2015年2月27日金曜日

ちょっとした喜び

塾でおもに中学生を教えている僕ですが、来週は公立高校の入学試験があります。
新潟県は今年から選抜方式が変わります。県内のすべての受験生にとって厳しいものになっていると思います。
統一試験が1日目、2日目に筆頭試験というものがあります。それが高校独自の問題となっていて、それに対する対策は大変です。しかし受験生が最も不安であるでしょう。
私立高校の入試にも影響が出ていて、新潟市内では新潟高校、新潟南高校を受験する学生たちは滑り止めのために多くの人が新潟明訓高校を受験しました。それにより前年なら合格するであろう学力を有した生徒が不合格とされる現象が起きています。


そうすると私立は2次試験にまわるのですが、本当に偏差値の低い私立高校しか残らないというのが新潟の現状です。そうなると、来週の公立高校の入学試験を背水の陣で臨まなければならないのです。
僕の時代は、公立高校を受験して、落ちても新潟明訓高校には入れたのでそれなりに余裕はあったのです。この試験方式が正しいのか?と感じつつもそれに対する対策を練ってやることしかできない、そこが辛いところです。
合格して生徒たちの喜ぶ笑顔がみたい、その気持ちしかないこれからの1週間となります。
こちらは胃が痛いです。


と、塾講師などをしていますと、期末試験などで生徒がよい点を取ると喜びというのはあるのですが、僕はそれほど得点に執着していなく(下がると親が塾を辞めさせるということはありますが)、普段の授業態度を見ているのです。本当に本気になってない子というのは、明らかに僕が(上から)教える立場になっているわけですが、本当にやろうと思った子というのは、その子は僕を(上から)教えさせる立場に立ちます。どんどん僕から吸収していくのです。そこまで来た子は勝手に伸びていきます。うちの塾にも天才5教科500点子ちゃんがいます。なぜうちの塾に…と僕が思うほどの天才ちゃんです。


彼女などは、まあ100点しか取らないわけですから、得点はいつも横線なのですが、こういう子こそね、「先生に教わったここが出たよ、教えてもらっておいてよかった、報告しとく!」とか言ってくれるのですよね。こういうのが1番嬉しいですね。こういうことを言ってくれる子は是非志望校に入学させてあげたいと思います。まあ500点取りますから、どこでも入れるでしょうけどねw 志望校が僕の出身校なのですけど、僕より上に行けるから、と説得してますが、お姉ちゃんと一緒の高校に行きたいのかな~なんて思います。お姉ちゃんと仲がよさそうなので。


そして最近は小学生のところに顔を出して、もうほんとに可愛いな~と思うのですが、気を許すと大騒ぎしだすので強面キャラで通しています。この少子化のご時世に滅茶苦茶集まっていますから捌くのが大変です。ここはピンチヒッターなので、やはり中学生オンリーでやりたいというのが希望ですね。


そして社労士試験に向けて稼働しているのですが、ちょっとこちらもそろそろ詰めていかなければなと思っています。社労士になればうちの事務所も仕事の幅が広がりますし、収入も増えれば地下にシアタールームでも作りたい…あくまで希望ですが…ほかにワインセラーとかも…夢は膨らみますね。


まあ今日はともかく、天才子ちゃんの喜んだ笑顔に癒されたことを思い出しながらちびちびと飲んでいます。こういうことがないと人生はやっていけないと思いますね。社労士専業になったらもう大人としか会えないのだろうな…と思うとガクッとくる部分もありますが、僕自身もあの小中学生の漲るパワーにいつまでもついていけると思いませんし、社労士で一旗揚げて、市政、県政に口を挟むことができればと。まあ新潟の市議、県議ってそんなレベルですからね。まあ無理だったら趣味の文学、哲学に力を注ぎます。こちらは終わりのない旅ですからね。


分析哲学とか興味持ってくれる子いないかな~と思いますが、まずは自分が勉強することがたくさんあるので。でもそれにしても残念だったのは北陸新幹線ですね。金沢まで一直線。兼六園が見たかった。チケットとるのは難しいですね。まあ行く暇もないのですけど。


とにかくこの1週間は生徒にとっても先生にとっても正念場ですよ。悔いのない状態で送り出してあげること、それが1番大事です。

2015年2月26日木曜日

『低地』 ジュンパ・ラヒリ

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)/新潮社
¥2,700
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こんにちは。
今回記事にした、ジュンパ・ラヒリの『低地』ですが、かなり込み入った話なので手間取りました。そして手間取った挙句、どうしようもなくなったので、とりあえず、読んでくださるみなさんと、『低地』の物語の冒頭部分を一緒にツアーするという感じで書きたいと思いました。
帯にある、
「殺された弟。その妻とともに 生きようとした兄。」
この文章には、とてつもなく深いものがあります。兄が弟の妻に同情して一緒に生きる、というそんな安易なものではありません。僕はそう思って(某『永遠の○』みたいな話かと…)買ってしまい、平手打ちをくらった感じです。
では、ツアーの始まり。



みなさん、インドのコルカタ(旧カルカッタ(英))の南にあるトリーガンジ・クラブ(Tollygunge Club)をご存知でしょうか。英国人がインドを植民地としていた時代につくった大きなクラブらしいです。クラブハウス、テニスコート、競馬場、ゴルフコース、レストランにはビリヤードとブリッジの特別室、その中では蓄音機が音楽を流し、白い上着のバーテンが、ピンクレディーやジンフィズといった飲み物を出す。一方、そのクラブの外では、アディ・ガンガーが流れ、その岸にそってヒンドゥー教徒の集落ができています。また、コルカタの各所にもパキスタンからの避難民で溢れています。
また、この一帯には、二つの細長い池がありました。その奥に数エーカーの低地が広がっていて、モンスーンの季節のあとには二つの池の水位が上がり、低地にも水がたまって水浸しになることがあります。
この物語は、ガンディーの非暴力運動によりイギリスからインドが独立してから10年後の、この英国人クラブ、「トリーガンジ・クラブ」にベンガル人の兄弟、スバシュとウダヤンが忍び込むところから始まります。



そのとき、スバシュは13歳、ウダヤンは11歳でした。スバシュたちが、トリー・クラブの塀を乗り越えると、そこはゴルフ場でした。兄弟は初めてみるその光景に驚きます。


「こんな芝生をスバシュは見たことがなかった。カーペットのように均一に、ゆるやかな傾斜のある大地に草が広がる。砂丘の起伏、あるいは穏やかにうねる海とでもいおうか。きれいに刈り込んだグリーンには、手で押すと苔のような感触があった。……
……次第に余裕が出てきた。行く先に旗が立っている。地面に臍のような穴があってカップが埋まっているので、ここに球を転がすのだろうと思う。ところどころに浅くへこんだ砂地がある。フェアウェーに水たまりができていて、水滴を顕微鏡で見たようにおかしな形になっていた。」(『低地』p11)


スバシュの眼にはゴルフ場がこのように見えたのです。技法的に言うといわゆる異化というものでしょうか。兄弟の未知の世界の冒険の感覚が伝わってきます。



「インドの首相はネルーだが、ここの広間に飾られているのはイギリスの新女王エリザベス二世の肖像だ。」(『低地』p11)



何気ないセリフ、いやむしろちょっと意外なセリフと思われる方もいるかと思いますが、このセリフは兄弟の知り合いのビヒミラというイスラム教徒のセリフです。この人はインドとパキスタンが分裂した際に、イスラム教徒であるにも関わらず、インドに残ってこのトリー・クラブのゴルフ場でキャディをしているのです。インドとパキスタンの分裂に関しては、映画『ガンディー』などでも描かれています。ガンディーの失望感というものがよく出ていた作品だったのではと思います。


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トリー・クラブは兄弟の秘密の遊び場になります。鳥の羽やアーモンドの実を集めたりして遊んでいました。しかし、ある日、見回りの警官に兄弟は見つかってしまいます。ウダヤンは自分が忍び込もうと言ったと主張しますが、スバシュはスチール製のシャフトでお尻を殴られてしまいます。ウダヤンは兄をかばいます。警官はそれを見て立ち去りますが、兄弟はそれ以降、トリー・クラブに忍び込むことをしなくなりました。



その後、スバシュとウダヤンの性格や外見などの描写が生活を通して描かれます。スバシュは優等生タイプで大人しめな性格、ウダヤンは「やんちゃ坊主」とあります。外見は二人は似ていてよく間違えられることがある、肌の色は明るめの銅、体格も似ていて、なによりも声が似ています。



スバシュはウダヤンを待って、同じ年に学校に入学します。そこでトリー・ガンジの歴史を学びます。トリー・ガンジはウィリアム・トリー少佐がアディ・ガンガーの土砂を除いて運河にしたところから由来しています。この土地は元来、ジェネラル・バンク・オブ・インディアの頭取だったリチャード・ジョンソンの土地でした。この土地に一七八五年にルネサンス風の邸宅を建てています。さまざまな外来の樹木を、亜熱帯の各地からトリー・ガンジにもたらした等など。



二人は高校では光学、力学などを学び家庭内の配線を熟知します。モールス信号で遊んだりもします。大学はウダヤンがプレジデンシー大学、スバシュがジャダプール大学に進学します。世界の情勢も変化を見せ、このあたりから兄弟の進むべき道が分かれていきます。


「一九六四年。アメリカでは「トンキン湾決議」が採択され、北ベトナムへの直接攻撃が始まった。ブラジルでは軍事クーデターが発生した。
 カルカッタの映画館では『チャルラータ』が封切られた。スリナガルの寺院で遺物の盗難事件があったのを機に、またしてもイスラム教徒とヒンドゥー教徒の争いが暴動になって百人以上が死んだ。二年前の中国との国境紛争をめぐってインド国内の共産主義勢力に対立が生じた。中国寄りで分派したグループはインド共産党マルクス主義派と称した。
 デリーの中央政府では、いまだ国民議会派が実権を握っていた。この年の春、ネルーは心臓発作で死んだが、その娘インディラが入閣し、二年後には首相になる。」(『低地』p25)



一九六七年、ナクサルバリという土地に関するニュースが流れます。西ベンガル州ダージリン県の村です。そこは封建時代と大差ない暮らしをしていて富裕な地主階級に農民たちは搾取されていました。その土地でチャル・マズムダールとカヌ・サンヤルという共産主義活動家を中心に武装蜂起が起こります。警官隊と農民の衝突があり、11名が死亡、うち8名が女性でした。後にこのナクサルバリを発祥として、ナクサライトという共産党毛沢東派の武装テロ組織が勢力を持つことになります。このニュースを聞いた兄弟は話し合います。スバシュ「それで得るものはあるのかな。」ウダヤン「やっと立ち上がったんだ。必死の行動じゃないか。何もない人々、政権に守ってもらえない人々だ。」スバシュ「弓矢で近代国家に立ち向かう?」ウダヤン「あんな境遇に生まれたらどうすればいい?」



暗殺前にはマハトマ・ガンディーも参加していた国民会議派の政治が終わり、統一戦線に政治のイニシアティブは移っていましたが、インドの国内の情勢は変わりませんでした。労働者農民のための政治が行われず、革命派の農民に血まみれの弾圧が行われていました。非武装の農民たちを拘束し、従わなければ殺害しました。兄弟は打ちのめされますが、より打ちひしがれたのはウダヤンでした。「人々は飢えている。解決しようとするとこれなんだ。犠牲者なのに犯罪者にされている。撃ち返せないのに銃を向けられている。」
ウダヤンは中国の報道にあった字句を引きます。


「ダージリンに散った火花は燎原の火となって、必ずや広大なるインド全域を燃やすであろう」



ウダヤンは、日に日に左傾化していきます。スバシュはウダヤンの隠し持っていた小冊子を見つけます。そこにはマズムダールの記事があり、マズムダールは次のように主張していました。「インド革命が内戦の形態をとらざるを得ないと見るならば、地域単位で権力を掌握していく戦術しかあり得ないこともまた了解されるだろう」。その当時、中国では毛沢東が革命に成功していました。



ウダヤンとスバシュは大学院へと進学することになります。ウダヤンはカルカッタ大学に移り、スバシュはジャダプール大学に残りました。ウダヤンは反政府活動にのめり込んでいきます。それをスバシュは心配しますがウダヤンを止めることはできません。やがてウダヤンは工業高校の教師となり、スバシュはアメリカの博士課程に進むことになります。心だけでなく、地理的にも兄弟は離れることになります。



一九六九年、レーニンの誕生日に、インドに第三の共産主義政党が生まれます。ナクサライトの党員を中心とした勢力です。書記長にマズムダール、議長にサンヤルが指名されました。インドマルクス・レーニン主義派、略称CPI(ML)です。サンヤルは演説します。二〇〇〇年までには世界は解放される、人間が人間を搾取することから自由になる。マルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想の世界的勝利を祝うであろう、と。スバシュはアメリカで海洋学を学ぶために旅立ちます。



スバシュはアメリカのロードアイランドに居住しました。このときのスバシュのアメリカについての想いを引が書かれた場面。


「この二つ(ロードアイランドとトリー・ガンジ)の場所は、あまりにも隔たりが大きく、心の中へ同時におさめておけないような気がする。新しい巨大な国のどこにも、古い国が住み着く余地はなさそうだ。両者をつなぐものはない。あるとすれば彼自身で、ほかにはない。ここへ来てから生きることに邪魔が入らなくなった。襲いかかってくるものがない。ここに住む人は、まるで背中に火がついたように押し分けかき分け突き進むことをしなくていい。」(『低地』p49~50) *()内はともすけ



スバシュは白い木造の家に部屋を借りました。リチャードという社会学専攻で歳は30ばかりの男とキッチンとバスルームを共用します。彼はクェーカー教徒の家で生まれ、大学では大学新聞に論説を書いたりして少し過激な男なのです。彼はガンディーは自分にとってヒーローだ、などと言いますが、スバシュは、ウダヤンならそれを聞いて鼻で笑ったかもしれない、などと考えてしまいます。ガンディーは人民の敵と結託した、自由の名のもとにインドから武器を奪った、と言うかもしれない、と。



スバシュは、マドラス出身のナラシムハンという経済学の教授とも知り合います。彼は実家が決めようとする花嫁候補をことごとく断り、アメリカ人の女性ケイトと結婚しました。そういう女性に実家がどういう反応をしたのだろうとスバシュは思います。スバシュはいずれ実家が決めた女性と結婚するのだろうことを疑っていません。そしてそのときは、トリー・ガンジに帰るときだと考えています。



スバシュのところにウダヤンから手紙が送られてきます。その手紙にはより左傾化したウダヤンの文章が綴られています。アメリカには(ベトナム)反戦運動がある、インドでは紅衛兵が組織されつつある、公正な社会に近づいているはずだ等など。そして、「兄貴がいないとつまらない。抱きつきたいくらいの弟より。」最後に引用の形で、「戦争は革命をもたらし、革命は戦争を終わらせる」と書かれていました。



一九七〇年に、スバシュにウダヤンから2通目の手紙が届きます。封書で写真が入っている、若い女性でした。自分はこの女性、名はガウリ、と結婚したのだというウダヤンの報告の手紙でした。このときのスバシュの心理は後の物語に影響すると思うので、ウダヤンの手紙の一部とスバシュの心理吐露の一部を書いておきましょう。


「正式に紹介できないので、写真を見せることにした。でも正式な通知だと受け取ってもらって構わない。そろそろ知らせてもいい頃かと思う。もう何年か付き合っている人だ。いままで黙っていたが、どういうことか見当はつくだろうね。ガウリという名前で、プレジデンシー大学の哲学科を卒業する見込みだ。北カルカッタのコーンウォリス通りに実家があって、両親ともに亡くなっている。家族は兄が一人と――この男が僕の友人なんだが――いくらか親類もいる。宝石やサリーよりも本を欲しがる人だよ。考え方も僕と同じだ。」(『低地』p66)



「ウダヤンは兄に先んじて結婚したのみならず、自分で選んだ女を妻にした。親が決めることだという観念を捨てきれないスバシュよりも、平気で前へ踏み出していた。またしてもウダヤンが先頭を進むという例だ。弟だから二番目だとは思いたくないらしい。いつものように自己流を通したがった。
 写真の裏側にウダヤンの筆跡で日付が記されていた。一年以上も前だ。一九六八年。つまりスバシュがまだカルカッタにいた頃から、ウダヤンは恋人の関係を得ていたことになる。その間ずっと、ガウリのことを言わなかった。」(『低地』p67)




と、ここまでで1章が終わりです。68pまでのあらすじという感じで、いつもと書き方は変わらなかったような…。物語の方は大丈夫です。約470pありますから。この1章でインドの状況というのがだいたいわかってもらえたと思うので、導入としては成功していると確信して書いています。



「殺された弟。 その妻とともに 生きようとした兄。」
の帯のところまでも行っていないのでご安心を。たぶん、この記事を読んで重い政治的な話だと思われるかたがかなりいると思うのですが、そんなことはありません。このようなインドという生まれ故郷をバックボーンとして、家族がウダヤンをある形で失い、それをどう受け止め、そしてスバシュとガウリがアメリカに移住してから(ネタバレ?)どのような生活が待ち受けていたのか、もうひとつネタバレすると、ガウリはウダヤンの子どもを宿しています。もちろん、スバシュの両親はアメリカ移住も反対ですし、スバシュとガウリの結婚も反対です。その上ウダヤンの子どもまでいる。果たして、ベンガル人であるスバシュとガウリ、その子どもが、アメリカという国でいかに生き、どのような出会いと別れが待ちうけているのか。とてつもなく複雑な問題をテーマにして物語は進んでいきます。弟の妻と結婚したスバシュの決断、そしてそれを受け入れたガウリの決断がどのような結末を迎えるのか…。僕にとっては、超ヘビー級の作品でした。



しかし、ご安心ください。そこはジュンパ・ラヒリです。彼女の節度のある、そして上品な文章が読む人の助けとなってくれるでしょう。文章ひとつひとつが大切に紡がれているので、それほど苦痛に感じることはありません。むしろラヒリの紡ぐ言葉の数々に引き込まれるかたのほうが多いのではないかと。
結末はとても切ないものに仕上がっています。決して皆が共感するものとは言えないかもしれませんが、男女ともに、特に女性のかたはラヒリが女性なだけに、納得できる、せざるを得ない終わり方になっていると思います。読み終わった後の感慨は格別なものがあります。そしてタイトルの『低地』に込められた意味を僕たちは考えさせられることになります。



ということで、ジュンパ・ラヒリの『低地』の感想でした。うむ、感想というほどのものでもなかった…ただのあらすじ紹介に終始した気もしますが…

2015年2月25日水曜日

『継母礼讃』 バルガス・リョサ


継母礼讃 (中公文庫)/中央公論新社
 
¥782
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ノーベル文学賞を受賞した作家、バルガス・リョサの『継母礼讃』です。ポルノグラフィックな作品とされているようで読み手を選ぶかもしれません、というかポルノグラフィーですね。ただ、作品の構成の見事なところやその洗練された文章表現から考えるに、僕は作品の芸術性を十分に認められるのではないかと思います。しかし人によっては単なる官能小説とみなす人もおられると思うので、人前で読むときには気をつけましょうw バルガス・リョサの作品のなかでは短くて読みやすいことは確実です。そしてバルガス・リョサの知性と感性に裏づけされた豊かな想像力を感じられる作品になっていると思います。


この作品は題名から察せられるとおり、美しい継母ルクレシアと息子アルフォンソ、そして夫のリゴベルトを中心とした話になっています。物語は14章+エピローグで構成され、その間に6枚の絵画が挿入されてます。そしてこの物語の核心を暗示するアーニョロ・ブロンズィーノの『愛の寓意』が表紙を飾っています。





ヨーロッパには人物、特に女性の姿によって抽象的な概念や美徳を表すという伝統がありました。絵画を見ていると、なぜここに果物が?瓶が?あれ、この画にも同じように描かれている!とか思うことがあると思うのですが、これはアレゴリー(寓意)なんですね。このアーニョロ・ブロンズィーノの『愛の寓意』はその集大成とされています。では画を見てみましょう。わかりにくいかもしれませんが、真ん中の女性は愛の女神ヴィーナスです。彼女は黄金のリンゴを持っています。そしてその前(左)にいるのがヴィーナスの息子のキューピッドです。この二人は接吻をしています。寓意も何もないかもしれませんが、そこにはこの『継母礼讃』においては継母ルクレシアと息子アルフォンソの愛欲が暗示されています。


画の配置について見てみましょう。ヴィーナスの持つ黄金のリンゴは禁じられた愛、右の赤い薔薇の花を持っている少年はどうやら快楽、左下の鳩は愛撫を意味するらしい。以上が前景の部分ですが、その後景の部分を見てみましょう。左下の髪を掻き毟る老婆=嫉妬。右には少女の顔と獣の下半身を持ち蜜蜂の巣を差し出している。この画像からは見えにくいでしょうがもう片方の手には蠍を持っている。この少女?は欺瞞のアレゴリーらしいです。その手前にある仮面も顔を隠すということから欺瞞のアレゴリー。ではもう1度ヴィーナスとキューピッドを見てみましょう。ヴィーナスはキューピッドの矢を取ろうとしています。そしてキューピッドはヴィーナスの髪飾りを外そうとしています。そしてそれを右上の老人(時の翁)がヴェールを剥いでいくことによって徐々に明らかにしようとしています。


と、読む者にこれだけの情報を与えて物語は始まります。第1章はアルフォンソがルクレシアに誕生日のお祝いの手紙を書いたところから始まります。継母は喜びのあまり息子の部屋を訪ねると、息子は継母に愛撫をしてきます。その愛撫が少し度を越しているのではないかと継母は感じながら、その後夫と閨を共にします。リゴベルトは言います。「おまえはリディアの王の妃だ」



第2章では、ヤコブ・ヨルダーエンスの『カンダウレス王寝室のギュゲス』が挿画としてあります。




カンダウレス王はご存知でしょうか?リュディア王国の王です。画の女性はカンダウレス王の妃ニュシアです。右にいる男は臣下のギュゲスです。カンダウレス王はヘロドトスの『歴史』に出てきますし、アンドレ・ジッドも書いています。僕の手元にあるのはテオフィル・ゴーチエの書いたものです。カンダウリズムという言葉ができるほどに有名な人物です。

「カンダウリズム(Candaulism)とは、原義的には、自分の妻の裸体を第三者に晒すことによって興奮する性的嗜好のこと。リディアの王・カンダウレスが自分の妻の裸体を家来に見せていたことが語源である。」(Wikipediaより)

バルガス・リョサは本作品でルクレシアをニュシアと重ねて描いています。カンダウレス王はニュシアが最も美しい形象で愛すべきものだとギュゲスに誇るためにニュシアの裸体を見せるのですが、そのことによりニュシアの反感を買い、ギュゲスの手によって殺されてしまいます。本作品ではルクレシアがニュシアに比肩する美しい形象なのだということを重ねています。つまりリゴベルトのルクレシアに対する偏愛的な思い入れを示しているのだろうと思います。上の画を見ると感じられるように、ニュシアのお尻は大きいですよね。そこをこの章ではこと細かに描いているところがユーモアの部分でもあるのかなと思われます。



第3章、4章

ルクレシアはアルフォンソが浴室を覗き見していることを召使のフスチニアーナから聞きます。でもそれはアルフォンソの肉欲から来ているわけではないようなのです。彼の目には継母が女神のように見えているようなのです。女神の裸体を見てみたいというある種の神聖さを感じます。

アルフォンソ「・・・それは、それは、きれいなんだ・・・・・・聖体を受けるときと同じで、涙が出てくるんだ。映画を見ているみたいなんだ。たぶん、だから目頭が熱くなるんだ」

ルクレシアはそれからも浴室を覗くアルフォンソを知らないふりをします。そしてさらにはその裸体を見せつけるような態度まで取るようになります。そしてベッドに戻ると、自分の浴室での慎みを忘れた振る舞いに怒り震えます。そして、アルフォンソのせいで自分が堕落していくと感じます。そんなことがありながら夫のリゴベルトは妻への偏執的な愛を高ぶらせ、ルクレシアをよく聞くために耳の掃除を丹念に行っています。



と、ここらへんであらすじの説明は止めておきます。書くのに疲れたからじゃないですよ!これ以降は興味のある方は作品を読んでくださいますようにお願いします。いわゆるテレビドラマ(昼ドラ?)のような終わり方ではない気がします。この頃ドラマをあまり見ていないので、たぶん。。。


ここからは、挿入されている絵画を軸としてちょっと書き足したいと思います。



第5章に挿入されている絵画は、フランソワ・ブーシェの『水浴の後のディアナ』です。
一転、狩猟と純潔を司る神ディアナが狩を終え、ニンフと共に泉に休んでいるという物語展開になります。





といっても「快楽の巨匠」といわれたブーシェの作品ですから、この章にも謎が隠されていそうです。この章でも、ディアナとルクレシアを重ね合わせて話が展開していきます。ニンフは召使のフスチニアーナとなります。画からディアナとニンフの関係に同性愛を見出すことができると思います。ゆえにルクレシアとフスチニアーナもそのような関係であると暗に示しているといえるでしょう。




第7章に挿入されている絵画は、ティツィアーノ・ベチェルリオの『ビーナスとキューピッドと音楽』です。




この画に登場するのは、ヴィーナスとキューピッド、そしてオルガン奏者です。ヴィーナスはルクレシア、キューピッドはアルフォンソと容易に想像がつくのですが、オルガン奏者が何者なのか。本作品のなかでは、ヴィーナスとキューピッドが仲睦まじくしているのを、オルガン奏者(オルガニスト)がある一点を眺めている、しかしそれに気を取られて演奏を止めてしまってはならない。そんな風にバルガス・リョサはこの画を解釈しているように思えます。




第9章に挿入されている絵画は、フランシス・ベーコンの『頭部Ⅰ』です。



この章はこの「頭部」の語りがすべてです。
だから一見、この物語のなかで浮き出ているように見えますが・・・。
一部引用してみましょう。

「わたしは左耳を食いちぎられた。たぶん、どこかの人間と争っていたのだろう。しかし、残ったその繊細な窪みで世界の物音をしっかりと聞くことができるし、目も斜めになっていて不自由だが、見ることもできる。すぐには気づかないが、わたしの口の左にある青味がかった隆起がわたしの目だ。そこにあって、目の役割を果たし、形と色を識別できるというのも、医学の驚異、我らが時代を特徴づける驚くべき進歩の証である。
・・・今いるこのガラスの立方体がわたしの家である。こちらから見えるこのガラスの家は、外から覗くことはできない。恐るべき陰謀の渦巻くこの時代、安全を確保するのにこれ以上適した家はない。ガラスは防弾だし、細菌も放射線も音も通さない。わたしを――もちろん、わたしだけだが――楽しませる腋臭と麝香の匂いがここにはたちこめている・・・」(P99~100)


と、引用しておいてなんですが、この『頭部Ⅰ』の口から下の顎の飛び出た部分、それが鼻であろうかと思います。その「鼻」についてのリゴベルトの執拗な、またルクレシアへの偏執的な愛がまた語られるのです。このリゴベルトという男の信条が一番よく書かれているところは、おそらく第6章にあると思います。

「人間性を高め、完成させることは、一人一人の個人にのみ可能で、おそらく、空間(例えば、身繕い、肉体の清めとか、性行為)や、時間(眠る前の沐浴や気晴らし)の一定の範囲に限定されるように彼には思えた。」(P64)


一方、ルクレシアとアルフォンソの間では次のような会話が交わされます。「ママ、ママの知らないことを教えてあげるよ」「広間の絵のなかにママがいるよ」「でも、広間の絵にはシシュロの抽象画しかないわ」「あれがママなんだよ」「ママ、ぼくは今朝それに気づいたんだ。でも、死んでも訳は言えないよ」

そのシシュロの画が下の画像です。






フェルナンド・デ・シシュロの『メンディエータ10への道』です。この画がなぜルクレシアなのかは、第12章を読むと明らかになります。シシュロに関しては日本語のWikipediaの情報が少なすぎるので、英語版のリンクを貼っておきます。ペルーの画家です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fernando_de_Szyszlo




そして第13章がこの作品の山場だと言っていいでしょう。リゴベルトとアルフォンソの対話場面。第13章のタイトルは「悪い言葉」。この悪い言葉が、天使のようなアルフォンソの口から出たことがきっかけで物語はガラリと様相を転じます。このあとのアルフォンソの言動に対するリゴベルトの動揺が、僕にとっては大爆笑ものだったのですが、それはおそらく僕が高級な人間ではないからでしょう・・・。アルフォンソがナイチンゲールが歌うような声で、はたまたセイレーンの歌うような声で、悪夢のような言葉をリゴベルトに投げかけます。その度に動揺を隠せないリゴベルト・・・。アルフォンソは宿題に作文を書いてきたと言います。その題名が『継母礼讃』。

リゴベルト「なかなかいいね、とてもいい題だね」「ちょっとエロティックな短編小説に聞こえるね」

リゴベルトは、読ませてくれるかい、と息子に聞きます。アルフォンソは有頂天になって父にそれを見せます。そこでリゴベルトは眼鏡をかけ、フロアースタンドの灯りをつけて、なおかつ、声に出して読み上げてしまうのです。リゴベルトが求めた完全性などというものは脆くも崩れ去り、別の意味で完全な存在となります、欲望のない存在に。そして、堕天使(ルシフェル)こそはアルフォンソだろう、と。

そんななかにルクレシアは友人宅から帰ってきてリゴベルトとアルフォンソにただいまの投げキスをします。「今晩は、ごきげんいかが? あなた、それから小さな紳士さん」。


第14章に挿入されている絵画はフラ・アンジェリコの『受胎告知』です。
ここで、『受胎告知』を持ってきたというのは解釈に若干の難しさを与えていますが、それゆえ作品として洗練されたといえるのではないかと思います。





僕の私見ですが、聖母マリアは当然ルクレシア。おそらくルクレシアのまだ「愛の女神」となる前の少女時代に時間は遡っていて、大天使ガブリエルは、ルクレシアにアルフォンソを受胎したのだと告知しに来たのでしょう。イエスの受胎告知を、リゴベルトにいわせるなら堕天使のアルフォンソの受胎告知に書き換えるというのは、面白い仕掛けではないかなと思います。そしてキリスト教の象徴的存在である聖母マリアも愛(この場合肉欲)の女神ルクレシアへと変換してしまうという・・・。


そしてエピローグ、となります。

かなりぼかして話の肝は漏らさぬように書いたつもりですが、書いてしまっているような気もします。本文自体がかなりエロティックなので、読んでいて戸惑う方もいらっしゃると思うのでご注意を。僕もバルガス・リョサの『楽園への道』の記事がなかなか書けないので、とりあえず一番薄いものを、という感じで選んだという次第です。この作品は続編がありまして、『ドン・リゴベルトの手帖』というのがあります。

ドン・リゴベルトの手帖 (中公文庫)/中央公論新社
¥1,008
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『継母礼讃』を読んで面白かった方は、次はこちらをどうぞ。僕も読む予定ではありますが、その前に『楽園への道』の記事をなんとかしたいと思っています。

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)/河出書房新社
¥2,808
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2015年2月24日火曜日

『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』 加藤典洋 高橋源一郎

吉本隆明の『言語美』という本があります。


定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)/角川書店
¥780
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吉本の初期の著作で、読んだ人はだいたいわかると思うのですが、言語作用を「自己表出」と「指示表出」にわけていますね。僕的に解釈すると「自己表出」が詩などの芸術的表現で使われる言語、「指示表出」がコミュニケーションで使われる言語、といったところでしょうか。文庫本2冊を2行足らずでまとめたので、気になる方は本書に当ってみてください。



それで最近読んだ本、『吉本隆明が僕たちに遺したもの』を読んでいたら、加藤典洋氏、村上春樹の評論でも有名な方ですね、『敗戦後論』とかも、が『言語美』について非常に明解に書いていてくれていたので、備忘録として残しておこうと思います。1785円出せる方は買ってみてください^^


吉本隆明がぼくたちに遺したもの/岩波書店
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加藤氏が言うには、吉本は解剖学者三木成夫の『生命形態の自然誌』を読んで、自分の『言語美』とつながったのだと言います。三木成夫は簡単に言うと、生物を動物と植物の分岐点まで遡り、そこにどんな違いがあるのかということを見つけ出しました。動物というのは特に人間ならば、体壁系と内蔵系に分かれます。体壁系というのは五感ですね、神経、皮膚などからだの外側です。内臓系はもちろん、心臓、肝臓、腎臓など、からだの内側。人間の意志の力が届くのは体壁系まで。食道以降の内蔵系は意志の力でどうするかは難しい。体壁ならば痛いとか痒いとか知覚することは容易ですが、内蔵系は「なんとなく感」でとらえるしかない。「なんとなく感」というのは僕の造語です^^ 胃が重いな~とか、もたれてるな~とか、加藤氏は「気分」と書いています。



三木はこの内蔵系を、生命が動物と植物に分岐するときに植物的部分が居残ったものと想定します。それを読んで、吉本は自分の言いたいことがわかったと感じた、と加藤氏は言います。つまり「自己表出」とは内蔵系で、「指示表出」というのは体壁系のことで、このふたつが共存しているということは人間の本質なのだと。内臓系と体壁系は相矛盾するのですが、なぜ矛盾するかをまず加藤氏は、フロイトの『精神分析入門・続』を引用しています。



その前に三木の解剖学で大事なのは、人間→動物→植物→と遡っていったときに、たとえばアメーバまで遡って、そして無機物までにも遡ったとしますね。そうすると人間というのは無機物から有機物になった瞬間というものがあるということになります。僕の仮定ですが、たぶん生物学的にも間違っていないと思います。そのときの感覚を無意識が記憶している、人間みなが共有しているとします。そしてフロイトの引用です。



「生命は、考えられないほどの遠い昔に、想像できないような方法で、生命のない物質から誕生したと言われますが、それが真実であれば、わたしたちの前提に基づくと、生命を消滅させて、無機的な状態をふたたび作りだそうとする欲動が、その時点で発生したはずなのです。
 この欲動はわたしたちが想定している自己破壊的な欲動であり、これはすべての生命プロセスの中で作動している死の欲動の現れと理解することができるのです。」(『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』光文社古典新訳文庫)



無意識に装置としてタナトスが組み込まれている、無機物に還りたいという欲動が人間には太古の無意識として存在するということを言っているわけですね。フロイトは生命には必ず、「生きていることへの違和感」があると言います。なにか変じゃないか?僕的に言わせてもらうと、なぜ生きているのだろうという不思議ですね。この言い方を、肯定的にも否定的にもとってもらっていいです、エロスとタナトスの関係というのは表裏一体だと思いますので。フロイトはそこから「死の欲動」へと進むわけです。しかし、ここで吉本がどう考えたかというのを加藤氏はこう書いています。「生きていることへの違和感」を「原生的疎外」と名づけようと。簡単に「死の欲動」に進まないのですね。マルクス主義的な名前の付け方が吉本らしいですよね。このことについて吉本は、『心的現象学序説』で次のように書いています。



「生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんがえられている。」(『心的現象学序説』)



加藤氏のいうには、吉本はフロイトのように考えないなら、どうなるだろうか、と吉本は考えたといいます。人間の「原生的疎外」を無意識の「死の欲動」に簡単に運ばず、これを逆に生命化して=「生命体としての異和」と呼べば、人間は人間であることのなかに「生命体としての人間」の領域を持つことにならないだろうかと。そうすると、と最初の『言語美』に戻りますが、言語が「自己表出」と「指示表出」の相乗構造だとすれば、僕的に吉本の言葉を使って言わせてもらうならば踏み込んで「自己表出」と「指示表出」の「逆立」が起きるとすれば、人間は生命体と意識体の異和構造だということになるということです。



人間は1階部分に生命体としての異和をもち、2階部分に意識体としての異和をもつ。これもマルクスの下部構造、上部構造から出てくる考え方だと思いますが、そうなると三木の解剖学をもう一度考えてみると、その2階部分というのは体壁系で、1階部分は内蔵系ということになります。



ここからが僕の考えと違うところで、僕は「自己表出」は内蔵系から生まれると思いました。それは意識できない部分、僕的にいうなら「なんとなく感」でしか表現できない部分=「生命体としての異和」から言語としての美が生まれる。この意識作用の及ばない淵源部分からいかにして美を生み出してくるか、それが美というものなのであろうと僕は考えました。しかし、吉本はこの2階部分と1階部分を「先端と始原」として両方向性の「逆立」を美を生み出す装置だろうと考えているので僕よりもはるかにラディカルですね。この試行錯誤を繰り返しながら、残念ながら吉本は世を去ってしまったわけです。ただ、この考え方を吉本はひとつの発展型として『母型論』で提示しているらしいので気になる方は読んでみてください。



ということで『定本 言語にとって美とはなにか』は、吉本の言語というジャンルの天地創造を狙ったものであったようです。まあ、「先端と始原の二方向性の逆立」というのは吉本らしさ全開ですよね。ここらへんが世間では理解されづらいところだったかと思います。



この、『吉本隆明が僕たちに遺したもの』を読んでいて、吉本の思想を辿っていくうちに、、戦後思想という意味でアメリカのプラグマティズムに非常に興味を持ちました。スコット・フィッツジェラルドを読む上でもプラグマティズムは避けられないですね。日本では村上春樹などですね。ウィリアム・ジェイムズは僕の最も尊敬する作家夏目漱石に与えた影響などを考えると読んでみなければと思います。プラグマティズムという視点で南北戦争というものを考え直す意味で、トマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』ももう1度読み返したい、たぶんピンチョンは意識していると思う…たぶんですw ドルー・ギルピン・ファウストなども面白そうな本を出しています。読書熱は深まるばかりです。

2015年2月23日月曜日

舞台『海辺のカフカ』 村上春樹原作 蜷川幸雄演出 その2

舞台『海辺のカフカ 2014』 その2



第2部です。20分の休憩を挟んで100分です。



第1部と同じく野方駅前商店街から始まります。浩一を殺したナカタさんは自首するために交番に行きますが相手にされません。ここはコミカルな雰囲気で描かれています。サンマやアジが空から降ってくるので気をつけてください、みたいなところですね。その後ナカタさんは入り口の石を見つけるために四国に行きます。そこに連れて行ってくれるトラックの運転手がホシノちゃんです。「ホシノちゃん」とはカーネル・サンダーズしか呼んでいないのですが親しみを込めてホシノちゃんで行きます。



甲村図書館に女性の権利を保護する団体らしき2人の女性がやってきます。ここで大島さんが自分が性同一性障害のゲイであることをカフカくんにカミングアウトするわけです。僕は小説ではこの場面で大島さんの決定的ななにかに触れたという感覚があって、村上春樹はどこかでさくらについて言及するとき自分は「そのときさくらになる」と言っていたと思います。だからここを書くとき春樹は大島さんになっていた、だから大島さんはこのとき神がかり的になにかを訴えていたという記憶があるのですが、舞台においては役者が演じるためその人物の透明性が薄れ色彩が役者に委ねられると思います。この舞台では藤木直人さんに委ねられた。彼の演じる大島さんは僕が思っていた以上に男性的でした。肉体的に女性であるということの先入観を抱かせない、でもマッチョでもない、先ほども書きましたが僕には大島さんに言葉の上での偏見がありました。それを上書きしてくださる演技でした。きっと僕がもう一度小説を読み直したら新しい大島さんを発見することができると思います。



その間にホシノちゃんとナカタさんは四国に向かっています。パーキングで食事をとったりする場面ではホシノくんとナカタさんのユーモラスな部分が出ていました。この二人の組み合わせはちょっと現実ではなかなかありえないと思います。孫とおじいちゃんの珍道中みたいな。小説では想像できなかったところが視覚化されてみると強烈なイメージとして焼きついてきます。ナカタさん役の木場勝己さんの演技がやはり想像以上にインパクトが強かったのです。ああ、ナカタさんはこうやって毎日を生きてきたのだな~と愛着を感じる演技でした。甲村図書館ではカフカくんと佐伯さんがいよいよ接近します。ガラスのボックスのなかの蒼い衣の少女が昔の佐伯さんであることが明かされ、「海辺のカフカ」の歌が流れます。歌の内容から察するに佐伯さんと恋人の甲村さんのことを歌っているのだろうなとは思いますがちょっと難しいですね~。ここはそれぞれの人の想像に任せられるしかないのでしょう。



あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。


世界の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
どこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。


溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
蒼い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。



ナカタさんは歌にあるように入り口の石を探しにきました。舞台では「LPレコードほどの大きさ」という表現が使われていました。その入り口の石をそろそろ誰かが動かさなければならないときがきている、その役目がナカタさんに与えられたと。



佐伯さんの書斎ではいよいよ切羽詰った感じになってきます。舞台の速度が上がって行きます。佐伯さんとカフカくん。カフカくんは佐伯さんが自分のお母さんではないかと疑うのですが、佐伯さんは答えません。ただ、自分が損なわれていくのを感じている、自分が時間の経過とともにあるべきものではないものに変わっていってしまうことに恐怖しています。そして過去を思い起こし、15歳のときのわたしは「どこか別の世界に行ける入り口がある」と思っていたと告白します。僕は佐伯さんはおそらく別の世界に行ったことがあるのだろうと思います。そして実際行ってみたらそこはとても苦しいところだったのだろうと想像します。どこかに行ってなにかが解決することはない。佐伯さんはこの世界において結論のないことのほうが自然なことであるように思うと感じていたと言います。ここで見落としていたことに僕は気づいたのですが、それは「雷」です。雷はこの作品にとって非常に重要な位置を占めていることに気づきました。何度か読んでいる方は気づいていると思うのですが、雷、そして爆撃、大地を揺るがすような響きが起こるときに入り口は開くように思います。そしてそれはまた人間の性行為において射精するときにも開くような気がします。男性は射精をすることにによって快感を得るわけですが、僕が思うにそれは精子を撒き散らしているからです。この作品に沿うように書くならば神話的に国つくりをしていると言っていいかもしれません。世界創造の喜びというものを感じているのです。それは当然、女性の子宮に向けられ1つの生命を生み出すということでもあるのですが、『古事記』のような神話を知っておられる方ならおわかりでしょうが、神は子どもを撒き散らします。国つくりが行われるときは世界も揺れます。ということで僕のなかでは入り口とはそのようなときに開くものなのだろうと思っています。この「入り口」というものが具体的になんなのかの謎解きはあまり意味はないとしても神話を読むような感受の仕方、想像力の使い方というのはこの作品を読む上で大事なのではないかと思います。



ということでホシノちゃんは夜の街に繰り出しカーネル・サンダーズから紹介してもらった女子大生とイレイレして3回射精します。ナカタさんは性的には不能のようで、そういう点からも彼が入り口の石を見つける役目を担わされたことは腑に落ちるところです。甲村図書館では夜、カフカ少年の泊まっている部屋に蒼い衣の少女=15歳の佐伯さんが現れます。カフカくんは考えます。僕が恋しているのは15歳の彼女なのだろうか、それとも今の彼女なのだろうか。現実と夢が混じり合って境界がぼやけて来ています。そしてこの作品『海辺のカフカ』の英題『Kafka on the shore』にあるようにそれは海辺の境界線での出来事の様相を呈してきます。海と岸辺の境界は波によって揺れ動きます。その危うい感覚がカフカくんを襲います。カフカくんは佐伯さんの恋人であったかもしれないし、佐伯さんの息子であったかもしれない。登場人物たちはいくつもの可能であった平行世界をあちらこちらとゆらゆらしている気がします。ちなみに『海辺のカフカ』は世界幻想文学大賞という賞を受賞しています。



翌朝、カーネル・サンダーズから入り口の石を入手したホシノちゃん。本当にLP版くらいの大きさでした。甲村図書館ではカフカくんが大島さんに自分の暴力衝動について話しています。自分をコントロールできなくなることがある。まるで自分のなかに別の誰かがいるみたいだと。カフカくんも影を半分しか持っていないのでしょうか。そこに他の人が入り込んでくる。ナカタさんや甲村さんが入ってきたととれないことはない、というかそうとってみたくなるところです。または若者というのは総じて半身しか持っていないものなのだと普遍的にとらえることも可能であるように思います。



佐伯さんの書斎。佐伯さんとカフカくん、そしてカラス。物語も大詰めに来たなと予感されるところです。佐伯さんは強さとはなにかについて話します。佐伯さんによれば強さはさらに上の強さによって乗り越えられてしまう。それは暴力ですよね。でもカフカくんの求めている強さはそういうものではない、外からくる力を受け止めることができる強さなんです。カフカくんは佐伯さんに言います。「父は最初からあなたを自分のものにできないと分かっていた」、「だからその子に自分を殺させた…」佐伯さんは自分の周りが変わってきていることに気づいて怯えているようです。佐伯さんは失ってしまった時間がいま埋められようとしていることに戸惑っています。カフカくんは言います。僕は海辺のカフカです、あなたの恋人で息子です、ぼくらは雷に撃たれてしまったのだと。カフカくんと佐伯さんはお互いを求め合います。佐伯さんの半身とカフカくんの半身が結合し「男女」へとつながった瞬間であり、またそれは人間にとって最高の瞬間でありながら、終わりを予感させるものでもあったと思います。少なくとも佐伯さんにとっては。


雷が鳴るなか、ホシノちゃんは入り口の石を開けようとします。重くてなかなか持ち上がりません。ナカタさんはそれを見守ります。ナカタさんがなぜ入り口の石を開ける役目を与えられたのでしょうか。僕が思うにナカタさんは愛嬌のあふれる人間ではありますがある意味で中身が空っぽなのです。舞台や小説の台詞でいうのなら、「一冊の本もない図書館」のようなものだということです。そしてナカタさんは空っぽであるからこそ中に入れることができると言うことができると思います。ナカタさんは佐伯さん、カフカくんといった影の半分を失っている人たちを平行世界へと導く案内人なのではないかと思います。何度か書きましたが、ナカタさんは戦中にお椀山で非合理な暴力を受けたときに入り口から向こうの世界へと出入りしています。そのときナカタさんは多くのものを失いました。おそらく向こうの世界に置いてきたのだと思います。そしてナカタさんは何十年のときを経て半身でいることの苦しさから解放されるときが来たのだろうと思います。そして佐伯さんも同じくとても静かに死に向かっているのですね。



「世界は破滅へと向かうシステムのなかで動いている」



佐伯さんの書斎で、佐伯さんとナカタさんは初めて出会います。佐伯「私はあなたがいらっしゃるのを待っていたように思います」、ナカタ「お待たせしました、すいません」、佐伯「一番いい時間に来てくださいました」いろいろなものがあるべき形に戻ろうとしていることを感じさせます。この世界においてのナカタさんの半身、佐伯さんの半身は向こうの世界に戻ろうとしています。ナカタさんは自分は思い出を持っていないと言いました。佐伯さんは「完全な輪の思い出」の中で時が止まっています。思い出=記憶とするならば、特別な記憶を持たない人生はその人が存在していることを保証しているのでしょうか。特別な記憶に固執することはその人が存在することに意味を見いだせるのでしょうか。佐伯さんは言います、「私たちはここを去らなければならない」 ナカタさんは佐伯さんの残した記憶のノートを燃やしたあと、ホシノちゃんに看取られ亡くなります。ナカタさんは役目を果たしたのだと思います。お疲れ様でしたと言いたいです。



森です。小説とは設定が違い、大島さんのお兄さんの所有する小屋ではなく大島さんの所有する小屋になっています。大島さんはカフカくんのもとを去るときにこう言い残します。この世界には平行世界が存在する、ある地点まで行くと戻ってこれなくなる、迷宮は内蔵のメタファーだ、きみの外にあるものはきみの中のもののメタファーだ、きみが迷宮に入り込むということは心の迷宮に入っていくということだ。きみは傷ついて損なわれてしまった、しかしきみは傷を回復することができる、でも佐伯さんはもう回復することはない。きみのお母さんはきみを愛していた、そして佐伯さんがお母さんだという仮説はまだ機能している。カフカくんは森の奥へと向かいます。



森の奥には太平洋戦争で軍から逃げ出した二人の兵士がいます。彼らも平行世界への道を選んだ人たちです。彼らはここに来なければ外地で殺しあいをしていたでしょう。みんなが殺しあいなどしたくないがしなければならなかったと述懐します。国は逃げることを許さない、だから僕らはここに残ったのだと。カフカくん、きみが来るのを待っていた、入り口は開いている、中に入るなら今のうちだ、決意がないなら引き返したほうがいい。カフカくんは中に入ります。



迷宮の中でカフカくんは佐伯さんを探します。それは迷宮のメタファーである自分の心の中の佐伯さんを探すことでもあると想像されます。そして佐伯さんもカフカくんを探しています。カフカくんは佐伯さんとこの平行世界でずっと一緒にいたいと思います。佐伯さんのいない世界で生きたくはないと。佐伯さんはカフカくんに戻って欲しいと言います。私のことを覚えておいてほしい、最後の記憶を覚えていてほしい。佐伯さんはすべての記憶をナカタさんに焼き捨ててもらいました。しかし、カフカくんにだけは覚えていて欲しいと願うのです。カフカくんはそんな佐伯さんに向かって言います。カフカ「はい、お母さん、僕はあなたを許します」佐伯「もとの場所に戻って生き続けなさい」



大島さんにカフカくんは東京に戻ることを告げます。おそらく舞台ではなかった台詞だと思いますが、小説で印象的だった、そして舞台の雰囲気も表現している大島さんの台詞を入れさせてください。「世界はメタファーだ、田村カフカくん。でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい」 カフカくんは言います。「大島さん、そのネクタイとても素敵だよ」、「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」



さくらから電話がきます。「夢を見たよ、きみが迷路のなかでひとりで歩き回っている夢だった。きみはなにか特別な部屋を探しているんだけど、その部屋が全然見つからないんだ。でもその迷路のなかでは逆にきみのことを探し回っている誰かがいる。わたしは叫ぶんだけどうまく届かないんだ。怖い夢だったよ」 さくらは森のなかでの出来事を夢で見ていたのだろうと思います。カフカくんを思ってくれる人はこんなにいる。彼は損なわれたが、その傷は確実に回復している。さくら「さようならカフカくん」、カフカ「さようなら、お姉さん」



舞台にはカフカとカラスの二人。雨が降り続いています。二人はいろんな場所で降った雨のことを思い出します。森に降る雨、図書館に降る雨、高速道路に降る雨、東京に降る雨。「世界に降る雨のことを考える、想像するんだ」



完。




後半かなりシリアスになってしまいましたが、なんとか書ききれました。『海辺のカフカ』の舞台、小説のほんのひと握り…にも満たないかもしれませんが、この記事を読んで小説、舞台を読んだり観たりしてみたいなと思う人がいればなと思います。とにかく一回観ただけだとよくわからないところがかなりあります。これはDVD化をされるのを祈るしかないですね。でももう1回観たいというのが本音です^^ 2015年、海外まで…それは無理か。あと書いていなかったですけど、カフカ役の古畑新之くんの演技も素晴らしかったですよ。他の実力のある役者さんにまったくひけをとらずどうどうと演技していました。宮沢りえさんに可愛がられているようでしたね。彼は大物になるかもしれません。名前を覚えていてください。というわけで2回に分けて書いた記事でしたが、読んでくださった方本当にありがとうございます。

2015年2月22日日曜日

舞台『海辺のカフカ』 村上春樹原作 蜷川幸雄演出 その1

2014年7月4日、東京の赤坂ACTシアターで『海辺のカフカ』の舞台を観てきました。朝の新幹線で新潟を立ち、小雨が降りしきるなかを赤坂まで行ったわけですがなかなか面白い舞台であったように思います。蜷川幸雄の演劇は5月に観た『わたしを離さないで』からの2回目。『わたしを』のブログ記事は初蜷川ということもあり少々神経症的なナイーブな書き込みになってしまったのでこちらはもう少しオープンな記事にしたい…でも書いてるうちにどうなるかはわかりませんw








キャストから書いていきましょう。プログラムのキャスト順に書いていきます。主要キャストだけです。


宮沢りえ  佐伯
藤木直人  大島
古畑新之  カフカ
鈴木杏   さくら
柿澤勇人  カラス
高橋努   星野
鳥山昌克  カーネル・サンダーズ
木場勝己  ナカタ








13時半開演でした。
真っ暗な舞台が明かりに照らされいくつものショーケースのようなガラスのボックスが現れます。中にはトラック、木、少女など。この少女はネタバレですが若い頃の佐伯さんです。『カフカ』の世界を象徴する場面が描かれているのです。「野方駅前商店街」からの始まりです。野方は東京都中野区にあります。「田村カフカ」くんと「ナカタ」さんは中野区に住んでいます。次々にボックスが現れてきてそこで舞台は進行していきます。以降はボックスについては省略します。



田村浩一、田村カフカくんの父親の書斎でカフカとカラスがソファに座っています。いつものゲームをしよう、と二人は目を閉じます。まわりは砂嵐だ、僕たちにできることは目を閉じて砂が体内に入らないように一歩一歩進んでいくことだけだ。原作にもあった場面でこれからカフカくんが出会う砂嵐をどうきりぬけ、そのあとに自分がどうなるのかという物語のすべてを暗示させるゲームですね。「きみは世界で1番タフな15歳になる」。



と、こう書いていくとまた長くなりそうなので飛ばすところは飛ばします^^




戦中のお椀山でのナカタさんの担任の女性教師がGHQの取り調べを受けているシーン。そして野方駅から四国へ向かったカフカくん、高松駅のパーキングで同じ高速バスに乗っていた美容師のさくらと知り合います。さくら役の鈴木杏さんは僕のイメージしていたさくらとは違いました。僕のなかではもっとダミ声でちょっと悲しげな影を持っているというような印象だったのですが綺麗な声で思ったより快活なお姉さんという印象でした。舞台というのは原作に役者さんが肉付けをしてくるので、なるほどそういう解釈もあるよね、と新鮮さを感じることができますよね。またネタバレになりますが原作ではさくらがカフカの自慰行為を手伝う場面があるのですがそこは削られていました。僕はカフカにとってとても重要な場面だと思うのですね。それによりさくらの物語での重要度がいくぶん下がったなとは思いました。ここで重要なのは「袖触れ合うも他生の縁」ということになるでしょうか。



野方でナカタさんが初登場した場面。ナカタさん、60歳くらい?字が読めなく頭が悪いので知事から補助を受けてくらしている、たまに猫探しをして得たお金で鰻を食べるのを楽しみにしている、みたいな人です。非常に重要な登場人物です。『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ、『罪と罰』のソーニャに相等するのではないかと個人的に思ったりします。物語のキーパーソン中のキーパーソンなので活躍の度合いは先の2人以上です。ナカタさんは猫と話ができるのですが、それが舞台だと非常にコミカル。猫の着ぐるみを着て役者さんが演技しているので猫が話し出すと観客席から笑いがw 「羊男」や「かえるくん」など村上春樹の小説には想像力を掻き立てる動物?がたくさん出てきますよね。人間サイズの猫なので小説とはまた違った意味のユーモアを感じさせました。



それでナカタさんは猫に「オオツカさん」とか名づけていくわけですね。この名づけというものも『海辺のカフカ』のなかで非常に意味を持ってくるように思います。誰もが名付けられたもので真の姿を見せない、見せることができない、というところがガラスのボックスのなかで演じられる虚構の現実というものを暗に意味しているのでは…そこまでは深入りしすぎているのでここらへんで。



ナカタさんの影が半分というのは小説でもプラトンの『饗宴』で書かれているように、この世界の男男、男女、女女を神様が半分にした、それゆえ人間はその片割れを探している、つまりナカタさんは半分でそこには誰かの影が入る余地がある、そこにいろいろな人が入ってくるのだろうなと思います。なぜ影が半分なのかは原作を読んでいただきたいと思います。重要な箇所だと思います。



そして甲村図書館にやってくるカフカくん。ここで藤木直人さんが登場です。図書館司書の大島さんという役ですが僕の小説での印象とはかなり違いました。大島さんは生物学的に女性ですが性同一性障害を抱えていてこころは男性です。そして性的対象は男性です。つまりゲイです。この難しい役どころを藤木さんがどう演じるのか、と実はかなり興味を持っていたのですが、あ、こんな感じか!とちょっと虚を突かれたというかかなりストレートに演じている印象を受けました。複雑な設定の人物なのでひねってくるかなと思っていたのです。大島さんはそんなに感情を表に出さないで淡々と語る人と思っていたのですが藤木さんは見事に僕のなかの大島さんを豊かにしてくれました。先取りになりますが大島さんはカフカくんを性的対象として見ている、そこまでストレートに言うべきではないかもしれませんがかなり気に入っている、これは舞台を観ることによって体感的に得られたものでした。



そして宮沢りえさん演じる佐伯さんが登場。佐伯さんは若い頃に『海辺のカフカ』という歌で一世を風靡したのですがわけあって姿をくらまし、今は甲村図書館を管理しています。50歳くらいの設定だと思います。その前に『オイディプス王』の物語が本作品においては重要な位置を占めていることを言っておかなければいけません。簡単に言うと、父を殺し母と姉と交わるという悲劇なのですがその呪い?原罪?にとりつかれた少年カフカくんの物語でもあるのです。舞台ではカフカくんを見て佐伯さんが驚く場面が追加されています。このシーンを入れることによって解釈が絞られてしまうのではないかと僕は思ってしまったのですがほかの人はどう思ったのでしょう…。宮沢りえさんはテレビと印象がかなり違いました。といっても最後に見たのはNHK大河ドラマだったと思います。声が与える印象がテレビと全然違って、なんといったらいいのか細くありながら凛として響く声で佐伯さんがこの作品で占める時間、彼女はあるときから時間が止まっていると僕は思うのですがそこから本来の佐伯さんの時間まで、の幅の厚みをカヴァーしているなと感じました。宮沢りえさんが動くと舞台の空気が動くような、そんな印象でした。



ここで余分なことを書くと、佐伯さんの恋人は学生運動の時代にセクトと間違われて酷い死に方をしているのです。そこから佐伯さんはある意味で時間が止まってしまっています。それは佐伯さんの半身はその恋人だったからです。つまり佐伯さんも影を半分しか持っていないのです。そしてこの甲村図書館は恋人の家の私設図書館です。「人が半身で生きていくのはとてつもなく大変なこと」なのだということが小説、舞台を通してこの作品では語られます。カフカくんにとって佐伯さんの微笑みはひだまりのようだった、それは野方の空き地のひだまりを思い起こさせます。この表現は小説にありましたかね。それは母のようなものを感じさせたというと言いすぎでしょうか。



カフカくんは黙々と読書をしながら体を鍛え続けています。ベンジャミン・フランクリンの徳目を守り続ける古いアメリカの男性のようです。それと並行してナカタさんはカワムラさんという猫を探していて犬に吠えられます。カフカくんも犬に襲われます。ナカタさんは犬に連れられジョニー・ウォーカーのもとへ。これは舞台だから明らかであると思いますがジョニー・ウォーカーは田村浩一、カフカくんの父親です。初めにカフカくんとカラスのいた書斎と同じだからです。しかしそこにも想像を働かせる余地はある気はします。断定はしないほうがいいかもしれません。ここでも名づけということが重要になってくるのではと思います。名づけと僕が勝手に呼んでいるので小説でも舞台でも一言も「名づけ」という言葉は使われていません。人(猫も)の姿には名前が必要だ、とはジョニー・ウォーカーは言っています。彼はジョニー・ウォーカーでもあり、田村浩一でもあり、そして…ということです。ウォーカーは暴力について語ります。この世界の暴力。この世界は暴力で溢れている、誰もそれからは逃れることはできないのだと。そして猫を殺し始めます。



この時点でカフカくんのTシャツは血だらけになっています。時間がずれているのです。これはどういうことなのかと小説はどうなっていたかなと気になるところです。読む時間がないので気になった方は確認してみてください。この時間の差が意図的なものなのかどうか。カフカくんはさくらに助けを求めさくらの住んでいる彼女の友だちのアパートに身を寄せます。ざっくり言うとさくらがお姉さん(のメタファー)なわけですが自慰行為の手助けの場面はカットされています。その代わりに意識と記憶についての二人の会話が多少小説よりわかりやすく盛り込まれていた気がします。その後カーネル・サンダーズに紹介された19歳の女子大生のベルクソン解釈とつながっていきます。そして自慰の場面の代わりにさくらがカフカくんを背中から抱きしめるシーンがあります。これ以降の夢の中でカフカくんがさくらを犯す場面もカットということでそれをカットというのはどうなのだろうと正直思いました。夢の持つ意味、それが持つ責任の問題は他のところで語られていたかな?1度観ただけでは把握できなかったです。多分あっただろうと思います。このまま書き続けます。



この間に戦中のお椀山での出来事を女性教師が告白する場面が挟まれていました。ナカタさんの学級はお椀山できのこを取りに行ったわけですが、きのこということも僕には意味のあることだと思います、その前日烈しい性的興奮を覚えていた女性教師がきのこ狩りの途中で突然の月経に襲われ出血を止めた手ぬぐいをナカタさんが手に入れる、そしてナカタさんを気を失うまで殴り続ける、周りの子供たちも意識を失う、そんな流れですが、そのときナカタさんは一人だけ長く意識を失ってしまう。そして彼だけが平行世界の向こう側に行ってしまう。入り口が空いていたからです。そして向こう側に影の半分を置いてきてしまう。理不尽な暴力が人間を損なわせてしまう。佐伯さんの恋人に対する理不尽な暴力。そして太平洋戦争における理不尽な暴力も。当然カフカくんの抱えている意識を失ってしまうほどの暴力への衝動も関わってくると思います。ここは僕の解釈が混じっているので違った考えの方もおられるでしょう。ひとつの考えとして書いてみました。




ナカタさんはジョニー・ウォーカーを殺します。猫を殺す浩一。それは猫の魂を集め大きな笛をつくるためです。その笛をもとにさらに大きな笛をつくろうとします。浩一は猫を殺すことに意味はなかっただろうと思います。しかし、なにかボタンの掛け違いがあり猫殺しの歯車が回ってしまった。そんな浩一を止めたのがナカタさんということになるでしょう。「長く生きてきた。生きた気がしない。自分で自分の命を断つこともできない」浩一の悲鳴でしょう。この後甲村図書館ではカフカくんに大島さんがカフカの『流刑地にて』について話します。処刑機械の話でそこで大島さんはさらにナチスのアイヒマンを例に出します。アイヒマンはいかに効率的にユダヤ人を処理することができるかを考えた官僚としては非常に有能であったと思われる人です。彼は絞首刑になりましたが、自分は自分に与えられた命令を実行しただけだというわけです。本作品ではジョニー・ウォーカーの猫殺しと笛つくりと重ね合わされているように感じました。彼も猫を殺したいわけではない、でも大きな笛をつくるためにそれは必要だったのでしょう。ナカタさんはそれを止めた。浩一が猫を殺すか?それともナカタさんが浩一を殺すか?



甲村図書館ではカフカくんにカラス(もしかして大島さんだったかも。すいません記憶が曖昧です。おそらく小説と同じです。)が語りかけます。「夢の中から責任が始まる。言い換えれば責任のないところに想像は働かない」アイヒマンは責任を取らされましたがそれはナチスという組織の無責任さを事後的にとらせたということで、ナチス自体には責任の所在を明らかにするシステムがなかったために暴走したのだと考えていいのではないでしょうか。そしてカラスは続けます。「この夢は誰の夢なのかは関係ない。同じ夢を見たのだから責任は我々が引き受けなければならない」のだと。浩一を刺したナカタさんに浩一は言います。ナカタがナカタでなくなることが大事なのだと。ナカタさんは何になったのでしょうか。ナカタさんは影が半分しかありません。そこに乗り移ったのは…カフカくんなのか、それとも浩一なのか…。



というところで1部が終わりました。85分です。

2015年2月21日土曜日

舞台『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ原作 蜷川幸雄演出

2014年5月8日(多分)、蜷川幸雄演出、『わたしを離さないで』を観劇に行ってきました。



 


まず、最初に忘れずに書いておきたいのは、今回のキャスティングは文句のつけようがないくらいよいものであったのではないかと。もしも再演されキャスティングが変更されるとなると僕は今回と比べざるを得ない…それほどよかったと思いました。多部未華子さん、三浦涼介さん、木村文乃さんはもとよりすべての方が原作のイメージを損なわずに舞台独自の色も出していたのではないかと思います。


そしてこれも書いておきましょう、上演時間は1部1時間半、2部60分、3部50分です。僕は舞台や映画にされるといつもなにか省かれた部分がある、と視聴者の傲慢といえるかもしれませんが感じるのですが今回の舞台は本当に原作の持っているものをすべて拾っていったな!そして尚且つ!多様な解釈を観客に与える素晴らしい演出だったと思います。これは2度3度どころでなく、東京に住んでいたら5回くらい行ったかもしれませんね、もちろん時間があればですが。


ということで、ここから超ネタバレで行きますのでこれから観る予定のある方は絶対見ないでください。そして万が一この記事を読んでいて、観たいと思った方は迷わずページ移動をお願いします。あともうひとつ。僕はこれを書く時点で小説を1回、映画を2回しか観ていません。だから決定的な間違いを書いているかもしれませんがそこは感想だということで御容赦願います。それでは書いていきたいと思います。あ、あとセリフですが僕の貧弱な記憶力に頼っているので正確なセリフではないことは断っておきます。そのへんも御容赦ください。










ネタバレライン
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[第1部]
まず、原作との設定の違い。舞台が日本になっています。そして登場人物の名前も日本人(おそらく)の名前。多部未華子さん=キャシー・H=「八尋(やひろ)」、三浦涼介さん=トミー=「もとむ」、木村文乃さん=ルース=「鈴(すず)」、です。ヘールシャムはヘールシャムのままです。


舞台が開演すると同時に舞台上奥からヘリコプターが飛んできます。介護人となった八尋が病院のベッドのようなものに乗せられた「けん」という提供者を運んで画面奥からやってきます。けんは車の音がする、あれはソアラだ、保護官のなかに乗っている人がいたんだ、などと言います。提供の直前なのか直後なのか、かなり情緒が不安定になっていてそれを八尋が「介護」するといった感じです。けんは八尋にヘールシャムでのことを話してくれと頼みます。八尋はヘールシャムには図工の授業があって「ときお先生」という人がいた、手に入れたチケットで販売会でカセットテープを買ったわ、などとけんに話します。けんは一生懸命聞き入っています。ヘールシャムでの八尋の記憶を自分の記憶とするためになのかなと思いながら観ていました。八尋はここは少しヘールシャムに似ているわと言います。それがけんを慰めるためだったのか本当にそう思ったのかは分かりませんがどちらでもあったのではないかと思います。


舞台は子供時代、八尋が14歳だった頃のヘールシャム時代へ。男の子たちがサッカーをしています。スローモーションのようにゆっくりとした演技です。ここでは単純にノスタルジーを感じさせるだけのような演出に見えるのですが後半にここが意味をもってくるのではないかと…そこはまた触れるとして次に行きます。舞台前方に八尋、後方にもとむがいます。原作にもある描写でもとむはサッカーの仲間に入れてもらえるのを今か今かと待っていますが入れてもらえない場面です。「ときお先生」という男の先生の話で女子が盛り上がっています。一番脈があったのは「鈴」だよ、と恋話に盛り上がる姿はまさに14歳の少女たちそのもの。鈴は箱(原作では筆箱)みたいなものを持っているのですがそれは絶対に「なか」のものではない。ときお先生が鈴にプレゼントしたのだと冷やかします。鈴もまんざらではない様子で受け答えています。中身は色鉛筆みたいでしたね、遠くてそこまではっきり見えなかったのですが。色鉛筆が14歳の少女にとってどういう意味をもっているか、ヘールシャムでは、と思いながら観ていました。ここらへんで前後関係があやふやになってしまいましたがもとむのシャツのくだりが入ります。からかわれて汚れてしまったシャツに八尋が大事なシャツなんでしょ、というところです。もとむが八尋のほほを叩いてしまうところですね。


冬子先生(=エミリ先生)の登場です。晴海先生(ルーシー先生)も登場します。騒いでいる子どもたちにむかって冬子先生が話します。ヘールシャムの生徒たちは特別な生徒なのです、わたしは失望していますこれではあなたたちは足らない存在だったということになる、と。小説を読んでおられる方は感じるところもあると思いますが次へ。ちなみにヘールシャムは世界各地に何個もあるという設定のようです。小説がどうだったかはおぼろげなのですが僕は冬子先生の息のかかったところはヘールシャムなのだと前提して観て行きました。


次の体育の授業のためにみんなが教室を出ていきますが鈴ともとむが残ります。医務室から帰ってきた八尋もあわせて3人。鈴は、もとむのシャツが大切なことをなぜ八尋が知っていたのかともとむに詰め寄ります。さらにシャツは販売会で買ったのですがもとむはご存じのように作品をつくっていないのでチケットはもらえないはずなのです。でも小さな子供たちは特別に1枚だけチケットが配られるらしくそれでシャツを買ったのだともとむは言います。鈴はそれが情けない、あんたはもう小さな子供じゃないんだから、なまけてるのよ、みんなに仲間外れにされるのもすべての原因はあなたにあると思う、と強烈に批判するのです。鈴はこの時点でおそらくもとむのことを好きですよね。八尋が知っていたことを自分が知らなかったという嫉妬のようなものなのでしょうか。もしかしたら本気でもとむを責めている可能性もあるかもしれませんがw 僕は八尋に対する鈴の微妙な対抗意識が言わせたのだろうな~と思いながら観てました。八尋と鈴は仲がいいですものね。もとむが絡んで微妙にこじれるという。


八尋は医務室のクロス看護師=カラス仮面に手当を受けた後に販売会の購入リストを見つけたと鈴に話します。そのリストには誰がなにを購入したのかがすべて書いてあります。つまり鈴がときお先生からもらったとほのめかしていた箱が鈴自身が販売会で買ったということを八尋は知ってしまっていたわけですね。鈴はそれを知って泣きだしちゃうのです。ここも思うところはありましたが次に進みます。


マダムが生徒たちの作品を選びに来ます。冬子先生とマダムが八尋と鈴たちの部屋、5人部屋くらいですかね5つベッドがありました、で話しているときにベッドの下に八尋、布団のなかにもとむが隠れて盗み聞きをしています。八尋ともとむには冬子先生とマダムの話している内容はよく分かりません。審議会がどうのこうのという話しでした。14歳の子どもにとってそんなことはたいして興味はない、それが自分たちにとってどれほど重要なことであっても。冬子先生とマダムが去るとあれはなんだったのだろうと2人は話しますがすぐに話題が変わります。もとむは作品が選ばれなかったとしたら自分のすべてを否定されたように感じるのだろうな、と話します。あんた作品つくったことないじゃない、と八尋が突っ込みますが^^ でももとむは変わったよねと聞くともとむは実は晴海先生が言ってくれたんだ、と。小説と同じです、つくりたくないなら無理してつくることはないと。そういわれてこころが軽くなったんだ、それで癇癪をおこすことなくみんなに仲間外れにされることもなくなったんだと。八尋は晴海先生がそんなこと言うわけがないと信じません。


展示会で手に入れたカセットテープをカセットデッキでを流します。NEVER LET ME GO。晴海先生は言ったんだ、あなたたちは教わっているようで教わっていない。提供のことでしょう、教わったじゃない、と八尋は言います。ここも言葉にできない微妙な描写なので先へ進みます。鈴たちが小説にある例のマダムを驚かせる作戦を終えて帰ってきます。鈴「マダムはヘールシャムの子を怖がっている」、他の子はマダムの表情を見て自分がゴキブリになったような気がした、いえ、それ以下よ!とショックを受けます。そもそもなんでマダムはあたしたちの作品を外に持っていくの?と子どもたちのあいだで動揺が走ります。鈴は、もとむと同じよ、もとむはゴキブリだからいじめられたわけじゃない、もとむに誰もかなわないと思ったからもとむをいじめたのよ、と。みんな鈴の意見になぐさめられながら部屋を出て行きます。残った八尋、もとむ、鈴。鈴は八尋の前でもとむにキスをします。八尋はどんな気持ちだったでしょうか。そして鈴ともとむが部屋を去ったあと八尋はカセットデッキでNEVER LET ME GOを流します。クッションを抱いて、まるで赤ちゃんを抱いているかのように。それを後ろからマダムが目撃し…という場面です。


舞台は第2視聴覚室に移ります。ここのセットが僕は気に入っていておそらく小説ではこんなイメージではなかったと思うのです。日本の地図があってですね、これはここで書いてしまいますがノーフォークですね、あの場所が東北の日本海側に設定されています。「宝岬」という名前になっています。日本の他の場所にも結構ヘールシャムはあるのですかね。場面としては、晴海先生に八尋と鈴が呼び出されています。販売会でどちらかが買った靴の底に湿気を防ぐためにかチラシが入っていたのですね。それで「外」の世界の情報に触れてしまったのです。それは男性2人女性1人がオフィスで働いている写真の広告なのですが鈴は、こんなオフィスで働いてみたな、と夢を語ります。晴海先生はそれに対し、あなたたちは将来を考えているのですか?可能性を考えているのですか?提供以外の可能性について話した保護官はいましたか?と質問します。八尋と鈴はほんとうに無邪気なんですね。子どもの想像力では未来を現実的に想像するのは難しいです。それはヘールシャムの子どもであるなら猶更です。晴海先生は非常に迷っていましたがしかし言います。あなたたちの存在は生まれたときから決まっているのです、でもあなたたちの取り巻く状況は今も刻一刻と変わっている、もしかしたら別の可能性が開けるかもしれない、そのための準備はしておいていてほしい、そのときになって後悔してほしくないから、と。しかし、あなたたちは自分が望んでいるようにはいかないでしょう、この状況がすぐには変わらなかった場合、あなたたちがオフィスで働くことはありません、あなたたちの人生はすでに決められているからです、臓器提供が始まります、3~10年以内に最初の提供が行われるでしょう。それを聞いて八尋と鈴がなんと答えたかというと、「はい、そうです」、「理解しているってこと?」、「理解しています」、晴海先生は八尋と鈴をきつく抱きしめて教室を出て行きました。晴海先生が八尋と鈴をどう感じたかは小説をお読みになった方は想像するに難くないと思います。


そしてNEVER LET ME GOのテープが盗まれる?事件が起きます。事件と言っても失くしちゃった、程度のものですけど物語上非常に重要になってきますから一応書いておきます。失くなった理由は僕にはよくわからないです。そして八尋と鈴が性についての話をしています。というよりもとむの話なのですが、鈴はもとむが好きなのですよね。それに対して八尋は自分も好きだと言えない、それとも自分でも本当にもとむが好きなのかわかっていない、乙女心はよくわからないですがそんな感じじゃないかと。それで八尋ははじめてのセックスの相手を先輩のいくおという人にしようかと思っている、と鈴に話します。鈴は八尋に、わたしはもとむともう一度やり直したいと相談します。ちょっとこじれていたんですね、書き忘れていましたが晴海先生に作品をつくりたくなければつくらなくていい、と言われたのを自分より八尋に最初に話した、ということでいざこざがありました。で、やり直したいと。そのあと八尋ともとむが2人になります。もとむは、参っている、と八尋に打ち明けます。ここでも八尋に打ち明けるわけです。「鈴のこと?」、「いや、違う、晴海先生、見事にひっくり返してくれた。私が間違っていました。作品は重要です、作品をつくっていればいいことがあるかもしれませんって。」そして話し終わるともとむを晴海先生は強く抱きしめたそうです。ここで1部が終わります。


ちょっと込み入ってきまして小説でも複数の解釈可能性を含む描写が舞台でも再現されていました。役者さんの演技も非常によくて、14歳の少年少女を見事に演じられていましたし、なにより3人しか出てこない大人、冬子先生、マダム、晴海先生の3人の存在感も凄かったです。小説自体が難解じゃないですか。読み口は軽いのですが。それを舞台ではコントラストがうまくついて鮮やかに色分けされているという印象でした。



[第2部]

そして第2部です。場所がよくわからないのですが、小説でいうところのコテージ。ヘールシャムから出て生活する場所ですね。ヘールシャム出身者以外の先輩も何人かいます。りょうたとありさというカップル、小説で出てくる2人です、がいますがプログラムに役名が書いてなかったので漢字がわからないためひらがなで書いていきます。


八尋は論文を書いているのですね。論文を書くことによって介護人への道が開けるのですかね。エリートコースと周りに揶揄されています。鈴に、まだヘールシャムを引きずっているつもり? 品が合って教養があって、ヘールシャム出身そのままじゃない、と。僕もここらへんは小説をよく読み込んでいないのでコテージでの生活が外の世界に慣れさせるための第1段階という認識しかないのですがもう少し違った意味を含んでいるような気がしますね。八尋は鈴に聞きます。「あなた、無性にしたくなることない?」、「ないなー、もとむとすればいいし、それを治したいなら彼氏をつくるべきよ」。まだ八尋にはパートナーがいないのです。この欠落というものもやはり後々意味をもってくると思います。そこにりょうたがやってきて、「鈴、お前のオリジナルを見つけたかもしれない」と言ってきます。宝岬でガラス張りのオフィスで働いていた、お前にそっくりだった、と。鈴は興味のない振りをしてみせます。りょうたは、宝岬に車で連れて行ってやるからかわりにあれを聞かせてくれ、といいます。「ヘールシャムのやつだけがもらえる特典、3年間の執行猶予」。小説を読んでらっしゃる方はご存じでしょうが、この執行猶予というのはカップルの愛が本物だと証明できたら、3年間訓練を受けなくてもよし、家も与えられて2人だけで過ごせるというものです。彼らにとっての3年間というものがどういうものなのかは想像してみてください。八尋、もとむ、鈴、りょうた、ありさの5人で宝岬に行くことに決まりました。みんなが部屋に戻った後、八尋はポルノ雑誌を夢中で読み始めます。なにかを探しているわけですね。


宝岬に着いて、オフィスの鈴のオリジナルを見た後の海岸が舞台となります。結論としては、八尋「あの人は鈴のオリジナルじゃない。」 鈴は言います。「私たちのオリジナルがあんな風な人のわけがないじゃない、ヤク中、アル中、売春婦、…屑に決まってる」。りょうたはでも連れてきたんだ、猶予の話を聞かせてくれといいます。しかし鈴は、猶予の話は知らない、といいます。これは本当のことでヘールシャムではそのような噂はあるにはあったのですが噂の域を出るものではまったくなかったのです。しかしあるのではないかという可能性はみなが薄らと持っていましたが。5人は食事をすることになりましたが八尋は行かないと言います。するともとむも残ると言います。2人は残って海辺で話をします。もとむは、自分たちのオリジナルがどんな人かなんて保護官は何も言ってなかった、自分たちはたとえヤクがあってもやらないし、おれたちはおれたちの人生を歩んでいる!と言います。八尋は、ヘールシャムでは海の音が聴こえたけど行けなかったね、いつかまたヘールシャムに行けるといいね、と言います。もとむは買い物がしたいと言います。やひろ、「つきあってあげるわよ」。もとむ、それは八尋へのプレゼントなんだ、と。なんで突然?と八尋。もとむは話します、むかし八尋が失くしたテープ、あれ、鈴が内緒でみんなに探させたんだ、だから思った、宝岬には失くしてしまった宝物が辿りつく、必ずあのテープを見つけてやる!やひろは涙ぐみます。もとむ、「最高だろ!」


コテージに戻ります。八尋と鈴ともとむ。もとむは必死に絵を描いています。鈴はもとむが一生懸命絵を描くことによって周りから同情の目で見られるのが辛いとなかば非難めいて言います。もとむは、「マダムのもとには鈴の絵はあるけどおれの作品はないから」。鈴は、これ以上時間を無駄に使いたくないと言います。自分たちに残された時間をもとむとのために使いたいと鈴は思ったのでしょう。それに八尋に対する嫉妬心もあるでしょう。鈴は、なんのために描いているのよ、と聞きます。もとむは、「楽しいから…本当にすごく楽しいから」。りょうたが戻ってきてカセットデッキを起動させると、NEVER LET ME GOが流れます。鈴、「失くしたんじゃなかったの?」。見つかったのよ、と八尋。鈴はもとむを部屋から追出すと八尋にいま自分ともとむの仲は最悪だと打ち明けます。でも私じゃなきゃだめなの、なぜならもとむはあなたのことを恋愛対象としては見ていないから、もとむはね、複数の男性と寝る女性が理解できないんだって、と。八尋、「それは…知っておくにこしたことはないわね…」。その後すぐに八尋は介護人になるべく申請を行ないます。




[第3部]

第3部です。湿地に座礁した船、それを見つめる人々。そのなかに提供者となった車椅子に乗った鈴とその介護人八尋の姿があります。第2部から8年の歳月が流れています。鈴は明らかに弱気になっています。そこにもとむが現われます。3人は再会しますが鈴は浮かない顔をしています。この時点でもとむは1回の提供、鈴は2回の提供をしています。3人は船を見つめて、あの船はどこからやってきたのかと思いを馳せます。船がなにかを意味しているのだと思いますがちょっと言葉にはできないです。先に進みます。ヘールシャムはこのときすでに閉鎖されています。鈴、「ヘールシャムの第2視聴覚室を思いだすわ…夕陽がオレンジ色に染まったあの水面…」。ありさが2回目の提供で「使命を終えた」こと、きっと3回の提供を終えるまでに「使命を終える」人は公表以上に多いに違いないと。「りょうたさんは柏崎のセンターで会ったときは元気そうだった」と八尋。悲しかったけどしっかりしてたよと。鈴はますます悲観的になりますが八尋は励まします。「ここがヘールシャムだったとしたらここは砂漠ね。1番仲のいい友だちとこんなふうにおしゃべりするのよ」。海辺に流されてきた大きな看板を周りの人に手伝ってもらい立ててみると、それはあの日第2視聴覚室に呼び出されたときに見たのと同じくオフィスの広告でした。もとむ、「鈴の夢はマスコミになることだったよな」 鈴の告白が始まります。「提供を猶予してもらって。あなたたちなら確実に通る。お願い、八尋、やってみて!」。八尋は遅すぎると言います。鈴はマダムの住所の書いた紙を八尋に渡します。


舞台はマダムの家へ。部屋のなかにはイギリスの「ヘールシャム1号館」の絵が飾ってあります。マダムが現われます。あなたたちのことは覚えていますよ11年振りですね、とマダム。八尋はお願いにあがったと言います。もとむは3回の提供をしています、4回目の提供の猶予を、そしてわたしの提供の猶予をお願いに参りました、と。もとむはマダムの名前を知っていました。「こうさかさん」と呼びかけます。そしてマダムに自分の描いてきた絵を見せます。あの頃のおれはほんとうにバカでした。これだけで足りるかわかりませんがとりあえず持ってきました、と。マダムは、「これを使って2人の愛を証明すると?」 もとむは土下座をします。八尋も深く頭を下げます。マダムはしばらく黙っていましたが、「あなたはこの光景を見て、まだ傍観者でいるのですか?」


奥から冬子先生が現われます。彼女は車椅子を押されながら現れました。ここらへんから僕の独自の解釈をちょっと入れさせてもらいます。冬子先生はおそらくこれから臓器移植を受けるでしょう。そしていまキャビネットと共に去ろうとしています。キャビネットはヘールシャムに置いてあったものです。それは冬子先生にとっては誇りなのだろうと思います。彼女は実践的な主義者でした。冬子先生は八尋ともとむに聞きます。「なぜ2人の愛を証明するのに絵を選んだのですか?」 八尋ともとむはマダムのもとにある作品は真実の愛を見極めるためのものだったと信じています。冬子先生は、「あなた方の魂、心があるのだと、それを否定する人たちに全国各地でヘールシャムの子どもたちの作品を展示し、魂があるのだということを証明してきたのです。そして多額の寄付を得ることができました。」 冬子先生は続けます。医学は進歩しすぎました、逆戻りはできないのです、クローン人間の臓器移植以外の用途も考えられるようになったとき変わりました、と。「わたしはあなたたちのことを考えないことに決めました。あなたたちは不完全な存在だと。」 冬子先生はこれまでクローン人間のために闘ってきました、そしてヘールシャムというクローンにある種の人間性を育む場をつくることに成功しました。なかには晴海先生のようにクローンは所詮クローンなのだという真実を教えたほうがいい、それがこの子たちのためなのだ、という別の意味の主義者も現れましたが彼女はヘールシャムを去ることになりました。しかしそれ以上に、クローンに対するわれわれ人間の拒否反応は強かった。冬子先生を支援してくれる人々や企業の数は確実に減っていったのだと思います。それに冬子先生は屈し、ヘールシャムは閉鎖に追い込まれたのでしょう。


八尋「先生、これは審査だったんですか?」、もとむ「始めからなかったのですか?」、冬子先生「ありません。あなた方の人生は決められたとおりに終わることになります。ただ魂の証明にだけあったのです」、「あなたたちはまるでチェスの駒のようですね。でもね、たとえ駒でも幸福な駒だったはずです。」 八尋「先生にとっては追い風か逆風、それだけかもしれません。でもわたしたちにとっては人生のすべてです」冬子先生は、子供たちを見て嫌悪感や恐ろしさを抱いていました。クローンに対する不気味さ。本当にこのような子どもたちにヘールシャムのようなものをつくって少しでも人間らしさを育ませることに意味があるのか。その心の葛藤を常に抱えていたのだろうと思います。しかし、冬子先生は言います、「私は闘い、(その心に)勝ったのです」と。そう言うと、冬子先生はキャビネットの運搬業者とともに去って行きました。


マダムが八尋に話しかけます。「八尋さん、覚えていますよ、あなたのことを」 八尋がNEVER LE ME GOの曲にあわせて踊っていたのを。マダム「あなたはあの曲を母と子の歌だと解釈していましたね。」「でも違うのです、あの時私が見ていたのは…新しい世界がやってくるなか、古い世界を必死に抱えている少女の姿です。」マダムは八尋ともとむを見ます。「可哀想な子どもたち…」 ここで舞台端でヘールシャム時代の回想が行われています。鈴が八尋に失くしたテープの代わりに別のテープをプレゼントします。八尋「ありがとう!気に入りそうよ!」、鈴「よかった!」 マダムが去り、八尋ともとむの2人きりに。もとむはあのヘールシャムの頃のように大声で泣き叫びます。


時代はみんなで宝岬に行ったときに戻ります。宝岬で八尋ともとむはお店を周って、NEVER LET ME GOのテープを探し歩きます。そして八尋が先に見つけました。もとむ「おれが先に見つけたかったな」、「渡したとき、八尋がどんな顔をするかな、とか見てみたかった」


舞台はヘールシャムの時代に戻ります。あのスローモーションでサッカーをしている場面です。今度は女生徒もサッカーに加わっています。そしてその上にはヘリコプターが。ヘリコプターがなんであったのかは想像してみてください。そして舞台は終了しました。






4時間という長丁場でしたがあっという間に終わってしまいました。1度しか観れないことを残念に思いました。そして1度しか観ていないゆえに、僕の解釈は最小限にとどめさせてもらいました。たしか5月15日までやっていると思います。この記事を読んで興味を持たれた方は是非観てみることをお薦めします。まさに日本版「わたしを離さないで」と言っていいでしょう。カズオ・イシグロの小説も素晴らしいですが、それをここまで舞台として仕上げてきたスタッフと役者さんにはありがとうと言いたいです。


多部未華子さんはほぼ完ぺきな演技。僕が最初に多部さんを舞台で観たのは3年前?の「サロメ」ですが、確実に成長していますね。きっと大女優になるのでしょう。三浦涼介さんは1部、2部、3部で髪型を変えてましたね、たぶんw まあどうでもいいかもしれませんが原作のトミー以上にトミーな感じでした。僕は三浦さんはテレビでも見たことがないのですよ。でも素晴らしいお芝居をする方だと思いました。木村文乃さんは、僕は映画版のキーラ・ナイトレイが好きだったので比べてしまいますが、それでもやはり木村さんのほうが感情移入しやすかったです。そもそもこの舞台のセリフ回しが非常に自然で日常隣でこんなふうに話されていてもまったく違和感がないような感じなのですよ。だから木村さんの演じる14歳は本当に中学生ってあんな感じだよな、と思って観ていました。あとは冬子先生の銀粉蝶さん。一番のインパクトは入り口にあった銀粉蝶さんへの堀北真希さんのお祝いの大きな花なのですけどw 冬子先生はこの人しかいない!というほどはまり役でしたね。複雑な心情を持った役だったと思うのですが貫禄を持って演じられていました。冬子先生のような主義者の心理というのは本当に難しいだろうと思います。あとは床嶋佳子さん。昼ドラでお見かけしたことはありますが、まさにマダムでした!マダムも本当に難しい役どころですよね。冬子先生とはまた違った考えを持っている役どころ。どこまで子どもたちの側に足を踏み込むのか繊細な演技を求められたのではないでしょうか。なにしろマダムは普段は外部の人間ですから冬子先生とはスタンスが微妙にずれてきますよね。そして晴海先生役の山本道子さん。僕は勝手に冬子先生を「冬」、晴海先生を「春」、と思い込んで観ていたのです。声だと漢字が分かりませんから^^ だから対照的な役なのだろうと。しかし、そうシンプルでもないのがこの「わたしを離さないで」ですよね。迷い苦しむ大人の1人を演じられていましたね。晴海先生なしではもちろんこの物語は大変な空白を生むことになったでしょう。山本さんの演技力も素晴らしかったです。


と、まあこんな感じでした。蜷川幸雄さんの舞台はWOWOWでは観ていたのですけど実際に観るのは初めてでしたが、本当に「世界の蜷川」と言われるのは言われるだけのものを、本当にこちらを圧倒させ、感動させるものを持っておられるのだなと思いました。「海辺のカフカ」も観に行く予定ですがもしかしたらスケジュールが合わないかも。「わたしを離さないで」でこれだけのものを観せられると本当に期待してしまいます。あ、音楽にまったく触れなかったのですが、なんだろう、格調高い教会のミサ曲みたいな感じで世界を包んでいる荘厳さというものを感じました。


ということで、「わたしを離さないで」、観劇の感想でした。また観る機会があればな、と思います。そしてカズオ・イシグロも大好きになりました。カズオ・イシグロの小説をまだ読んでいない方、読んでみてください。なかなか一筋縄ではいかない小説で読み応え抜群だと思います^^