2015年2月22日日曜日

舞台『海辺のカフカ』 村上春樹原作 蜷川幸雄演出 その1

2014年7月4日、東京の赤坂ACTシアターで『海辺のカフカ』の舞台を観てきました。朝の新幹線で新潟を立ち、小雨が降りしきるなかを赤坂まで行ったわけですがなかなか面白い舞台であったように思います。蜷川幸雄の演劇は5月に観た『わたしを離さないで』からの2回目。『わたしを』のブログ記事は初蜷川ということもあり少々神経症的なナイーブな書き込みになってしまったのでこちらはもう少しオープンな記事にしたい…でも書いてるうちにどうなるかはわかりませんw








キャストから書いていきましょう。プログラムのキャスト順に書いていきます。主要キャストだけです。


宮沢りえ  佐伯
藤木直人  大島
古畑新之  カフカ
鈴木杏   さくら
柿澤勇人  カラス
高橋努   星野
鳥山昌克  カーネル・サンダーズ
木場勝己  ナカタ








13時半開演でした。
真っ暗な舞台が明かりに照らされいくつものショーケースのようなガラスのボックスが現れます。中にはトラック、木、少女など。この少女はネタバレですが若い頃の佐伯さんです。『カフカ』の世界を象徴する場面が描かれているのです。「野方駅前商店街」からの始まりです。野方は東京都中野区にあります。「田村カフカ」くんと「ナカタ」さんは中野区に住んでいます。次々にボックスが現れてきてそこで舞台は進行していきます。以降はボックスについては省略します。



田村浩一、田村カフカくんの父親の書斎でカフカとカラスがソファに座っています。いつものゲームをしよう、と二人は目を閉じます。まわりは砂嵐だ、僕たちにできることは目を閉じて砂が体内に入らないように一歩一歩進んでいくことだけだ。原作にもあった場面でこれからカフカくんが出会う砂嵐をどうきりぬけ、そのあとに自分がどうなるのかという物語のすべてを暗示させるゲームですね。「きみは世界で1番タフな15歳になる」。



と、こう書いていくとまた長くなりそうなので飛ばすところは飛ばします^^




戦中のお椀山でのナカタさんの担任の女性教師がGHQの取り調べを受けているシーン。そして野方駅から四国へ向かったカフカくん、高松駅のパーキングで同じ高速バスに乗っていた美容師のさくらと知り合います。さくら役の鈴木杏さんは僕のイメージしていたさくらとは違いました。僕のなかではもっとダミ声でちょっと悲しげな影を持っているというような印象だったのですが綺麗な声で思ったより快活なお姉さんという印象でした。舞台というのは原作に役者さんが肉付けをしてくるので、なるほどそういう解釈もあるよね、と新鮮さを感じることができますよね。またネタバレになりますが原作ではさくらがカフカの自慰行為を手伝う場面があるのですがそこは削られていました。僕はカフカにとってとても重要な場面だと思うのですね。それによりさくらの物語での重要度がいくぶん下がったなとは思いました。ここで重要なのは「袖触れ合うも他生の縁」ということになるでしょうか。



野方でナカタさんが初登場した場面。ナカタさん、60歳くらい?字が読めなく頭が悪いので知事から補助を受けてくらしている、たまに猫探しをして得たお金で鰻を食べるのを楽しみにしている、みたいな人です。非常に重要な登場人物です。『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ、『罪と罰』のソーニャに相等するのではないかと個人的に思ったりします。物語のキーパーソン中のキーパーソンなので活躍の度合いは先の2人以上です。ナカタさんは猫と話ができるのですが、それが舞台だと非常にコミカル。猫の着ぐるみを着て役者さんが演技しているので猫が話し出すと観客席から笑いがw 「羊男」や「かえるくん」など村上春樹の小説には想像力を掻き立てる動物?がたくさん出てきますよね。人間サイズの猫なので小説とはまた違った意味のユーモアを感じさせました。



それでナカタさんは猫に「オオツカさん」とか名づけていくわけですね。この名づけというものも『海辺のカフカ』のなかで非常に意味を持ってくるように思います。誰もが名付けられたもので真の姿を見せない、見せることができない、というところがガラスのボックスのなかで演じられる虚構の現実というものを暗に意味しているのでは…そこまでは深入りしすぎているのでここらへんで。



ナカタさんの影が半分というのは小説でもプラトンの『饗宴』で書かれているように、この世界の男男、男女、女女を神様が半分にした、それゆえ人間はその片割れを探している、つまりナカタさんは半分でそこには誰かの影が入る余地がある、そこにいろいろな人が入ってくるのだろうなと思います。なぜ影が半分なのかは原作を読んでいただきたいと思います。重要な箇所だと思います。



そして甲村図書館にやってくるカフカくん。ここで藤木直人さんが登場です。図書館司書の大島さんという役ですが僕の小説での印象とはかなり違いました。大島さんは生物学的に女性ですが性同一性障害を抱えていてこころは男性です。そして性的対象は男性です。つまりゲイです。この難しい役どころを藤木さんがどう演じるのか、と実はかなり興味を持っていたのですが、あ、こんな感じか!とちょっと虚を突かれたというかかなりストレートに演じている印象を受けました。複雑な設定の人物なのでひねってくるかなと思っていたのです。大島さんはそんなに感情を表に出さないで淡々と語る人と思っていたのですが藤木さんは見事に僕のなかの大島さんを豊かにしてくれました。先取りになりますが大島さんはカフカくんを性的対象として見ている、そこまでストレートに言うべきではないかもしれませんがかなり気に入っている、これは舞台を観ることによって体感的に得られたものでした。



そして宮沢りえさん演じる佐伯さんが登場。佐伯さんは若い頃に『海辺のカフカ』という歌で一世を風靡したのですがわけあって姿をくらまし、今は甲村図書館を管理しています。50歳くらいの設定だと思います。その前に『オイディプス王』の物語が本作品においては重要な位置を占めていることを言っておかなければいけません。簡単に言うと、父を殺し母と姉と交わるという悲劇なのですがその呪い?原罪?にとりつかれた少年カフカくんの物語でもあるのです。舞台ではカフカくんを見て佐伯さんが驚く場面が追加されています。このシーンを入れることによって解釈が絞られてしまうのではないかと僕は思ってしまったのですがほかの人はどう思ったのでしょう…。宮沢りえさんはテレビと印象がかなり違いました。といっても最後に見たのはNHK大河ドラマだったと思います。声が与える印象がテレビと全然違って、なんといったらいいのか細くありながら凛として響く声で佐伯さんがこの作品で占める時間、彼女はあるときから時間が止まっていると僕は思うのですがそこから本来の佐伯さんの時間まで、の幅の厚みをカヴァーしているなと感じました。宮沢りえさんが動くと舞台の空気が動くような、そんな印象でした。



ここで余分なことを書くと、佐伯さんの恋人は学生運動の時代にセクトと間違われて酷い死に方をしているのです。そこから佐伯さんはある意味で時間が止まってしまっています。それは佐伯さんの半身はその恋人だったからです。つまり佐伯さんも影を半分しか持っていないのです。そしてこの甲村図書館は恋人の家の私設図書館です。「人が半身で生きていくのはとてつもなく大変なこと」なのだということが小説、舞台を通してこの作品では語られます。カフカくんにとって佐伯さんの微笑みはひだまりのようだった、それは野方の空き地のひだまりを思い起こさせます。この表現は小説にありましたかね。それは母のようなものを感じさせたというと言いすぎでしょうか。



カフカくんは黙々と読書をしながら体を鍛え続けています。ベンジャミン・フランクリンの徳目を守り続ける古いアメリカの男性のようです。それと並行してナカタさんはカワムラさんという猫を探していて犬に吠えられます。カフカくんも犬に襲われます。ナカタさんは犬に連れられジョニー・ウォーカーのもとへ。これは舞台だから明らかであると思いますがジョニー・ウォーカーは田村浩一、カフカくんの父親です。初めにカフカくんとカラスのいた書斎と同じだからです。しかしそこにも想像を働かせる余地はある気はします。断定はしないほうがいいかもしれません。ここでも名づけということが重要になってくるのではと思います。名づけと僕が勝手に呼んでいるので小説でも舞台でも一言も「名づけ」という言葉は使われていません。人(猫も)の姿には名前が必要だ、とはジョニー・ウォーカーは言っています。彼はジョニー・ウォーカーでもあり、田村浩一でもあり、そして…ということです。ウォーカーは暴力について語ります。この世界の暴力。この世界は暴力で溢れている、誰もそれからは逃れることはできないのだと。そして猫を殺し始めます。



この時点でカフカくんのTシャツは血だらけになっています。時間がずれているのです。これはどういうことなのかと小説はどうなっていたかなと気になるところです。読む時間がないので気になった方は確認してみてください。この時間の差が意図的なものなのかどうか。カフカくんはさくらに助けを求めさくらの住んでいる彼女の友だちのアパートに身を寄せます。ざっくり言うとさくらがお姉さん(のメタファー)なわけですが自慰行為の手助けの場面はカットされています。その代わりに意識と記憶についての二人の会話が多少小説よりわかりやすく盛り込まれていた気がします。その後カーネル・サンダーズに紹介された19歳の女子大生のベルクソン解釈とつながっていきます。そして自慰の場面の代わりにさくらがカフカくんを背中から抱きしめるシーンがあります。これ以降の夢の中でカフカくんがさくらを犯す場面もカットということでそれをカットというのはどうなのだろうと正直思いました。夢の持つ意味、それが持つ責任の問題は他のところで語られていたかな?1度観ただけでは把握できなかったです。多分あっただろうと思います。このまま書き続けます。



この間に戦中のお椀山での出来事を女性教師が告白する場面が挟まれていました。ナカタさんの学級はお椀山できのこを取りに行ったわけですが、きのこということも僕には意味のあることだと思います、その前日烈しい性的興奮を覚えていた女性教師がきのこ狩りの途中で突然の月経に襲われ出血を止めた手ぬぐいをナカタさんが手に入れる、そしてナカタさんを気を失うまで殴り続ける、周りの子供たちも意識を失う、そんな流れですが、そのときナカタさんは一人だけ長く意識を失ってしまう。そして彼だけが平行世界の向こう側に行ってしまう。入り口が空いていたからです。そして向こう側に影の半分を置いてきてしまう。理不尽な暴力が人間を損なわせてしまう。佐伯さんの恋人に対する理不尽な暴力。そして太平洋戦争における理不尽な暴力も。当然カフカくんの抱えている意識を失ってしまうほどの暴力への衝動も関わってくると思います。ここは僕の解釈が混じっているので違った考えの方もおられるでしょう。ひとつの考えとして書いてみました。




ナカタさんはジョニー・ウォーカーを殺します。猫を殺す浩一。それは猫の魂を集め大きな笛をつくるためです。その笛をもとにさらに大きな笛をつくろうとします。浩一は猫を殺すことに意味はなかっただろうと思います。しかし、なにかボタンの掛け違いがあり猫殺しの歯車が回ってしまった。そんな浩一を止めたのがナカタさんということになるでしょう。「長く生きてきた。生きた気がしない。自分で自分の命を断つこともできない」浩一の悲鳴でしょう。この後甲村図書館ではカフカくんに大島さんがカフカの『流刑地にて』について話します。処刑機械の話でそこで大島さんはさらにナチスのアイヒマンを例に出します。アイヒマンはいかに効率的にユダヤ人を処理することができるかを考えた官僚としては非常に有能であったと思われる人です。彼は絞首刑になりましたが、自分は自分に与えられた命令を実行しただけだというわけです。本作品ではジョニー・ウォーカーの猫殺しと笛つくりと重ね合わされているように感じました。彼も猫を殺したいわけではない、でも大きな笛をつくるためにそれは必要だったのでしょう。ナカタさんはそれを止めた。浩一が猫を殺すか?それともナカタさんが浩一を殺すか?



甲村図書館ではカフカくんにカラス(もしかして大島さんだったかも。すいません記憶が曖昧です。おそらく小説と同じです。)が語りかけます。「夢の中から責任が始まる。言い換えれば責任のないところに想像は働かない」アイヒマンは責任を取らされましたがそれはナチスという組織の無責任さを事後的にとらせたということで、ナチス自体には責任の所在を明らかにするシステムがなかったために暴走したのだと考えていいのではないでしょうか。そしてカラスは続けます。「この夢は誰の夢なのかは関係ない。同じ夢を見たのだから責任は我々が引き受けなければならない」のだと。浩一を刺したナカタさんに浩一は言います。ナカタがナカタでなくなることが大事なのだと。ナカタさんは何になったのでしょうか。ナカタさんは影が半分しかありません。そこに乗り移ったのは…カフカくんなのか、それとも浩一なのか…。



というところで1部が終わりました。85分です。

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