2015年2月23日月曜日

舞台『海辺のカフカ』 村上春樹原作 蜷川幸雄演出 その2

舞台『海辺のカフカ 2014』 その2



第2部です。20分の休憩を挟んで100分です。



第1部と同じく野方駅前商店街から始まります。浩一を殺したナカタさんは自首するために交番に行きますが相手にされません。ここはコミカルな雰囲気で描かれています。サンマやアジが空から降ってくるので気をつけてください、みたいなところですね。その後ナカタさんは入り口の石を見つけるために四国に行きます。そこに連れて行ってくれるトラックの運転手がホシノちゃんです。「ホシノちゃん」とはカーネル・サンダーズしか呼んでいないのですが親しみを込めてホシノちゃんで行きます。



甲村図書館に女性の権利を保護する団体らしき2人の女性がやってきます。ここで大島さんが自分が性同一性障害のゲイであることをカフカくんにカミングアウトするわけです。僕は小説ではこの場面で大島さんの決定的ななにかに触れたという感覚があって、村上春樹はどこかでさくらについて言及するとき自分は「そのときさくらになる」と言っていたと思います。だからここを書くとき春樹は大島さんになっていた、だから大島さんはこのとき神がかり的になにかを訴えていたという記憶があるのですが、舞台においては役者が演じるためその人物の透明性が薄れ色彩が役者に委ねられると思います。この舞台では藤木直人さんに委ねられた。彼の演じる大島さんは僕が思っていた以上に男性的でした。肉体的に女性であるということの先入観を抱かせない、でもマッチョでもない、先ほども書きましたが僕には大島さんに言葉の上での偏見がありました。それを上書きしてくださる演技でした。きっと僕がもう一度小説を読み直したら新しい大島さんを発見することができると思います。



その間にホシノちゃんとナカタさんは四国に向かっています。パーキングで食事をとったりする場面ではホシノくんとナカタさんのユーモラスな部分が出ていました。この二人の組み合わせはちょっと現実ではなかなかありえないと思います。孫とおじいちゃんの珍道中みたいな。小説では想像できなかったところが視覚化されてみると強烈なイメージとして焼きついてきます。ナカタさん役の木場勝己さんの演技がやはり想像以上にインパクトが強かったのです。ああ、ナカタさんはこうやって毎日を生きてきたのだな~と愛着を感じる演技でした。甲村図書館ではカフカくんと佐伯さんがいよいよ接近します。ガラスのボックスのなかの蒼い衣の少女が昔の佐伯さんであることが明かされ、「海辺のカフカ」の歌が流れます。歌の内容から察するに佐伯さんと恋人の甲村さんのことを歌っているのだろうなとは思いますがちょっと難しいですね~。ここはそれぞれの人の想像に任せられるしかないのでしょう。



あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。


世界の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
どこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。


溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
蒼い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。



ナカタさんは歌にあるように入り口の石を探しにきました。舞台では「LPレコードほどの大きさ」という表現が使われていました。その入り口の石をそろそろ誰かが動かさなければならないときがきている、その役目がナカタさんに与えられたと。



佐伯さんの書斎ではいよいよ切羽詰った感じになってきます。舞台の速度が上がって行きます。佐伯さんとカフカくん。カフカくんは佐伯さんが自分のお母さんではないかと疑うのですが、佐伯さんは答えません。ただ、自分が損なわれていくのを感じている、自分が時間の経過とともにあるべきものではないものに変わっていってしまうことに恐怖しています。そして過去を思い起こし、15歳のときのわたしは「どこか別の世界に行ける入り口がある」と思っていたと告白します。僕は佐伯さんはおそらく別の世界に行ったことがあるのだろうと思います。そして実際行ってみたらそこはとても苦しいところだったのだろうと想像します。どこかに行ってなにかが解決することはない。佐伯さんはこの世界において結論のないことのほうが自然なことであるように思うと感じていたと言います。ここで見落としていたことに僕は気づいたのですが、それは「雷」です。雷はこの作品にとって非常に重要な位置を占めていることに気づきました。何度か読んでいる方は気づいていると思うのですが、雷、そして爆撃、大地を揺るがすような響きが起こるときに入り口は開くように思います。そしてそれはまた人間の性行為において射精するときにも開くような気がします。男性は射精をすることにによって快感を得るわけですが、僕が思うにそれは精子を撒き散らしているからです。この作品に沿うように書くならば神話的に国つくりをしていると言っていいかもしれません。世界創造の喜びというものを感じているのです。それは当然、女性の子宮に向けられ1つの生命を生み出すということでもあるのですが、『古事記』のような神話を知っておられる方ならおわかりでしょうが、神は子どもを撒き散らします。国つくりが行われるときは世界も揺れます。ということで僕のなかでは入り口とはそのようなときに開くものなのだろうと思っています。この「入り口」というものが具体的になんなのかの謎解きはあまり意味はないとしても神話を読むような感受の仕方、想像力の使い方というのはこの作品を読む上で大事なのではないかと思います。



ということでホシノちゃんは夜の街に繰り出しカーネル・サンダーズから紹介してもらった女子大生とイレイレして3回射精します。ナカタさんは性的には不能のようで、そういう点からも彼が入り口の石を見つける役目を担わされたことは腑に落ちるところです。甲村図書館では夜、カフカ少年の泊まっている部屋に蒼い衣の少女=15歳の佐伯さんが現れます。カフカくんは考えます。僕が恋しているのは15歳の彼女なのだろうか、それとも今の彼女なのだろうか。現実と夢が混じり合って境界がぼやけて来ています。そしてこの作品『海辺のカフカ』の英題『Kafka on the shore』にあるようにそれは海辺の境界線での出来事の様相を呈してきます。海と岸辺の境界は波によって揺れ動きます。その危うい感覚がカフカくんを襲います。カフカくんは佐伯さんの恋人であったかもしれないし、佐伯さんの息子であったかもしれない。登場人物たちはいくつもの可能であった平行世界をあちらこちらとゆらゆらしている気がします。ちなみに『海辺のカフカ』は世界幻想文学大賞という賞を受賞しています。



翌朝、カーネル・サンダーズから入り口の石を入手したホシノちゃん。本当にLP版くらいの大きさでした。甲村図書館ではカフカくんが大島さんに自分の暴力衝動について話しています。自分をコントロールできなくなることがある。まるで自分のなかに別の誰かがいるみたいだと。カフカくんも影を半分しか持っていないのでしょうか。そこに他の人が入り込んでくる。ナカタさんや甲村さんが入ってきたととれないことはない、というかそうとってみたくなるところです。または若者というのは総じて半身しか持っていないものなのだと普遍的にとらえることも可能であるように思います。



佐伯さんの書斎。佐伯さんとカフカくん、そしてカラス。物語も大詰めに来たなと予感されるところです。佐伯さんは強さとはなにかについて話します。佐伯さんによれば強さはさらに上の強さによって乗り越えられてしまう。それは暴力ですよね。でもカフカくんの求めている強さはそういうものではない、外からくる力を受け止めることができる強さなんです。カフカくんは佐伯さんに言います。「父は最初からあなたを自分のものにできないと分かっていた」、「だからその子に自分を殺させた…」佐伯さんは自分の周りが変わってきていることに気づいて怯えているようです。佐伯さんは失ってしまった時間がいま埋められようとしていることに戸惑っています。カフカくんは言います。僕は海辺のカフカです、あなたの恋人で息子です、ぼくらは雷に撃たれてしまったのだと。カフカくんと佐伯さんはお互いを求め合います。佐伯さんの半身とカフカくんの半身が結合し「男女」へとつながった瞬間であり、またそれは人間にとって最高の瞬間でありながら、終わりを予感させるものでもあったと思います。少なくとも佐伯さんにとっては。


雷が鳴るなか、ホシノちゃんは入り口の石を開けようとします。重くてなかなか持ち上がりません。ナカタさんはそれを見守ります。ナカタさんがなぜ入り口の石を開ける役目を与えられたのでしょうか。僕が思うにナカタさんは愛嬌のあふれる人間ではありますがある意味で中身が空っぽなのです。舞台や小説の台詞でいうのなら、「一冊の本もない図書館」のようなものだということです。そしてナカタさんは空っぽであるからこそ中に入れることができると言うことができると思います。ナカタさんは佐伯さん、カフカくんといった影の半分を失っている人たちを平行世界へと導く案内人なのではないかと思います。何度か書きましたが、ナカタさんは戦中にお椀山で非合理な暴力を受けたときに入り口から向こうの世界へと出入りしています。そのときナカタさんは多くのものを失いました。おそらく向こうの世界に置いてきたのだと思います。そしてナカタさんは何十年のときを経て半身でいることの苦しさから解放されるときが来たのだろうと思います。そして佐伯さんも同じくとても静かに死に向かっているのですね。



「世界は破滅へと向かうシステムのなかで動いている」



佐伯さんの書斎で、佐伯さんとナカタさんは初めて出会います。佐伯「私はあなたがいらっしゃるのを待っていたように思います」、ナカタ「お待たせしました、すいません」、佐伯「一番いい時間に来てくださいました」いろいろなものがあるべき形に戻ろうとしていることを感じさせます。この世界においてのナカタさんの半身、佐伯さんの半身は向こうの世界に戻ろうとしています。ナカタさんは自分は思い出を持っていないと言いました。佐伯さんは「完全な輪の思い出」の中で時が止まっています。思い出=記憶とするならば、特別な記憶を持たない人生はその人が存在していることを保証しているのでしょうか。特別な記憶に固執することはその人が存在することに意味を見いだせるのでしょうか。佐伯さんは言います、「私たちはここを去らなければならない」 ナカタさんは佐伯さんの残した記憶のノートを燃やしたあと、ホシノちゃんに看取られ亡くなります。ナカタさんは役目を果たしたのだと思います。お疲れ様でしたと言いたいです。



森です。小説とは設定が違い、大島さんのお兄さんの所有する小屋ではなく大島さんの所有する小屋になっています。大島さんはカフカくんのもとを去るときにこう言い残します。この世界には平行世界が存在する、ある地点まで行くと戻ってこれなくなる、迷宮は内蔵のメタファーだ、きみの外にあるものはきみの中のもののメタファーだ、きみが迷宮に入り込むということは心の迷宮に入っていくということだ。きみは傷ついて損なわれてしまった、しかしきみは傷を回復することができる、でも佐伯さんはもう回復することはない。きみのお母さんはきみを愛していた、そして佐伯さんがお母さんだという仮説はまだ機能している。カフカくんは森の奥へと向かいます。



森の奥には太平洋戦争で軍から逃げ出した二人の兵士がいます。彼らも平行世界への道を選んだ人たちです。彼らはここに来なければ外地で殺しあいをしていたでしょう。みんなが殺しあいなどしたくないがしなければならなかったと述懐します。国は逃げることを許さない、だから僕らはここに残ったのだと。カフカくん、きみが来るのを待っていた、入り口は開いている、中に入るなら今のうちだ、決意がないなら引き返したほうがいい。カフカくんは中に入ります。



迷宮の中でカフカくんは佐伯さんを探します。それは迷宮のメタファーである自分の心の中の佐伯さんを探すことでもあると想像されます。そして佐伯さんもカフカくんを探しています。カフカくんは佐伯さんとこの平行世界でずっと一緒にいたいと思います。佐伯さんのいない世界で生きたくはないと。佐伯さんはカフカくんに戻って欲しいと言います。私のことを覚えておいてほしい、最後の記憶を覚えていてほしい。佐伯さんはすべての記憶をナカタさんに焼き捨ててもらいました。しかし、カフカくんにだけは覚えていて欲しいと願うのです。カフカくんはそんな佐伯さんに向かって言います。カフカ「はい、お母さん、僕はあなたを許します」佐伯「もとの場所に戻って生き続けなさい」



大島さんにカフカくんは東京に戻ることを告げます。おそらく舞台ではなかった台詞だと思いますが、小説で印象的だった、そして舞台の雰囲気も表現している大島さんの台詞を入れさせてください。「世界はメタファーだ、田村カフカくん。でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい」 カフカくんは言います。「大島さん、そのネクタイとても素敵だよ」、「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」



さくらから電話がきます。「夢を見たよ、きみが迷路のなかでひとりで歩き回っている夢だった。きみはなにか特別な部屋を探しているんだけど、その部屋が全然見つからないんだ。でもその迷路のなかでは逆にきみのことを探し回っている誰かがいる。わたしは叫ぶんだけどうまく届かないんだ。怖い夢だったよ」 さくらは森のなかでの出来事を夢で見ていたのだろうと思います。カフカくんを思ってくれる人はこんなにいる。彼は損なわれたが、その傷は確実に回復している。さくら「さようならカフカくん」、カフカ「さようなら、お姉さん」



舞台にはカフカとカラスの二人。雨が降り続いています。二人はいろんな場所で降った雨のことを思い出します。森に降る雨、図書館に降る雨、高速道路に降る雨、東京に降る雨。「世界に降る雨のことを考える、想像するんだ」



完。




後半かなりシリアスになってしまいましたが、なんとか書ききれました。『海辺のカフカ』の舞台、小説のほんのひと握り…にも満たないかもしれませんが、この記事を読んで小説、舞台を読んだり観たりしてみたいなと思う人がいればなと思います。とにかく一回観ただけだとよくわからないところがかなりあります。これはDVD化をされるのを祈るしかないですね。でももう1回観たいというのが本音です^^ 2015年、海外まで…それは無理か。あと書いていなかったですけど、カフカ役の古畑新之くんの演技も素晴らしかったですよ。他の実力のある役者さんにまったくひけをとらずどうどうと演技していました。宮沢りえさんに可愛がられているようでしたね。彼は大物になるかもしれません。名前を覚えていてください。というわけで2回に分けて書いた記事でしたが、読んでくださった方本当にありがとうございます。

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