2015年3月20日金曜日

『トーテンアウベルク_屍「かばね」かさなる緑の山野』

*2014年の年始の他ブログでの記事の再掲載です。

『トーテンアウベルク』 エルフリーデ・イェリネク 読みました。


トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野/三元社
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ちょっと新しいものを読んでみるかな、と手を取りました。刺激を受ける作品で読んでみてよかったと思わせる作品でした。しかし…といったところです^^




イェリネクは、ノーベル文学賞を受賞しているので知っている方もいらっしゃると思います。イェリネクはオーストリアのドイツ語作家です。父親が労働者階級出身のユダヤ人化学者で、母親がウィーンの富裕層出身でカトリックでした。父親と母親は違う価値観を持っていて、イェリネクは苦しんだ子供時代を過ごしたそうです。



それでこの『トーテンアウベルク』なのですが、帯に「アーレントが拳をふりあげ、ハイデガーが呟く。」と書いてあります。僕もそれに期待して買ったのですが、読んでみたところ正直よく分かりませんでした。イェリネクはウィーン市立音楽院でパイプオルガン、ピアノ、リコーダー、作曲を学んでいて、ウィーン大学で美術史と演劇学を専攻し、そしてオルガン奏者国家試験にも合格しています。こういった経歴を見ると、なんとなくああ、こんな文章書きそうだなと納得します。



読んでいてまず、話の筋がないです。ないのは別に珍しいことでもないですが翻訳者の熊田泰章によると「あるひとつのセンテンスで用いられた、あるひとつの名詞が、次のセンテンスで、小説の内容、ストーリーと無関係に、もてあそばれてしまう」というわけです。どんな感じかというと、



「今はここに座っている。まるで鏡の中に捕らわれたようにして。でも、あなたは、もう今では、あなたのお母さんの小さな子供ではない。それに、あなたのお父さんは、森の中の木を切った空き地を濡れそぼって歩いている。日の光が木の枝の間の穴を通って射し込んでいるが、しかし、あなたの情熱は……それは、もう何の力もない。」



という感じです。翻訳者の苦労が垣間見える文章ですね。かろうじてセンテンスで使われた言葉が次のセンテンスと結びついていることがわかります。この文章はドイツ語で音読されると非常に美しく響くらしいのですが、ドイツ語の素養がない僕にはちょっと無理です。しかしドイツ語原文を読んでみたいと思わせる魅力というものは持っています。演劇化もされていますし、イェリネクは映画化されるときのことも考えて本書の冒頭で指示も出しています。



それで中身は?と言われると言葉に窮するのですが、少し調べてみたことを紹介してお茶を濁そうと思います。



題名の「トーテンアウベルク」ですが、ドイツ語で調べてみてもありません。「Totenauberg」です。そこでネットサーフィンを暫く続けていると、「Todtnauberg」を発見できます。「トートナウベルク」は山の名前です。ここでパウル・ツェランとマルティン・ハイデガーと繋がります。「トートナウベルク」はツェランがハイデガーを訪れた後に、ハイデガーのナチズム加担をめぐって書かれた詩の名前です。ツェランはハイデガーからホロコーストについての言葉を求めたのですがハイデガーは沈黙するだけだったようです。イェリネクがオーストリアというナチズムに最も近い国にいることと、父親がユダヤ人だということを考えるにこの作品に込められたイェリネクの強い思いというのは十分窺い知れるでしょう。



ツェランの「トートナウベルク」は『パウル・ツェラン 全詩集 Ⅱ』に入っているようですね。


パウル・ツェラン全詩集 第Ⅱ巻/青土社
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題名の「Totenauberg」を「toten」と「auberg」とに分けて、「死の」「アウベルク(berg=山)」と考えてみて、「Todtnauberg」をもじったのだろうと思いますし、副題の「屍(かばね) かさなる 山野」もナチスのホロコーストを想わせます。



中身に関しては本当に、言葉の断片が音符のようで、それが重なりメロディを奏でる、という感じなので意味をとりだすのは難しいです。3回ほど読みましたが、ハイデガーとアーレント、それにナチスと殺害された人々の対比、もちろん登場人物は様々でイェリネクはそこに多くのイメージを想起させるように書いていることはわかります。それは読んでみて感じていただきたいと思います。



イェリネクというと他に、『ピアニスト』、それと『光りのない。』等があります。『光りのない。』はポスト3.11の世界について書かれていて、僕も持っています。ちょっと日本語で読むのはキツイ作家かもしれませんが興味を持たれた方は読んでみてください。


光のない。/白水社
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2015年3月19日木曜日

コンビニエンスストアバトル。

 図書館で、『アメリカン・マスターピース 古典篇』という本を借りてくる。柴田元幸翻訳叢書とある。この本、あとがきを見ると、『準古典篇』、『現代篇』と続くらしいのだが、『古典篇』が出てから1年半経つのに『準古典篇』が出ていないところをみると、もしかしたらこれで終わりかもしれないという予感がする。出版がスイッチ・パブリッシングというのもそんな香りをいや増している。


この本、その名の通りアメリカ古典文学のマスターピースを収録している。最初はナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド Wakefield」。ホーソーンは『緋文字』を持っているが、現代小説と語り方が違うので時代を感じてしまって読み終わっていない。「ウェイクフィールド」も同じだった。でも短編なのでこちらは読み終える。ウェイクフィールド夫妻の話なのだが、少し説明しづらい。あらすじを書くとすべて説明してしまうことになりかねない。あと試みにAmazonのリンクを貼っておく。リンクしてないかも…。


ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻
ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻N・ホーソーン E・ベルティ 柴田 元幸

新潮社 2004-10-28
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上の本は、エドゥアルド・ベルティの「ウェイクフィールドの妻」も収録してある。柴田元幸に言わせるところの「女性の視点からの語り直し」をした作品のようだ。つまり妻からってことだと思う。読んでいないので推測。


「女性の視点からの語り直し」をしてほしいと思ったのは、僕がアメブロの記事で書いた「舞姫」。エリスからの視点で書いてほしいと思った。そっちのほうが面白いでしょ。でも「ウェイクフィールド」は本当に「妻」が「現れない」といっていい作品だからそういう意味では違うのかなとも思う。


舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)
舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 
森 鴎外

岩波書店 1981-01-16
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「ウェイクフィールド」は最初に読んだときにはマスターピースとまで言えるのかと疑問に思ったが、ポール・オースターの『幽霊たち』に影響を与えている、そして上の「ウィクフィールドの妻」も、など考えて頑張って読んでみた。

幽霊たち (新潮文庫)
幽霊たち (新潮文庫)ポール・オースター Paul Auster

新潮社 1995-03-01
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この作品は、時代を踏まえていないと理解するのが難しい部分が確かにある。大都市の人間たちの不在について書かれていると言われればその通りなのだ。なにせ隣に住んでいるのに気づかないのだからw まあそれはそれとして、ちょっとした思いつきから自分という存在を社会から消去できてしまうことになるのだというその当時の社会と個の関係というのは興味深い。現代社会ならどうだろう、国民にナンバーを貼りつけるような時代でもそうなるのだろうか。


あと、昔アメブロで書いたエルフリーデ・イェリネクの『トーテンアウベルク』のレビュー記事を貼ろうと思っている。記事の内容自体はあまり気に入っていないのだが、やはりあの作品は半端なかったなと思うので。


トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野
トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野エルフリーデ イェリネク Elfriede Jelinek

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イェリネクというと、wowowでやっていたときに観た『ピアニスト』。印象に残る作品であった。原作はどんなふうに書かれているのだろうと、Amazonで検索してみると、もう絶版らしかったので古書で買った。


ピアニスト (女の創造力)
ピアニスト (女の創造力)エルフリーデ イェリネク Elfriede Jelinek

鳥影社ロゴス企画部 2002-02
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まだ読んでいないので何とも言えないが、ちらっと見た感じでは、『トーテンアウベルク』ほど読みにくいことはないようだ。ノーベル文学賞をとっても絶版になることってあるのだな、と出版業界の事情はまったくわからないが思ったりした。


そして、タイトルだが、コンビニ(ファミマ)に立ち寄ったときにちょうど弁当が入荷してきたところで、店員がバーコードを打って棚に並べるのを客が待っていたのだった。それをちらっと見ていたのだけど、明らかに店員がバーコードをなかなか打たないし、棚に並べないでなんだろうかレイアウトでも考えているような態度をしている。店員は客に気づいているのに並べないというのは明らか。これ、僕が店長だったらこの店員(おそらくバイト)クビにしてるかもと思ったという話。店員の接客の意識低いなと思っただけの話だけど、そういえば前にテレビでタレントの有吉がバイトをしているときにそんな心理戦があるという話をしていたことがあった。コンビニ店員を正社員にするわけにもいかず、こういう時代が続くのだろう…と思った。とつまらない日常の風景をタイトルにしてみたのだった。

2015年3月16日月曜日

新潟県公立高校入試終わる。

新潟県公立高校の入試が終わりました。


新潟県は今年から高校受験の方法が変わったのです。2日にわけられて、1日目が統一試験、2日目が各学校の独自のいわゆる筆頭検査といわれるものです。


だから今年の3年生は結構不安だったのじゃないかなと。うちの塾では全員合格したので結果オーライだったのですが、対策を十分練れたとは言えなかったです。


統一試験は、翌日の新聞に問題と正答例が出るのですが、まあ簡単でした。数学はこれは満点取れるぞ、という問題で、落としたらまずいなと思っていました。うちの生徒にはもっと難易度の高い問題をやらせていたので肩透かしをくらった感もあります。社会も簡単すぎるだろ~という問題で、全体的に難易度は下がったのではないかという印象です。


ある生徒は、公立試験の前の私立の入試に落っこちたのです(落ちたのはドカベンのモデルになった新潟明訓高校)。ここを落ちると新潟は本当に私立が少ないので大変なことになります。その子は自宅から遠い公立高校を受験することになったのですが、偏差値的にいうと妥当なところなのですがその子の実力からするとまわりの高校のレベルが低いのでそういう選択になったようです。結果は楽勝だと思っていたので結果を聞いてもそうだろう、程度だったのですがやはり合格したと聞かされると嬉しい。


あとはギリギリになって倍率が下がった高校というのがありまして。それを見越して志望校を下げないで挑んだ子なども見事合格しました。入試ってそういう駆け引き要るよね、と思います。


中3の年明け頃から目の色が変わってきましたから、やはり本気モードになればみんなやるやつばかりなんです。この成功体験を今後の人生に生かしてもらえたらなと思います。


そして、今年の筆頭検査の傾向がわかったので来年は対策が立てやすいなと。今の中2はちょっと性格に難ありの子が多いのでどうなることかわかりませんが…。でも3年になったら変わるだろうと期待しています。


今、臨時で小学生も見ているのですが小学生は可愛い。いや、変な意味じゃなくて。分数なんか教えてあげると素直に喜びますから。あんな素直だった頃の気持ちを僕たちはいつ忘れてしまったのか…(泣) 親御さんがね、子供のことを心配して一生懸命なのですよ。親の気持ちっていうのはわかりますしありがたいですね。僕もその気持ちに応えてあげられたらと思います。


まあでもそんなことを言いつつ、自分では社労士の勉強やら哲学、文学を読んだりしている…背信行為!全力でやれよ!と言われたら申し訳ない、と答えるしかないです。でもね、人間は人間から学ぶものでね、単に問題が解ければいいというわけではないと思っているので。僕の生きざまから何かを学び取ってほしいですね。小4の女の子からは年齢を言ったら、「じゃあ、もうすぐ死ぬね。」と、無邪気な言葉をいただきました!w


それなりに楽しい日々を送ってます。

2015年3月11日水曜日

なにを言っているのかわからないが、なにかすごいことを言っている気がする。

いまいちBloggerの仕組みがよくわからないなか記事を書いてみる。
オリジナルの記事は2つ目です。


最近、話題になっている講談社選書メチエの『西洋哲学史』を本屋でちらっと見ていたのです。どんな人が書いているのかなと思って手に取ったくらいなのですけど。神崎繁、熊野純彦、鈴木泉…とああ東大教授の人たちが集まってるのね、と思ってみてて。「哲学は、哲学史ではない。哲学することが大事である」みたいな耳に痛いわ~と。このシリーズは4巻で完結なのですけど、射程はベルクソンまでと結構手前で終わる。いい加減フランス現代思想の総括をしてくれと思うけれどもどうやらそこはまだ歴史ではないらしい。


で、4巻見てたのです。そうしたら著者のなかに滝口清栄なる名前が…。あれ?先生、お久しぶりです!僕、滝口先生からヘーゲルの『精神現象学』を学んだのです。今は中学生を相手に塾をやっていたりもしてたはず。もちろん大学の講師もしているようですけど。正直このメンバーのなかに入ってるというのが驚き(すごく失礼!すいません!)だったのです。いや~懐かしいな~と思わず4冊買ってしまいました。


で、この『西洋哲学史』ですが、まあ難しいのです。でも読めないか?と聞かれれば読むことはできる感じ。まだ1巻の半分も読んでないのですけど。まあ読み終えてみないと何とも言えないので、それは後日ということで。ただ、「ある」の衝撃は確かに!やっと実感しましたわ。ニーチェの遠近法主義並みの衝撃でした。今頃気づくなって?それは言わないでください…。ニーチェの遠近法主義というと思い出すのが、ネットサーフィンをしていて池田光穂なる人のサイトに辿りついたときのこと。この人のサイトにアクセスした途端にサファリが応答しなくなった。結構昔の話なので、いまのパソコンなら大丈夫な気がしますけど、ああ、こういうことってあるんだ、みたいなことを感じたのを覚えています。なにかよくわからないサイトでした。


それよりあれ!?BloggerってAmazonのリンク貼れないの!? とりあえずドゥルーズとクレソンの共著の『ヒューム』を貼りたいのですけど。まあいいや。


で、この本なのですが、どうもクレソンの書いている部分は理解できるようだ。しかし、ドゥルーズの書いている部分が異様に難しい。さすがに卒論で『経験論と主体性』を書いているだけあってヒュームについては調べつくしているようだ、当たり前かw


まあヒュームがデカルトを批判したバークリ僧正のさらに上をいったということは誰でも読むだけでわかると思うのだけど、ヒュームの持つ倫理性というやつ!それが何を言っているかが錯綜してますな。これはどうやったらわかるようになるのか。よくわからないのですっ飛ばして終わりの方へ向かう。


ドゥルーズのいう「利己主義者」というのはとてもわかりやすい。いわゆる「慈愛」というものが、最も遠き者まで届くのか、と言われれば届かないよね、ということで。それをなすべきための手段として「正義」がある。「正義」は目的ではなく手段なのだと。これが一種の結論ではないけど、言いたいことではあるのだろう。偏向してはいけない、それが倫理というもの。


このブログでは今更隠すまでもないので言うけど、僕は法政大学法学部を出ている。法学部というのは関係ないのだけど、文学部出てるの!?みたいな誤解を招くといけないのでエクスキューズとしていちおう書いておく。で、同大学の文学部のシラバスを見てみると、今更ながらカントと和辻哲郎関係の講義が多いことに気づく。これは伝統なのだろうか。大学によって特色が違うのだろうというのが結論。いつか機会があれば講義を受けてやろうと思っている~。


まあなにがいいたいかと言うと、この『ヒューム』という本はこの記事のタイトル通り、「なにを言っているのかわからないが、なにかすごいことを言っている気がする。」と感じたということ。このブログではわからないところはわからないと言っておくことに決めたので、なんとなくこういう感覚だよねと思ったところがあっても敢えて書かないことにしておく。

2015年3月8日日曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その6(終)

『日蝕』に戻ってきました。
この話で問題とされるべき一番の点は錬金術です。



ピエェル・デュファイという男が錬金術を行う、そしてそれをニコラは目撃し、魅了され自らも錬金術の研究をを試みるようになる。当然のことながら錬金術を行うということは異端でありそれは異端審問にかけられる危険性を多分に孕んでいるということです。端的に言うと魔女狩りですよね。それでも尚且つ魅了して止まない体験をニコラは目撃するのです。


その前に脱線しますが、日野と平野の対談の一部を。

「日野  『日蝕』の中でぼくが最も気にかかった人物は、ブランコに乗っているジャンという唖の少年でした。あれが一番気になります。


平野  あの少年の人物造形にはかなりいろいろな要因が重なっていて、なかなかひと口には言えませんが。ただ、基本的に主人公はトマス主義者ですから、理性によって世界は理解できる、記述できると考えるわけです。中世合理主義というのはアリストテレス受容以降のもので、常に何かの目的がある。ところが、ブランコ遊びというものは行って帰るだけで、何の目的もないですよね。それを見たときに、トマス主義者である主人公はゾッとする……そういうことは一つあります。


日野  ブランコの場面は、ニーチェの「永劫回帰」も思い出させますね。


平野  それも意識してました。」(「聖なるものを求めて」『ディアローグ』)


ブランコ遊びから永劫回帰を引き出してくるところに僕は少し疑義を挟みたい気がしますが確かに本作においてジャンというのは特殊な人間で重要なキーパーソンであることは確かだろうと思います。読む方はジャンという唖の少年のことを少し気にかけて読んでもらいたいです。




ここで錬金術の話です。錬金術というとダークファンタジーの超有名漫画『鋼の錬金術師』で耳にタコができる程聞かされる等価交換。錬金術とは等価交換なのか。ピエェル・デュファイは錬金術で両性具有者アンドロギュノスを創り上げる、そのアンドロギュノスが異端審問にかけられ焚刑に処される場面がこの本作の最大の見どころです。そこで日蝕が起こり、アンドロギュノスは陽物を屹立とさせスペルムを以って太陽を射る。そのスペルムは陰門の内部に流れ込む。そして燃え尽きたアンドロギュノスの灰の中から金塊が…。



偶発的な出来事が時を同じくして起こります。太陽が月と重なり、唖のジャンが初めて鞦韆を降りて狂的に哄笑する。アンドロギュノスは単体をもって射精し受精する。



ここでニコラは感じます。私は僧であり、異端者であった。男であり、女であった。私はアンドロギュノスであり、アンドロギュノスは私であったと。



述べたいことは多数ありますがここではアンドロギュノスが残した金塊というモノにスポットを当てて考えてみます。もう一度問います。これは等価交換なのか? 以前述べたようにトマス主義者は不等価交換を認めています。それは公平価格においてという限定つきですが。しかしピエェル・デュファイが異端審問にかけられたという事実を考えると作中での錬金術はトマス主義者にとって異端以外のなにものでもないと言えるでしょう。



僕の理解不足もあると思いますが、平野はどう考えても「矛盾した記述は矛盾のままに」していると思います。僕的に考えると、太陽と月の結合による日蝕という生成、鞦韆という無意味な運動からの哄笑という生成、アンドロギュノスの射精と受精による金塊の生成。これは不等価交換以外のなにものでもない。主人公ニコラはそれに魅了されピエェル・デュファイの錬金術を引き継いだと考えていいと思います。



等価交換は魔術、占星術というイメージもありますが現代の化学の基礎を築いたものでもあります。ニコラはトマス主義の異端者でもありますがより近代の先駆者でもあるように書かれていると感じました。なぜ彼をそのようにかき立てるかと言えば、それはアンドロギュノスの焚刑にイエス・キリストを見たからであろうと想像するに難くないと思われます。そしてそれ故この作品が平野のいう「ロマンティック三部作」の第一作目であることも納得できると思います。



『鋼の錬金術師』のいうように錬金術は等価交換ではない。そのことには『鋼の錬金術師』の作者もおそらく気づいているのではないのでしょうか。最後に主人公は、
「10もらって10返してるだけじゃ同じなので
10もらったら、自分の1を上乗せして
11にして次の人に渡す、
等価交換を否定する法則だけど
これを証明したい」
と言って終わるらしいです。僕はコミックスを読んだけれど忘れています。



『日蝕』はトマス神学と錬金術という道具を使って極めてロマンティックに描かれた小説と言えると思います。



また、批評家の東浩紀は本作を、
「本作が既存の純文学よりもむしろファンタジー小説や漫画、アニメ、ゲームなどのエンターテインメントにおける想像力と深いかかわりを持っていることを指摘した。東によれば、作中に登場する錬金術、ホムンクルス、巨人といった要素は、同時期にベストセラーを記録している三浦健太郎のファンタジー漫画『ベルセルク』の世界観と完全に一致する」(ウィキペディア)
と評しています。


平野は若年ながらその膨大な知識と教養においてサブカルチャーの要素を多分に含む本作を純文学まで底上げしたと言えるかもしれないです。



結論としては非常に物語性の強い作品であり、読む者にかなりの知識の前提を強要するという意味で深い読みをさせる余地を含んだ作品でもあり、文体からして作者の意図するところ明確な鴎外風の教養小説でもあるといったところでしょうか。僕はいっそのこと文語文で書いてしまった方が本作の魅力はより発揮されるのではないかと思いますが、それは平野の言うところの現代を否定するということなのでしょうか。三島由紀夫の再来ということに関して言えば石原慎太郎のいうコマーシャリズムということに近い印象を僕も受けざるを得ませんが、平野本人は三島の影響を多分に受けていると言っているのでそこは本作以降に期待するということにもなるだろうと思います。



あとは現在の視点からの印象ですが、平野はかなり器用な作家で様々な作家の手法を取り入れることに長けていて、それが逆に作品を矮小化している部分があるのかもしれないという危惧はちらりと感じています。器用貧乏と言ったらいいでしょうか。しかし、現在37歳という若さでこれだけの作品群を書き上げていることに対して同世代の人間にとっては見過ごすことは許されないと思います。



『日蝕』において中世ヨーロッパを、『一月物語』において小説というものが導入され始めた日本の近代を、『葬送』においてヨーロッパの小説の全盛を、『決壊』においてインターネットの時代を、『ドーン』において近未来SFを、とエクリチュールの手法を自在に駆使して新たなものを書き続けています。平野がそういう意味においても「分人」という概念を造りだしたのも彼の作家としてのアイデンティティの多様さとみるか、ただの器用な奇策師とみるか判断を慎重にするべきだと思います。只、平野の小説家としての文体の一貫性のなさは意図的である、ということは言えるようです。それ故、平野を読む人間は注意深く読みを進めていかなければならない。そう考えると平野ほど見ていて面白い作家もなかなかいないと思います。



以上で『日蝕』再考とさせていただきます。平野啓一郎という人間に興味を持たれた方は読んでみてください。僕も引き続き平野を時系列的に読んでいきたいと思っています。


2015年3月7日土曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その5

前回はトマス・アクィナスについてとその神学について軽く触れましたが、今回はその経済的側面について触れたいと思います。



経済学の祖というとアリストテレスになると思うのですが、アリストテレスの経済学というのは現代と非常に馴染まないものでその紀元前4世紀においてからトマスの時代に至るまでその実質成長率は0%からマイナス成長でした。よってパイが増えないわけです。ゆえにその限られたパイをとりあうゼロサムゲームが繰り返されるわけです。余談ですが『ガンダム00』というアニメーションでは確か世界はまだゼロサムゲームをやっており、それがエネルギー問題の解決の為に、いわゆる無限エネルギーを持つ国家群が生まれて持つものと持たないものとの格差が生まれてそれが新たな戦争へと発展するという話でした。サブカルの伏線として。


アリストテレスの経済学でこの『日蝕』を語る上で必要な部分を抜粋しますと、『二コマコス倫理学』のなかで配分的正義、是正的正義、応酬的正義という考え方があります。このなかで重要になるのが是正的正義です。



是正的正義というものがなんなのかというと、ざっくりいうと民間の交換行為は等価交換が正義である、ということです。等価交換などというと僕などは真っ先に思い浮かべるのが『鋼の錬金術師』なのですが。アリストテレスは経済は物々交換を基本としていました。彼の時代においてはコミュニティが非常に小さかったので物々交換においても客観性を必要としなかったわけです。だいたい何がどんな価値を持っているかをみんなが阿吽の呼吸でわかっていました。特にアリストテレスは貨幣の交換というものを最も嫌っていました。『二コマコス倫理学』というだけあり、倫理に非常にこだわったのです。利益を出すということが平等ではない、公平ではないというわけです。利益という発想が極めて希薄で、それ以降の時代もそのためにゼロ成長を続け、延々とゼロサムゲームを繰り返すわけです。



このアリストテレスの経済に対して一大変革をもたらしたのがトマス・アクィナスなわけです。彼は是正的正義に対して異議を唱えます。そしてその代わりに交換的正義という概念を持ってきます。この交換的正義においては不等価交換も許されます。その物に対するコスト、リスクヘッジという現代的な付加価値を認めるのです。つまり利益を得るということを肯定したわけです。ただし、それは公平価格によるべきだとやはり倫理的な言い方をしていますが。



これが後にアダム・スミスによって経済学の爆発的転換を迎えるわけです。倫理の代わりに利己心を導入するという現代の経済学の祖ともいうべき考え方です。しかし利己心といってもスミスは哲学者でもあったのでエゴイズムを礼賛したわけではありません、念のため。アダム・スミスの経済学によっていわゆる現代の経済学者がいうようなWinWinの発想というものが生まれてみんなが豊かになっていったのです。なので先ほどあげた『ガンダム00』は、現代においてもシェールガスのエネルギー獲得戦争が起こりつつありますが、エネルギー問題だけで政治的優位が保たれるというのは少々安易な発想で、根本的発想の部分で誤りをおかしているような気がします。おそらく外部から専門家の考証というのは行われている筈だと思いますし、作品としては面白いのですけどね。



というわけでかなり回り道をしましたが、『日蝕』とはなんだったのかについて次回は述べたいと思います。
続く。

2015年3月6日金曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その4

さて、この物語はニコラというドミニコ会の僧侶が『ヘルメス選書』を探しにフィレンツェに赴く途中の村で錬金術を研究しているというピエェル・デュファイという男と出会うというのが話の本筋です。



ここでは世界史に疎い僕ですがこの作品で鍵を握るトマス・アクィナスについての多少の知識を前提としますので手持ちの数研出版から出ている『新世界史B』を参考にしたいと思います。
まずは前提となるドミニコ会とフランシスコ会について。


「13世紀初頭に結成されたフランチェスコ修道会やドミニコ教団などは修道院の財産所有を否定し、修道士の生活の基礎を托鉢行為に求めて、托鉢修道会(乞食僧団)と呼ばれた。フランチェスコ修道会は中部イタリアのアッシジAssisiのフランチェスコFrancescoの創始した修道会でドミニコ教団は、スペインのドミニクスDominicusが南フランスで組織した聖職者団体であって、ともに、当時ローマ教会を脅かしていた異端に対する対策として、ローマ教皇の指導の下に組織されたものである。」(『世界史B』)



ここに出てくる異端審問は『日蝕』において非常に重要な位置を占めます。錬金術を行うピエェル・デュファイなる者の異端性と関わってくるのです。



そしてトマス・アクィナスですが彼のことを簡潔にまとめた文章を引用します。


「パリ大学に所属したドミニコ学増トマス・アクィナスThomas Aquinasは、教父思想とアリストテレス哲学との統合、いいかえれば、キリスト教神学と古代哲学との折衷を図り、『神学大全』を著した。これは、イスラム思想に対するキリスト教学の弁論という性格の著述の形をとった中世キリスト教神学の体系化であり、中世哲学(スコラSchola哲学)の大成であった。」(同上)


トマスは師であるアルベルトゥス=マグヌスの指導を受けてアリストテレスについて学びました。上でも述べたとおり時代はドミニコ会とフランシスコ会が13世紀において精神的運動の担い手となります。ちなみに『日蝕』の舞台は15世紀のフランスです。ドミニコ会のイエス=キリストの福音に立ち帰り、それを宣べ伝えようとする運動が起こるのですが本作品においては普遍論争が終結し、唯名論が学界を席巻していることをニコラが嘆く下りがあります。



トマスはキリストの教えの純粋で、徹底した実践としての修道生活を人里離れた山中から、都市のなかに、民衆の間にもたらそうとしていました。「教える、説教する」ことを目的とする修道会が最高の段階だとトマスは『神学大全』において述べています。これが大きな流れとなって「トミズム」として開花します。



次回ではトマス主義者であるニコラが何故異端である錬金術に興味を持ったのかを検証するために当時の経済について考えてみたいと思います。


続く。

2015年3月5日木曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その3

平野が使った擬古文ですが、そもそも擬古文とはなんなのか。手元の三省堂新明解国語辞典によると、


【擬古】
(よき時代であるととらえられる)昔のスタイルをまねること。
【――文】
雅文や、上代の古文のスタイルに倣って作られた文語文。[狭義では、国学者や江戸時代の文人によって作られたものを指す]


【雅文】
[後代から見て典雅とされる文章の意]主として平安時代の仮名文。[広義では、擬古文を指す]


とあって堂々巡りしそうな感じですが、勉強をしっかりされてきた方なら高校時代の先生などからしっかりと教えてもらっていそうな気がします。残念ながら僕は真面目な生徒ではなかったので分かりませんが、擬古文として模範的に出されるものに森鴎外の『舞姫』があります。上の説明を見ると『舞姫』はどうみても雅文じゃないから擬古文じゃないだろう、と思われる方もいるとは思いますが、ここでともすけ的に解釈して結論を出します。



ずばり現代の言文一致体より前の日本語の文章(漢文を除く)は我々にとっておそらくすべてが古文であり、現代の作家は勿論我々がそれをまねた場合には擬古文となる。例えば鴎外の『舞姫』は明治のあの頃において二葉亭四迷の『浮雲』など言文一致で書かれた作品があるなかであえて文語文で書いたという意味ではその時代においても擬古文であった可能性もある。多分擬古文とは呼ばれず単に文語文であったとは思いますが。



もうひとつ問題となるのは平野が京都大学出身ということです。調べてみると京都大学の入試の二次試験には擬古文が出るらしく(今もどうかはわかりませんが、少なくとも平野の時代には出ていたようです)擬古文に対する平野の理解度というのは相当に高かっただろうと推察されます。これは京都大学出身者、もしくは京都大学の二次試験対策をしていた人に聞くしかありませんが残念ながら僕の周りにはいません。



さらに擬古文と言われることに対しての平野の意見を引用します。
「この小説の文体を評して、擬古文とする向きがあった。私はこれが甚だ不満である。慥かに私は、執筆に丁って、鴎外の史伝物あたりの文体を念頭に置いてはいた。が、別段、擬古文を書いたという積りはない。擬古文とは、抑々或る理想とすべき時代以降、現代に至るまでの言葉の変遷を否定する態度である。鴎外に範を採った擬古文と云うならば、彼以降の日本語の成熟は、顧ないと云う態度である。それが一個人の趣味の次元に止まるならば良い。だが私は、自分の書く小説が単なる趣味的なものに止まる事を欲せない。私は飽くまで、今日までに日本語が獲得して来た表現を踏まえた上で、鴎外的な文体を積極的に取り込んだと云うに過ぎない。事実、好むと好まざるとに拘らず、この小説の中には、明治期には看られなかったような表現が多く使用されている筈である。」(「『日蝕』の為に」『モノローグ』)



『日蝕』での平野の文章を見ればわかる通り擬古文というにしては拙い印象を受けます。これはもう平野文という造語で表現した方がいいかもしれません。基本的にルビを多用し、文法的にも現代文に則って書かれているように思います。ゆえに読みにくいということはないです。青空文庫の『舞姫』などは読むのに手間がかかりますからね。ということで平野は鴎外的に漢字表現にはこだわったけれどもそれを別にすれば現代文の手法で書いたといっていいと思います。石原慎太郎は擬古文と言いますがこれに対し平野が反発したということでしょうか。作者が作品を書き上げた後にこのような釈明をするというところに当時の平野の若さを感じるように思います。



ということで続く。
次は神学、特にトマス・アクィナスについて私見を述べたいと思います。

2015年3月4日水曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その2

さて、『日蝕』ですが、日野啓三の論評から見ていきますと、


日野啓三
「近代小説の正統(ルビ:オーソドックス)の道に自覚的に立とうとする作品として、(引用者中略)推す。気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白に、私は飽き始めている。」「意識的な書き言葉の格調を、最後まで担い通したのは見事である。」「矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者(ルビ:アンドロギュノス)は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。」



読んだ方ならわかると思いますが、近代小説の正統であることは疑いがないと思います。この作品のために1年を費やしたというだけあってさすがに考えられた作りになっています。日野のいう「気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白」というものがどういうものかは分からないですがその当時はそのような気分的なものがあったのでしょう。擬古文のようなものを使った文体を評価し、いわゆる三島由紀夫のロマン主義の系譜に連なる作家であるだろうことを平野との対談で示唆しています。平野は三島の秩序ある文章にシンパシーを感じていたようです。「矛盾した記述は矛盾のままに」は後で述べます。



対して、
石原慎太郎
「いろいろ基本的な疑義を感じぬ訳にはいかない。」「この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。」「浅薄なコマーシャリズムがこの作者を三島由紀夫の再来などと呼ばわるのは止めておいた方がいい。三島氏がこの作者と同じ年齢で書いた「仮面の告白」の冒頭の数行からしての、あの強烈な官能的予感はこの作品が決して備えぬものでしかない。」



まず擬古文かどうかというところに検討の余地があるように思います。石原の言う様に本作における文体が擬古文であるのならば石原の言うこともまんざら間違っていない、ということになると思います。三島由紀夫の再来と呼ばれることに対する三島の同世代人としての反発はあったように思います。『仮面の告白』と比較すると私見を述べると石原のいう官能的予感は比べるまでもなく三島のほうが圧倒的に上でしょう。ただ、僕が平野を擁護したいのは、三島がその作家としての特徴が早熟性にあり、『金閣寺』が頂点であったことに疑いはないと思います。『豊穣の海』はすかすかで様式美としての完全性はあると思いますが官能的予感というものはない。対して平野は今という地点から見ると彼は早熟型ではない。ある意味晩成型であるという予感がします。故に『日蝕』はその平野の出発点だと考えれば十分可能性に満ちた作品であったと言えるように思います。三島の再来というには言い過ぎの感はありますが、三島タイプの作家であることはこれは疑いの余地はないように思われます。




ということで続く。
次は平野の用いた文体は本当に擬古文なのか、について考えてみたいと思います。

2015年3月3日火曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その1

『日蝕』 平野啓一郎。


平野啓一郎というと1975年生まれで僕より一つしたです。
平野が芥川賞を受賞したときは読みましたね。
同世代が在学中に獲ったのだと。
その前に母校で同郷の藤沢周が獲っていたのですが平野にはそれとはまた別のなにやら焦りにも似た気分を感じました。



この『日蝕』については様々な意見があり、結局そのまま掘り下げられずに終わった感があります。
平野も新たな挑戦を新しい作品で繰り返していますしね。
しかし僕としてはこいつをどうにかしておかないと喉に小骨が引っかかった感じでどうにも気分がよくないのです。
ということで改めて読み返してみたのですが、どうやら明確なことは言えそうにありません。
そもそも簡単に言えたら文学としては失格ですよね。
ということで頭に引っかかったことを書きながら、この記事を読んだ誰かが読んでくれればいいなと思いつつ書きます。



日蝕/新潮社
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まず第一に平野のこの言葉をあげておきたいと思います。
「結局私は、芸術作品とはそうした合理的に解釈可能な部分が完全に組み尽くされた後に漸く始まるものだと思っている。作品は或る表現不可能な絶対的なものの表に現れている現象のようなものである。それは最終的には越えられねばならず、モティーフとはその現象を動かす一つの要素に過ぎない。」(「『日蝕』の為に」『モノローグ』)



「芸術作品とはそうした合理的に解釈可能な部分が完全に組み尽くされた後に漸く始まるものだと思っている。」の部分は同感ですね。ここまで到達してからこその文学でしょう。ということで解釈可能な部分を僕なりに考えてみたいと思います。まあ結局のところその「文体」と「神学と錬金術」になると思います。逆に疑問が残って読んでくれた皆さんを混乱させることにならなければいいのですが。そしてそれに敢えてサブカルチャーの要素も取り入れてみたいと思います。
その前に芥川賞選考委員の方々のコメントを。




肯定者と否定者のコメントをあげておきます。


日野啓三
「近代小説の正統(ルビ:オーソドックス)の道に自覚的に立とうとする作品として、(引用者中略)推す。気分的でしかない非現実感や自閉や破壊衝動や終末待望の単調な表白に、私は飽き始めている。」「意識的な書き言葉の格調を、最後まで担い通したのは見事である。」「矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者(ルビ:アンドロギュノス)は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。」



石原慎太郎
「いろいろ基本的な疑義を感じぬ訳にはいかない。」「この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。」「浅薄なコマーシャリズムがこの作者を三島由紀夫の再来などと呼ばわるのは止めておいた方がいい。三島氏がこの作者と同じ年齢で書いた「仮面の告白」の冒頭の数行からしての、あの強烈な官能的予感はこの作品が決して備えぬものでしかない。」



日野啓三は後に平野啓一郎と対談をするなどかなり平野に好意的です。
対する石原慎太郎は否定的です。石原は何者に対しても否定的ですが彼の求めるサルトル的な人間はもう文学では出てこないと思います。ゆえに選考委員を辞められたのも致し方ないことだと思います。



ということで続く。

2015年3月1日日曜日

オディロン・ルドン展

2013年11月2日から新潟市美術館で開催されていた、『オディロン・ルドン―夢の起源―』、見に行ってきました。
オディロン・ルドンは東京で見損ねていたので新潟に来たのはラッキーでした。


新潟市美術館は中央区西大畑というところにあります。
古町という商店街をさらに下のほうへ行ったところ、いまは結構さびれたところです。
もしかしたら海が近いかもしれないです。
近くに「マリンピア日本海」という水族館もありますね。



ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

東京の上野の美術館に比べるとかなり地味な感じですが中に入るとそれほど変わりません。
駐車場はそこそこ広いですが土日は混むので駐車できないと思った方がいいかも。




ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

『オディロン・ルドン展』やってますね。
入りまーす。



入口横の受付でチケットを購入。
コレクション展もやってます。
『ルドン展』のチケットで入れますが単独だと200円かかります。



ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

入場券と音声ガイド、それにメモ用の無印良品のノート。
音声ガイドがちょっと古いのが気になりました。



そして入場。


3部構成に分かれていました。
第1部 幻想のふるさとボルドー ―夢と自然の発見
第2部 「黒」の画家の登場 ―怪物たちの誕生
第3部 色彩のファンタジー
です。



詳しい感想については後日書きますが、僕のなかではルドンは「黒」の画家のイメージがとても強かったので後期の色彩の鮮やかさには感動では言い表せないほどの衝撃を受けました。
「黒」のマラルメやボードレール、フロベールといった詩人、作家との影響関係というのも大変興味深いのですが後期の神話的なものへの回帰、そして子どもと曲線を色彩豊かに描いた作品群などはルドンという画家の感性の抜けた豊かさ、その成熟を感じさせました。
イーゼルにかかっていた未完の作品は息子への愛をかんじさせるとても暖かなものでした。



ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

この赤はレッドオーカーというらしいです。
左の余白にはいったいなにが描かれる予定だったのでしょうか。



150枚を超える絵画、参考資料が展示されていたので観るのに3時間ほどかかりましたが後半は速足になってしまいました。
機会があればもう1度行きたいですね。




ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

付箋を買いました。
あとバッチですね。
どこにつけるんでしょうねw
ジャケットの胸にでもつけましょうか^^




ともすけの読書と音楽鑑賞の日々

今回展示されていた絵画をすべて含んだ冊子。
開いてみて残念なことはやはり本物の質感とはまったく違うところですね。
これはしょうがないことですが。
でもそこは記憶で補完w
詳しい解説が付いているのはありがたいですよね。



こんな感じでした。
いや~絵画は奥深いな~。
Odilon Redon 恐るべし…。



…と、2015年のいま振り返ってみると、マラルメと同時代かと思うとやはり興味深いです。マラルメの『賽のひとふり』とか、あの時代のモダニズムの持つ雰囲気… ちなみに『賽のひとふり』は新潟県立図書館では新品同様の状態で書庫に入っています。この時代は面白いなと思います。第2次大戦後もサルトル~フランス現代思想とフランスの時代が続きますよね。フランスは1度は行って見たい。東浩紀はフランス現代思想はドイツ哲学の逆輸入だと言ってましたけど、確かにニーチェ~ハイデガーというドイツが強力な時代があって、それをフランスの哲学者が洗練させたというのはあったのかも。