- 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)/角川書店
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吉本の初期の著作で、読んだ人はだいたいわかると思うのですが、言語作用を「自己表出」と「指示表出」にわけていますね。僕的に解釈すると「自己表出」が詩などの芸術的表現で使われる言語、「指示表出」がコミュニケーションで使われる言語、といったところでしょうか。文庫本2冊を2行足らずでまとめたので、気になる方は本書に当ってみてください。
それで最近読んだ本、『吉本隆明が僕たちに遺したもの』を読んでいたら、加藤典洋氏、村上春樹の評論でも有名な方ですね、『敗戦後論』とかも、が『言語美』について非常に明解に書いていてくれていたので、備忘録として残しておこうと思います。1785円出せる方は買ってみてください^^
- 吉本隆明がぼくたちに遺したもの/岩波書店
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加藤氏が言うには、吉本は解剖学者三木成夫の『生命形態の自然誌』を読んで、自分の『言語美』とつながったのだと言います。三木成夫は簡単に言うと、生物を動物と植物の分岐点まで遡り、そこにどんな違いがあるのかということを見つけ出しました。動物というのは特に人間ならば、体壁系と内蔵系に分かれます。体壁系というのは五感ですね、神経、皮膚などからだの外側です。内臓系はもちろん、心臓、肝臓、腎臓など、からだの内側。人間の意志の力が届くのは体壁系まで。食道以降の内蔵系は意志の力でどうするかは難しい。体壁ならば痛いとか痒いとか知覚することは容易ですが、内蔵系は「なんとなく感」でとらえるしかない。「なんとなく感」というのは僕の造語です^^ 胃が重いな~とか、もたれてるな~とか、加藤氏は「気分」と書いています。
三木はこの内蔵系を、生命が動物と植物に分岐するときに植物的部分が居残ったものと想定します。それを読んで、吉本は自分の言いたいことがわかったと感じた、と加藤氏は言います。つまり「自己表出」とは内蔵系で、「指示表出」というのは体壁系のことで、このふたつが共存しているということは人間の本質なのだと。内臓系と体壁系は相矛盾するのですが、なぜ矛盾するかをまず加藤氏は、フロイトの『精神分析入門・続』を引用しています。
その前に三木の解剖学で大事なのは、人間→動物→植物→と遡っていったときに、たとえばアメーバまで遡って、そして無機物までにも遡ったとしますね。そうすると人間というのは無機物から有機物になった瞬間というものがあるということになります。僕の仮定ですが、たぶん生物学的にも間違っていないと思います。そのときの感覚を無意識が記憶している、人間みなが共有しているとします。そしてフロイトの引用です。
「生命は、考えられないほどの遠い昔に、想像できないような方法で、生命のない物質から誕生したと言われますが、それが真実であれば、わたしたちの前提に基づくと、生命を消滅させて、無機的な状態をふたたび作りだそうとする欲動が、その時点で発生したはずなのです。
この欲動はわたしたちが想定している自己破壊的な欲動であり、これはすべての生命プロセスの中で作動している死の欲動の現れと理解することができるのです。」(『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』光文社古典新訳文庫)
無意識に装置としてタナトスが組み込まれている、無機物に還りたいという欲動が人間には太古の無意識として存在するということを言っているわけですね。フロイトは生命には必ず、「生きていることへの違和感」があると言います。なにか変じゃないか?僕的に言わせてもらうと、なぜ生きているのだろうという不思議ですね。この言い方を、肯定的にも否定的にもとってもらっていいです、エロスとタナトスの関係というのは表裏一体だと思いますので。フロイトはそこから「死の欲動」へと進むわけです。しかし、ここで吉本がどう考えたかというのを加藤氏はこう書いています。「生きていることへの違和感」を「原生的疎外」と名づけようと。簡単に「死の欲動」に進まないのですね。マルクス主義的な名前の付け方が吉本らしいですよね。このことについて吉本は、『心的現象学序説』で次のように書いています。
「生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんがえられている。」(『心的現象学序説』)
加藤氏のいうには、吉本はフロイトのように考えないなら、どうなるだろうか、と吉本は考えたといいます。人間の「原生的疎外」を無意識の「死の欲動」に簡単に運ばず、これを逆に生命化して=「生命体としての異和」と呼べば、人間は人間であることのなかに「生命体としての人間」の領域を持つことにならないだろうかと。そうすると、と最初の『言語美』に戻りますが、言語が「自己表出」と「指示表出」の相乗構造だとすれば、僕的に吉本の言葉を使って言わせてもらうならば踏み込んで「自己表出」と「指示表出」の「逆立」が起きるとすれば、人間は生命体と意識体の異和構造だということになるということです。
人間は1階部分に生命体としての異和をもち、2階部分に意識体としての異和をもつ。これもマルクスの下部構造、上部構造から出てくる考え方だと思いますが、そうなると三木の解剖学をもう一度考えてみると、その2階部分というのは体壁系で、1階部分は内蔵系ということになります。
ここからが僕の考えと違うところで、僕は「自己表出」は内蔵系から生まれると思いました。それは意識できない部分、僕的にいうなら「なんとなく感」でしか表現できない部分=「生命体としての異和」から言語としての美が生まれる。この意識作用の及ばない淵源部分からいかにして美を生み出してくるか、それが美というものなのであろうと僕は考えました。しかし、吉本はこの2階部分と1階部分を「先端と始原」として両方向性の「逆立」を美を生み出す装置だろうと考えているので僕よりもはるかにラディカルですね。この試行錯誤を繰り返しながら、残念ながら吉本は世を去ってしまったわけです。ただ、この考え方を吉本はひとつの発展型として『母型論』で提示しているらしいので気になる方は読んでみてください。
ということで『定本 言語にとって美とはなにか』は、吉本の言語というジャンルの天地創造を狙ったものであったようです。まあ、「先端と始原の二方向性の逆立」というのは吉本らしさ全開ですよね。ここらへんが世間では理解されづらいところだったかと思います。
この、『吉本隆明が僕たちに遺したもの』を読んでいて、吉本の思想を辿っていくうちに、、戦後思想という意味でアメリカのプラグマティズムに非常に興味を持ちました。スコット・フィッツジェラルドを読む上でもプラグマティズムは避けられないですね。日本では村上春樹などですね。ウィリアム・ジェイムズは僕の最も尊敬する作家夏目漱石に与えた影響などを考えると読んでみなければと思います。プラグマティズムという視点で南北戦争というものを考え直す意味で、トマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』ももう1度読み返したい、たぶんピンチョンは意識していると思う…たぶんですw ドルー・ギルピン・ファウストなども面白そうな本を出しています。読書熱は深まるばかりです。
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