を保っていく方法論として「わたし」ではなく「わたしたち」というものが私小説における「わたし」へと現代はアップデートされているのではないか。僕は読んでいてそう思いました。



僕のように「わたし」は「わたし」でしかない。その「わたし」で人とぶつかっていきたい。そう考える時代は過ぎたのではないか。僕はそのように感じました。ただただ虚構の「わたし」を夢見る僕。そんなことを考えたとき、もう終わったのではないかと僕は感じました。それゆえここで『こころ』を巡る旅はひとまず終了。そう思ったわけです。

しかし、そう思っているときに僕に救世主が現れました。僕に哲学のしかたを教えてくれたY師匠です。名前はいちおう伏せさせてもらいます。Yさんのデカルト解釈を読んだとき、僕は自分が本当に井の中の蛙でしかないことに気づかされました。そうなのだ僕が求めていたものはそんな簡単な「わたし」だけではないんだ、僕にはもっともっと考えることがある。Yさんはデカルトの言っているのは「Cogito, ergo sum」ではない、それはスピノザのいうように「Ego sum cogitans」なのだと言います。それがデカルトの真髄であり、後期ハイデガーが目指したテーマなのだと。

新しい「わたし」を自分で考えたい。僕が自分で考え、身体の隅ずみまで浸透し納得する「わたし」というものを。そのためにはまだまだやることがあるだろう。まずはもう1度デカルトを読んでみよう。自分が納得いくまで。頭の悪い自分でもなにか見つけることができるはずだ。そういう希望がYさんのおかげで湧いてきました。

Y師匠から芭蕉のうたをいただきました。
「雲雀より上に安らふ峠かな」
雲雀よりも高いところにある安らぎの場所に到達できるのだろうか。いつかYさんとそんなところで一緒におにぎりを食べてみたい。
僕はきっと一生このうたを忘れないでしょう。Yさん、ありがとう!!

まだやれる!そう思ったのでした。

2018年1月11日木曜日

『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ その2

カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』の感想その2。


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第二部

第六章

アクセルとベアトリス、ウィスタンそしてエドウィンは修道院に到着します。修道院に来ましたがなかなかジョナス神父とは会えません。ブライアン神父が応対してくれます。この修道院は薄気味悪くなにかを隠しているような雰囲気がします。アクセルとベアトリスが休んでいるときもウィスタンは薪を割り続けています。彼は薪を割りながらこの修道院の様子を窺っているのですがそれ以外にもまだ理由があるようです。

アクセルはまた昔を思い出します。ハービーという男と一緒でした。彼は獰猛な人物でありましたが彼とともにアクセルは重大な任務を果たしているところでした。またアクセルはベアトリスが灰色の髪の兵士から優しい言葉をかけられたときのことを思い出します。見知らぬ人間から親切な言葉をかけられたというだけでベアトリスはすぐに世界への信頼を取り戻してしまった。そのことがアクセルを不安にさせます。思えばアクセルと最初に出会ったときからベアトリスはそうでした。彼女の無防備さ。初対面の男に対する優しさ。

この修道院が元は砦であったことにウィスタンは気づいていました。かつてここはサクソン人の砦だったのです。この砦にいた人々はこれから起こるであろう残虐行為の事前の復讐をしていたのだとウィスタンは言います。アクセルとウィスタン、エドウィンは小屋のなかで山の鳥に捧げる生贄の道具を見つけます。この修道院はなにかを隠している。

ついにジョナス神父と会えることになりました。4人はジョナス神父と対面します。沈黙の僧ニニアンがジョナス神父の世話をしています。ジョナス神父はなぜかひどい怪我をしていたのです。ジョナス神父はエドウィンの傷を見ようとしますがそれをウィスタンは拒否します。彼は強い憎しみとも取れる感情を表に出します。ウィスタンはジョナス神父が生贄となったこと、この修道院の僧が順番に鳥の生贄になる風習があるのではないか。それがキリスト教として最悪の行為なのではないかと尋ねます。

ジョナス神父はエドウィンの傷を診ることになります。それを見たとき彼とニニアンの顔に勝利の表情が浮かびますが、すぐにそれは諦めと悲しみの表情へと変わります。ジョナス神父はクエリグの息が霧となって記憶を奪っているのだと話します。そしてそのクエリグを修道院の僧が守っているのだということも語られます。霧はすべての記憶を覆い隠す。よい記憶も、悪い記憶も。ベアトリスは霧の原因がわかり喜びます。彼女は悪い記憶も恐れていないようです。


第七章

寝ているとブライアン神父がアクセルたちを起こします。修道院で何かがあったようです。どうやらウィスタンとエドウィンに対する追手がやってきたようでウィスタンは彼らと戦っています。アクセルとベアトリスとエドウィンはブライアン神父に連れられ修道院の隠されたトンネルへと案内されます。そこから逃げることになるのですが3人が入るとブライアン神父は入口を閉めてしまいます。

トンネルを先へ進むとガウェインがいました。彼から僧がアクセルたちを騙したのだということが語られます。ガウェインは彼らを助けるためにニニアンにトンネルに入れてもらったようです。そしてブレヌス卿にガウェインがウィスタンの正体を明かしたためにそうなったのだと話します。このトンネルには獣がいます。地面には骸骨があるように感じられます。多くの人間がここで命を落としたような。

先を行くと霊廟のようなものがあり、そこはまるで埋葬地のようです。ガウェインはこの国自体が埋葬地のようだと言います。この土地の下には殺戮の歴史があると。獣の気配があり落とし格子があります。エドウィンが歌い始めます。どうやら彼につけられた傷に原因があるようです。ガウェインはあの傷は竜につけられた傷だと言います。どうやらその傷がクエリグとの出会いを欲望しているようです。アクセルたちはなんとか獣を倒しますが、エドウィンはウィスタンのいる修道院に戻ったようです。アクセルとベアトリスは息子のいる村を目指します。


第八章

エドウィンによって語られる章です。前の日にエドウィンは兵隊が来ることをウィスタンに教えられていました。エドウィンは母の声を聞いています。母はもう近くにいるのでしょうか。エドウィンは回想し、ある15,6歳の少女と出会ったことを思い出します。ウィスタンはエドウィンに修道院の砦としての構造がどうなっているのかを教えます。まるでウィスタンはエドウィンを鍛えているかのようです。そしてエドウィンはウィスタンを助けなければならないのにアクセルたちとともに逃げたことを悔いているようです。しかしウィスタンは兵隊たちをなんとか倒し逃げ出すことにも成功したようでした。



第二部はここで終わりです。文庫本で302ページまでです。第三部以降はまた次回。

2018年1月10日水曜日

『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ その1

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』の感想です。


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英語版Wikipediaにかなり詳しいあらすじの紹介が書かれており、イギリスでの評価も紹介されています。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Buried_Giant

海外ではファンタジー小説と捉えられているようです。イシグロは普遍的な話だと言っているようですが。そこは読者の読み方によって変わるでしょう。



あらすじがどのようなものかを書いていきます。

第一部
この作品は三人称で書かれていますがこの世界を語る語り手が存在しています。それが中世の物語っぽさを出しているかなと思います。

第一章

舞台はイングランド。ブリテン島。この世界はいまと地続きのようですが鬼や妖精などがいた時代。まだ人間には理不尽なことが起こる科学がなくまだ人間の理性ではものごとを測ることができなかった時代のお話。

そんな世界のブリトン人のある村にアクセルとベアトリスという老夫婦が住んでいました。その村は60人ほどの村で2人はその村の外縁に住んでいます。2人はなぜか火を持つことを許されていません。村の外縁は火が届きにくく寒いです。ですが2人は村の1員として村のなかで役割を背負っています。

この村では過去を語り合いません。それがなぜなのかはわかりません。昔、赤い髪の女がこの村を訪れましたがそのこともみなが忘れてしまっています。マルタという少女が行方不明になったときも、戻ってくるとヌエワシの話になってしまいみながマルタが行方不明になったことを忘れてしまっていました。

去年の11月に黒いぼろを着た女が現れました。彼女とベアトリスは刺の木(山査子の古木)のある場所で話をしていました。ここではその話の内容は語られません。しかしこの女と話したことからベアトリアスはいまはいなくなった息子に会いに行こうと決心したようでもあります。「目が見開かれて」いたり「悲しみと願い」をベアトリスが感じているような描写があります。彼女のなかでもしくは身体になにかが起こっていたのでしょう。

またここでブリトン人の信仰するの宗教がキリスト教だということが語られ、またアクセルとベアトリスの会話がうまくかみ合っていないことが感じられます。そこにはあまり違和感は感じないかもしれませんが読み終えたときになるほどと思えるようになっていると思われます。

旅立つ3週間前にベアトリスは村で揉め事を起こします。ノラがベアトリスのために蝋燭を作ってくれたのですが、それが見つかってしまったのです。なぜアクセルとベアトリスが火を持つことができないのかは僕にはわからないのですが、もしかしたら昔なにかをおこしているのかもしれません。そのことについて鍛冶屋の女房と言い争いになります。そのことを旅立つ春の時点ではアクセルは忘れています。このお話は忘却がキーワードになっていてこれからいたるところで「忘れること」と「忘れないこと」がキーワードとして出てきます。

ベアトリスは自分たち夫婦が駄目な夫婦だと思われていることが辛かったようです。そしてノラが自分たちのために蝋燭を作ってくれたことが嬉しかった。しかし「村会の決定」で2人には火は持たせないと決まってしまっている。蝋燭は取り上げられてしまいます。

ベアトリスはこの時点で、というか黒いぼろを着た女とあった時点で記憶を取り戻そうと決意しているように思えます。また他の人たちよりなにかを思い出しているようにも思えます。そして春になり暖かくなった頃、いなくなった息子の村を訪ねようと老夫婦は決意をします。息子がどの村に住んでいるかをアクセルは知らないようですしベアトリスも距離と方角を知っているくらいであるにも関わらずです。


第二部

アクセルとベアトリスはサクソン人の村を目指します。2人の住む村からサクソン人の村までは一日かかります。あいだに大平野がありそこには暗い力が潜んでいると語られています。2人は暗い力が弱まる昼間にそこを通り抜けようとします。大平野に縁で2人は息子のことを思い出します。ここでベアトリスとアクセルはすべすべの小石を2個づつ持ちます。キリスト教のおまじないのようなものなのでしょうか。以降この石は出てなかったように記憶しています。その後2人は「巨人の埋葬塚」を通り抜け森に入ります。

森を歩いていると大雨が降ってきて2人は大雨をしのぐために近くにあった廃墟へと避難します。この廃墟はローマ時代には豪華な建物であったらしいことが伺われます。そこには鳥を思わせる小さな老婆と異様に背の高い痩せた男=船頭がいました。老婆は兎を手に持っており、ナイフで兎を殺そうとします。よく見るとこの廃墟は兎の血で汚されているようで老婆がこれまで何度も兎を殺してきたことが伺い知れます。なぜそのようなことをしているのかというと老婆は昔、この場所に夫と一緒に来ており船頭に川を越えた島まで夫と2人で渡してもらうつもりであったのです。しかし船頭は先に夫を渡してしまいました。老婆は舟には1度に1人しか乗せられないんだと自分に言い聞かせて待っていましたが、そのあと船頭は老婆を舟に乗せなかったのです。2人は離れ離れになってしまいました。その恨みを込めてなのかこの廃墟で兎を殺しているようです。

ここで島についての情報が少し語られています。島では自分以外の人に出会うことがなくひとりきりで生活しなくてはならない。なにか言い方がまだるっこしいと感じますが、しかし稀に2人一緒に渡れることがあり、それは2人の愛が深かったときのようです。島はまるでこの世の土地ではないように語られ、まるで天国のようにも僕は思えましたがそこまでは書かれていません。一体この島はなんなのでしょう。そしてこの廃屋にはどのような意味があったのか。

この廃屋は昔は立派な家だったのですが戦争で廃墟となったようです。この廃墟をみたときにアクセルの記憶になにかが蘇ってきます。この作品ではアクセルやベアトリスの過去は謎に包まれており、特にアクセルは物語のことあるところで記憶の断片を思い出すことになります。アクセルとはいったい何者なのでしょう。ここではまた愛についても語られ、愛というものはその背後に恨み、怒り、憎しみ、そして大いなる不毛も隠しているかもしれないことが語られます。

廃墟を去ったあとで黒いぼろを着た女と先ほどの老婆に共通点があったとベアトリスが話します。2人とも取り残された経験をもっており、彼女たちのような目にあい泣きながら歩いている女たちがいるようです。そしてこの世界は健忘の霧に包まれ、分かち合ってきた過去=愛が思い出せないでいるということ、そしてその代わりに憎しみも忘れることができていることが語られています。


第三章

アクセルとベアトリスはサクソン人の村に着きます。村はなにか騒がしい。村に進むと男たちが集まっています。ベアトリスは病気を診てもらうために薬師のところに行きます。女の話なのということでアクセルは薬師の家の外で待っているのですが、そこに30歳くらいの他の男たちとは雰囲気の違う男が現れます。彼がこの物語の主要人物の1人ウィスタンです。彼はサクソン人で東の沼沢地から来ました。

村では村人3人が鬼に襲われていました。それも普通の鬼ではなく悪鬼だということです。襲われた3人のうち12歳の少年エドウィンが悪鬼に攫われてしまっていました。どうやらウィスタンはエドウィンを助けにいくらしい。村人はパニック状態になっていますがウィスタンだけは冷静です。その彼をみてアクセルはまた記憶の片鱗を思い出します。そこへアイバーという長老が現れアクセルとベアトリスを自分の家に招待してくれます。どうやら村人は何かが起きるとその前のことを忘れてまうようです。おそらく健忘の霧のせいでしょう。しかしアイバーは忘れないようでそのことは不思議に思います。アイバーは霧はサクソン人の迷信だと言いますがどうでしょうか。ここでもアクセルとベアトリスは小さな諍いのようなことを起こします。アクセルとベアトリスがなぜこのようなことを起こすのかは謎で、夫婦というものはそういうものだと読むこともできる気もします。

アクセルとベアトリスは山道の向こう、修道院にベアトリスの病を見てくれるジョナスという高名な神父を訪ねることになります。修道院への東の山道は雌竜クエリグの国です。クエリグは強大な力を持っているようですが、それ自体には驚異はなく(もう老いているようです)、その驚異は存在自体にあるそうです。このクエリグという雌竜はなにかのメタファーとなっているように感じられます。どうもクエリグの吐く息で霧が生じ忘却が訪れるようです。また、この霧は神がお忘れになったから起きたとも言われます。

ウィスタンが村に戻ってきていて悪鬼を退治したようです。エドウィンは救出され悪鬼もウィスタンが討ち取りました。その亡骸をウィスタンは掲げますがそれがなんとも言いようのない形をしています。これは本当に悪鬼なのか…ここにも謎が現れます。もしかしたらこの悪鬼はクエリグの子ではないのか、そう考えることもできるでしょう。

ここまで読んで思うのは、もしかしたら僕ら現代人も健忘の病にかかっているのではないか、そういうことです。

このあたりの描写でアクセルがベアトリスを見て、喜びと同時に悲しみを感じるというのがあります。アクセルの記憶は戻りつつあるのでしょうか。

アクセルとベアトリスはウィスタンと会います。ウィスタンは子供時代を西の国で過ごしたようです。アクセルと西の国であったことをほのめかせますがその真相はわかりません。エドウィンの体に小さな傷ができていて、それが村をパニックに陥れます。鬼に傷を受けた者は鬼になるという迷信がサクソン人にはあるのです。ここでアクセルとベアトリスは昔会った若い男を思い出します。このエピソードがなにを意味しているのかいまいちわかりませんが、過去にベアトリスがこの男と関係を持ったのかもしれません。

アイバーの家でウィスタンはアクセルとベアトリスに、彼らの息子のいるブリトン人のキリスト教の村にエドウィンを連れて行ってくれないかと相談します。2人は引き受け、その代わり修道院までの道をウィスタンが護衛のような形でついていくことになります。ここでひとつの疑問が浮上します。エドウィンはサクソン人ですが、やはりブリトン人の村に連れて行くことがベストなのか。ウィスタンはブリトン人を嫌っています。それでもエドウィンをブリトン人に預けたいのか。


第四章

この章はエドウィンが語り手となります。エドウィンは悪鬼に傷をつけられたあとから母の声を聞くようになります。母は早く助けに来ておくれと言っています。「ぐるぐる、ぐるぐる」あなたは大きな輪につながれた騾馬よ。だからぐるぐる回りなさい。お前が止まれば、あの騒ぎも止まってしまう。だから、恐れてはだめ。強くなって助けに来て。

ウィスタンとエドウィンは傷について約束をします。ウィスタンの退治した生き物はなんだったのか。頭が蛇の鶏のようなもの。果たしてそれはクエリグの子なのでしょうか。


第五章

4人は修道院を目指します。ウィスタンはブレヌス卿というブリトンの領主に追われているらしい。修道院までは唖者のふりをしています。道中でブレヌス卿の配下の3人の兵士に会います。兵士たちは4人を怪しがります。特に灰色の髪をした兵士が特徴的でした。なんとか兵士たちの尋問を切り抜けた4人は森の中を上る細道を行きます。

ここでベアトリスの痛みの話が挿まれます。ベアトリスはこの自分の病の痛みは蝋燭がなかったせいではないかと言います。闇を好む妖精の仕業ではないかと。どうも火になにかのメタファーがあるように感じられますが僕にはわかりませんでした。

道中で老いた騎士と出会います。彼はアーサー王の甥のガウェイン卿でした。ホレスという馬に乗っています。ガウェインは当然ながらブリトン人です。彼はアーサー王からクエリグ退治の命を受けたと言います。この物語ではサクソン人のウィスタンとブリトン人のガウェインが対比されているように感じます。サクソン人のウィスタンはこの土地ではサクソン人がブリトン人に迫害されていると言います。

そこへ先ほどの灰色の髪の兵士がやってきます。やはりウィスタンを疑っていたようです。ウィスタンはここで自分の使命はクエリグを殺すことだと告白します。ガウェインは驚きます。それはわたしの仕事だと。しかしガウェインは灰色の髪の兵士の味方はしません。ウィスタンは灰色の髪の兵士を倒します。

このあたりで第一部は終了します。ブリテン人対サクソン人という図式が見えてくるようになります。ブレヌス卿は雌竜クエリグの力を利用してサクソン人を制圧し、この国を手に入れようとしていることが明らかになります。

果たしてこの先どうなるのか。長くなったので第二部以降は次回に。