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ノーベル文学賞を受賞した作家、バルガス・リョサの『継母礼讃』です。ポルノグラフィックな作品とされているようで読み手を選ぶかもしれません、というかポルノグラフィーですね。ただ、作品の構成の見事なところやその洗練された文章表現から考えるに、僕は作品の芸術性を十分に認められるのではないかと思います。しかし人によっては単なる官能小説とみなす人もおられると思うので、人前で読むときには気をつけましょうw バルガス・リョサの作品のなかでは短くて読みやすいことは確実です。そしてバルガス・リョサの知性と感性に裏づけされた豊かな想像力を感じられる作品になっていると思います。
この作品は題名から察せられるとおり、美しい継母ルクレシアと息子アルフォンソ、そして夫のリゴベルトを中心とした話になっています。物語は14章+エピローグで構成され、その間に6枚の絵画が挿入されてます。そしてこの物語の核心を暗示するアーニョロ・ブロンズィーノの『愛の寓意』が表紙を飾っています。
ヨーロッパには人物、特に女性の姿によって抽象的な概念や美徳を表すという伝統がありました。絵画を見ていると、なぜここに果物が?瓶が?あれ、この画にも同じように描かれている!とか思うことがあると思うのですが、これはアレゴリー(寓意)なんですね。このアーニョロ・ブロンズィーノの『愛の寓意』はその集大成とされています。では画を見てみましょう。わかりにくいかもしれませんが、真ん中の女性は愛の女神ヴィーナスです。彼女は黄金のリンゴを持っています。そしてその前(左)にいるのがヴィーナスの息子のキューピッドです。この二人は接吻をしています。寓意も何もないかもしれませんが、そこにはこの『継母礼讃』においては継母ルクレシアと息子アルフォンソの愛欲が暗示されています。
画の配置について見てみましょう。ヴィーナスの持つ黄金のリンゴは禁じられた愛、右の赤い薔薇の花を持っている少年はどうやら快楽、左下の鳩は愛撫を意味するらしい。以上が前景の部分ですが、その後景の部分を見てみましょう。左下の髪を掻き毟る老婆=嫉妬。右には少女の顔と獣の下半身を持ち蜜蜂の巣を差し出している。この画像からは見えにくいでしょうがもう片方の手には蠍を持っている。この少女?は欺瞞のアレゴリーらしいです。その手前にある仮面も顔を隠すということから欺瞞のアレゴリー。ではもう1度ヴィーナスとキューピッドを見てみましょう。ヴィーナスはキューピッドの矢を取ろうとしています。そしてキューピッドはヴィーナスの髪飾りを外そうとしています。そしてそれを右上の老人(時の翁)がヴェールを剥いでいくことによって徐々に明らかにしようとしています。
と、読む者にこれだけの情報を与えて物語は始まります。第1章はアルフォンソがルクレシアに誕生日のお祝いの手紙を書いたところから始まります。継母は喜びのあまり息子の部屋を訪ねると、息子は継母に愛撫をしてきます。その愛撫が少し度を越しているのではないかと継母は感じながら、その後夫と閨を共にします。リゴベルトは言います。「おまえはリディアの王の妃だ」
第2章では、ヤコブ・ヨルダーエンスの『カンダウレス王寝室のギュゲス』が挿画としてあります。
カンダウレス王はご存知でしょうか?リュディア王国の王です。画の女性はカンダウレス王の妃ニュシアです。右にいる男は臣下のギュゲスです。カンダウレス王はヘロドトスの『歴史』に出てきますし、アンドレ・ジッドも書いています。僕の手元にあるのはテオフィル・ゴーチエの書いたものです。カンダウリズムという言葉ができるほどに有名な人物です。
「カンダウリズム(Candaulism)とは、原義的には、自分の妻の裸体を第三者に晒すことによって興奮する性的嗜好のこと。リディアの王・カンダウレスが自分の妻の裸体を家来に見せていたことが語源である。」(Wikipediaより)
バルガス・リョサは本作品でルクレシアをニュシアと重ねて描いています。カンダウレス王はニュシアが最も美しい形象で愛すべきものだとギュゲスに誇るためにニュシアの裸体を見せるのですが、そのことによりニュシアの反感を買い、ギュゲスの手によって殺されてしまいます。本作品ではルクレシアがニュシアに比肩する美しい形象なのだということを重ねています。つまりリゴベルトのルクレシアに対する偏愛的な思い入れを示しているのだろうと思います。上の画を見ると感じられるように、ニュシアのお尻は大きいですよね。そこをこの章ではこと細かに描いているところがユーモアの部分でもあるのかなと思われます。
第3章、4章
ルクレシアはアルフォンソが浴室を覗き見していることを召使のフスチニアーナから聞きます。でもそれはアルフォンソの肉欲から来ているわけではないようなのです。彼の目には継母が女神のように見えているようなのです。女神の裸体を見てみたいというある種の神聖さを感じます。
アルフォンソ「・・・それは、それは、きれいなんだ・・・・・・聖体を受けるときと同じで、涙が出てくるんだ。映画を見ているみたいなんだ。たぶん、だから目頭が熱くなるんだ」
ルクレシアはそれからも浴室を覗くアルフォンソを知らないふりをします。そしてさらにはその裸体を見せつけるような態度まで取るようになります。そしてベッドに戻ると、自分の浴室での慎みを忘れた振る舞いに怒り震えます。そして、アルフォンソのせいで自分が堕落していくと感じます。そんなことがありながら夫のリゴベルトは妻への偏執的な愛を高ぶらせ、ルクレシアをよく聞くために耳の掃除を丹念に行っています。
と、ここらへんであらすじの説明は止めておきます。書くのに疲れたからじゃないですよ!これ以降は興味のある方は作品を読んでくださいますようにお願いします。いわゆるテレビドラマ(昼ドラ?)のような終わり方ではない気がします。この頃ドラマをあまり見ていないので、たぶん。。。
ここからは、挿入されている絵画を軸としてちょっと書き足したいと思います。
第5章に挿入されている絵画は、フランソワ・ブーシェの『水浴の後のディアナ』です。
一転、狩猟と純潔を司る神ディアナが狩を終え、ニンフと共に泉に休んでいるという物語展開になります。
といっても「快楽の巨匠」といわれたブーシェの作品ですから、この章にも謎が隠されていそうです。この章でも、ディアナとルクレシアを重ね合わせて話が展開していきます。ニンフは召使のフスチニアーナとなります。画からディアナとニンフの関係に同性愛を見出すことができると思います。ゆえにルクレシアとフスチニアーナもそのような関係であると暗に示しているといえるでしょう。
第7章に挿入されている絵画は、ティツィアーノ・ベチェルリオの『ビーナスとキューピッドと音楽』です。
この画に登場するのは、ヴィーナスとキューピッド、そしてオルガン奏者です。ヴィーナスはルクレシア、キューピッドはアルフォンソと容易に想像がつくのですが、オルガン奏者が何者なのか。本作品のなかでは、ヴィーナスとキューピッドが仲睦まじくしているのを、オルガン奏者(オルガニスト)がある一点を眺めている、しかしそれに気を取られて演奏を止めてしまってはならない。そんな風にバルガス・リョサはこの画を解釈しているように思えます。
第9章に挿入されている絵画は、フランシス・ベーコンの『頭部Ⅰ』です。
この章はこの「頭部」の語りがすべてです。
だから一見、この物語のなかで浮き出ているように見えますが・・・。
一部引用してみましょう。
「わたしは左耳を食いちぎられた。たぶん、どこかの人間と争っていたのだろう。しかし、残ったその繊細な窪みで世界の物音をしっかりと聞くことができるし、目も斜めになっていて不自由だが、見ることもできる。すぐには気づかないが、わたしの口の左にある青味がかった隆起がわたしの目だ。そこにあって、目の役割を果たし、形と色を識別できるというのも、医学の驚異、我らが時代を特徴づける驚くべき進歩の証である。
・・・今いるこのガラスの立方体がわたしの家である。こちらから見えるこのガラスの家は、外から覗くことはできない。恐るべき陰謀の渦巻くこの時代、安全を確保するのにこれ以上適した家はない。ガラスは防弾だし、細菌も放射線も音も通さない。わたしを――もちろん、わたしだけだが――楽しませる腋臭と麝香の匂いがここにはたちこめている・・・」(P99~100)
と、引用しておいてなんですが、この『頭部Ⅰ』の口から下の顎の飛び出た部分、それが鼻であろうかと思います。その「鼻」についてのリゴベルトの執拗な、またルクレシアへの偏執的な愛がまた語られるのです。このリゴベルトという男の信条が一番よく書かれているところは、おそらく第6章にあると思います。
「人間性を高め、完成させることは、一人一人の個人にのみ可能で、おそらく、空間(例えば、身繕い、肉体の清めとか、性行為)や、時間(眠る前の沐浴や気晴らし)の一定の範囲に限定されるように彼には思えた。」(P64)
一方、ルクレシアとアルフォンソの間では次のような会話が交わされます。「ママ、ママの知らないことを教えてあげるよ」「広間の絵のなかにママがいるよ」「でも、広間の絵にはシシュロの抽象画しかないわ」「あれがママなんだよ」「ママ、ぼくは今朝それに気づいたんだ。でも、死んでも訳は言えないよ」
そのシシュロの画が下の画像です。
フェルナンド・デ・シシュロの『メンディエータ10への道』です。この画がなぜルクレシアなのかは、第12章を読むと明らかになります。シシュロに関しては日本語のWikipediaの情報が少なすぎるので、英語版のリンクを貼っておきます。ペルーの画家です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fernando_de_Szyszlo
そして第13章がこの作品の山場だと言っていいでしょう。リゴベルトとアルフォンソの対話場面。第13章のタイトルは「悪い言葉」。この悪い言葉が、天使のようなアルフォンソの口から出たことがきっかけで物語はガラリと様相を転じます。このあとのアルフォンソの言動に対するリゴベルトの動揺が、僕にとっては大爆笑ものだったのですが、それはおそらく僕が高級な人間ではないからでしょう・・・。アルフォンソがナイチンゲールが歌うような声で、はたまたセイレーンの歌うような声で、悪夢のような言葉をリゴベルトに投げかけます。その度に動揺を隠せないリゴベルト・・・。アルフォンソは宿題に作文を書いてきたと言います。その題名が『継母礼讃』。
リゴベルト「なかなかいいね、とてもいい題だね」「ちょっとエロティックな短編小説に聞こえるね」
リゴベルトは、読ませてくれるかい、と息子に聞きます。アルフォンソは有頂天になって父にそれを見せます。そこでリゴベルトは眼鏡をかけ、フロアースタンドの灯りをつけて、なおかつ、声に出して読み上げてしまうのです。リゴベルトが求めた完全性などというものは脆くも崩れ去り、別の意味で完全な存在となります、欲望のない存在に。そして、堕天使(ルシフェル)こそはアルフォンソだろう、と。
そんななかにルクレシアは友人宅から帰ってきてリゴベルトとアルフォンソにただいまの投げキスをします。「今晩は、ごきげんいかが? あなた、それから小さな紳士さん」。
第14章に挿入されている絵画はフラ・アンジェリコの『受胎告知』です。
ここで、『受胎告知』を持ってきたというのは解釈に若干の難しさを与えていますが、それゆえ作品として洗練されたといえるのではないかと思います。
僕の私見ですが、聖母マリアは当然ルクレシア。おそらくルクレシアのまだ「愛の女神」となる前の少女時代に時間は遡っていて、大天使ガブリエルは、ルクレシアにアルフォンソを受胎したのだと告知しに来たのでしょう。イエスの受胎告知を、リゴベルトにいわせるなら堕天使のアルフォンソの受胎告知に書き換えるというのは、面白い仕掛けではないかなと思います。そしてキリスト教の象徴的存在である聖母マリアも愛(この場合肉欲)の女神ルクレシアへと変換してしまうという・・・。
そしてエピローグ、となります。
かなりぼかして話の肝は漏らさぬように書いたつもりですが、書いてしまっているような気もします。本文自体がかなりエロティックなので、読んでいて戸惑う方もいらっしゃると思うのでご注意を。僕もバルガス・リョサの『楽園への道』の記事がなかなか書けないので、とりあえず一番薄いものを、という感じで選んだという次第です。この作品は続編がありまして、『ドン・リゴベルトの手帖』というのがあります。
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『継母礼讃』を読んで面白かった方は、次はこちらをどうぞ。僕も読む予定ではありますが、その前に『楽園への道』の記事をなんとかしたいと思っています。
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