自分というものがそんなに確かなものだろうか。果たして僕らはこの世界というものを本当に認識しているのか。もししているのならどういった方法で・・・。
まさに人間との確執のなかで生きている私だが、私が「本当」、「真実」に出会えることはあるのだろうか。もちろん「真実」といってもイデア的なものではない、私がそう信じているものだ。だから「本当」という言い方が近いかもしれない。
私は生まれてから、様々なものに触れて生きてきた。きっと幼年時代は瑞々しい感受性があり、触れるものあらゆるものに衝撃を受けていたのではないだろうか。それは私が感受性豊かだということではない。人間とはそういったものだということだ。
しかし私はいま、情報にあふれた社会のなかで生きている。全てにおいて先に意味が与えられている。私はその意味に乗っかるカタチでものごとを受け取っている・・・そう感じざるを得ない。
それが悪いことだとは言わない。しかし私はそれを望まない。私は「本当」に触れたい。「本当」のなにかに触れて生きることの意味を知りたい。そのためには苦しみさえも耐えてみせる。
この世界、というとき、それは私の意識が触れるられる可能性があるもの、しかし未だ触れられていない触れることができないもの、と受け取ってほしい。私は「もの」に触れられない。目の前のシャープペンシルに触れられない。リモコンにも触れられない。人の肌にも触れられない。意識は時間に触れられない。この瞬間も触れられなければ、過去にも未来にも触れられない。自己にも触れられない。デカルトのいうコギトにも触れられない。ならば尚の事他者に触れることなどできようはずがない。私はこの世界で何にも触れることができず、ただ孤独のなかで生きている。その孤独だという意識、それだけは自分のものかもしれない。
私は普段、世界と触れ合おうとは考えていない。しかし、世界に拒絶されるときが突然現れる。私はそのものが自分と触れ合っているとは気づいていなかった、もしかして触れ合ってもいなかったかもしれない、それにも関わらず自分からそのものが離れていくことを感じる。それは私から遠ざかり帰ってこない。そのとき私は激しい苦痛とともに途方もない孤独を感じる。
私ははたと気づく。私のまわりが変わっていく。すべてのものが私のなかで色褪せていく。意味を失っていく。価値を失っていく。私は何にも触れることができない。私は世界のなかで絶対的に孤独だ。自分は世界からこんなにも孤独だったのかと知り絶望に襲われる。私は全てのことを諦め、去っていくことを決意するだろう。
しかし、そんなときふと現れる「なにか」があった。それは過去にあったのか。いや、過去にはない、私の意識に備わったものだ。その「なにか」に気づく装置が私には備わっていた。私はその「なにか」に促されて私は世界へ立ち向かおうとする。世界を私が、あらかじめ意味や価値を決められていた世界を解体し、私は世界を再構築する。私が解釈する世界が現れる。その世界ではシャープペンシルはただのシャープペンシルではない。ただひとつの「この」シャープペンシルだ。他者も然り。私の目の前に現れたあなたは「この」あなたであり、私にとっての唯一の存在だ。私は世界を手に入れた。私の触れた「本当」の世界。あなたにとっても私はそんな「この」私であって欲しいと思う。
だが、ふと考える。私は私の世界を取り戻した。しかし私はまた絶望を覗くだろう。そしてまた私は世界を取り戻そうと藻掻く。それは永遠に続く苦悩である。たとえそれが永遠にやってきたとしても私はそれを「是」と言い続けられるだろうか。この苦しみを抱えながら人生を生きていくことが果たしてできるだろうか。これが現実の正体なのか。「本当」に触れる、裸の「現実」に触れる、それはかくも恐ろしいことなのか。現実の深淵を覗くこと・・・
2015年10月25日日曜日
2015年10月9日金曜日
iOSでハイレゾを聴くには。
先日、コンビニに立ち寄ったときに、とある雑誌が目にとまった。
表紙は『ガルパン』。『ガールズ&パンツァー』。いや、『ガルパン』って僕はよく知らないのだが(名前だけは聞いたことがある)、前々からハイレゾっていいなと思っていたところに、こういう敷居の低そうな雑誌があったので、ちょっと手に取ってみた、そして買った。
開くと、『ガルパン』についての解説があり、どうやら女子高生が戦車で戦うアニメらしい。2015年11月21日から劇場公開されるので特集が組まれたのかな。『ガルパン』は積極的にハイレゾ音源で音楽を配信しているようだ。まあ僕はあまり興味がないのでこれ以上は突っ込まないでおく。
読み進めていくと、「ハイレゾを聴くための機器を選ぶ」とある。
スタイル01 ポータブルオーディオ
スタイル02 PCオーディオ
スタイル03 ネットワークオーディオ
とある。
実は僕はPCにDACをつないでいる。FOSTEXのHPーA3。
これをつないで、スタイル02のPCオーディオの状況はできているのだが、残念ながらヘッドホンはハイレゾに対応していない。AKGのQ701。音源もハイレゾはほとんど持っていなかった。あったのが昔、e-onkyoが配信していたQUEENのベストとあとはビル・エヴァンスくらい。とにかく愛用しているiTunesがハイレゾに対応していないので、ハイレゾ化は諦めていたのだ。
しかし、この雑誌を読むと、スタイル01のポータブルオーディオを使ったハイレゾ化は非常に魅力的なのではないかと思えてきた。1番簡単なのが、10月10日に発売されるソニー製のウォークマンを購入することだ。ソニーはハイレゾ音源を豊富に抱えているMoraを持っているし、なによりこの発売されるウォークマンが安価だということだ。最安値で2万2千円くらいなのではないか。付属のIEヘッドホンがハイレゾ対応しているかはわからないが。
オンキョーもミドルクラスの携帯プレーヤーを発売している。
こっちは実売価格が6万5千~7万5千くらい。高いんじゃない?と思わせるものなのだが、これぐらいのきっちりしたつくりでないと音にノイズが入って綺麗な音はでないだろう。内蔵メモリが非搭載なのは気になるが。
と、ここまで読んでいて気づいたことがある。どうやらiPhoneやiPadでもハイレゾ音源を楽しめるようだぞと。ではどうするのか。
まず必要なものを言おう。必要なのは、iOSでハイレゾを管理することができるアプリ。iTunesがハイレゾ対応していないので新しいアプリを入手する必要がある。メジャーなところでオンキョーやソニーのものがあるが、僕はNe PLAYERというのをおすすめしたい。パソコンで同期をするときに、アプリでファイルを共有するだけだ。そんなに難しいことはない。もちろん落とすべきハイレゾ音源は、オンキョーだろうがMoraだろうがどこでもいい。Ne PLAYERで共有してしまえばいい。
さらに必要な機器を揃えよう。まず、iPhoneなどの充電をするためのソケットの部分に接続する、ポータブルヘッドホンアンプが必要になる。アンプに本体のハイレゾ音源をデジタルのまま送るのだ。僕はiFI-Audioの、nano iDSDをオススメする。なぜなら圧倒的に安いから。あらゆるハイレゾフォーマットに対応しながら価格は非常に抑えられている。
もちろん、このnano iDSDから直接iPhoneへはつなげられない。そこで必要なのがカメラアダプターだ。
これにさらに、USBを変換する機器が必要になる。
これにより、iPhoneからカメラアダプタ+変換名人=nano iDSDへと接続が完了する。これで接続の問題はないはずだ。ヘッドホンはハイレゾ対応を購入すること。そして自分の耳に合った機種を納得いくまで選ぶこと、これが大事。僕のお薦めとしては、オーディオテクニカのCKR10。
ハイレゾを楽しみたい人ならば、このCKR10くらいは持っているべきなのではないだろうか。ハイレゾの解像度に対応できる優秀な機種だと思う。
音楽は、基本e-onkyoのサイトで落とせばいいだろう。好みによってMoraやOTOTOYとかもある。僕はe-onkyoで十分である。クラシックやジャズは豊富だし、J-POPもそれなりにあるし、Anime関連も豊富だ。では聴いてみよう。
しかし!ここで問題が起こった。コネクタをiPhoneに差すと、バッテリー消費が高すぎて、アクセサリが認識しないのだ。これは非常に困った。ではこのような事態にどうすればいいのか。それはカメラアダプターとポータブルヘッドホンアンプの間に、セルフパワーのハブを噛ませることだ。それを行うことにより、バッテリーの消費電力の問題はあっけなく解決する。しかし、このことによってポータブルの利点、どこでも聴けるという最大の利点を失ってしまうのだ。これはキツイ。
探せば携帯の充電器があるのかもしれないが、今はそれを探す気力もない。とにかくハイレゾ音源を聴いてみようじゃないか。試しに落としてみたのが、浜崎あゆみの「DAYS」のクラシックバージョン。うん、なかなか音がいい。基本、今迄聴いていたヘッドホンよりいいもので聴いているのでこんなものだろうと。もうひとつ、堀江由衣の「半永久的に愛してよ」を聴いてみる。堀江はなぜだかよくわからないが楽曲に実力派プレイヤーが揃うという不思議な現象がある。さて聴いてみる。
聴いた瞬間まず、ヴァイオリンの音が違う。ハイレゾと既存のCD音源の違いは説明するまでもないと思うが、音の解像度が違うのでヴァイオリンのような弦楽器だと弦が奏でる音の豊かさが如実に現れCD音源とは比較にならない。おそらくハイレゾに1番向いているのはクラシックで、その中でも弦楽器だろう。
表現者の出したかった音というものがハイレゾだとより近い形で表現できるのだ。素人の僕でも聞き取れたという事実は大きいだろう。ミュージシャンとしても、自分の表現をより忠実に再現してくれる、このハイレゾ音源は歓迎すべきものだろう。これからはハイレゾが来る。いよいよ来る。そんな印象を受けた。
全部揃えるとなると面倒だし、多少金もかかるが、それに見合っただけの音が出ていると僕は思う。
PS 今日はノーベル文学賞の発表があった。村上春樹はまた落選したということだが、もちろん僕は受賞するとは思っていなかった。春樹の世界への貢献度はまだノーベル文学賞のレベルではないと思っている。また、別の視点から見れば、春樹にはあまりノーベル文学賞と相性はよくないのではないかとも思う。だが、毎度毎度こうして話題をつくってくれるこのノーベル文学賞フィーバーは歓迎すべきものだろう。今日は中学生がスマホで春樹落選の報を教えてくれたが、まあ普段本を読まない中学生にとっても話題になっているのだからよいことなのだろうと思っている。
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表紙は『ガルパン』。『ガールズ&パンツァー』。いや、『ガルパン』って僕はよく知らないのだが(名前だけは聞いたことがある)、前々からハイレゾっていいなと思っていたところに、こういう敷居の低そうな雑誌があったので、ちょっと手に取ってみた、そして買った。
開くと、『ガルパン』についての解説があり、どうやら女子高生が戦車で戦うアニメらしい。2015年11月21日から劇場公開されるので特集が組まれたのかな。『ガルパン』は積極的にハイレゾ音源で音楽を配信しているようだ。まあ僕はあまり興味がないのでこれ以上は突っ込まないでおく。
読み進めていくと、「ハイレゾを聴くための機器を選ぶ」とある。
スタイル01 ポータブルオーディオ
スタイル02 PCオーディオ
スタイル03 ネットワークオーディオ
とある。
実は僕はPCにDACをつないでいる。FOSTEXのHPーA3。
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しかし、この雑誌を読むと、スタイル01のポータブルオーディオを使ったハイレゾ化は非常に魅力的なのではないかと思えてきた。1番簡単なのが、10月10日に発売されるソニー製のウォークマンを購入することだ。ソニーはハイレゾ音源を豊富に抱えているMoraを持っているし、なによりこの発売されるウォークマンが安価だということだ。最安値で2万2千円くらいなのではないか。付属のIEヘッドホンがハイレゾ対応しているかはわからないが。
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まず必要なものを言おう。必要なのは、iOSでハイレゾを管理することができるアプリ。iTunesがハイレゾ対応していないので新しいアプリを入手する必要がある。メジャーなところでオンキョーやソニーのものがあるが、僕はNe PLAYERというのをおすすめしたい。パソコンで同期をするときに、アプリでファイルを共有するだけだ。そんなに難しいことはない。もちろん落とすべきハイレゾ音源は、オンキョーだろうがMoraだろうがどこでもいい。Ne PLAYERで共有してしまえばいい。
さらに必要な機器を揃えよう。まず、iPhoneなどの充電をするためのソケットの部分に接続する、ポータブルヘッドホンアンプが必要になる。アンプに本体のハイレゾ音源をデジタルのまま送るのだ。僕はiFI-Audioの、nano iDSDをオススメする。なぜなら圧倒的に安いから。あらゆるハイレゾフォーマットに対応しながら価格は非常に抑えられている。
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ハイレゾを楽しみたい人ならば、このCKR10くらいは持っているべきなのではないだろうか。ハイレゾの解像度に対応できる優秀な機種だと思う。
音楽は、基本e-onkyoのサイトで落とせばいいだろう。好みによってMoraやOTOTOYとかもある。僕はe-onkyoで十分である。クラシックやジャズは豊富だし、J-POPもそれなりにあるし、Anime関連も豊富だ。では聴いてみよう。
しかし!ここで問題が起こった。コネクタをiPhoneに差すと、バッテリー消費が高すぎて、アクセサリが認識しないのだ。これは非常に困った。ではこのような事態にどうすればいいのか。それはカメラアダプターとポータブルヘッドホンアンプの間に、セルフパワーのハブを噛ませることだ。それを行うことにより、バッテリーの消費電力の問題はあっけなく解決する。しかし、このことによってポータブルの利点、どこでも聴けるという最大の利点を失ってしまうのだ。これはキツイ。
探せば携帯の充電器があるのかもしれないが、今はそれを探す気力もない。とにかくハイレゾ音源を聴いてみようじゃないか。試しに落としてみたのが、浜崎あゆみの「DAYS」のクラシックバージョン。うん、なかなか音がいい。基本、今迄聴いていたヘッドホンよりいいもので聴いているのでこんなものだろうと。もうひとつ、堀江由衣の「半永久的に愛してよ」を聴いてみる。堀江はなぜだかよくわからないが楽曲に実力派プレイヤーが揃うという不思議な現象がある。さて聴いてみる。
聴いた瞬間まず、ヴァイオリンの音が違う。ハイレゾと既存のCD音源の違いは説明するまでもないと思うが、音の解像度が違うのでヴァイオリンのような弦楽器だと弦が奏でる音の豊かさが如実に現れCD音源とは比較にならない。おそらくハイレゾに1番向いているのはクラシックで、その中でも弦楽器だろう。
表現者の出したかった音というものがハイレゾだとより近い形で表現できるのだ。素人の僕でも聞き取れたという事実は大きいだろう。ミュージシャンとしても、自分の表現をより忠実に再現してくれる、このハイレゾ音源は歓迎すべきものだろう。これからはハイレゾが来る。いよいよ来る。そんな印象を受けた。
全部揃えるとなると面倒だし、多少金もかかるが、それに見合っただけの音が出ていると僕は思う。
PS 今日はノーベル文学賞の発表があった。村上春樹はまた落選したということだが、もちろん僕は受賞するとは思っていなかった。春樹の世界への貢献度はまだノーベル文学賞のレベルではないと思っている。また、別の視点から見れば、春樹にはあまりノーベル文学賞と相性はよくないのではないかとも思う。だが、毎度毎度こうして話題をつくってくれるこのノーベル文学賞フィーバーは歓迎すべきものだろう。今日は中学生がスマホで春樹落選の報を教えてくれたが、まあ普段本を読まない中学生にとっても話題になっているのだからよいことなのだろうと思っている。
2015年9月18日金曜日
感情移入するということ。
なかなか更新できないでいる当ブログだが、放置しているわけではない。ただ、書くだけの出来事が起きないだけであった。。。今回、とある某読書家さんのレビューを読んでいて思うところがあったので記事を書いてみようと思った。
その読書家さんは村上春樹、綿矢りさ、よしもとばなななどの感想を残されていた方で、読書傾向が似ているのかなと思い某サイトでお気に入り登録していたのだ(あちらからは登録されてこなかったのだが)。かなり本を読んでいる方で感想にも豊かな感受性が感じられていつもなるほど~と感心していたのである。
その方が先日、あの世間で話題になった神戸連続児童殺傷事件の彼が書いた『絶歌』について感想を書いていたのだ。書かれていることはもっともで、少年Aよ名前を名乗って書け、収入の乏しい仕事でも働き続けろ、それが責任を取るということだ、と非常に説得力のある感想を書かれていた。さらに『絶歌』からの引用をしておられた。この部分。
「祖母やサスケ。愛する者たちを次々に奪っていった死。自分には手も足も出せない領域にあった死を、自分の力でこちら側に引き寄せた。死をこの手で作り出せた。さんざんに自分を振りまわし、弄んだ死を、完璧にコントロールした。この潰れた猫の顔は、死に対する自分の勝利だ。」
僕は『絶歌』を読んでいないのだが、おそらく人間に手を出す前に猫を惨殺していた頃の少年Aの独白の引用だと思っている。確かに怖しい存在ではある。さらにこの読書家さんによると、『絶歌』には、少年Aが自分のつくった紙細工の天使を月の光に照らして恍惚とする、という場面が描かれているらしい。そのことに関してもこの読書家さんははっきりと拒否の姿勢をとっておられる。
ここからは僕の勝手な妄想に入るので、この読書家さんとはまったく関連のない話になるのでそれを断っておく。僕はこの神戸連続児童殺傷事件について事件が起きた当時人よりは多少ではあるが調べていたと思う。大学に夏休みのレポートを提出する課題となっていたからだ。少年A=酒鬼薔薇聖斗の身体性についての問題がレポートの課題だったが主題がずれてしまって評価は低かったことを覚えている。少年Aについて僕が肯定することは何もないと思っている。彼は現在公式ホームページを立ち上げているが、そのギャラリーの絵を見るとあらためて戦慄を覚えざるを得ない。この記事のタイトルは「感情移入するということ」とあるが、決して少年Aに感情移入するということではないのだということははっきりと言っておきたい。
では、かなりデリケートな話になったが続けようと思う。
つまりはフィクションの問題だ。僕らは読書をしているとき、多かれ少なかれ感情移入をしていると思う。その作品の登場人物の誰か、または作品の世界観や作者の文体など。そのなかでも1番シンプルなもの、登場人物への感情移入に絞って考えてみたい。
例えば推理小説、東野圭吾の作品を挙げてみよう。『容疑者Xの献身』の犯人である高校教師石神。犯人と言っているところでネタバレなのであるが、この作品は石神が犯人であることが重要なのではなく、石神がいかにして完全犯罪を行ったかが重要であるのでよいだろうと考える。石神はある事情で殺人の肩代わりをするわけだが、その結末を読む限りまさに「献身」である。読者の多くは石神に同情≒感情移入したであろう。
僕たちはこのようにして作品に感情移入をして読むことをほぼ当然のこととしているのだが、ここで少し考えてみたいのは上の少年Aが書いた手記、『絶歌』だ。読んでいないのに書くというのが暴力的であるとは思うのだが敢えて書かせてもらいたい。少年Aは僕にとって憎むべき存在であり、それゆえに彼の手記など手にとって読むことをしたくないのだが格好の事例ではあるので考えてみたい。彼の手記が事実に基づいて書かれていたものだと仮定する。上で登場頂いた読書家さんは少年Aへの感情移入を拒否した。感情移入の定義は、「対象自体が何らかの感情や情緒を表出していると感じ理解すること。」と三省堂新明解国語辞典にあるが、続いて、「俗には」とあり、「自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味にも用いられる。」とある。ここでは世間一般ではメジャーであると思われる後者の定義で話を進めたい。上の読書家さんは少年Aに自分の感情を投影できなかった。自分と少年Aとの感情があまりにも違いすぎていたからであろうか。
僕がここでいつもひっかかりとして思っていたことを取り上げたい。みなが当然のこととしていることであろうが敢えて考えてみたい。少年Aのように事実として起こった事件をもとに書かれた、例えば今回取り上げた手記に関しては感情移入は難しいだろう。なぜなら彼の存在のリアリティが僕らの感情移入を阻害するからだ。しかし歴史上起こった事件を題材にした小説などは山ほどある。戦記物などを僕が読むときには当然のことながらその多くをフィクションとして読んでいるわけで、そこにはどのような大悪人でも感情移入の余地を残しているように思う。それがノンフィクションとして書かれていてもその余地はあるように思う。
つまり言いたいのは、僕らが小説、映画、テレビドラマなどある媒体を通して出来事を追体験するときに、どうしても起こってしまうのは剥き出しのリアリティの欠如、作り手の意志による暴力的改ざんなのではないか。ではそうなったときに例えば、果たして今回のような『絶歌』のような手記が限りなくフィクションとして読まれたのならば、つまりリアリティを失った状態で感受する人間がいたとしたならば、少年Aに感情移入する人間もいるのではないだろうか。僕がこのことを強く感じるのは少年Aの手記を買う人がいるのだということに少なからぬ衝撃を受けているからなのだ。彼の異常人格に少なからずコミットしてみたいと思っている人がいるのだ、それが少年Aに報酬を与えることになるにも関わらず、僕はそのことに衝撃を感じる。彼の手記などは彼の手で言いように書き換えられた暴力的に行われた自己弁護のフィクションでしかないだろうと僕は思っている。
フィクションというものはある種のリアリティを出来事から削ぎ落とす危険を孕んでいる。小説などの媒体ではそれをうまく利用して作品を芸術として表現している作家もいる。しかし、多くの作品においてはフィクションはあくまでフィクションでしかない絵空事で現実とは一切関わりのないものですよというスタンスを取っているものが多いのが事実だ。フィクションに現実では叶わないものを夢見てそれに感情移入することはよいだろう。しかし、この世界のヒリヒリするほどの現実感を漂わせる作品というものもある。そういったものはフィクションだからという言い訳は当然通用しないように思う。そこに敢えて感情移入、上記の前者における感情移入を引き起こすことは絶対に不可欠なわけでそれなくしては作品の存在価値は無きに等しくなってしまうだろう。
つまりは現実を小説というフィクションの形式で語ることには相当の注意を払って行われなければならない。そこに安易にメタファを混ぜて語った場合にはこの世界を歪めてしまうとてつもない危険を孕んでいるのだということを僕は感じるのだ。それを権威のあるとされる作家などが行った場合、それは激しく糾弾されなければならないだろう。もはや作家にそれほどまでの役割や責任は与えられていないという声もあるだろうが、僕はまだ作家には世界への影響力は計り知れないものがあると考えている。書店に行って玉石混交の本を手軽に手に取ることができるこの時代だからこそ尚更読み手にもある種の責任を取る覚悟はいるのかもしれない。いや、小説などは絵空事なのだといい続ける決意のある人ならば別ではあるが。
その読書家さんは村上春樹、綿矢りさ、よしもとばなななどの感想を残されていた方で、読書傾向が似ているのかなと思い某サイトでお気に入り登録していたのだ(あちらからは登録されてこなかったのだが)。かなり本を読んでいる方で感想にも豊かな感受性が感じられていつもなるほど~と感心していたのである。
その方が先日、あの世間で話題になった神戸連続児童殺傷事件の彼が書いた『絶歌』について感想を書いていたのだ。書かれていることはもっともで、少年Aよ名前を名乗って書け、収入の乏しい仕事でも働き続けろ、それが責任を取るということだ、と非常に説得力のある感想を書かれていた。さらに『絶歌』からの引用をしておられた。この部分。
「祖母やサスケ。愛する者たちを次々に奪っていった死。自分には手も足も出せない領域にあった死を、自分の力でこちら側に引き寄せた。死をこの手で作り出せた。さんざんに自分を振りまわし、弄んだ死を、完璧にコントロールした。この潰れた猫の顔は、死に対する自分の勝利だ。」
僕は『絶歌』を読んでいないのだが、おそらく人間に手を出す前に猫を惨殺していた頃の少年Aの独白の引用だと思っている。確かに怖しい存在ではある。さらにこの読書家さんによると、『絶歌』には、少年Aが自分のつくった紙細工の天使を月の光に照らして恍惚とする、という場面が描かれているらしい。そのことに関してもこの読書家さんははっきりと拒否の姿勢をとっておられる。
ここからは僕の勝手な妄想に入るので、この読書家さんとはまったく関連のない話になるのでそれを断っておく。僕はこの神戸連続児童殺傷事件について事件が起きた当時人よりは多少ではあるが調べていたと思う。大学に夏休みのレポートを提出する課題となっていたからだ。少年A=酒鬼薔薇聖斗の身体性についての問題がレポートの課題だったが主題がずれてしまって評価は低かったことを覚えている。少年Aについて僕が肯定することは何もないと思っている。彼は現在公式ホームページを立ち上げているが、そのギャラリーの絵を見るとあらためて戦慄を覚えざるを得ない。この記事のタイトルは「感情移入するということ」とあるが、決して少年Aに感情移入するということではないのだということははっきりと言っておきたい。
では、かなりデリケートな話になったが続けようと思う。
つまりはフィクションの問題だ。僕らは読書をしているとき、多かれ少なかれ感情移入をしていると思う。その作品の登場人物の誰か、または作品の世界観や作者の文体など。そのなかでも1番シンプルなもの、登場人物への感情移入に絞って考えてみたい。
例えば推理小説、東野圭吾の作品を挙げてみよう。『容疑者Xの献身』の犯人である高校教師石神。犯人と言っているところでネタバレなのであるが、この作品は石神が犯人であることが重要なのではなく、石神がいかにして完全犯罪を行ったかが重要であるのでよいだろうと考える。石神はある事情で殺人の肩代わりをするわけだが、その結末を読む限りまさに「献身」である。読者の多くは石神に同情≒感情移入したであろう。
僕たちはこのようにして作品に感情移入をして読むことをほぼ当然のこととしているのだが、ここで少し考えてみたいのは上の少年Aが書いた手記、『絶歌』だ。読んでいないのに書くというのが暴力的であるとは思うのだが敢えて書かせてもらいたい。少年Aは僕にとって憎むべき存在であり、それゆえに彼の手記など手にとって読むことをしたくないのだが格好の事例ではあるので考えてみたい。彼の手記が事実に基づいて書かれていたものだと仮定する。上で登場頂いた読書家さんは少年Aへの感情移入を拒否した。感情移入の定義は、「対象自体が何らかの感情や情緒を表出していると感じ理解すること。」と三省堂新明解国語辞典にあるが、続いて、「俗には」とあり、「自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味にも用いられる。」とある。ここでは世間一般ではメジャーであると思われる後者の定義で話を進めたい。上の読書家さんは少年Aに自分の感情を投影できなかった。自分と少年Aとの感情があまりにも違いすぎていたからであろうか。
僕がここでいつもひっかかりとして思っていたことを取り上げたい。みなが当然のこととしていることであろうが敢えて考えてみたい。少年Aのように事実として起こった事件をもとに書かれた、例えば今回取り上げた手記に関しては感情移入は難しいだろう。なぜなら彼の存在のリアリティが僕らの感情移入を阻害するからだ。しかし歴史上起こった事件を題材にした小説などは山ほどある。戦記物などを僕が読むときには当然のことながらその多くをフィクションとして読んでいるわけで、そこにはどのような大悪人でも感情移入の余地を残しているように思う。それがノンフィクションとして書かれていてもその余地はあるように思う。
つまり言いたいのは、僕らが小説、映画、テレビドラマなどある媒体を通して出来事を追体験するときに、どうしても起こってしまうのは剥き出しのリアリティの欠如、作り手の意志による暴力的改ざんなのではないか。ではそうなったときに例えば、果たして今回のような『絶歌』のような手記が限りなくフィクションとして読まれたのならば、つまりリアリティを失った状態で感受する人間がいたとしたならば、少年Aに感情移入する人間もいるのではないだろうか。僕がこのことを強く感じるのは少年Aの手記を買う人がいるのだということに少なからぬ衝撃を受けているからなのだ。彼の異常人格に少なからずコミットしてみたいと思っている人がいるのだ、それが少年Aに報酬を与えることになるにも関わらず、僕はそのことに衝撃を感じる。彼の手記などは彼の手で言いように書き換えられた暴力的に行われた自己弁護のフィクションでしかないだろうと僕は思っている。
フィクションというものはある種のリアリティを出来事から削ぎ落とす危険を孕んでいる。小説などの媒体ではそれをうまく利用して作品を芸術として表現している作家もいる。しかし、多くの作品においてはフィクションはあくまでフィクションでしかない絵空事で現実とは一切関わりのないものですよというスタンスを取っているものが多いのが事実だ。フィクションに現実では叶わないものを夢見てそれに感情移入することはよいだろう。しかし、この世界のヒリヒリするほどの現実感を漂わせる作品というものもある。そういったものはフィクションだからという言い訳は当然通用しないように思う。そこに敢えて感情移入、上記の前者における感情移入を引き起こすことは絶対に不可欠なわけでそれなくしては作品の存在価値は無きに等しくなってしまうだろう。
つまりは現実を小説というフィクションの形式で語ることには相当の注意を払って行われなければならない。そこに安易にメタファを混ぜて語った場合にはこの世界を歪めてしまうとてつもない危険を孕んでいるのだということを僕は感じるのだ。それを権威のあるとされる作家などが行った場合、それは激しく糾弾されなければならないだろう。もはや作家にそれほどまでの役割や責任は与えられていないという声もあるだろうが、僕はまだ作家には世界への影響力は計り知れないものがあると考えている。書店に行って玉石混交の本を手軽に手に取ることができるこの時代だからこそ尚更読み手にもある種の責任を取る覚悟はいるのかもしれない。いや、小説などは絵空事なのだといい続ける決意のある人ならば別ではあるが。
2015年8月7日金曜日
『夜想曲集』 カズオ・イシグロ そして『パルムの僧院』 スタンダール。
僕が非常に気に入っている小説がある。
『パルムの僧院』だ。
なにがいいかと聞かれてもうまくいうことはできないのだが、この作品にはとびきりお気に入りの登場人物が現れる。主人公のファブリス、そしてその叔母のジーナだ。この2人を中心にした物語なのだが、これが大変に面白いのかというと面白い。だがじゃあ他の名作と呼ばれる作品より図抜けているのかと聞かれればそれほどでもないような気もする。例えば古典の名作『カラマーゾフの兄弟』のほうが登場人物がはっきりと区別されていて、3人の兄弟の役割もしっかりしていて、その彼らの思想対決は読むものをひきこむだろう。『パルムの僧院』にはそういった思想対決などというものはまったくない。ではいったい僕はこの作品のどこに惹きつけられているのか。
ところで、このブログで『夜想曲集』について感想を書いたのだがその記事もアクセス数がこのブログではずば抜けて高い。それがどういう理由かもまたわからないのだが、あの感想は物語世界の登場人物にフォーカスを当てた読み方をしていたのでそこのところが『夜想曲集』の読み方としてはシンプルでほかの方の書かれたものより読みやすかったのかもしれない。
このBloggerに誘っていただいた師である麸之介師匠と、この作品についてお話させていただいて、この作品の魅力の一端を少なからずご教授頂いたので、前記事をこの記事を書くことによりお蔵入りさせるかな・・・と思っている。まあこれから書いてみて決めるけれども。だからといって『夜想曲集』について文学の王道的に批評できるわけではないので、そこは麸之介師匠にお任せして、僕は僕なりに自由に書かせてもらえればと思う。
で、なんで『パルムの僧院』を出してきたかというとなのだが、それはちょっと『夜想曲集』と比べることができるのではないかと思ったからだ。最近巷で流行っている、東京オリンピックロゴ問題のように似ているとかいうことを言いたいのではない。パスティーシュだとかそういうことを言いたいのではない。ただ、感覚的に比べられるんじゃない?と思っただけだ。まあ、カズオ・イシグロが『パルムの僧院』を読んでいないということは考えられないので、もしかしたらちょっとは影響を受けた部分はあるのかもしれないこともないかもしれないが、そんなことを調べる気もないし出てこないであろうから無視して良いだろう。
では書いてみよう。
『夜想曲集』の舞台は5つの短篇に分かれているのでいろいろだが、舞台のほうを観た(記事にしている)のでその影響からだろう、イタリアのベネチアの印象が強い。音楽を愛するものたちがベネチアに集まり物語を繰り広げる、そこではほろ苦い人生がイシグロのユーモア溢れる筆致で切り取られていて、副題のとおりまさに「音楽と夕暮れ」をめぐる物語となっている。補足だが、この短篇集は他にもイギリス、アメリカを舞台にしている。
対して『パルムの僧院』は、イタリアが舞台だ。パルム公国を中心に物語は進んでいく。主人公のファブリスは情熱的な青年で人生という草原を駆け抜ける華麗な白馬のような印象。その魅力に周囲の人間たちも惹き込まれていく。そんなファブリスを愛するジーナ叔母。彼女も周りを惹きつけて止まない美貌を持っている。この二人が小国パルムで繰り広げる情熱の物語だ。
一見するとどこに比較する部分があるのか、あるとしたらイタリアが舞台なだけではないのか、ということになるだろうがその通りである。イタリアが舞台なのである。だが僕がここで注目したい点は3点ある。「作者と舞台の関係」、「場」、「作者の存在」、その3点が『夜想曲集』と『パルムの僧院』を僕が結びつける理由となった。
まず第1点は、作者と物語となった舞台との関係性である。イシグロはイギリス人である。つまりイギリス人の作者がイタリアについて書いた(上記にあるようにこじつけの印象はあると思うが)。対してスタンダールはフランス人である。フランス人であるスタンダールがイタリアについて書いた。この異国人がイタリアについて書くということが、この2作品ではかなりの効果を持たせていると思う。当然のことながら異国について書くということはそれなりの理由があるだろう。決して安易に舞台を選ぶなどということはあり得ない。スタンダールに関してはイタリアへの敬慕の念というものは伝記にも、そしてこの作品の冒頭の「緒言」にも書かれている。イシグロがイタリアを選んだ理由というものはよくわからないがこの『夜想曲集』を読んでいてイタリアの印象というのは強い。イギリスやアメリカが舞台の短篇よりも異国感というのは確かに感じる。そこにイシグロの思いというものを感じ取ることは可能であると思う。
第2点は、作者が設定した「場」の問題である。『パルムの僧院』における登場人物たちの活躍する舞台は非常に限定されている。世界を飛び回るなどということはもちろんないし、ほとんどがパルム公国の限られた場で物語が進行する。これはイシグロの『夜想曲集』にも近いことが言えると思う。ベネチアなどの都市の限られた場所で物語は進行する。しかし、『パルムの僧院』においては納得してもらえる部分はあるだろうが、『夜想曲集』においては短篇である。短篇であるゆえに舞台=場が限定されるのはそれほど珍しいことではない、というかまったくない。ではなぜ僕が共通点を感じたかというと、その「場」への作者のコントロールの意識だ。両作品ともに作者である、スタンダール、イシグロともに、舞台となる「場」を非常に綿密に、人工的とさえ言えるまでコントロールしているということができないか。つまりつくられた世界に作者が圧倒的なまでのコントロールが行き届いている。この作者の「場」への意識のこだわり、それはこの2人の作者が作品を並々ならぬ集中力で描き出したことの証明であるといえないか。
第3点は、作者の語りの現れ方だ。スタンダールの『パルムの僧院』という作品での僕の印象は、作者があまりに前面に出ている、というものだ。それが出すぎているということではない。この作品を僕が大好きな理由はおそらく、このスタンダールの、作品に介入してくるほどの作品への肯定の意識だと思う。『パルムの僧院』を読むと、スタンダールが登場人物、特にファブリスとジーナを熱烈なまでに愛しているということが感じられる。このスタンダールの偏愛とも言っていいほどの情熱が、ファブリスとジーナ、その他の人物を、神がかり的に生き生きとした人間、魅力溢れる人間であることを担保しているように思う。対して『夜想曲集』においては、イシグロは物語のどこに座しているかがわからない。この作品の誰がイシグロを代弁しているかということもわからない。ただ言えるのは、イシグロの書く文体から生まれる心的イメージのなかを僕たちは物語として体験できるだけだ。しかし、『夜想曲集』を読み込んでいくうちに、イシグロがその物語世界の奥の世界、俄のラカニアン的に言わせてもらいたいが、僕らが体験しているイメージの世界=「想像界」とは別のところ、そこでイシグロは言葉というツールを用いて、象徴界に綿密な設計図を書き込むことにより僕らに芸術的としか言い様のない世界を体験させてくれているのだといえないか。ゆえに、スタンダールとイシグロは語りの現れ方という意味で対照的な作家であると僕は感じたのだ。
以上の3点を見比べることにより、『パルムの僧院』が『夜想曲集』と似ているとかそういうことではなく、小説の書き方として、スタンダールとイシグロが非常に優れた書き手であるということを僕は少しではあるが感じ取ることができたような気がする。言いたいことはそれだけだ。
スタンダールは墓碑に「生きた、書いた、愛した」と書かれるように望んだという。スタンダールの小説への情熱は僕のこころを動かさずにはおれない。対するイシグロは数作品を読んだ印象でしかないが、墓碑になにか刻むような人物ではないような気がする。しかしもちろんこうして比べているのだから、『夜想曲集』を含めイシグロの作品は、極めて個人的意見だが、僕にとってスタンダールと肩を並べる作品であると感じている、いやそこまでの理解はない、感じ始めているのだ。
小説は描き方によって作品の景色、印象がまったく変化する。その作者それぞれの個性的な文章表現を受容できる感性を持ちたいと強く思う。文章表現の可能性についてスタンダールとイシグロという2人の作者を通して心に深く刻みこむことができたと僕は感じた。もちろん、上で挙げた『カラマーゾフの兄弟』もまったく違う印象を僕に与えてくれた最高の作品のひとつであると思っている。これから出会うであろう新しい作品たちがまだまだ待ち受けていると思うと知的好奇心を擽られずにはおられない、そういった気分だ。
と、ここまで書いてみたが、この記事のアクセス数を目安に、旧記事の『夜想曲集』は閉じることを考えたいと思っている。こちらでは『夜想曲集』の内容については触れなかったが、旧記事の「舞台『夜想曲集』」のほうで物語部分は書いているし、閉じたら閉じたでじきにまた書くであろうとも思う。この記事はちょっと短かったかなとも思うがとりあえずここまでで。
『パルムの僧院』だ。
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なにがいいかと聞かれてもうまくいうことはできないのだが、この作品にはとびきりお気に入りの登場人物が現れる。主人公のファブリス、そしてその叔母のジーナだ。この2人を中心にした物語なのだが、これが大変に面白いのかというと面白い。だがじゃあ他の名作と呼ばれる作品より図抜けているのかと聞かれればそれほどでもないような気もする。例えば古典の名作『カラマーゾフの兄弟』のほうが登場人物がはっきりと区別されていて、3人の兄弟の役割もしっかりしていて、その彼らの思想対決は読むものをひきこむだろう。『パルムの僧院』にはそういった思想対決などというものはまったくない。ではいったい僕はこの作品のどこに惹きつけられているのか。
ところで、このブログで『夜想曲集』について感想を書いたのだがその記事もアクセス数がこのブログではずば抜けて高い。それがどういう理由かもまたわからないのだが、あの感想は物語世界の登場人物にフォーカスを当てた読み方をしていたのでそこのところが『夜想曲集』の読み方としてはシンプルでほかの方の書かれたものより読みやすかったのかもしれない。
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このBloggerに誘っていただいた師である麸之介師匠と、この作品についてお話させていただいて、この作品の魅力の一端を少なからずご教授頂いたので、前記事をこの記事を書くことによりお蔵入りさせるかな・・・と思っている。まあこれから書いてみて決めるけれども。だからといって『夜想曲集』について文学の王道的に批評できるわけではないので、そこは麸之介師匠にお任せして、僕は僕なりに自由に書かせてもらえればと思う。
で、なんで『パルムの僧院』を出してきたかというとなのだが、それはちょっと『夜想曲集』と比べることができるのではないかと思ったからだ。最近巷で流行っている、東京オリンピックロゴ問題のように似ているとかいうことを言いたいのではない。パスティーシュだとかそういうことを言いたいのではない。ただ、感覚的に比べられるんじゃない?と思っただけだ。まあ、カズオ・イシグロが『パルムの僧院』を読んでいないということは考えられないので、もしかしたらちょっとは影響を受けた部分はあるのかもしれないこともないかもしれないが、そんなことを調べる気もないし出てこないであろうから無視して良いだろう。
では書いてみよう。
『夜想曲集』の舞台は5つの短篇に分かれているのでいろいろだが、舞台のほうを観た(記事にしている)のでその影響からだろう、イタリアのベネチアの印象が強い。音楽を愛するものたちがベネチアに集まり物語を繰り広げる、そこではほろ苦い人生がイシグロのユーモア溢れる筆致で切り取られていて、副題のとおりまさに「音楽と夕暮れ」をめぐる物語となっている。補足だが、この短篇集は他にもイギリス、アメリカを舞台にしている。
対して『パルムの僧院』は、イタリアが舞台だ。パルム公国を中心に物語は進んでいく。主人公のファブリスは情熱的な青年で人生という草原を駆け抜ける華麗な白馬のような印象。その魅力に周囲の人間たちも惹き込まれていく。そんなファブリスを愛するジーナ叔母。彼女も周りを惹きつけて止まない美貌を持っている。この二人が小国パルムで繰り広げる情熱の物語だ。
一見するとどこに比較する部分があるのか、あるとしたらイタリアが舞台なだけではないのか、ということになるだろうがその通りである。イタリアが舞台なのである。だが僕がここで注目したい点は3点ある。「作者と舞台の関係」、「場」、「作者の存在」、その3点が『夜想曲集』と『パルムの僧院』を僕が結びつける理由となった。
まず第1点は、作者と物語となった舞台との関係性である。イシグロはイギリス人である。つまりイギリス人の作者がイタリアについて書いた(上記にあるようにこじつけの印象はあると思うが)。対してスタンダールはフランス人である。フランス人であるスタンダールがイタリアについて書いた。この異国人がイタリアについて書くということが、この2作品ではかなりの効果を持たせていると思う。当然のことながら異国について書くということはそれなりの理由があるだろう。決して安易に舞台を選ぶなどということはあり得ない。スタンダールに関してはイタリアへの敬慕の念というものは伝記にも、そしてこの作品の冒頭の「緒言」にも書かれている。イシグロがイタリアを選んだ理由というものはよくわからないがこの『夜想曲集』を読んでいてイタリアの印象というのは強い。イギリスやアメリカが舞台の短篇よりも異国感というのは確かに感じる。そこにイシグロの思いというものを感じ取ることは可能であると思う。
第2点は、作者が設定した「場」の問題である。『パルムの僧院』における登場人物たちの活躍する舞台は非常に限定されている。世界を飛び回るなどということはもちろんないし、ほとんどがパルム公国の限られた場で物語が進行する。これはイシグロの『夜想曲集』にも近いことが言えると思う。ベネチアなどの都市の限られた場所で物語は進行する。しかし、『パルムの僧院』においては納得してもらえる部分はあるだろうが、『夜想曲集』においては短篇である。短篇であるゆえに舞台=場が限定されるのはそれほど珍しいことではない、というかまったくない。ではなぜ僕が共通点を感じたかというと、その「場」への作者のコントロールの意識だ。両作品ともに作者である、スタンダール、イシグロともに、舞台となる「場」を非常に綿密に、人工的とさえ言えるまでコントロールしているということができないか。つまりつくられた世界に作者が圧倒的なまでのコントロールが行き届いている。この作者の「場」への意識のこだわり、それはこの2人の作者が作品を並々ならぬ集中力で描き出したことの証明であるといえないか。
第3点は、作者の語りの現れ方だ。スタンダールの『パルムの僧院』という作品での僕の印象は、作者があまりに前面に出ている、というものだ。それが出すぎているということではない。この作品を僕が大好きな理由はおそらく、このスタンダールの、作品に介入してくるほどの作品への肯定の意識だと思う。『パルムの僧院』を読むと、スタンダールが登場人物、特にファブリスとジーナを熱烈なまでに愛しているということが感じられる。このスタンダールの偏愛とも言っていいほどの情熱が、ファブリスとジーナ、その他の人物を、神がかり的に生き生きとした人間、魅力溢れる人間であることを担保しているように思う。対して『夜想曲集』においては、イシグロは物語のどこに座しているかがわからない。この作品の誰がイシグロを代弁しているかということもわからない。ただ言えるのは、イシグロの書く文体から生まれる心的イメージのなかを僕たちは物語として体験できるだけだ。しかし、『夜想曲集』を読み込んでいくうちに、イシグロがその物語世界の奥の世界、俄のラカニアン的に言わせてもらいたいが、僕らが体験しているイメージの世界=「想像界」とは別のところ、そこでイシグロは言葉というツールを用いて、象徴界に綿密な設計図を書き込むことにより僕らに芸術的としか言い様のない世界を体験させてくれているのだといえないか。ゆえに、スタンダールとイシグロは語りの現れ方という意味で対照的な作家であると僕は感じたのだ。
以上の3点を見比べることにより、『パルムの僧院』が『夜想曲集』と似ているとかそういうことではなく、小説の書き方として、スタンダールとイシグロが非常に優れた書き手であるということを僕は少しではあるが感じ取ることができたような気がする。言いたいことはそれだけだ。
スタンダールは墓碑に「生きた、書いた、愛した」と書かれるように望んだという。スタンダールの小説への情熱は僕のこころを動かさずにはおれない。対するイシグロは数作品を読んだ印象でしかないが、墓碑になにか刻むような人物ではないような気がする。しかしもちろんこうして比べているのだから、『夜想曲集』を含めイシグロの作品は、極めて個人的意見だが、僕にとってスタンダールと肩を並べる作品であると感じている、いやそこまでの理解はない、感じ始めているのだ。
小説は描き方によって作品の景色、印象がまったく変化する。その作者それぞれの個性的な文章表現を受容できる感性を持ちたいと強く思う。文章表現の可能性についてスタンダールとイシグロという2人の作者を通して心に深く刻みこむことができたと僕は感じた。もちろん、上で挙げた『カラマーゾフの兄弟』もまったく違う印象を僕に与えてくれた最高の作品のひとつであると思っている。これから出会うであろう新しい作品たちがまだまだ待ち受けていると思うと知的好奇心を擽られずにはおられない、そういった気分だ。
と、ここまで書いてみたが、この記事のアクセス数を目安に、旧記事の『夜想曲集』は閉じることを考えたいと思っている。こちらでは『夜想曲集』の内容については触れなかったが、旧記事の「舞台『夜想曲集』」のほうで物語部分は書いているし、閉じたら閉じたでじきにまた書くであろうとも思う。この記事はちょっと短かったかなとも思うがとりあえずここまでで。
2015年7月10日金曜日
存在するのではなく発生する。
かなり前だが、某ブログにおいてデカルト主義についてちらっと書いたことがあったが、それに対して某ブロガーさんに現象学の立場からご指摘を頂いた。果たして主体とは何なのか?その問いに対して僕なりの答えというものは用意していたつもりであったが、現象学、実存主義に対する僕の勉強不足があったために今、さらなる迷いの森に入り込んでしまった感がある。
上の本はドゥルーズの哲学者のアンソロジー本である。「哲学の教科書」とあるように、ドゥルーズの様々な哲学者についての全66篇のアンソロジーが収録されている。そして冒頭にドゥルーズの最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」が収録されている。
この本のなかで訳者である加賀野井秀一氏がドゥルーズについて簡潔にまとめた「はじめに――ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」が書かれている。そこでは加賀野井氏のドゥルーズに対するスケッチが書かれている。この文章は非常によく纏められていると個人的に思う。加賀野井氏のドゥルーズのスケッチを足がかりにして人間の主体について少し書いてみたいと思う。
ドゥルーズはその前期に数々の哲学者のアンソロジー本を出している。その後代表的作品、『差異と反復』、『意味の論理学』、後期(もしくは中期)にガタリとの共著、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を出版する、大雑把ではあるが。ドゥルーズの最後の論文は「内在性:1つの生・・・・・」というもので、1995年に『フィロゾフィー』誌に掲載されたものだ。この論文について加賀野井氏は「はじめに――・・・」でこう書いている。
「ドゥルーズはこの小論を、唐突に「超越論的領野とは何か」と問うことから始め、全体を「超越論的領野は内在面によって規定され、内在面は生によって規定される」という命題の変奏とした。彼は言う。「超越的なものは超越論的なものではない」。だがそれをフッサール的あるいはカント的な区別と混同してはなるまい。ドゥルーズにとっての超越論的領野とは、たとえば「非―主観的な意識の純粋な流れ」であり、「前反省的かつ非人称的な意識」であり、「自我のない意識の質的持続」である。これは明らかにサルトルだ。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p14~p15)
この引用からわかるように、ドゥルーズは最後の論文においてもサルトルを意識している。非人称的・絶対的・内在的な意識に帰せられる主観のない超越論的領野をサルトルは提示している。この意識と比較するとき主観や客観は「超越的なもの」であるということになる。
つまり本来ならば超越論的領野としてイメージされるべきはカントであろう。そしてフッサールであるかもしれない。しかし、ドゥルーズにおいては超越論的領野として意識されるのはサルトルであるというのだ。但し、ドゥルーズは歩を進めてベルクソンの概念を導入してはいるが。
さらに加賀野井氏は論を進めて、「内在性:1つの生・・・・・」の論文にあるとおり、「内在」について言及する。
「内在はそれ自身の内にのみあり、何らかのものの内にあったり、それに所属していたりすることはない。そして、内在がもはや自分以外のものへの内在でなくなる時にこそ、人は<内在面>について語ることができるようになる。」(同書p15)
この「内在」という表現が僕には非常に難しい。この内在については、デリダもドゥルーズと論じることがあったならば問題となるのは「内在性」をめぐるものであっただろうと言っている。『哲学とは何か』のなかでドゥルーズはこの「内在面」を「根源的な経験論」と言い換えている。
つまりは内在は主観に所属するものではないということではないか。主観に内在するものは内在ではない、内在のうちに内在がある、それは出来事である。つまり概念である限りでの可能的世界だけである。つまり内在面を語ることができるのは可能的世界の表現もしくは概念的人物としての他者だけであるということだろうか。この誰にも所属していない経験論とはいったい何か。
「つまるところこれは、<知覚の現象学>であるよりもむしろ<概念の内在学>とでも言うべきものとなる。あるいはまた、<生きられたものの現象学>ではなく<生きるものの存在論>と言っても構うまい。概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である。」(同書p16)
孫引きになるが、ドゥルーズの言葉を引用しよう。
「純粋な内在は、1つの生と呼ばれるであろうし、それ以外にはありえない。内在も生への内在ではない。何ものにも内在しない内在は、それ自体が生なのだ。生は内在の内在であり、絶対的内在であって、完全な力であり至福である」(同書p16)
つまり、ここから主体の持つ意味というものの手がかりを得られることになる。ドゥルーズにおいてはデカルトのいうコギトはない。ゆえにコギトのなかに内在云々ということはありえない。そのことは初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」でも書かれている。
論を急ぐのなら、ドゥルーズにおいてはカントのいう超越論的領野というものを肯定はする。しかしそこでドゥルーズがカントを批判していると思われるところは、その超越論的領野がアプリオリに「ある」ということだ。つまり超越論的領野の発生について考えることをカントはしていないということだ。
ドゥルーズの言う、「出来事」とは何か。ここでこの「出来事」に対する捉え方で参考にさせてもらったのは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』である。國分功一郎氏は同書p62で、「ライプニッツ自身が『述語』を『出来事』と同視している」と書いている。その記述を使わせてもらうならば出来事=述語でよいであろう。あらゆるものは出来事(述語)から発生する。そこでは主体を中心にはものを考えられない。その帰結として、発生の原因をどこに求めるのかということになる。それがドゥルーズが初期にこだわったヒュームの経験論へと続くというわけであろう。『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズは「経験論は出来事と他者しか知らない」と書いている。
さらにドゥルーズはガタリとの共同作業から主体への別の着想も得ていたのではないかと考える。ここでヒュームの経験論と接続できるかは僕の能力不足、勉強不足でわからないがガタリのラカン派精神分析からドゥルーズがなにがしかの新しい着想を得ていたのは『アンチ・オイディプス』という著作が存在していることからも明らかであろう。
主体について『アンチ・オイディプス』ではガタリとの共著であることから当然にラカンの理論が応用されているのだろうが(ガタリはラカン派の異端であるが)、そこではフロイトのエディプスコンプレックスが批判の的となっている。フロイトは無意識という偉大な発見をしたがそれをエディプスの三角形というギリシア悲劇の内的イメージに閉じ込めてしまった。ドゥルーズ=ガタリの言わせるところによれば、無意識とは世界であったように思う。ゆえに個の意識ではそれを垣間見ることはできない。この世界の実体を掴むことはなにものにもできない。世界と個をつなぐのはかの有名な概念「欲望する機械」であろう。内在面と噛み合うかどうかはこの欲望する機械が世界とうまく噛み合うかにかかっている。調子が狂えば人は神経症へと向かう。フロイトはエディプス理論によって、ドゥルーズ=ガタリのいうスキゾ経験を主体へと強制するが、ドゥルーズ=ガタリは主体からの逃走線を引く。逃走を助けるものとしてスキゾ分析がある。人間を主体にしない、スキゾという内在面の隙間へと逃走させる。
と、ここまで書いてきたがどうもまとまる気配がないのでこの続き、または修正は次の機会にしたいと思う。しかし、ドゥルーズがサルトルを強烈に意識していた、そして内在という問題こそが鍵であるということ、その内在とうまく接続できなかったが、主体中心の発想からの脱却、出来事=述語に発生の原因を問うているということは確かであろう。
最後に、ヒュームについてドゥルーズの考えが「ベルクソン流の物言いをすれば」という断りつきで注釈されている箇所を引用しておきたい。
「要するに主体とは、初めのうちは1つの刻印であり、諸原理によって残された1つの印象であるが、その印象を利用することのできる1つの機械へと徐々に変わってゆく印象なのである。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p23)
実際書いている時点で既に十数年前の知識のうろ覚えを無理やり組み立てただけのまさに砂上の楼閣の文章になっていることに気づいていたが、なかなかにドゥルーズにおける主体を素人が取り出してみせるということは不可能に近いのではないかとも思う。あまりにも稚拙な内容ではあるが、誰にでもわかるように書く、ということが自分にできる最大限のことであると思うので、その自分に課した使命だけは果たそうと思っている。
ただ言えるのは、僕はフランス現代思想を読んできたので、いやこの言い方は曖昧であろう、ドゥルーズ、ラカン、フーコーを少なくとも自分の思考の中心としてきたので、当然の帰結として主体に対して現象学的立場は取れるのだろうか?と少なからず思っている。と、不透明な言い方になるのはドゥルーズは確実にサルトルの影響を受けていると感じられるからだ。いくら素人の生兵法といえどもフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティの影響なしにドゥルーズを語ることは許されまい。
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上の本はドゥルーズの哲学者のアンソロジー本である。「哲学の教科書」とあるように、ドゥルーズの様々な哲学者についての全66篇のアンソロジーが収録されている。そして冒頭にドゥルーズの最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」が収録されている。
この本のなかで訳者である加賀野井秀一氏がドゥルーズについて簡潔にまとめた「はじめに――ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」が書かれている。そこでは加賀野井氏のドゥルーズに対するスケッチが書かれている。この文章は非常によく纏められていると個人的に思う。加賀野井氏のドゥルーズのスケッチを足がかりにして人間の主体について少し書いてみたいと思う。
ドゥルーズはその前期に数々の哲学者のアンソロジー本を出している。その後代表的作品、『差異と反復』、『意味の論理学』、後期(もしくは中期)にガタリとの共著、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を出版する、大雑把ではあるが。ドゥルーズの最後の論文は「内在性:1つの生・・・・・」というもので、1995年に『フィロゾフィー』誌に掲載されたものだ。この論文について加賀野井氏は「はじめに――・・・」でこう書いている。
「ドゥルーズはこの小論を、唐突に「超越論的領野とは何か」と問うことから始め、全体を「超越論的領野は内在面によって規定され、内在面は生によって規定される」という命題の変奏とした。彼は言う。「超越的なものは超越論的なものではない」。だがそれをフッサール的あるいはカント的な区別と混同してはなるまい。ドゥルーズにとっての超越論的領野とは、たとえば「非―主観的な意識の純粋な流れ」であり、「前反省的かつ非人称的な意識」であり、「自我のない意識の質的持続」である。これは明らかにサルトルだ。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p14~p15)
この引用からわかるように、ドゥルーズは最後の論文においてもサルトルを意識している。非人称的・絶対的・内在的な意識に帰せられる主観のない超越論的領野をサルトルは提示している。この意識と比較するとき主観や客観は「超越的なもの」であるということになる。
つまり本来ならば超越論的領野としてイメージされるべきはカントであろう。そしてフッサールであるかもしれない。しかし、ドゥルーズにおいては超越論的領野として意識されるのはサルトルであるというのだ。但し、ドゥルーズは歩を進めてベルクソンの概念を導入してはいるが。
さらに加賀野井氏は論を進めて、「内在性:1つの生・・・・・」の論文にあるとおり、「内在」について言及する。
「内在はそれ自身の内にのみあり、何らかのものの内にあったり、それに所属していたりすることはない。そして、内在がもはや自分以外のものへの内在でなくなる時にこそ、人は<内在面>について語ることができるようになる。」(同書p15)
この「内在」という表現が僕には非常に難しい。この内在については、デリダもドゥルーズと論じることがあったならば問題となるのは「内在性」をめぐるものであっただろうと言っている。『哲学とは何か』のなかでドゥルーズはこの「内在面」を「根源的な経験論」と言い換えている。
つまりは内在は主観に所属するものではないということではないか。主観に内在するものは内在ではない、内在のうちに内在がある、それは出来事である。つまり概念である限りでの可能的世界だけである。つまり内在面を語ることができるのは可能的世界の表現もしくは概念的人物としての他者だけであるということだろうか。この誰にも所属していない経験論とはいったい何か。
「つまるところこれは、<知覚の現象学>であるよりもむしろ<概念の内在学>とでも言うべきものとなる。あるいはまた、<生きられたものの現象学>ではなく<生きるものの存在論>と言っても構うまい。概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である。」(同書p16)
孫引きになるが、ドゥルーズの言葉を引用しよう。
「純粋な内在は、1つの生と呼ばれるであろうし、それ以外にはありえない。内在も生への内在ではない。何ものにも内在しない内在は、それ自体が生なのだ。生は内在の内在であり、絶対的内在であって、完全な力であり至福である」(同書p16)
つまり、ここから主体の持つ意味というものの手がかりを得られることになる。ドゥルーズにおいてはデカルトのいうコギトはない。ゆえにコギトのなかに内在云々ということはありえない。そのことは初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」でも書かれている。
論を急ぐのなら、ドゥルーズにおいてはカントのいう超越論的領野というものを肯定はする。しかしそこでドゥルーズがカントを批判していると思われるところは、その超越論的領野がアプリオリに「ある」ということだ。つまり超越論的領野の発生について考えることをカントはしていないということだ。
ドゥルーズの言う、「出来事」とは何か。ここでこの「出来事」に対する捉え方で参考にさせてもらったのは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』である。國分功一郎氏は同書p62で、「ライプニッツ自身が『述語』を『出来事』と同視している」と書いている。その記述を使わせてもらうならば出来事=述語でよいであろう。あらゆるものは出来事(述語)から発生する。そこでは主体を中心にはものを考えられない。その帰結として、発生の原因をどこに求めるのかということになる。それがドゥルーズが初期にこだわったヒュームの経験論へと続くというわけであろう。『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズは「経験論は出来事と他者しか知らない」と書いている。
さらにドゥルーズはガタリとの共同作業から主体への別の着想も得ていたのではないかと考える。ここでヒュームの経験論と接続できるかは僕の能力不足、勉強不足でわからないがガタリのラカン派精神分析からドゥルーズがなにがしかの新しい着想を得ていたのは『アンチ・オイディプス』という著作が存在していることからも明らかであろう。
主体について『アンチ・オイディプス』ではガタリとの共著であることから当然にラカンの理論が応用されているのだろうが(ガタリはラカン派の異端であるが)、そこではフロイトのエディプスコンプレックスが批判の的となっている。フロイトは無意識という偉大な発見をしたがそれをエディプスの三角形というギリシア悲劇の内的イメージに閉じ込めてしまった。ドゥルーズ=ガタリの言わせるところによれば、無意識とは世界であったように思う。ゆえに個の意識ではそれを垣間見ることはできない。この世界の実体を掴むことはなにものにもできない。世界と個をつなぐのはかの有名な概念「欲望する機械」であろう。内在面と噛み合うかどうかはこの欲望する機械が世界とうまく噛み合うかにかかっている。調子が狂えば人は神経症へと向かう。フロイトはエディプス理論によって、ドゥルーズ=ガタリのいうスキゾ経験を主体へと強制するが、ドゥルーズ=ガタリは主体からの逃走線を引く。逃走を助けるものとしてスキゾ分析がある。人間を主体にしない、スキゾという内在面の隙間へと逃走させる。
と、ここまで書いてきたがどうもまとまる気配がないのでこの続き、または修正は次の機会にしたいと思う。しかし、ドゥルーズがサルトルを強烈に意識していた、そして内在という問題こそが鍵であるということ、その内在とうまく接続できなかったが、主体中心の発想からの脱却、出来事=述語に発生の原因を問うているということは確かであろう。
最後に、ヒュームについてドゥルーズの考えが「ベルクソン流の物言いをすれば」という断りつきで注釈されている箇所を引用しておきたい。
「要するに主体とは、初めのうちは1つの刻印であり、諸原理によって残された1つの印象であるが、その印象を利用することのできる1つの機械へと徐々に変わってゆく印象なのである。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p23)
実際書いている時点で既に十数年前の知識のうろ覚えを無理やり組み立てただけのまさに砂上の楼閣の文章になっていることに気づいていたが、なかなかにドゥルーズにおける主体を素人が取り出してみせるということは不可能に近いのではないかとも思う。あまりにも稚拙な内容ではあるが、誰にでもわかるように書く、ということが自分にできる最大限のことであると思うので、その自分に課した使命だけは果たそうと思っている。
2015年6月26日金曜日
勝つやつには勝つだけの理由がある。
1部の生徒は期末テストが終わった。他の生徒も今日までで終わり。長かった戦いはひとまず終わろうとしている。今回は中2に対してかなり比重をかけて教え込んだ。今年の中2生の傾向としてはとにかく素直に話を聞いてくれる傾向にあるということ。問題を粘り強く解く。間違っても正解するまで頑張る。その結果アベレージとしては92点台という好成績を確保してくれた。中2の数学のこの基礎のところ(連立方程式)でつまずくとあとで取り戻させるのが難しいのでなかなか頑張ってやってくれたと思う。
「90点以上取ったら村上春樹の『1Q84』貸してやるぞ」と言っていた男子は見事94点を取ったが『1Q84』はいらないらしい。むしろ村上龍のほうが好きなようだ。まあ中2でW村上(古い?)を読んでいる時点で見所のある男なのではあるが、『限りなく透明に近いブルー』を読みたいらしいがどうだろう。『希望の国のエクソダス』を読んだことがあると聞くと贔屓したくなる、というか色々教え込みたくなる欲望が出てきてしまうのだがそこは今のところ抑えている。村上龍は大江、中上の担っていた部分を引き受けているのだ、龍の世界の本質を見抜く目は鋭い・・・などと語りたいのだがあまり確信的でないことは立場上言わないほうがいいかもしれない。ちなみに僕は龍の本のなかでは『カンブリア宮殿』が好きだw
1年生は今回が初の期末テストということになったが、数学に関してはまずまずといったところ。授業の感触からあまり取れないかもしれないという不安(これは毎年ある)もあったが予想以上に取ってきた。今年の1年のいいところは無邪気だということ。別の言い方をするとうるさいということなのだが、まあ1回期末テストを受けてその重要さを認識したらちょっとは変わるだろうと思っている。今回の結果を見るとみんなちゃんと教えたら成績の伸びる子だと確認できたのでひと安心だ。
問題は3年生で、3年生はまだ返却されていないので結果がわからないのだが、テストは相当難しかったらしい。3年の今の時期はもう入試モードに入っていなければならないのだが、特に男子が仲が良すぎて危機感を連帯することで不安を打ち消してしまっている気がする。志望校を下げてその高校で高順位を取って・・・ということを考えている子もいる。数学は確かに社会に出ても実学としては役に立たない子も出てくるとは思うが、人間の思考の型というものは数学で形成される部分は多いだろう。式の計算から方程式、展開、因数分解、関数、極限、微分積分と覚えておかなければ近い将来後悔することさえも知らずに人生を終えてしまうのでは・・・などと思うのだがこれが目的意識を芽生えさせるのは大変なのだ。
1番勉強のできる子(女子)は今日までが試験なのだが昨日も塾にやってきた。見た瞬間に顔色が違ったので、顔色が悪いぞ大丈夫か?と思わず声をかけてしまった(女子には失礼だったかも)のだがやはり連日睡眠を削って勉強しているとのこと。みんな天才天才と言っているのだが、もちろん才能に溢れた子ではあるのだが、人間だから。1番を守り続けることのプレッシャーは半端じゃないと思う。なにせ常に目指すのが満点だから。僕の見たなかでは1番努力している。人間的にも成長している。この子を新潟高校に入れてやりたいが、お姉さんとお母さんが新潟南高校出身なのでちょっと新潟南高校に行きたがっているのかなとも感じる。新潟高校、新潟南高校どちらを受けるにしろ入試では満点を取るつもりの猛者どもと戦わなばならないから大変だろう。(,,゚Д゚) ガンガレ!
あともうひとりラブライバーの女の子(仮)が目覚めつつある。志望校を決めて本格的にやるつもりだ。なかなか生意気な子だったのだが「(○○高校入りたいので)お願いします」なんて言われたので正直驚いた。女子は変わるね。目的意識を持つと一直線。実はこの子は1年生当時から空間把握能力の高い子だと思っていた。なかなか勉強に身が入っていなかったのだがこの時期ならまだ間に合うだろう。志望校合格レベルまで引き上げてやりたいと思う。(,,゚Д゚) ガンガレ!
などと中学生が試験で四苦八苦しているなか、僕はH&Mに服を買いに行っていた・・・すまぬ。バーゲンをやっていたのでね~やっぱり安い。アイテム1個1000円くらいですわ。ポロシャツ1枚、シャツ2枚、Tシャツ1枚、ハーフパンツ2枚、ブレスレットにベルト、ソックスと買っても1万円くらい。これがファストファッションというものなのか・・・となりのZARAもよさそうだし、時代は変わりつつあると思った。ちなみにH&Mの上にAKB48の姉妹グループ、NGT48の劇場ができるのだ。
あとは読書の近況。最近はラカン。あとドゥルーズ。やっと戻ってきたぜ・・・という感じで。某ブログでは本来小説の登場人物、作者の心理をラカン、ドゥルーズによって読み解く、みたいなのをやりたかった。でも全然できていなかったのだが、デリダも含めてなんとかその真似事でもしてみせねばなるまいと思ったりしている。でもやれるかはわからない。日本語の小説を読んでいていつも気になるのは音韻をどこまで意識すればいいかという事。少なくとも現代の話体で漢字を使っちゃうともうわからなくなってこない?という長年の疑問がある。源実朝とかの和歌ならなんとかわかるけど、散文でどこまで注意深くなれるかというのは・・・。僕にはちょっと無理っぽくてそれで英語に逃げたくなるわけだ。やっぱりアルファベットと仮名漢字では違うのではないかと僕は思うのだがどうだろう。
などと書いてきたが最後に中学生による絵をアップして終わろうと思う。
書いてあるとおり、アンパンマン。未来のNGT48候補生の描いたアンパンマン。字が抜群に上手い子。
K画伯の絵。画像は斜めになったが、下が僕らしい。どう見ても人間ではないのだが、彼女の目にはこう映っているのだろう。Twitterに上げてくれと言われたがBloggerに上げてやることにした。いちおう格上げのつもり。
ここまで行くとなにを書いているのかがよくわからないのだが、どうやら左のうさぎらしきもののなかには人が入っているらしい。想像力に溢れた子である。
と、こんな感じが近況。
「90点以上取ったら村上春樹の『1Q84』貸してやるぞ」と言っていた男子は見事94点を取ったが『1Q84』はいらないらしい。むしろ村上龍のほうが好きなようだ。まあ中2でW村上(古い?)を読んでいる時点で見所のある男なのではあるが、『限りなく透明に近いブルー』を読みたいらしいがどうだろう。『希望の国のエクソダス』を読んだことがあると聞くと贔屓したくなる、というか色々教え込みたくなる欲望が出てきてしまうのだがそこは今のところ抑えている。村上龍は大江、中上の担っていた部分を引き受けているのだ、龍の世界の本質を見抜く目は鋭い・・・などと語りたいのだがあまり確信的でないことは立場上言わないほうがいいかもしれない。ちなみに僕は龍の本のなかでは『カンブリア宮殿』が好きだw
1年生は今回が初の期末テストということになったが、数学に関してはまずまずといったところ。授業の感触からあまり取れないかもしれないという不安(これは毎年ある)もあったが予想以上に取ってきた。今年の1年のいいところは無邪気だということ。別の言い方をするとうるさいということなのだが、まあ1回期末テストを受けてその重要さを認識したらちょっとは変わるだろうと思っている。今回の結果を見るとみんなちゃんと教えたら成績の伸びる子だと確認できたのでひと安心だ。
問題は3年生で、3年生はまだ返却されていないので結果がわからないのだが、テストは相当難しかったらしい。3年の今の時期はもう入試モードに入っていなければならないのだが、特に男子が仲が良すぎて危機感を連帯することで不安を打ち消してしまっている気がする。志望校を下げてその高校で高順位を取って・・・ということを考えている子もいる。数学は確かに社会に出ても実学としては役に立たない子も出てくるとは思うが、人間の思考の型というものは数学で形成される部分は多いだろう。式の計算から方程式、展開、因数分解、関数、極限、微分積分と覚えておかなければ近い将来後悔することさえも知らずに人生を終えてしまうのでは・・・などと思うのだがこれが目的意識を芽生えさせるのは大変なのだ。
1番勉強のできる子(女子)は今日までが試験なのだが昨日も塾にやってきた。見た瞬間に顔色が違ったので、顔色が悪いぞ大丈夫か?と思わず声をかけてしまった(女子には失礼だったかも)のだがやはり連日睡眠を削って勉強しているとのこと。みんな天才天才と言っているのだが、もちろん才能に溢れた子ではあるのだが、人間だから。1番を守り続けることのプレッシャーは半端じゃないと思う。なにせ常に目指すのが満点だから。僕の見たなかでは1番努力している。人間的にも成長している。この子を新潟高校に入れてやりたいが、お姉さんとお母さんが新潟南高校出身なのでちょっと新潟南高校に行きたがっているのかなとも感じる。新潟高校、新潟南高校どちらを受けるにしろ入試では満点を取るつもりの猛者どもと戦わなばならないから大変だろう。(,,゚Д゚) ガンガレ!
あともうひとりラブライバーの女の子(仮)が目覚めつつある。志望校を決めて本格的にやるつもりだ。なかなか生意気な子だったのだが「(○○高校入りたいので)お願いします」なんて言われたので正直驚いた。女子は変わるね。目的意識を持つと一直線。実はこの子は1年生当時から空間把握能力の高い子だと思っていた。なかなか勉強に身が入っていなかったのだがこの時期ならまだ間に合うだろう。志望校合格レベルまで引き上げてやりたいと思う。(,,゚Д゚) ガンガレ!
などと中学生が試験で四苦八苦しているなか、僕はH&Mに服を買いに行っていた・・・すまぬ。バーゲンをやっていたのでね~やっぱり安い。アイテム1個1000円くらいですわ。ポロシャツ1枚、シャツ2枚、Tシャツ1枚、ハーフパンツ2枚、ブレスレットにベルト、ソックスと買っても1万円くらい。これがファストファッションというものなのか・・・となりのZARAもよさそうだし、時代は変わりつつあると思った。ちなみにH&Mの上にAKB48の姉妹グループ、NGT48の劇場ができるのだ。
あとは読書の近況。最近はラカン。あとドゥルーズ。やっと戻ってきたぜ・・・という感じで。某ブログでは本来小説の登場人物、作者の心理をラカン、ドゥルーズによって読み解く、みたいなのをやりたかった。でも全然できていなかったのだが、デリダも含めてなんとかその真似事でもしてみせねばなるまいと思ったりしている。でもやれるかはわからない。日本語の小説を読んでいていつも気になるのは音韻をどこまで意識すればいいかという事。少なくとも現代の話体で漢字を使っちゃうともうわからなくなってこない?という長年の疑問がある。源実朝とかの和歌ならなんとかわかるけど、散文でどこまで注意深くなれるかというのは・・・。僕にはちょっと無理っぽくてそれで英語に逃げたくなるわけだ。やっぱりアルファベットと仮名漢字では違うのではないかと僕は思うのだがどうだろう。
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などと書いてきたが最後に中学生による絵をアップして終わろうと思う。
書いてあるとおり、アンパンマン。未来のNGT48候補生の描いたアンパンマン。字が抜群に上手い子。
K画伯の絵。画像は斜めになったが、下が僕らしい。どう見ても人間ではないのだが、彼女の目にはこう映っているのだろう。Twitterに上げてくれと言われたがBloggerに上げてやることにした。いちおう格上げのつもり。
ここまで行くとなにを書いているのかがよくわからないのだが、どうやら左のうさぎらしきもののなかには人が入っているらしい。想像力に溢れた子である。
と、こんな感じが近況。
2015年6月9日火曜日
『古事記』 日本文学全集01 池澤夏樹
河出書房から出ている、池澤夏樹編集の「日本文学全集」シリーズ。もうこの時点で7巻まで出てるかな、かなり差をつけられたが、とりあえず01巻の『古事記』から。
この『古事記』は今まで出されてきた『古事記』とはまったく(まったくではない)違うスタンスで作られている。正直最初に読んだときは、「ああ、意欲的ではあるがこれは失敗作かも」と思ったが、読めば読むほど池澤夏樹の『古事記』に対する愛着が見えてきて、この作品がいわば太安万侶に対するリスペクトとして作られていることがわかる。そうなると俄然面白くなってきて何度も何度も読み返してしまうのだ。この記事ではこの『古事記』がいかにほかのそれと違うのかを、冒頭に書かれている、「この翻訳の方針」を見ていくことによって伝えてみたいと思う。
「この翻訳の方針――あるいは太安万侶さんへの手紙」と題して池澤によって書かれている。1300年まえに書かれたことへの驚嘆と、しかし今ではもうそのままでは読めなくなってしまっている現状を語っている。だが僕たちはあなたの時代の人たちがどのように生きていたのかを知りたいのだという思いを池澤は綴る。
池澤は自分が翻訳の仕事をこなしてきたと語り、だがそれでも『古事記』を現代語に訳するのは大変な仕事だと言う。それはフランス語やギリシャ語以上に難しい、なぜなら古代の日本語は現代の日本語から親しい、それゆえその息遣いまでもわかってしまうからだと。ではそれを正確に伝えるためにどうしたのだろうか。
訳すためにはこれこれ相当の工夫を重ねることになったと池澤は書いている。以下に書くが、ここからこの『古事記』を訳するに当たっての基本方針、大きくは2つのことが語られている。
1、文体ないし口調を残す。
池澤は、これは今までの訳者もそうしてきたのだが、ほとんどの訳書が古代の時代の現代のわれわれの知らないことを文章に織り込んでしまっていたと語る。それゆえ文体が間延びしてしまって文章の息遣いが損なわれるていたのだと言いたいのであろう。それゆえ脚注をつけることで文章に織り込むことを避けることにしている。現代語訳の基礎として使ったのは、本居宣長の『古事記伝』という礎石の上に構築された西郷信綱の『古事記注釈』だ。
2、最も大きな困難としてのテクストの多様性。
『古事記』には、形式において関係の薄い3種類のテクストが混在していると池澤は述べる。
「神話・伝説」
「系譜」
「歌謡」
これに対してそれぞれに適した文体を採用する必要があると言う。
「神話・伝説」について。
『古事記』編纂について、文字に書き残し後の世に残す、ということが大事だったが、太安万侶は口承の色濃く言葉を漢字に移した、と池澤は言う。具体的にどういうことか見てみよう。
於是亦、高木大神之命以覚白之、大神御子、自此於奥方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。従其立後応幸行。(返り点は略)
とある。これでは今の読者が読むことは困難である。続いて西郷信綱の読み下し文を見る。
是に亦、高木大神の命以ちて覚し白さく、「天つ神の御子、此れより奥つ方に莫入り幸しそ。荒ぶる神甚おほかり。今、天より八咫烏を遣わさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし」とまをしたまひき。
この書き下し文の特徴は、「」を使っている、つまり直接話法を採用していることである。ここで池澤が指摘していることは、この直接話法の前後に出てくる、「白さく」、「まをし」の「まをす」である。宣長の当時は直接話法が無かったので、「」の代わりにその前後に「まをす」を使うことで、その人の発言を示したのではないかと池澤は推測している。これが生むリズムを高く評価している。それを自分の訳で失わせたくないと池澤は考え、どうしたのだろうか。下に見る。
ここでタカギが諭して言うには――
「天つ神の子よ、この先に行ってはいけない。荒ぶる神がうじゃうじゃ居る。天から八咫烏を送るから、八咫烏が導くとおりその後を追って進みなさい」と言った。
池澤は宣長と西郷信綱にならって、「言う」を前後に繰り返す方法を採用した。僕が思うに、こうすることにより文章の持つリズム感は保たれたと思う。もちろん黙読においては多少ぎこちなさを残したかもしれないが、『古事記』の口承性、その当時の貴族たちが自分の祖先たちを声に出して詠まれた際のことを想像することもできるだろうようになっていると思う。
次に『古事記』における「生む」の意味についても池澤による説明がある。神々や天皇の系譜は必ず「生む」ことでつながっている。ここで気をつけてほしいのは、天皇が「生む」のであって、妻が生むのではないということだ。妻に「産ませた」のでもないように感じる。よって、
此の天皇、葛城之會都毘古の女、石之日売命(大后)を娶して、生みませる御子・・・
「天皇が・・・を妻として・・・生んだ」という形式で書かれていると池澤は指摘する。よってその形式をいかすために、
葛城之會都毘古(カヅラキノソツ・ビコ)の娘、(のちに大后となる)
石之日売命(イハ・ノ・ヒメのミコト)を妻として生んだ子は、
とならった。ちなみに人間の能力を超えたことを表現する際に、自発形というものが使われることがある。それは天皇や皇族の行為にも使われるものだが、その尊敬語は受動態が使われる。妻が子どもを「生む」という行為が超自然的なものとして崇められていたのではないかと想像することは可能であろう。それゆえ意味の点から言ってもそれを損なわない訳になっているのではないかと僕は思う。
また、人の名はこの『古事記』では、基本的に最初は上のように漢字に()内にカタカナで読み。2回目は漢字の横に振り仮名。3回目以降は主要部分だけを独立させ片仮名、という方法をとっている。つまり、
「天照大神(アマテラス・オホミカミ)」
「天照大神」にフリガナ。
「アマテラス」
となっている。
「系譜」について。
天皇の系譜に、地方豪族を取り込み中央集権を高める目的でつくられたことを想定すれば極めて政治的なものであるのは当然である。登場する神の数は312。ここで池澤が注意したことは固有名詞には意味があるのだから、できるだけ忠実に訳すということであった。例えば、
建速須佐之男命(タケ・ハヤ・スサノヲのミコト)
はそのまま訳し、脚注に「タケは勇猛、ハヤは勢いがあること、スサも止まるところを知らず『荒れすさぶ』ところから来る」と記している。
また、「オホエノイザホワケノミコト」は、
大江之伊邪本和気命(オホエ・ノ・イザホ・ワケの・ミコト)
としている。()内の「の」が気になるだろうが、「の」は漢字では表記されていない。発語の際に補われるものは平仮名を使っている。また、仮名遣いには歴史的仮名遣いが採用されている。そうしないと見分けがつかない人名が出てきてしまうからである。
そして古文を読む際に、かなりの人がひっかかる敬語についても配慮されている。敬語が使われているのは直接話法の部分だけになっている。地の文の敬語はすべて捨てられている。これにより読みは飛躍的に楽になったのだが、一方古文を読んだときわれわれが感じる格調の高さの幾分かを損ねたのではないかとは思う。
「歌謡」について。
『古事記』のなかで歌を採用する際の、太安万侶の苦労を慮る池澤の記述がある。しかしその苦労のおかげで『万葉集』以前の歌をわれわれは知ることができたのだと記している。
と、以上こんな感じで書かれている。最初にも書いたが、本を開いたときはその斬新さに多少の危うさを感じたのだが、読み進めるそして読みを繰り返すことによって徐々に慣れてくるものは確かにある。現代の読者の読みの水準を考慮すれば、これこそ現代の『古事記』の訳の決定版と言ってもいいのではないだろうか。池澤は大きな仕事をしたのだと感服せざるを得ないのは僕だけではないだろうと思う。
これ以上の簡略化は『古事記』自体の性質を変えるものになるだろう。これよりもより易しくとなると児童向けにならざるを得ない。大人が楽しめるギリギリのところまではハードルを下げてくれたなと感じている。個人的には、『古事記』にここ数十年以内にこれ以上読みやすいものが訳されるとは思えないので、読んでみたいというかたにはこの池澤夏樹版を僕はお薦めする。
中身についても非常に興味深いものがあったので、機会があれば記事にしたいと思う。
古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01) | |
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この『古事記』は今まで出されてきた『古事記』とはまったく(まったくではない)違うスタンスで作られている。正直最初に読んだときは、「ああ、意欲的ではあるがこれは失敗作かも」と思ったが、読めば読むほど池澤夏樹の『古事記』に対する愛着が見えてきて、この作品がいわば太安万侶に対するリスペクトとして作られていることがわかる。そうなると俄然面白くなってきて何度も何度も読み返してしまうのだ。この記事ではこの『古事記』がいかにほかのそれと違うのかを、冒頭に書かれている、「この翻訳の方針」を見ていくことによって伝えてみたいと思う。
「この翻訳の方針――あるいは太安万侶さんへの手紙」と題して池澤によって書かれている。1300年まえに書かれたことへの驚嘆と、しかし今ではもうそのままでは読めなくなってしまっている現状を語っている。だが僕たちはあなたの時代の人たちがどのように生きていたのかを知りたいのだという思いを池澤は綴る。
池澤は自分が翻訳の仕事をこなしてきたと語り、だがそれでも『古事記』を現代語に訳するのは大変な仕事だと言う。それはフランス語やギリシャ語以上に難しい、なぜなら古代の日本語は現代の日本語から親しい、それゆえその息遣いまでもわかってしまうからだと。ではそれを正確に伝えるためにどうしたのだろうか。
訳すためにはこれこれ相当の工夫を重ねることになったと池澤は書いている。以下に書くが、ここからこの『古事記』を訳するに当たっての基本方針、大きくは2つのことが語られている。
1、文体ないし口調を残す。
池澤は、これは今までの訳者もそうしてきたのだが、ほとんどの訳書が古代の時代の現代のわれわれの知らないことを文章に織り込んでしまっていたと語る。それゆえ文体が間延びしてしまって文章の息遣いが損なわれるていたのだと言いたいのであろう。それゆえ脚注をつけることで文章に織り込むことを避けることにしている。現代語訳の基礎として使ったのは、本居宣長の『古事記伝』という礎石の上に構築された西郷信綱の『古事記注釈』だ。
2、最も大きな困難としてのテクストの多様性。
『古事記』には、形式において関係の薄い3種類のテクストが混在していると池澤は述べる。
「神話・伝説」
「系譜」
「歌謡」
これに対してそれぞれに適した文体を採用する必要があると言う。
「神話・伝説」について。
『古事記』編纂について、文字に書き残し後の世に残す、ということが大事だったが、太安万侶は口承の色濃く言葉を漢字に移した、と池澤は言う。具体的にどういうことか見てみよう。
於是亦、高木大神之命以覚白之、大神御子、自此於奥方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。従其立後応幸行。(返り点は略)
とある。これでは今の読者が読むことは困難である。続いて西郷信綱の読み下し文を見る。
是に亦、高木大神の命以ちて覚し白さく、「天つ神の御子、此れより奥つ方に莫入り幸しそ。荒ぶる神甚おほかり。今、天より八咫烏を遣わさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし」とまをしたまひき。
この書き下し文の特徴は、「」を使っている、つまり直接話法を採用していることである。ここで池澤が指摘していることは、この直接話法の前後に出てくる、「白さく」、「まをし」の「まをす」である。宣長の当時は直接話法が無かったので、「」の代わりにその前後に「まをす」を使うことで、その人の発言を示したのではないかと池澤は推測している。これが生むリズムを高く評価している。それを自分の訳で失わせたくないと池澤は考え、どうしたのだろうか。下に見る。
ここでタカギが諭して言うには――
「天つ神の子よ、この先に行ってはいけない。荒ぶる神がうじゃうじゃ居る。天から八咫烏を送るから、八咫烏が導くとおりその後を追って進みなさい」と言った。
池澤は宣長と西郷信綱にならって、「言う」を前後に繰り返す方法を採用した。僕が思うに、こうすることにより文章の持つリズム感は保たれたと思う。もちろん黙読においては多少ぎこちなさを残したかもしれないが、『古事記』の口承性、その当時の貴族たちが自分の祖先たちを声に出して詠まれた際のことを想像することもできるだろうようになっていると思う。
次に『古事記』における「生む」の意味についても池澤による説明がある。神々や天皇の系譜は必ず「生む」ことでつながっている。ここで気をつけてほしいのは、天皇が「生む」のであって、妻が生むのではないということだ。妻に「産ませた」のでもないように感じる。よって、
此の天皇、葛城之會都毘古の女、石之日売命(大后)を娶して、生みませる御子・・・
「天皇が・・・を妻として・・・生んだ」という形式で書かれていると池澤は指摘する。よってその形式をいかすために、
葛城之會都毘古(カヅラキノソツ・ビコ)の娘、(のちに大后となる)
石之日売命(イハ・ノ・ヒメのミコト)を妻として生んだ子は、
とならった。ちなみに人間の能力を超えたことを表現する際に、自発形というものが使われることがある。それは天皇や皇族の行為にも使われるものだが、その尊敬語は受動態が使われる。妻が子どもを「生む」という行為が超自然的なものとして崇められていたのではないかと想像することは可能であろう。それゆえ意味の点から言ってもそれを損なわない訳になっているのではないかと僕は思う。
また、人の名はこの『古事記』では、基本的に最初は上のように漢字に()内にカタカナで読み。2回目は漢字の横に振り仮名。3回目以降は主要部分だけを独立させ片仮名、という方法をとっている。つまり、
「天照大神(アマテラス・オホミカミ)」
「天照大神」にフリガナ。
「アマテラス」
となっている。
「系譜」について。
天皇の系譜に、地方豪族を取り込み中央集権を高める目的でつくられたことを想定すれば極めて政治的なものであるのは当然である。登場する神の数は312。ここで池澤が注意したことは固有名詞には意味があるのだから、できるだけ忠実に訳すということであった。例えば、
建速須佐之男命(タケ・ハヤ・スサノヲのミコト)
はそのまま訳し、脚注に「タケは勇猛、ハヤは勢いがあること、スサも止まるところを知らず『荒れすさぶ』ところから来る」と記している。
また、「オホエノイザホワケノミコト」は、
大江之伊邪本和気命(オホエ・ノ・イザホ・ワケの・ミコト)
としている。()内の「の」が気になるだろうが、「の」は漢字では表記されていない。発語の際に補われるものは平仮名を使っている。また、仮名遣いには歴史的仮名遣いが採用されている。そうしないと見分けがつかない人名が出てきてしまうからである。
そして古文を読む際に、かなりの人がひっかかる敬語についても配慮されている。敬語が使われているのは直接話法の部分だけになっている。地の文の敬語はすべて捨てられている。これにより読みは飛躍的に楽になったのだが、一方古文を読んだときわれわれが感じる格調の高さの幾分かを損ねたのではないかとは思う。
「歌謡」について。
『古事記』のなかで歌を採用する際の、太安万侶の苦労を慮る池澤の記述がある。しかしその苦労のおかげで『万葉集』以前の歌をわれわれは知ることができたのだと記している。
と、以上こんな感じで書かれている。最初にも書いたが、本を開いたときはその斬新さに多少の危うさを感じたのだが、読み進めるそして読みを繰り返すことによって徐々に慣れてくるものは確かにある。現代の読者の読みの水準を考慮すれば、これこそ現代の『古事記』の訳の決定版と言ってもいいのではないだろうか。池澤は大きな仕事をしたのだと感服せざるを得ないのは僕だけではないだろうと思う。
これ以上の簡略化は『古事記』自体の性質を変えるものになるだろう。これよりもより易しくとなると児童向けにならざるを得ない。大人が楽しめるギリギリのところまではハードルを下げてくれたなと感じている。個人的には、『古事記』にここ数十年以内にこれ以上読みやすいものが訳されるとは思えないので、読んでみたいというかたにはこの池澤夏樹版を僕はお薦めする。
中身についても非常に興味深いものがあったので、機会があれば記事にしたいと思う。
2015年6月3日水曜日
東京ドームホテルは高層階に泊まるべし。
2015年5月某日の話。確か金曜日だったような・・・記憶も曖昧になったこの日、そう
、わたしが大人として振舞わなくてはならなくなってから幾年月・・・そんな日に僕は東京へ向かおうとしていた。
新潟にしては暑く、僕はモンクレールのポロシャツにジーンズ、それに電車内の冷房を想定してナイロンのジャケットを用意していった。家から新潟駅までは本当に近く、車で5分程度だ。
MaxTOKI322号、東京行き。12:07分発。8両編成。東京行きは1時間に1本走っている。
色はこんな色。2階建てで走っていると、2階からは外の景色が見える。1階はコンクリートの壁で景色はずっと灰色だ。そういうわけで大抵の人は2階に乗るのだが、僕はあえて1階を選ぶ。なぜならなるべく他の乗客と隣り合って座りたくないから。それだけ。長岡で突然混み出す場合がある。
2泊3日でこれだけの荷物を持っていく人間も珍しいだろう・・・。
東京までは2時間強かかる。東京駅に2時半頃に到着するとして、そこから水道橋の東京ドームホテルまでは20分見ておけばいい。3時にはチェックインできるだろう。新幹線に乗り込むと、僕は構内のニューデリーで買ったおにぎりを食べ、iPadで映画鑑賞を楽しむことにした。iPadがあるって便利だよね。映画鑑賞に疲れるとこの旅行中に読み終えようと思っている『ダ・ヴィンチ・コード』の上巻を読む。また疲れると映画を観る。この繰り返し。
さて、東京駅につくと、中央線に乗り換え。御茶ノ水で総武線に乗り換えで水道橋駅だ。水道橋と隣りの飯田橋は日本武道館などに行くときにいつも使っているので手馴れたもの・・・と思いつつ、水道橋でどっちだろう、セブンイレブン方面、ラクーアの方に出ようとしたら間違ってWINSの方に出てしまう失態。。。どっちから出てもホテルまでの距離に変わりはないのだがセブンに寄りたかった・・・仕方ないのでローソンに寄って食料を調達する。ひとつ言っておくと東京ドームホテルは飲食物の持ち入れは禁止だ。なのでこっそりと持っていく。
1階のロビー横にある受付でチェックインを済ませる。14階だ。東京ドームホテルは高層階と低層階で部屋の内装が違う。高層階のほうが広くて内装も綺麗なので高層階をおすすめする。たぶん
23階以上が高層階になると思う。高層階だとたぶん、浴室にテレビのスピーカーが設置されていてテレビの音を聞くことができる。で、14階だったのでいくぶん思っていたのと違ったのだがここでも高層階と同じく33平米あるらしい。どうも納得がいかないのでフロントに電話をしてみるとやはり33平米あるとのことだった。ちなみに当日宿泊だととんでもなく激安になるということにも気づき衝撃を受ける。まさか・・・60日前予約で準備していたのに(泣)
少し休んでから東京ドームへと向かう。近くにMLBカフェなるものができているのに気づく。イチロー、ダルビッシュ、タナカなどのグッズが売っているのだが、ここの真価は夜になると現れる。それはあとで書くとして、東京ドームの側面にある応援グッズの売っている店へと急ぐ。指定で取った席なのだが、それなりの制限があって、僕の席ではヤクルトスワローズの応援しかしてはいけないのだ。そんな制限あるのかよ、と思っていたがどうやら今日は特別な日らしく、入場した人全員にジャイアンツのTシャツを無料配布していたのだ。つまりジャイアンツデーだったようだ。そのなかでヤクルトを応援するというのはプレッシャーを感じなくもない。店ではいちおうメガホンを買った。ここに前記事で書いたD.B.STARMANのグッズも売っていたのだが荷物になるだろうと思い買わないことにした。DeNAベイスターズの応援グッズは通販で買えるので買いたい人は通販で買うことをお薦めする。
http://ec.baystars.co.jp/
球場に入る。混雑はしなかった。やはりライブとは違うのだなと思った。前回東京ドームに来たときはポール・マッカートニーのライブで、ポールのリハのために会場が1時間程度ずれ込んだために怖しい込様だった。今回はすんなり入って席もすぐに見つかった。A49ブロック24ゲート47通路33列493番。ややこしいがだいたいレフトスタンドのポールあたりと思ってもらっていい。まだ6時前だったが腹が減ったので弁当を買いに行く。いろいろあったが、崎陽軒のおつまみ弁当にすることにした。飲み物はウーロンハイ。たしか売り子さんはウーロンハイは売って回らないだろうと想定しての選択。ビールやウイスキー、ワインはある。しかしウーロンハイはないはずだ。
残念ながら弁当の画像が縦長でしか貼付できない・・・。崎陽軒のおつまみ弁当は人気No.1だそうだ。確かに非常に旨い。新潟のエコスタジアムでは焼きそばやアメリカンドッグしか売っていなかったのに・・・東京恐るべし!
書き忘れていたが今日の試合は読売ジャイアンツVSヤクルトスワローズ。投手は巨人はポレダ。ヤクルトはライアン小川。小川が三塁側でキャッチボールをしていたがさすがの肩の強さ。体幹の強さも感じる。4番は巨人は故障から復帰の坂本、ヤクルトは畠山。しかし例のごとく試合内容には触れない。坂本の1号ホームランが出たことだけは言っておこう。坂本がホームランを打ったときのライトスタンド。
ライトスタンドはオレンジで染まっている。対してレフトスタンドではヤクルト名物の傘で応援している人々。そしてなんだかんだで野球観戦に熱中してしまって売り子さんからビールを頼むのを忘れてしまっていた・・・試合時間は2時間半程度だけれど時間の経つのは早いのであった。スコアは2-1で巨人の勝利。最後は沢村が締めた。まあね、思ったのは坂本の打球の速さですね。あの打球の伸びを見るとね、原監督も4番で起用したくなるのではないかと。ちょっとテレビではわからない部分ではあった。
そして野球観戦を終え、東京ドームホテルへの帰路に立つ。
いや~東京ドームっていいですね、野球っていいですね。プロの打つ打球の音や野手の動きとか本当に素人には真似できない、当たり前だけど。テレビでどんくさいなと思っていた選手でもあのグラウンドでは相当の速度で動いて華麗なフィールディングを見せるわけですな。といっても1番いいのは、弁当食べながら酒飲んでゆっくり観戦できるところ。お祭りを見てる感覚。
東京ドームホテルに帰っての景色。ホテルからドームを見下ろすと、祭りの熱気の余韻を残した人々がちらほらとうろついている。その気持ちはわかる。
このユニフォームらしきシャツが入場者に配られたもの。指定席がぶっちゃけていうと3500円くらい。それにこんなよさそうなTシャツを配ってくれるとは・・・今日はスタジアムをオレンジに染めようデーだったから特別だったのだろう。
こちらは東京ドームに行く途中で通ったMLBカフェで買ったもの。ニューヨークヤンキースのキャップ。かぶるとあゆっぽくなる。だから少しやばい。他にもミリタリー系やヒップホップ系のデザインもあったがこれを選択。実はあゆは好きだったりするのでついついそんな感じのを買ってしまうのだな~。
そしてホテルの部屋に帰って飲み直す。明日は天王洲の銀河劇場で『夜想曲集』を見る予定。記事には先にしてしまったけど。そんなこんなな1日目であった。
、わたしが大人として振舞わなくてはならなくなってから幾年月・・・そんな日に僕は東京へ向かおうとしていた。
新潟にしては暑く、僕はモンクレールのポロシャツにジーンズ、それに電車内の冷房を想定してナイロンのジャケットを用意していった。家から新潟駅までは本当に近く、車で5分程度だ。
MaxTOKI322号、東京行き。12:07分発。8両編成。東京行きは1時間に1本走っている。
色はこんな色。2階建てで走っていると、2階からは外の景色が見える。1階はコンクリートの壁で景色はずっと灰色だ。そういうわけで大抵の人は2階に乗るのだが、僕はあえて1階を選ぶ。なぜならなるべく他の乗客と隣り合って座りたくないから。それだけ。長岡で突然混み出す場合がある。
2泊3日でこれだけの荷物を持っていく人間も珍しいだろう・・・。
東京までは2時間強かかる。東京駅に2時半頃に到着するとして、そこから水道橋の東京ドームホテルまでは20分見ておけばいい。3時にはチェックインできるだろう。新幹線に乗り込むと、僕は構内のニューデリーで買ったおにぎりを食べ、iPadで映画鑑賞を楽しむことにした。iPadがあるって便利だよね。映画鑑賞に疲れるとこの旅行中に読み終えようと思っている『ダ・ヴィンチ・コード』の上巻を読む。また疲れると映画を観る。この繰り返し。
さて、東京駅につくと、中央線に乗り換え。御茶ノ水で総武線に乗り換えで水道橋駅だ。水道橋と隣りの飯田橋は日本武道館などに行くときにいつも使っているので手馴れたもの・・・と思いつつ、水道橋でどっちだろう、セブンイレブン方面、ラクーアの方に出ようとしたら間違ってWINSの方に出てしまう失態。。。どっちから出てもホテルまでの距離に変わりはないのだがセブンに寄りたかった・・・仕方ないのでローソンに寄って食料を調達する。ひとつ言っておくと東京ドームホテルは飲食物の持ち入れは禁止だ。なのでこっそりと持っていく。
1階のロビー横にある受付でチェックインを済ませる。14階だ。東京ドームホテルは高層階と低層階で部屋の内装が違う。高層階のほうが広くて内装も綺麗なので高層階をおすすめする。たぶん
23階以上が高層階になると思う。高層階だとたぶん、浴室にテレビのスピーカーが設置されていてテレビの音を聞くことができる。で、14階だったのでいくぶん思っていたのと違ったのだがここでも高層階と同じく33平米あるらしい。どうも納得がいかないのでフロントに電話をしてみるとやはり33平米あるとのことだった。ちなみに当日宿泊だととんでもなく激安になるということにも気づき衝撃を受ける。まさか・・・60日前予約で準備していたのに(泣)
少し休んでから東京ドームへと向かう。近くにMLBカフェなるものができているのに気づく。イチロー、ダルビッシュ、タナカなどのグッズが売っているのだが、ここの真価は夜になると現れる。それはあとで書くとして、東京ドームの側面にある応援グッズの売っている店へと急ぐ。指定で取った席なのだが、それなりの制限があって、僕の席ではヤクルトスワローズの応援しかしてはいけないのだ。そんな制限あるのかよ、と思っていたがどうやら今日は特別な日らしく、入場した人全員にジャイアンツのTシャツを無料配布していたのだ。つまりジャイアンツデーだったようだ。そのなかでヤクルトを応援するというのはプレッシャーを感じなくもない。店ではいちおうメガホンを買った。ここに前記事で書いたD.B.STARMANのグッズも売っていたのだが荷物になるだろうと思い買わないことにした。DeNAベイスターズの応援グッズは通販で買えるので買いたい人は通販で買うことをお薦めする。
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球場に入る。混雑はしなかった。やはりライブとは違うのだなと思った。前回東京ドームに来たときはポール・マッカートニーのライブで、ポールのリハのために会場が1時間程度ずれ込んだために怖しい込様だった。今回はすんなり入って席もすぐに見つかった。A49ブロック24ゲート47通路33列493番。ややこしいがだいたいレフトスタンドのポールあたりと思ってもらっていい。まだ6時前だったが腹が減ったので弁当を買いに行く。いろいろあったが、崎陽軒のおつまみ弁当にすることにした。飲み物はウーロンハイ。たしか売り子さんはウーロンハイは売って回らないだろうと想定しての選択。ビールやウイスキー、ワインはある。しかしウーロンハイはないはずだ。
残念ながら弁当の画像が縦長でしか貼付できない・・・。崎陽軒のおつまみ弁当は人気No.1だそうだ。確かに非常に旨い。新潟のエコスタジアムでは焼きそばやアメリカンドッグしか売っていなかったのに・・・東京恐るべし!
書き忘れていたが今日の試合は読売ジャイアンツVSヤクルトスワローズ。投手は巨人はポレダ。ヤクルトはライアン小川。小川が三塁側でキャッチボールをしていたがさすがの肩の強さ。体幹の強さも感じる。4番は巨人は故障から復帰の坂本、ヤクルトは畠山。しかし例のごとく試合内容には触れない。坂本の1号ホームランが出たことだけは言っておこう。坂本がホームランを打ったときのライトスタンド。
ライトスタンドはオレンジで染まっている。対してレフトスタンドではヤクルト名物の傘で応援している人々。そしてなんだかんだで野球観戦に熱中してしまって売り子さんからビールを頼むのを忘れてしまっていた・・・試合時間は2時間半程度だけれど時間の経つのは早いのであった。スコアは2-1で巨人の勝利。最後は沢村が締めた。まあね、思ったのは坂本の打球の速さですね。あの打球の伸びを見るとね、原監督も4番で起用したくなるのではないかと。ちょっとテレビではわからない部分ではあった。
そして野球観戦を終え、東京ドームホテルへの帰路に立つ。
いや~東京ドームっていいですね、野球っていいですね。プロの打つ打球の音や野手の動きとか本当に素人には真似できない、当たり前だけど。テレビでどんくさいなと思っていた選手でもあのグラウンドでは相当の速度で動いて華麗なフィールディングを見せるわけですな。といっても1番いいのは、弁当食べながら酒飲んでゆっくり観戦できるところ。お祭りを見てる感覚。
東京ドームホテルに帰っての景色。ホテルからドームを見下ろすと、祭りの熱気の余韻を残した人々がちらほらとうろついている。その気持ちはわかる。
このユニフォームらしきシャツが入場者に配られたもの。指定席がぶっちゃけていうと3500円くらい。それにこんなよさそうなTシャツを配ってくれるとは・・・今日はスタジアムをオレンジに染めようデーだったから特別だったのだろう。
こちらは東京ドームに行く途中で通ったMLBカフェで買ったもの。ニューヨークヤンキースのキャップ。かぶるとあゆっぽくなる。だから少しやばい。他にもミリタリー系やヒップホップ系のデザインもあったがこれを選択。実はあゆは好きだったりするのでついついそんな感じのを買ってしまうのだな~。
そしてホテルの部屋に帰って飲み直す。明日は天王洲の銀河劇場で『夜想曲集』を見る予定。記事には先にしてしまったけど。そんなこんなな1日目であった。
2015年5月28日木曜日
舞台『夜想曲集』 カズオ・イシグロ原作 小川絵梨子演出
2015年5月16日、東京天王洲アイルにある、銀河劇場にて舞台『夜想曲集』を観劇した。
りんかい線天王洲アイル駅下車。徒歩10分くらい。銀河劇場はこの画像の右手にある。
原作は『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』などで有名なイギリスの作家カズオ・イシグロ。『夜想曲集』は短篇が5作まとめられているもので、この舞台ではそのうちの「老歌手」「夜想曲」「チェリスト」の3作がアレンジされて1つの作品として上演された。
原作の『夜想曲集』について少し述べると、「老歌手」「降っても晴れても」「モールバンヒルズ」「夜想曲」「チェリスト」の5つの短篇で構成されていて、どれも読者に満足のいく作品に出来上がっていると個人的には思う。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあり、音楽と夕暮れがひとつのテーマとなっているように思われるのだが、読む側にとってはそう一筋縄ではいかない。音楽に対する理解が必ずしも必要というわけではないが存分に味わうためにはイシグロほどの音楽に対する造詣が必要であるだろうし、夕暮れに対する解釈はなおのこと読者は慎重に行うべきであるだろう。夕暮れが時間的問題を扱っていると仮に仮定してみても、それが自然現象として現れる時間なのか、人間に訪れる主観的時間なのか、それとも人類総体の営みにおける歴史的時間なのか。このことに関してもちろんイシグロは問いを立てただけである。解釈はこちらに任されているだろう。このような作品の描き方がチェーホフ的であると言えるかもしれない、それゆえ読み手は戸惑いを禁じ得ないだろうし、同時にその物語世界を彷徨い歩く楽しみをことさらに引き延ばすことができる。僕も何度も読み返してみたが、この作品に対するひとつの解釈は出ない。一生出ない。それゆえこの作品は読者にとって一生の友となりうるだろう。
舞台は13時開演だった。開場は12時30分。今まで舞台を見てきたが30分前の開場というのは短すぎるなという印象を受けた。銀河劇場自体のキャパシティはそれほど大きくはないと思うのだがいちおう書いておくと、座席数は746席とあり、帝国劇場や赤坂ACTシアターより小さい印象はある。その代わり座席が比較的ゆったりと座れるようにできていると感じた。あと、違いとしては座面にクッション性がないので長時間の観賞には少し不向きかもしれない。客層は9割5分以上が女性。それもかなり若い年代。土曜日の午後であるのでそれほど客層が偏ったというのは主演の東出昌大さん(以下敬称略)の効果なのだろうかと思ったりした。舞台終了後からTwitterでチェックしていたが東出昌大関連のつぶやきが多かった、と言ってもつぶやきの数自体が多くなかったというのもある。
グッズ売り場があって、Tシャツやクリアファイル、カズオ・イシグロ関連の書籍などが売っていたが僕はとりあえずプログラムとブックカバーを買って席についた。舞台はだいたい下の画像のような感じでできていて、セットチェンジはない。
上下に分かれ、右上、左上、左下、真ん中に椅子が置かれ、右下の階段も含めてそこで演技が主に行われる。会場は13時になってもざわついていて、始まる気配というのがあまり感じられていなかったのだが、そこに突然東出昌大がチェロを持って中央右の椅子に座りチェロを演奏し始める。一瞬の嬌声に続き会場のライトが暗くなり舞台の始まりとなった。
東出が中央右の椅子に座ると徐々に照明が暗くなっていきチェロの弦に弓を当てる。東出がヤネクであろう。慎重に弾き始める。ギターとコントラバスも下手から現れて椅子に座り弾き始める。それと同じくして上手から女性が現れ舞台上を横切るのだが、小説を知っているものならエロイーズだとすぐにわかる。舞台を右から左へ横切っただけなのにその存在感は半端ではない。演者は渚あきである。左上にサックス。ここで東出たちがなにを弾いているのかがわからないというのがこの作品を楽しむことに致命的であるということに気づくが時は遅し。DVD化されるのを期待しようと思っていると中央から中嶋しゅう演じる老歌手トニー・ガードナーが現れ中央の椅子に座る。そして煙草を吸い始める。音楽の夕べが始まる。
トニーはウェイターを呼んでコーヒーを頼む。言い忘れたが舞台はベネチアである。ヤネクはトニーの大ファンであるのでトニーを見つけて声をかける。二人の会話はかなり気さくだった。全体的に会話が現代的で重さというものを感じない。小説と比べても少し違和感を感じるほど会話がアレンジされている。だからと言って悪い印象があるわけではない。舞台独自の世界観をつくりだすのに一役買ったであろう。ヤネクは母と二人でトニーのレコードを集めていたなどの話をする。ヤネクは共産圏の出身であるのだが故郷は今は民主主義の国になったと話す。ネクタイを緩めるなど徐々に打ち解けてきて母は死んでいることなどを話し、彼らにとってトニーは、「比類なきガードナー」なのだと話し、笑い合う。
すると中央からリンディが現れる。安田成美が演じているのだが出てきた瞬間に僕の小説でのリンディ像が覆る。とんでもなく光り輝いている。小説での設定ではセレブリティなのだがまさにそのとおりの派手な赤い服に赤い鞄。スタイルも抜群でレッドカーペットを歩いていてもまったく不思議ではない。それでいてかつキュートでもある。リンディはトニーとヤネクに話しかけるが演奏はろくに聴いていない。ここのところは小説のリンディそのままである。
リンディが去るとトニーがヤネクに「どう思う?」と聞く。そして頼みがあると言う。リンディにゴンドラからセレナーデを聴かせてやりたいという。ギターを弾ける人間を探していると聞いてヤネクは引き受ける。8時30分にアーチ橋でと約束する。舞台は暗転する。ちなみにここまでで東出のつけている腕時計に照明の光が反射して少々気になるということが起きている。
下手からエロイーズが現れる。小説での「チェリスト」に出てくるチェリストの青年ティボールが舞台ではヤネクになっている。詳しく知りたい方は小説に当たっていただきたい。エロイーズはヤネクにチェロを教えている。「私たち」の一流の世界というものをことさらに強調する。
ここでスティーブン(近藤芳正)とリリー(入来茉里)も舞台上に登場する。この二人は「夜想曲」で出てくるのだが、リリーは小説ではブラッドリーというスティーブンの長年の友人の男なのだが舞台では若い女性となっている。スティーブンはサックスを弾く。リリーの言うにはスティーブンが売れないのは顔が悪いからで才能はあると言う。それもその顔の悪さは愛嬌のある顔の悪さではなく退屈な醜さであるということだそうだ。そのために妻のヘレンもほかの男に取られてしまうわけだがそこのところが小説では解釈の余地があるように書かれているのだが舞台ではしっかりと演出されている。リリーが口からでまかせを言っていることが明確でかちっと固まる。
アーチ橋でのトニーとヤネク。ヤネクが青いラウンドホールのアコースティックギターを持っている。
スティーブンが整形手術を受けて顔を包帯で覆って出てくる。設定上はビバリーヒルズの高級ホテルだ。小説と同じくリンディからお誘いの手紙が届く。ピンク色の可愛らしい手紙。スティーブンは朗読するがその内容がいかにもな感じでいい。スティーブンはリリーに携帯で電話をかける。会話が非常に面白い。とにかくスティーブンにとってリンディのような女は軽蔑の対象でしかない。俺はあいつの同類に成り下がったとリリーに愚痴を吐き続ける。とことんリンディをこき下ろすところが面白い。
ゴンドラ曳きのビットーリオとトニーとヤネク。ゴンドラに乗って(左下の階段がゴンドラの役になる)リンディのところへ向かう。ヤネクはトニーを敬するのだがトニーはヤネクに話し続ける。ヤネクにとっては「伝説のトニー・ガードナー」だが、もうこちらではトニーを見かけてもたとえ覚えているにしても飛びついたりすることはもうないのだと。老いぼれ歌手のトニー・ガードナーなのだと。そのあとも小説と同じく歌を歌うときには客のことを知っていなければならないなどという話しなどをし、舞台はトニーとリンディの過去の回想と混じり合う。ここから音楽が重なっていき、音が重なることにより舞台の濃度が増していくのだがそこは詳しく書く事ができない。映像化を待ちたい。
トニーは、リンディは自分を選んだということを誇りを持つように語る。階段を登ることでそのことが印象づけられる。右上の椅子にトニーとリンディが座って飴玉を舐めるシーン。隠喩であるように思われる。スローでメロウな歌が流れるがそれが今は二人の距離が離れてしまっていることの印象を強くする。回想場面を舞台の上で、現実の時間軸を舞台下で行うという視覚上も明解な演出が続く。ゴンドラはリンディの泊まるホテルの下までやってくる。
ここで舞台上部でリンディとスティーブン、下部でトニーとヤネクと2つの時間軸で舞台が進行する。今回の舞台ではこの演出が繰り返され、時間軸をもう少し丁寧に追っていけたならばさらにこの舞台の真価を味わえたのではないかと思われる。リンディとスティーブンのビバリーヒルズのホテルの一室でのやりとり。リンディはスティーブンに昔のトニーの話をする。そのなかでトニーが昔ベネチアで歌ってくれたことがあったことを話す。まさにその出来事が舞台上部で行われているという構造を持っている。
トニーとヤネクのゴンドラ上での会話。ヤネクにとってトニーはやはり特別な存在だ。トニーの歌を聴いてリンディが何故泣いていたのかを理解できない。トニーはヤネクにゆっくりと話し出す。リンディは喜んだのかもしれないし悲しんでいたのかもしれない。それはわからない。ただ、どちらであれおたがい仲が良くても別れることはあるのだと。自分は昔のようなビッグネームではない、忘れ去られて消えていこうとしている。それに自分が耐えられないのだと。カムバックしたい、それがトニーの願いだ。今の俺とリンディじゃ物笑いのたねだ、と言う。トニーもリンディも出て行く人なのだと言う。そしてヤネクに向かって、きみの母親は出て行く機会のなかった人だったのだと言う。歌っている歌詞の中身を考えるに現実との乖離が甚だしいと感じる。トニーとヤネクは「比類なきガードナー」と口を合わせてつぶやき別れる。ヤネクにとっては何があってもトニーは比類ないのだ。
右上からエロイーズが現れる。彼女は言う。才能など欲しくはなかった。「私たちだけが持つものを消し去ってくれるとしたらあなたはどうする?」
左上からスティーブンとリリー。リリーはスティーブンにあなたは自分のチャンスに気づいていないのだ、と力説する。しかしスティーブンは自分自身の力で扉を開くものしか認めないのだ。右からリンディが現れる。
リンディとスティーブンがチェスをする。メグ・ライアンのチェスセットを使っているのかは不明。リンディは、気が変になりそうになると真夜中の散歩に出かけるのだと言う。リンディの部屋の新聞記事により、今年度の最優秀ジャズミュージシャンがジェイク・マーベルだと知る。マーベルはスティーブンの知り合いで彼に言わせれば才能のない男だったはずだ。スティーブンはあんな才能のない男が、と動揺を隠せない。リンディはトニーのCDをかける。
あいだにスティーブンとリリーとのやりとりがある。リリーはどうあってもリンディと近づきになれと言うが、スティーブンはあんな軽い女に近づくのはまっぴらごめんだと言う。だがリンディに自分の演奏したCDを聴かせてくれと頼まれると探してしまう。それも最高にリンディが気にいるだろうものを。改めてもう一度リンディはスティーブンを部屋に招く。
リンディはスティーブンのCDをプレーヤーにかける。「ニアネスオブユー」。しかしリンディの顔は曇る。その姿を見てスティーブンはCDを止める。おそらく彼はリンディに才能を認めてもらえなかったことに落ち込んだのか、そしてすねたのだろう。彼は才能がないと見下していたリンディに才能を認めてもらいたかったのだろう。
ヤネクとエロイーズが出会った場面の回想。エロイーズは街のカフェでチェロを弾くヤネクに声をかける。「あなたには才能がある。でもこのままではなにもかもダメになってしまう」ヤネクはエロイーズを有名な音楽家だと感じたが彼女の名前を聞いたことはなかった。ヤネクは自分はペトロビッチから指導を受けたと言うが、エロイーズは否定的だ。彼女はペトロビッチでは満足しないのだ。
ここでは上の2つの段落の芝居が同時進行で行われている。スティーブンはリンディから連絡先を書いた紙を受け取り、ヤネクはエロイーズから連絡先の紙を受け取る。そして2人は同時に道端に投げ捨てる。しかしまた同じく拾い上げる。
リンディの部屋。リンディはスティーブンに、あなたの「ニアネスオブユー」は素晴らしかったと言う。自分はスティーブンの才能に嫉妬したのだと。そんなときあんな態度を取ってしまうのだと詫びる。そして彼女はその償いなのか、スティーブンへの純粋な賛美の気持ちなのか、偶然このホテルで明日行われる最優秀ジャズミュージシャンの授賞式で、マーベルが受け取るトロフィーを盗んでくる。「おめでとう、スティーブン。年間最優秀ジャズミュージシャンはあなたよ」と。スティーブンはありがたいと言うが、トロフィーはもとあったところに返さなくては、と言う。そして2人で夜のホテルを散歩することになる。
エロイーズの部屋でヤネクはチェロの練習をする。彼女はヤネクに指摘する。「師の教えをかたくなに守る、それに得意になっている」。ヤネクはチェロを弾き続けるが何度やってもダメだしをされる。エロイーズは言う。音楽には始まりも終わりもない、聴こえない世界の心を音にするのが音楽家だ、秘められたものが露わになるときの驚きが音楽にはあるのだと。
エロイーズ「そう、あの庭のような、私たちの庭。真の音楽家だけが知る庭」。ヤネク「行けますか、僕もその庭へ」。エロイーズ「ええ、きっと」。
暗転し、スティーブンとリンディはトロフィーを返すべく暗闇のホテルを散策する。その途中での会話。リンディ「(受賞したなかに)本当に才能のある人が何人かいるのかもしれないじゃない」。スティーブン「あなたが何者か忘れていました」。リンディ「才能がない人を見下しているの」。警備員に見つかり、咄嗟にリンディはターキーにトロフィーを突っ込む。そして自分たちを擁護するために多弁になる。警備員から辛くも逃れた2人はホテルの最上階を目指す。舞台では階段を駆け上る。上昇のイメージ。
ヤネクとエロイーズのレッスン。エロイーズ「どうしても私たちのようには聴こえませんね」。この舞台でも小説でも「私たち」という言葉が強調されているが、それは当然エロイーズとヤネクのことでもあるだろう。それ以上想像を膨らませることは差し控えるが、単純に英語で3人称を使うということに意味があるのではないかということも推測される。たぶんラフマニノフを弾いているのだろうがどの曲かは音楽の知識がないのでわからなかった。ただ第3楽章とエロイーズは言っている。そしてヤネクは、「母を想いながら弾いた」と。話しは続く。エロイーズ「私たちはお互いのことを知らなすぎる」。ヤネク「(婚約相手の実業家は)あなたを理解してくれますか、あなたの音楽を」。エロイーズ「本物の才能と暮らしていくことが難しいことは理解してくれます」。小説ではここから2人の関係に変化が起きたとある。
ヤネク「あなたならラフマニノフをどう弾かれるのですか」。エロイーズはここ1ヶ月ずっとチェロを弾いていない。エロイーズはヤネクに言葉で教え、それをヤネクは音楽にする。エロイーズ「あなたは私の大切な友人です」。ここら辺りから舞台に起伏が少なくなってくる。個人を捉えないまま抽象性が高まっていく。
エロイーズがお茶を持ってくる。そして自分はチェロの弾けないチェリストなのだと告白する。エロイーズ「私はチェリストなのですヤネク、ただ包み隠されたままの」。「私たちは貴重です」。ヤネク「弾きもしないのにご自分をチェリストだと信じている」。「自分を引き剥がそうとしていない」。エロイーズ「今まで3人のプロが私を引き剥がそうとしました、が私は拒絶しました。いつか本当の教師と巡り会える日を信じて」。「ときどきとても悲しくなる、与えられたものを活かしきっていないことが」。「怖かった、ずっとあなたに言えないことが」。
スティーブンとリンディ。おそらくホテルの最上階。リンディは自分のコネクションでスティーブンを有名にすると話す。スティーブンも薄々気づいてくる。「問題はおれ自身なんだ」。リンディ「あなたには資格がある」。「自分がなにものかわかっている、自分がなにものか」。「今夜、あなたにトロフィーをあげたことを覚えていてね、20年後も、30年後も」。このときスティーブンとリンディはトロフィーがターキーのなかにあることの重要性に気づく。見つかってはまずいと再びホテルのターキーのあった部屋を目指す。ここからコミカルな芝居が繰り広げられるのだがそこは割愛する。ほぼ小説と同じである。無事にトロフィーを返して戻る途中。スティーブン「大冒険だった」。そして妻のヘレンはもう戻ってこないことを受け止めることができなくてこの整形手術を受けたのだと告白する。リンディ「戻ってこなかったら切り替えなくちゃ」。「あなたは人生に出て行くべき」。「今夜のあたしたち最高のコンビだった」。そして2人は別れる。リンディは意味深なため息をつき、首を横に振る。スティーブンはヘレンに電話をする。「ヘレン、ありがとう」。リンディは包帯を取る。
舞台はベネチアに戻る。ゴンドラに揺られたトニーがリンディに呼びかける。「リンディ」。「ハニー、きみに歌を捧げようと思って」。「ベネチアではセレナーデを歌う」。「寒いので部屋の中で聴いてくれ」。
エロイーズとヤネク。1週間ぶりにエロイーズの部屋を訪れたヤネク。エロイーズ「ヤネク、バカンスは終わりましたか」。ヤネク「幸せを祈っています、(結婚相手は)成功なさっているし、音楽の愛好家でもある」。ヤネクは小さな室内楽の仕事に就くことになった。それを告げるとエロイーズは思わず身を乗り出す。しかし祝福する。ヤネク「エロイーズさん、さようなら。さようなら、あなたが彼と幸せに暮らせますように」。エロイーズ「あなたは弾き続けて、自分のチェロを」。
舞台は最初のベネチアに戻る。ヤネクが同じ場所でチェロを弾く。音色は昔と変わったのだろうか。ヤネクの独白。あの庭のことを考えます。幻のような場所。音楽はこの世界にある、満ちている、今ならよくわかります。僕は耳を澄ませ続ける。たとえたどり着けなくても。
ウェイターが舞台の中央にテーブルと2脚の椅子を置く。リンディがやってきて左の椅子に座る。最初とは一転して青い服と帽子にショッキングピンクの鞄だ。コーヒーを飲む。ヤネクが声をかける。「リンディ・ガードナーさんですよね」。リンディは「惚れっぽい女」をリクエストする。ヤネク「一流は廃れない、時間を超えて」。才能は大衆を認めない。大衆も才能を認めない。だが相互に支えあっている。大衆は音楽を聴く。そして音楽家は聴いてもらうのだ。ヤネク「あなたの中にもある」。
リンディ「誰かが来たら別の曲に変えてくださる」。「次の曲はあなたが弾いてね」。
終劇。
と、このような作品であった。原作をうまくアレンジしてそつなくこなす、そして原作にはない新たなメッセージ性を付与する。なかなかによくできた作品だったと思う。音楽に疎いためにそれ抜きで語ることは差し控えたいために、舞台の正確な良し悪しを判断するところまではとても言及できない。ただ、プログラムを見て関わったスタッフの発言を読んでみたのだが、僕のなかでの『夜想曲集』とはかなりの隔たりを感じた。というより、プログラム内のカズオ・イシグロのメッセージにおいてさえ僕自身納得できないところがある。というわけで、この『夜想曲集』はかなり偏った解釈で僕自身が捉えていると思ってもらっていい。そんな偏向した記事ではあるが、読んでなにか感じる手がかりになってくれたらなと思う。
最後に、小説寄りの感想を書くが、この世界で才能を開花させることができる人間は少ない。この作品では才能を信じる者たちが後悔や諦念を感じつつ卑屈になっていく様も描き出されている。そしてまた社会的に成功を収めた人間であってもその自分自身がなにゆえ成功を掴み取れたのかを反省することはない、それをすることは許されていない。自分たちが中心に置かれているわけではない社会の構造のなかで遮二無二生きざるを得ない僕ら現代人の生き様を、カズオ・イシグロ独自の目線から切り取った小品が集められた作品であると僕は思う。冒頭に書いた「夕暮れ」に関する僕自身の視点を当てはめるのならば、この世界の情景としての夕暮れの美しさ、人生の夕暮れにおける各人の生き方により見えてくる実存的な清濁併せ持った人間の美しさ、最後に人類の歴史としての夕暮れを見つめる既に反定立することのなくなった世界の黄昏。またそれらいずれにも必然としてアイロニカルな目線で捉えることができるものがあり、それを臆することなく見つめた人には人間のもうひとつの側面が写ってくるだろう。そこを超えて見出す新たな地平があるのかないのか。それは読者、観賞者の力に委ねられるものだろう。
シーフォートスクエアというのかな、そこの天井。銀河劇場にちょうど背を向けて撮っている。次にここに来ることはあるのかなと思いつつ、銀河劇場をあとにした。
以上が舞台『夜想曲集』の感想である。
りんかい線天王洲アイル駅下車。徒歩10分くらい。銀河劇場はこの画像の右手にある。
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫) | |
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 早川書房 2011-02-04 売り上げランキング : 12423 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
原作は『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』などで有名なイギリスの作家カズオ・イシグロ。『夜想曲集』は短篇が5作まとめられているもので、この舞台ではそのうちの「老歌手」「夜想曲」「チェリスト」の3作がアレンジされて1つの作品として上演された。
原作の『夜想曲集』について少し述べると、「老歌手」「降っても晴れても」「モールバンヒルズ」「夜想曲」「チェリスト」の5つの短篇で構成されていて、どれも読者に満足のいく作品に出来上がっていると個人的には思う。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあり、音楽と夕暮れがひとつのテーマとなっているように思われるのだが、読む側にとってはそう一筋縄ではいかない。音楽に対する理解が必ずしも必要というわけではないが存分に味わうためにはイシグロほどの音楽に対する造詣が必要であるだろうし、夕暮れに対する解釈はなおのこと読者は慎重に行うべきであるだろう。夕暮れが時間的問題を扱っていると仮に仮定してみても、それが自然現象として現れる時間なのか、人間に訪れる主観的時間なのか、それとも人類総体の営みにおける歴史的時間なのか。このことに関してもちろんイシグロは問いを立てただけである。解釈はこちらに任されているだろう。このような作品の描き方がチェーホフ的であると言えるかもしれない、それゆえ読み手は戸惑いを禁じ得ないだろうし、同時にその物語世界を彷徨い歩く楽しみをことさらに引き延ばすことができる。僕も何度も読み返してみたが、この作品に対するひとつの解釈は出ない。一生出ない。それゆえこの作品は読者にとって一生の友となりうるだろう。
舞台は13時開演だった。開場は12時30分。今まで舞台を見てきたが30分前の開場というのは短すぎるなという印象を受けた。銀河劇場自体のキャパシティはそれほど大きくはないと思うのだがいちおう書いておくと、座席数は746席とあり、帝国劇場や赤坂ACTシアターより小さい印象はある。その代わり座席が比較的ゆったりと座れるようにできていると感じた。あと、違いとしては座面にクッション性がないので長時間の観賞には少し不向きかもしれない。客層は9割5分以上が女性。それもかなり若い年代。土曜日の午後であるのでそれほど客層が偏ったというのは主演の東出昌大さん(以下敬称略)の効果なのだろうかと思ったりした。舞台終了後からTwitterでチェックしていたが東出昌大関連のつぶやきが多かった、と言ってもつぶやきの数自体が多くなかったというのもある。
グッズ売り場があって、Tシャツやクリアファイル、カズオ・イシグロ関連の書籍などが売っていたが僕はとりあえずプログラムとブックカバーを買って席についた。舞台はだいたい下の画像のような感じでできていて、セットチェンジはない。
上下に分かれ、右上、左上、左下、真ん中に椅子が置かれ、右下の階段も含めてそこで演技が主に行われる。会場は13時になってもざわついていて、始まる気配というのがあまり感じられていなかったのだが、そこに突然東出昌大がチェロを持って中央右の椅子に座りチェロを演奏し始める。一瞬の嬌声に続き会場のライトが暗くなり舞台の始まりとなった。
東出が中央右の椅子に座ると徐々に照明が暗くなっていきチェロの弦に弓を当てる。東出がヤネクであろう。慎重に弾き始める。ギターとコントラバスも下手から現れて椅子に座り弾き始める。それと同じくして上手から女性が現れ舞台上を横切るのだが、小説を知っているものならエロイーズだとすぐにわかる。舞台を右から左へ横切っただけなのにその存在感は半端ではない。演者は渚あきである。左上にサックス。ここで東出たちがなにを弾いているのかがわからないというのがこの作品を楽しむことに致命的であるということに気づくが時は遅し。DVD化されるのを期待しようと思っていると中央から中嶋しゅう演じる老歌手トニー・ガードナーが現れ中央の椅子に座る。そして煙草を吸い始める。音楽の夕べが始まる。
トニーはウェイターを呼んでコーヒーを頼む。言い忘れたが舞台はベネチアである。ヤネクはトニーの大ファンであるのでトニーを見つけて声をかける。二人の会話はかなり気さくだった。全体的に会話が現代的で重さというものを感じない。小説と比べても少し違和感を感じるほど会話がアレンジされている。だからと言って悪い印象があるわけではない。舞台独自の世界観をつくりだすのに一役買ったであろう。ヤネクは母と二人でトニーのレコードを集めていたなどの話をする。ヤネクは共産圏の出身であるのだが故郷は今は民主主義の国になったと話す。ネクタイを緩めるなど徐々に打ち解けてきて母は死んでいることなどを話し、彼らにとってトニーは、「比類なきガードナー」なのだと話し、笑い合う。
すると中央からリンディが現れる。安田成美が演じているのだが出てきた瞬間に僕の小説でのリンディ像が覆る。とんでもなく光り輝いている。小説での設定ではセレブリティなのだがまさにそのとおりの派手な赤い服に赤い鞄。スタイルも抜群でレッドカーペットを歩いていてもまったく不思議ではない。それでいてかつキュートでもある。リンディはトニーとヤネクに話しかけるが演奏はろくに聴いていない。ここのところは小説のリンディそのままである。
リンディが去るとトニーがヤネクに「どう思う?」と聞く。そして頼みがあると言う。リンディにゴンドラからセレナーデを聴かせてやりたいという。ギターを弾ける人間を探していると聞いてヤネクは引き受ける。8時30分にアーチ橋でと約束する。舞台は暗転する。ちなみにここまでで東出のつけている腕時計に照明の光が反射して少々気になるということが起きている。
下手からエロイーズが現れる。小説での「チェリスト」に出てくるチェリストの青年ティボールが舞台ではヤネクになっている。詳しく知りたい方は小説に当たっていただきたい。エロイーズはヤネクにチェロを教えている。「私たち」の一流の世界というものをことさらに強調する。
ここでスティーブン(近藤芳正)とリリー(入来茉里)も舞台上に登場する。この二人は「夜想曲」で出てくるのだが、リリーは小説ではブラッドリーというスティーブンの長年の友人の男なのだが舞台では若い女性となっている。スティーブンはサックスを弾く。リリーの言うにはスティーブンが売れないのは顔が悪いからで才能はあると言う。それもその顔の悪さは愛嬌のある顔の悪さではなく退屈な醜さであるということだそうだ。そのために妻のヘレンもほかの男に取られてしまうわけだがそこのところが小説では解釈の余地があるように書かれているのだが舞台ではしっかりと演出されている。リリーが口からでまかせを言っていることが明確でかちっと固まる。
アーチ橋でのトニーとヤネク。ヤネクが青いラウンドホールのアコースティックギターを持っている。
スティーブンが整形手術を受けて顔を包帯で覆って出てくる。設定上はビバリーヒルズの高級ホテルだ。小説と同じくリンディからお誘いの手紙が届く。ピンク色の可愛らしい手紙。スティーブンは朗読するがその内容がいかにもな感じでいい。スティーブンはリリーに携帯で電話をかける。会話が非常に面白い。とにかくスティーブンにとってリンディのような女は軽蔑の対象でしかない。俺はあいつの同類に成り下がったとリリーに愚痴を吐き続ける。とことんリンディをこき下ろすところが面白い。
ゴンドラ曳きのビットーリオとトニーとヤネク。ゴンドラに乗って(左下の階段がゴンドラの役になる)リンディのところへ向かう。ヤネクはトニーを敬するのだがトニーはヤネクに話し続ける。ヤネクにとっては「伝説のトニー・ガードナー」だが、もうこちらではトニーを見かけてもたとえ覚えているにしても飛びついたりすることはもうないのだと。老いぼれ歌手のトニー・ガードナーなのだと。そのあとも小説と同じく歌を歌うときには客のことを知っていなければならないなどという話しなどをし、舞台はトニーとリンディの過去の回想と混じり合う。ここから音楽が重なっていき、音が重なることにより舞台の濃度が増していくのだがそこは詳しく書く事ができない。映像化を待ちたい。
トニーは、リンディは自分を選んだということを誇りを持つように語る。階段を登ることでそのことが印象づけられる。右上の椅子にトニーとリンディが座って飴玉を舐めるシーン。隠喩であるように思われる。スローでメロウな歌が流れるがそれが今は二人の距離が離れてしまっていることの印象を強くする。回想場面を舞台の上で、現実の時間軸を舞台下で行うという視覚上も明解な演出が続く。ゴンドラはリンディの泊まるホテルの下までやってくる。
ここで舞台上部でリンディとスティーブン、下部でトニーとヤネクと2つの時間軸で舞台が進行する。今回の舞台ではこの演出が繰り返され、時間軸をもう少し丁寧に追っていけたならばさらにこの舞台の真価を味わえたのではないかと思われる。リンディとスティーブンのビバリーヒルズのホテルの一室でのやりとり。リンディはスティーブンに昔のトニーの話をする。そのなかでトニーが昔ベネチアで歌ってくれたことがあったことを話す。まさにその出来事が舞台上部で行われているという構造を持っている。
トニーとヤネクのゴンドラ上での会話。ヤネクにとってトニーはやはり特別な存在だ。トニーの歌を聴いてリンディが何故泣いていたのかを理解できない。トニーはヤネクにゆっくりと話し出す。リンディは喜んだのかもしれないし悲しんでいたのかもしれない。それはわからない。ただ、どちらであれおたがい仲が良くても別れることはあるのだと。自分は昔のようなビッグネームではない、忘れ去られて消えていこうとしている。それに自分が耐えられないのだと。カムバックしたい、それがトニーの願いだ。今の俺とリンディじゃ物笑いのたねだ、と言う。トニーもリンディも出て行く人なのだと言う。そしてヤネクに向かって、きみの母親は出て行く機会のなかった人だったのだと言う。歌っている歌詞の中身を考えるに現実との乖離が甚だしいと感じる。トニーとヤネクは「比類なきガードナー」と口を合わせてつぶやき別れる。ヤネクにとっては何があってもトニーは比類ないのだ。
右上からエロイーズが現れる。彼女は言う。才能など欲しくはなかった。「私たちだけが持つものを消し去ってくれるとしたらあなたはどうする?」
左上からスティーブンとリリー。リリーはスティーブンにあなたは自分のチャンスに気づいていないのだ、と力説する。しかしスティーブンは自分自身の力で扉を開くものしか認めないのだ。右からリンディが現れる。
リンディとスティーブンがチェスをする。メグ・ライアンのチェスセットを使っているのかは不明。リンディは、気が変になりそうになると真夜中の散歩に出かけるのだと言う。リンディの部屋の新聞記事により、今年度の最優秀ジャズミュージシャンがジェイク・マーベルだと知る。マーベルはスティーブンの知り合いで彼に言わせれば才能のない男だったはずだ。スティーブンはあんな才能のない男が、と動揺を隠せない。リンディはトニーのCDをかける。
あいだにスティーブンとリリーとのやりとりがある。リリーはどうあってもリンディと近づきになれと言うが、スティーブンはあんな軽い女に近づくのはまっぴらごめんだと言う。だがリンディに自分の演奏したCDを聴かせてくれと頼まれると探してしまう。それも最高にリンディが気にいるだろうものを。改めてもう一度リンディはスティーブンを部屋に招く。
リンディはスティーブンのCDをプレーヤーにかける。「ニアネスオブユー」。しかしリンディの顔は曇る。その姿を見てスティーブンはCDを止める。おそらく彼はリンディに才能を認めてもらえなかったことに落ち込んだのか、そしてすねたのだろう。彼は才能がないと見下していたリンディに才能を認めてもらいたかったのだろう。
ヤネクとエロイーズが出会った場面の回想。エロイーズは街のカフェでチェロを弾くヤネクに声をかける。「あなたには才能がある。でもこのままではなにもかもダメになってしまう」ヤネクはエロイーズを有名な音楽家だと感じたが彼女の名前を聞いたことはなかった。ヤネクは自分はペトロビッチから指導を受けたと言うが、エロイーズは否定的だ。彼女はペトロビッチでは満足しないのだ。
ここでは上の2つの段落の芝居が同時進行で行われている。スティーブンはリンディから連絡先を書いた紙を受け取り、ヤネクはエロイーズから連絡先の紙を受け取る。そして2人は同時に道端に投げ捨てる。しかしまた同じく拾い上げる。
リンディの部屋。リンディはスティーブンに、あなたの「ニアネスオブユー」は素晴らしかったと言う。自分はスティーブンの才能に嫉妬したのだと。そんなときあんな態度を取ってしまうのだと詫びる。そして彼女はその償いなのか、スティーブンへの純粋な賛美の気持ちなのか、偶然このホテルで明日行われる最優秀ジャズミュージシャンの授賞式で、マーベルが受け取るトロフィーを盗んでくる。「おめでとう、スティーブン。年間最優秀ジャズミュージシャンはあなたよ」と。スティーブンはありがたいと言うが、トロフィーはもとあったところに返さなくては、と言う。そして2人で夜のホテルを散歩することになる。
エロイーズの部屋でヤネクはチェロの練習をする。彼女はヤネクに指摘する。「師の教えをかたくなに守る、それに得意になっている」。ヤネクはチェロを弾き続けるが何度やってもダメだしをされる。エロイーズは言う。音楽には始まりも終わりもない、聴こえない世界の心を音にするのが音楽家だ、秘められたものが露わになるときの驚きが音楽にはあるのだと。
エロイーズ「そう、あの庭のような、私たちの庭。真の音楽家だけが知る庭」。ヤネク「行けますか、僕もその庭へ」。エロイーズ「ええ、きっと」。
暗転し、スティーブンとリンディはトロフィーを返すべく暗闇のホテルを散策する。その途中での会話。リンディ「(受賞したなかに)本当に才能のある人が何人かいるのかもしれないじゃない」。スティーブン「あなたが何者か忘れていました」。リンディ「才能がない人を見下しているの」。警備員に見つかり、咄嗟にリンディはターキーにトロフィーを突っ込む。そして自分たちを擁護するために多弁になる。警備員から辛くも逃れた2人はホテルの最上階を目指す。舞台では階段を駆け上る。上昇のイメージ。
ヤネクとエロイーズのレッスン。エロイーズ「どうしても私たちのようには聴こえませんね」。この舞台でも小説でも「私たち」という言葉が強調されているが、それは当然エロイーズとヤネクのことでもあるだろう。それ以上想像を膨らませることは差し控えるが、単純に英語で3人称を使うということに意味があるのではないかということも推測される。たぶんラフマニノフを弾いているのだろうがどの曲かは音楽の知識がないのでわからなかった。ただ第3楽章とエロイーズは言っている。そしてヤネクは、「母を想いながら弾いた」と。話しは続く。エロイーズ「私たちはお互いのことを知らなすぎる」。ヤネク「(婚約相手の実業家は)あなたを理解してくれますか、あなたの音楽を」。エロイーズ「本物の才能と暮らしていくことが難しいことは理解してくれます」。小説ではここから2人の関係に変化が起きたとある。
ヤネク「あなたならラフマニノフをどう弾かれるのですか」。エロイーズはここ1ヶ月ずっとチェロを弾いていない。エロイーズはヤネクに言葉で教え、それをヤネクは音楽にする。エロイーズ「あなたは私の大切な友人です」。ここら辺りから舞台に起伏が少なくなってくる。個人を捉えないまま抽象性が高まっていく。
エロイーズがお茶を持ってくる。そして自分はチェロの弾けないチェリストなのだと告白する。エロイーズ「私はチェリストなのですヤネク、ただ包み隠されたままの」。「私たちは貴重です」。ヤネク「弾きもしないのにご自分をチェリストだと信じている」。「自分を引き剥がそうとしていない」。エロイーズ「今まで3人のプロが私を引き剥がそうとしました、が私は拒絶しました。いつか本当の教師と巡り会える日を信じて」。「ときどきとても悲しくなる、与えられたものを活かしきっていないことが」。「怖かった、ずっとあなたに言えないことが」。
スティーブンとリンディ。おそらくホテルの最上階。リンディは自分のコネクションでスティーブンを有名にすると話す。スティーブンも薄々気づいてくる。「問題はおれ自身なんだ」。リンディ「あなたには資格がある」。「自分がなにものかわかっている、自分がなにものか」。「今夜、あなたにトロフィーをあげたことを覚えていてね、20年後も、30年後も」。このときスティーブンとリンディはトロフィーがターキーのなかにあることの重要性に気づく。見つかってはまずいと再びホテルのターキーのあった部屋を目指す。ここからコミカルな芝居が繰り広げられるのだがそこは割愛する。ほぼ小説と同じである。無事にトロフィーを返して戻る途中。スティーブン「大冒険だった」。そして妻のヘレンはもう戻ってこないことを受け止めることができなくてこの整形手術を受けたのだと告白する。リンディ「戻ってこなかったら切り替えなくちゃ」。「あなたは人生に出て行くべき」。「今夜のあたしたち最高のコンビだった」。そして2人は別れる。リンディは意味深なため息をつき、首を横に振る。スティーブンはヘレンに電話をする。「ヘレン、ありがとう」。リンディは包帯を取る。
舞台はベネチアに戻る。ゴンドラに揺られたトニーがリンディに呼びかける。「リンディ」。「ハニー、きみに歌を捧げようと思って」。「ベネチアではセレナーデを歌う」。「寒いので部屋の中で聴いてくれ」。
エロイーズとヤネク。1週間ぶりにエロイーズの部屋を訪れたヤネク。エロイーズ「ヤネク、バカンスは終わりましたか」。ヤネク「幸せを祈っています、(結婚相手は)成功なさっているし、音楽の愛好家でもある」。ヤネクは小さな室内楽の仕事に就くことになった。それを告げるとエロイーズは思わず身を乗り出す。しかし祝福する。ヤネク「エロイーズさん、さようなら。さようなら、あなたが彼と幸せに暮らせますように」。エロイーズ「あなたは弾き続けて、自分のチェロを」。
舞台は最初のベネチアに戻る。ヤネクが同じ場所でチェロを弾く。音色は昔と変わったのだろうか。ヤネクの独白。あの庭のことを考えます。幻のような場所。音楽はこの世界にある、満ちている、今ならよくわかります。僕は耳を澄ませ続ける。たとえたどり着けなくても。
ウェイターが舞台の中央にテーブルと2脚の椅子を置く。リンディがやってきて左の椅子に座る。最初とは一転して青い服と帽子にショッキングピンクの鞄だ。コーヒーを飲む。ヤネクが声をかける。「リンディ・ガードナーさんですよね」。リンディは「惚れっぽい女」をリクエストする。ヤネク「一流は廃れない、時間を超えて」。才能は大衆を認めない。大衆も才能を認めない。だが相互に支えあっている。大衆は音楽を聴く。そして音楽家は聴いてもらうのだ。ヤネク「あなたの中にもある」。
リンディ「誰かが来たら別の曲に変えてくださる」。「次の曲はあなたが弾いてね」。
終劇。
と、このような作品であった。原作をうまくアレンジしてそつなくこなす、そして原作にはない新たなメッセージ性を付与する。なかなかによくできた作品だったと思う。音楽に疎いためにそれ抜きで語ることは差し控えたいために、舞台の正確な良し悪しを判断するところまではとても言及できない。ただ、プログラムを見て関わったスタッフの発言を読んでみたのだが、僕のなかでの『夜想曲集』とはかなりの隔たりを感じた。というより、プログラム内のカズオ・イシグロのメッセージにおいてさえ僕自身納得できないところがある。というわけで、この『夜想曲集』はかなり偏った解釈で僕自身が捉えていると思ってもらっていい。そんな偏向した記事ではあるが、読んでなにか感じる手がかりになってくれたらなと思う。
最後に、小説寄りの感想を書くが、この世界で才能を開花させることができる人間は少ない。この作品では才能を信じる者たちが後悔や諦念を感じつつ卑屈になっていく様も描き出されている。そしてまた社会的に成功を収めた人間であってもその自分自身がなにゆえ成功を掴み取れたのかを反省することはない、それをすることは許されていない。自分たちが中心に置かれているわけではない社会の構造のなかで遮二無二生きざるを得ない僕ら現代人の生き様を、カズオ・イシグロ独自の目線から切り取った小品が集められた作品であると僕は思う。冒頭に書いた「夕暮れ」に関する僕自身の視点を当てはめるのならば、この世界の情景としての夕暮れの美しさ、人生の夕暮れにおける各人の生き方により見えてくる実存的な清濁併せ持った人間の美しさ、最後に人類の歴史としての夕暮れを見つめる既に反定立することのなくなった世界の黄昏。またそれらいずれにも必然としてアイロニカルな目線で捉えることができるものがあり、それを臆することなく見つめた人には人間のもうひとつの側面が写ってくるだろう。そこを超えて見出す新たな地平があるのかないのか。それは読者、観賞者の力に委ねられるものだろう。
シーフォートスクエアというのかな、そこの天井。銀河劇場にちょうど背を向けて撮っている。次にここに来ることはあるのかなと思いつつ、銀河劇場をあとにした。
以上が舞台『夜想曲集』の感想である。
2015年5月19日火曜日
なんにもないが俺たちにはスタジアムがある。 その2
新潟エコスタジアムで行われた、10日のDeNA対巨人戦の続き「その2」。
予告したように、試合内容にはほとんど触れることはない。
試合の前に、応援グッズを買いに行こうということで、グッズ売り場を探しに行く。このエコスタもそうだが、応援グッズは球場内には売っていない。球場内で買えるのは飲食物。ここエコスタではほぼ祭りの屋台で売っているような、焼きそば、アメリカンホットドッグ、たこ焼き、あともちろん野球観戦につきもののビール、そしてソフトドリンクなどだ。
応援グッズは一度球場の外に出て、販売しているエリアに行かなければならない。僕は3塁側席だったのでビジター側、巨人軍の応援を一応することになる。内野だからそんなに縛りはきつくないが。3塁側のゲート下に巨人の応援グッズ、若干1塁側のところにDeNAと巨人のグッズが混合して売られているエリアがある。もしかしたら意外に思われるかたもいるかもしれないが、その他の球団のグッズは売っていない。東京ドームだとショップがあるので12球団のグッズが買えるのだが、新潟は特設テントを設けてそこで売っているのでそこまでの余裕はない。というかDeNA対巨人だからね。サッカーやバスケとかもそうなのではないだろうか。
3塁側ゲートを出る(半券を持っていないと再入場できないので注意)と、巨人軍のグッズが売っている。Tシャツとかキャップとか、タオル、メガホン等等。僕は特に応援している選手はいなかったがあえて言うなら原監督が好きだ。やはり現役時代の活躍を見ているから。落合にポジションを奪われてからのね、あの苦難の日々を乗り越えてからの、第2回WBCを優勝に導き、常勝巨人の再復興と、あの人はやはり何か持ってますわ。
とりあえず、メガホンと、実はこの時点では寒かったのでバスタオルを買った。体に巻いて暖を取ろうと。このバスタオルには「新成」と書いてあり、選手たちのサインがプリントしてある。「新成」は今年のジャイアンツのスローガンなのだろうか。普段あまり野球を観ないのでよくわからなかった。
本当はレプリカユニフォームがあったらいいなと思っていたのだが、それはなかった。球場に来ている人で着用している人がかなりいたので、それを見ていて最近のユニフォームはかっこよくなったのだなと思っていたのだった。
レプリカユニフォームはちなみに安いもので8000円くらいしたと思う。おそらく生地のもっとしっかりしたもので1万5000円くらい。野球ファン、というかスポーツを応援する人はこれくらい出すのだな。僕はTシャツも買わなかったのだが一応野球ファン・・・だ。
1塁側方面へと歩いていると、人だかりができていた。なんだろう、みんなが写真を撮っているようだ。もしかして有名人が来ているとか?選手は試合前で練習しているからいないだろう。僕は人だかりを覗いてみた、すると・・・
そこには大きな背中をしたなにかがいた。ユニフォームには「DB.STARMAN」とある。なにものなのだろうか。この時点で僕はDB.STARMANを知らなかったことを告白しておく。このDB.STARMAN、いわゆる巨人の「ジャビット」や中日の「ドアラ」のような、DeNAベイスターズのマスコットキャラクターだ。
みんなが写真を撮っている。さらに付け加えておこう。このDB.STARMANはこの世界には1体しかいない(と思う)。DeNAの新潟遠征に同行して、わざわざ新潟までやってきてくれたわけだ。ありがとうDB.STARMAN。
このDB.STARMAN、みんなと一緒に写真撮影などをしていたのだが、しばらく見ているとなにかしようとしている。後ろ姿だけで申し訳ない。なかなかこっちを向いてくれなかったので。
さて、上の画像に注目して欲しい。かなり愛嬌のある横顔を見せているが、どうやらなにかをしようとしている。手前の青いベイスターズのユニフォームを着ている方に注目。手に何かを持っている。黒と・・・白のなんだろう?と思っていると、そのなにかをDB.STARMANに手渡した。それを受け取ったDB.STARMANは一生懸命その黒と白の物体でなにかをしようとしている。そして、DB.STARMANがこちらを向いた・・・
!!!DB.STARMAN!あなた!あなた、その耳!!なぜおにぎりをつけてるの!?耳におにぎり!?そしてこちらに歩いてくる!僕は動揺を隠せなかった。なぜおにぎりを耳につけているのか。僕は恐ろしさのあまりDB.STARMANに飛び蹴りをしそうになった。あとでわかったことだが、あのおにぎり装着のDB.STARMANはご当地限定仕様らしい。つまり新潟でしかおにぎりSTARMANは見れないということだ。そして会場ではご当地限定のDB.STARMANのグッズが売っているのだった。新潟=コシヒカリ=おにぎり・・・うん、安易ではあるが耳におにぎりを装着するというそのアイデアを僕は高く評価する。
こんにちは、DB.STARMAN。見れば見るほど愛嬌のある顔だ。おにぎりがそれを2倍増しにしている、いや3倍増しか。DB.STARMANのおかげでDeNAベイスターズもファンの数が増えたことだろう。少なくとも僕はこのあとすぐにDB.STARMANのご当地限定グッズを探しに走った。しかし売り切れていたのだった・・・。
DB.STARMANと別れたあと、僕は3塁側席に戻った。午後2時プレイボール。試合が始まると一転して日差しが強くなった。太陽の日差しは3塁側スタンドを照りつけたのだった。もしかするとそこまで計算してスタジアムを建設したというのか・・・今度はホーム側のスタンドで見ようとそう思うくらいの直射日光だった。僕はたまらずサングラスを着用する。車を運転するから持っていたので助かった。
試合前のDB.STARMAN(先ほどのDB.STARMAN)の活躍を紹介しておこう。
まずはDeNA側の応援スタンドにファンサービスをするDB.STARMAN。しばらくライトの芝生のあたりをうろちょろしている。この画像はズームを最高度にして撮っている。
そして続いて、レフトスタンドの巨人応援外野スタンドの前で、巨人ファンを挑発?するDB.STARMAN。巨人ファンにもサービスを忘れない律儀なDB.STARMAN。寝転がったりしている。
そして僕はすっかりDB.STARMANのファンになってしまった。プロ野球のマスコットキャラクターって、今はこんなにファンサービスしてくれるのだ、と感動したのだった。あなたの街にもDB.STARMANが訪れるかもしれません。そのときはきっとご当地仕様のDB.STARMANになっていることでしょう。みなさん楽しみにしていてください。それでは・・・
と、終わってしまってもいいのだが、一応試合の結果だけは書いておこうと思う。
巨人のバッテリーは、ルーキーの高木勇投手と若手の小林捕手。対するDeNAは、須田投手と嶺井捕手。高木投手はこの時点で開幕から5連勝中であった。
そして試合終了後の電光掲示板。DeNAが4-2で勝利したのだった。今日のヒーローは倉本遊撃手。練習のときからその肩の強さを見て、この選手は将来のDeNAを担う選手になることだろうと感じていた。打率は2割を切っているのだが、どんまい今日のようにチャンスで打てる男ならば大丈夫だ。今後の活躍に期待したい。
こんな感じで終わった野球観戦だった。新潟という街にはいまひとつ盛り上がれる場所がない。しかし僕らにはエコスタジアム、そしてビッグスワンがある。あたりは田園地帯で田舎そのものだが、それが派手な演出をすることを可能にしているのだ。これが街中にあれば騒音問題も発生してくるだろう。さらに、もとが田んぼだっただけに開発の際にきちんと区画整理されていて交通の便が比較的よいのである。
新潟にはなんにもないが俺たちにはスタジアムがある。誇りに思える場所である。
予告したように、試合内容にはほとんど触れることはない。
試合の前に、応援グッズを買いに行こうということで、グッズ売り場を探しに行く。このエコスタもそうだが、応援グッズは球場内には売っていない。球場内で買えるのは飲食物。ここエコスタではほぼ祭りの屋台で売っているような、焼きそば、アメリカンホットドッグ、たこ焼き、あともちろん野球観戦につきもののビール、そしてソフトドリンクなどだ。
応援グッズは一度球場の外に出て、販売しているエリアに行かなければならない。僕は3塁側席だったのでビジター側、巨人軍の応援を一応することになる。内野だからそんなに縛りはきつくないが。3塁側のゲート下に巨人の応援グッズ、若干1塁側のところにDeNAと巨人のグッズが混合して売られているエリアがある。もしかしたら意外に思われるかたもいるかもしれないが、その他の球団のグッズは売っていない。東京ドームだとショップがあるので12球団のグッズが買えるのだが、新潟は特設テントを設けてそこで売っているのでそこまでの余裕はない。というかDeNA対巨人だからね。サッカーやバスケとかもそうなのではないだろうか。
3塁側ゲートを出る(半券を持っていないと再入場できないので注意)と、巨人軍のグッズが売っている。Tシャツとかキャップとか、タオル、メガホン等等。僕は特に応援している選手はいなかったがあえて言うなら原監督が好きだ。やはり現役時代の活躍を見ているから。落合にポジションを奪われてからのね、あの苦難の日々を乗り越えてからの、第2回WBCを優勝に導き、常勝巨人の再復興と、あの人はやはり何か持ってますわ。
とりあえず、メガホンと、実はこの時点では寒かったのでバスタオルを買った。体に巻いて暖を取ろうと。このバスタオルには「新成」と書いてあり、選手たちのサインがプリントしてある。「新成」は今年のジャイアンツのスローガンなのだろうか。普段あまり野球を観ないのでよくわからなかった。
本当はレプリカユニフォームがあったらいいなと思っていたのだが、それはなかった。球場に来ている人で着用している人がかなりいたので、それを見ていて最近のユニフォームはかっこよくなったのだなと思っていたのだった。
レプリカユニフォームはちなみに安いもので8000円くらいしたと思う。おそらく生地のもっとしっかりしたもので1万5000円くらい。野球ファン、というかスポーツを応援する人はこれくらい出すのだな。僕はTシャツも買わなかったのだが一応野球ファン・・・だ。
1塁側方面へと歩いていると、人だかりができていた。なんだろう、みんなが写真を撮っているようだ。もしかして有名人が来ているとか?選手は試合前で練習しているからいないだろう。僕は人だかりを覗いてみた、すると・・・
そこには大きな背中をしたなにかがいた。ユニフォームには「DB.STARMAN」とある。なにものなのだろうか。この時点で僕はDB.STARMANを知らなかったことを告白しておく。このDB.STARMAN、いわゆる巨人の「ジャビット」や中日の「ドアラ」のような、DeNAベイスターズのマスコットキャラクターだ。
みんなが写真を撮っている。さらに付け加えておこう。このDB.STARMANはこの世界には1体しかいない(と思う)。DeNAの新潟遠征に同行して、わざわざ新潟までやってきてくれたわけだ。ありがとうDB.STARMAN。
このDB.STARMAN、みんなと一緒に写真撮影などをしていたのだが、しばらく見ているとなにかしようとしている。後ろ姿だけで申し訳ない。なかなかこっちを向いてくれなかったので。
さて、上の画像に注目して欲しい。かなり愛嬌のある横顔を見せているが、どうやらなにかをしようとしている。手前の青いベイスターズのユニフォームを着ている方に注目。手に何かを持っている。黒と・・・白のなんだろう?と思っていると、そのなにかをDB.STARMANに手渡した。それを受け取ったDB.STARMANは一生懸命その黒と白の物体でなにかをしようとしている。そして、DB.STARMANがこちらを向いた・・・
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こんにちは、DB.STARMAN。見れば見るほど愛嬌のある顔だ。おにぎりがそれを2倍増しにしている、いや3倍増しか。DB.STARMANのおかげでDeNAベイスターズもファンの数が増えたことだろう。少なくとも僕はこのあとすぐにDB.STARMANのご当地限定グッズを探しに走った。しかし売り切れていたのだった・・・。
DB.STARMANと別れたあと、僕は3塁側席に戻った。午後2時プレイボール。試合が始まると一転して日差しが強くなった。太陽の日差しは3塁側スタンドを照りつけたのだった。もしかするとそこまで計算してスタジアムを建設したというのか・・・今度はホーム側のスタンドで見ようとそう思うくらいの直射日光だった。僕はたまらずサングラスを着用する。車を運転するから持っていたので助かった。
試合前のDB.STARMAN(先ほどのDB.STARMAN)の活躍を紹介しておこう。
まずはDeNA側の応援スタンドにファンサービスをするDB.STARMAN。しばらくライトの芝生のあたりをうろちょろしている。この画像はズームを最高度にして撮っている。
そして続いて、レフトスタンドの巨人応援外野スタンドの前で、巨人ファンを挑発?するDB.STARMAN。巨人ファンにもサービスを忘れない律儀なDB.STARMAN。寝転がったりしている。
そして僕はすっかりDB.STARMANのファンになってしまった。プロ野球のマスコットキャラクターって、今はこんなにファンサービスしてくれるのだ、と感動したのだった。あなたの街にもDB.STARMANが訪れるかもしれません。そのときはきっとご当地仕様のDB.STARMANになっていることでしょう。みなさん楽しみにしていてください。それでは・・・
と、終わってしまってもいいのだが、一応試合の結果だけは書いておこうと思う。
巨人のバッテリーは、ルーキーの高木勇投手と若手の小林捕手。対するDeNAは、須田投手と嶺井捕手。高木投手はこの時点で開幕から5連勝中であった。
そして試合終了後の電光掲示板。DeNAが4-2で勝利したのだった。今日のヒーローは倉本遊撃手。練習のときからその肩の強さを見て、この選手は将来のDeNAを担う選手になることだろうと感じていた。打率は2割を切っているのだが、どんまい今日のようにチャンスで打てる男ならば大丈夫だ。今後の活躍に期待したい。
こんな感じで終わった野球観戦だった。新潟という街にはいまひとつ盛り上がれる場所がない。しかし僕らにはエコスタジアム、そしてビッグスワンがある。あたりは田園地帯で田舎そのものだが、それが派手な演出をすることを可能にしているのだ。これが街中にあれば騒音問題も発生してくるだろう。さらに、もとが田んぼだっただけに開発の際にきちんと区画整理されていて交通の便が比較的よいのである。
新潟にはなんにもないが俺たちにはスタジアムがある。誇りに思える場所である。
2015年5月10日日曜日
なんにもないが俺たちにはスタジアムがある。 その1
5月9日、10日と新潟にプロ野球の試合がやってきた。
なにかよくわからないが、DeNAの主催試合であるようだ。10日は日曜日。前日にチケットが取れるか確認してみると、内野SS席以外には余裕がある。せっかくだから行ってみるか、と思い立ちチケットと駐車場のチケット?をセブンイレブンで購入。巨人側の内野S席だ。DeNA側は売り切れていた。なぜ売り切れているのかはプロ野球ファンならばわかるだろう。
ということで日曜日の朝10時半頃家を出る。試合の行われるエコスタジアムまでは車で20分程かかる。紫鳥線をまっすぐ、曲がって弁天線を真っ直ぐ、曲がるともうエコスタジアム。エコスタジアムが見えてきたが駐車場の位置を調べていかなかったのがまずかった。無料(チケットを事前に買う)駐車場が4つ、それに有料駐車場が複数あるらしい。当然駐車場のチケットを買っているので無料駐車場のほうを探す。あ、もしかしたら山に行っちゃうかも、というところで第4駐車場の入口を発見。チケットを見せて中に入る。エコスタとかなり距離があるな~。
まあでも目の前にはエコスタが見える。
この時点で11時くらい。試合開始が14時で、開場が12時。早く来すぎたというわけでもない。12時ころになれば渋滞が起きるだろうと早めに来ていただけだ。しかし、画像では車はまったく駐車していないが・・・。
歩くと、実はエコスタの隣にはビッグスワンというサッカー場がある。正確に言うと多目的競技場のようなものだが、ここでサッカー日本代表の国際Aマッチが行われている。
この近くには新潟テルサというイベント会場があり、そこでは有名なアーティストがライブをしたりしている。また、新潟産業振興センターという催物場もある。最近ではガタケットが行われており、若者に人気だ。その他にも新潟市の基幹病院、新潟市民病院もある。ここらの地域と中心街を繋ぐためにBRTというフランスのナントで走っている高速バスを走らせようという計画がある。できたらできたでみんな使うと思うのだが、市民の間でも意見が二分している。
これがビッグスワン。収容人数は忘れたが4万人は入ると思う。新潟ではNo.1の規模を誇る会場だ。昔はここでB'zやSMAPなどがライブをしていたが最近は使われないようだ。なぜか理由は知らない。ちなみに最初はドームにするという話であったような気がしたが予算の関係上客席だけに屋根がつくようになったということだったと思う。新潟は雪国なので、冬にも使えるようにドーム型にすべきだったと思う。
ビッグスワンの横には鳥屋野潟公園というものがある。とにかくここらへんは田舎なので自然が多い。この画像は鳥屋野潟公園の反対にある池なのだが、池とは思えぬほど大きい。この近くにはバーベキューができる施設もある。自然万歳な立地である。
そしてこのビッグスワンの向かい側、歩いて5分かからないところに先ほどのエコスタがある。
なにかおどろおどろしい雲とそこに聳えるスタジアム。だが天候はいい。20度はなかったのだが肌寒いというほどではなかった。この左手には新潟駅からのシャトルバスが止まる停留所がある。公共交通機関を使って来られるかたはシャトルバスを使うことになる。続々と人が集まってくる。そんななか12時開場とともに入場する。
14番ゲートから入場。スタジアムにはペットボトルの蓋は持っていくことができない。だからペットボトルの蓋をゲートの入口で回収されてしまう。僕は500mlのミネラルウォーターを持っていったので蓋がないとかなり困った。まあそれはいいとして、場内でまず昼ごはんを調達する。野球観戦といえばのアメリカンホットドッグとたこ焼きを購入する。たこ焼きはどうだろ・・・そんなに売ってないかも。
そして席へ。内野席とはいっても2階だったのでフィールドから遠いかなと思っていたがそれほどではなかった。巨人の選手が練習をしていた。僕はビジター側。だから巨人側で観戦していた。
まさにボールパーク。5月の雲と遠くに見える山並み、そして解放されている外野の芝生席。フィールドに植えられているのはもちろん天然芝だ。
バックネットは張ってあるが、それ以外はフィールドと観客席を隔てるものはほとんどない。鮮やかな緑の芝生がやはり目を引く。このあと新潟を練習拠点にしているフィギュアスケーター今井遥さんの始球式や子供たちがノックを受けるなどサービス精神も満点。わたしを野球に連れてってと歌いたくなるぐらいである。
僕もこんな感じで巨人のタオルとミニメガホンを持って観戦。かなり猫背だが、休みのときくらい猫背にさせてくれよ~普段は背筋伸ばしてなきゃいけないんだからさ。実際のところ背もたれがなくてちょっと背筋が痛かったりした。巨人はタイムリーヒットが出るとみんながタオルを回して応援するんだぜ。
などと書いたがまだ試合は始まってはいない。だが試合の内容は書かないと予告しておく。なぜなら書いてもそんなに読んでくれるとは思わないからさ。本当に書きたいことは次回書く事にする。今回はとりあえずここまで。いちおう書いておくと4番は巨人が大田、DeNAが筒香だった。
それでは次回に続く。
なにかよくわからないが、DeNAの主催試合であるようだ。10日は日曜日。前日にチケットが取れるか確認してみると、内野SS席以外には余裕がある。せっかくだから行ってみるか、と思い立ちチケットと駐車場のチケット?をセブンイレブンで購入。巨人側の内野S席だ。DeNA側は売り切れていた。なぜ売り切れているのかはプロ野球ファンならばわかるだろう。
ということで日曜日の朝10時半頃家を出る。試合の行われるエコスタジアムまでは車で20分程かかる。紫鳥線をまっすぐ、曲がって弁天線を真っ直ぐ、曲がるともうエコスタジアム。エコスタジアムが見えてきたが駐車場の位置を調べていかなかったのがまずかった。無料(チケットを事前に買う)駐車場が4つ、それに有料駐車場が複数あるらしい。当然駐車場のチケットを買っているので無料駐車場のほうを探す。あ、もしかしたら山に行っちゃうかも、というところで第4駐車場の入口を発見。チケットを見せて中に入る。エコスタとかなり距離があるな~。
まあでも目の前にはエコスタが見える。
この時点で11時くらい。試合開始が14時で、開場が12時。早く来すぎたというわけでもない。12時ころになれば渋滞が起きるだろうと早めに来ていただけだ。しかし、画像では車はまったく駐車していないが・・・。
歩くと、実はエコスタの隣にはビッグスワンというサッカー場がある。正確に言うと多目的競技場のようなものだが、ここでサッカー日本代表の国際Aマッチが行われている。
この近くには新潟テルサというイベント会場があり、そこでは有名なアーティストがライブをしたりしている。また、新潟産業振興センターという催物場もある。最近ではガタケットが行われており、若者に人気だ。その他にも新潟市の基幹病院、新潟市民病院もある。ここらの地域と中心街を繋ぐためにBRTというフランスのナントで走っている高速バスを走らせようという計画がある。できたらできたでみんな使うと思うのだが、市民の間でも意見が二分している。
これがビッグスワン。収容人数は忘れたが4万人は入ると思う。新潟ではNo.1の規模を誇る会場だ。昔はここでB'zやSMAPなどがライブをしていたが最近は使われないようだ。なぜか理由は知らない。ちなみに最初はドームにするという話であったような気がしたが予算の関係上客席だけに屋根がつくようになったということだったと思う。新潟は雪国なので、冬にも使えるようにドーム型にすべきだったと思う。
ビッグスワンの横には鳥屋野潟公園というものがある。とにかくここらへんは田舎なので自然が多い。この画像は鳥屋野潟公園の反対にある池なのだが、池とは思えぬほど大きい。この近くにはバーベキューができる施設もある。自然万歳な立地である。
そしてこのビッグスワンの向かい側、歩いて5分かからないところに先ほどのエコスタがある。
なにかおどろおどろしい雲とそこに聳えるスタジアム。だが天候はいい。20度はなかったのだが肌寒いというほどではなかった。この左手には新潟駅からのシャトルバスが止まる停留所がある。公共交通機関を使って来られるかたはシャトルバスを使うことになる。続々と人が集まってくる。そんななか12時開場とともに入場する。
14番ゲートから入場。スタジアムにはペットボトルの蓋は持っていくことができない。だからペットボトルの蓋をゲートの入口で回収されてしまう。僕は500mlのミネラルウォーターを持っていったので蓋がないとかなり困った。まあそれはいいとして、場内でまず昼ごはんを調達する。野球観戦といえばのアメリカンホットドッグとたこ焼きを購入する。たこ焼きはどうだろ・・・そんなに売ってないかも。
そして席へ。内野席とはいっても2階だったのでフィールドから遠いかなと思っていたがそれほどではなかった。巨人の選手が練習をしていた。僕はビジター側。だから巨人側で観戦していた。
まさにボールパーク。5月の雲と遠くに見える山並み、そして解放されている外野の芝生席。フィールドに植えられているのはもちろん天然芝だ。
バックネットは張ってあるが、それ以外はフィールドと観客席を隔てるものはほとんどない。鮮やかな緑の芝生がやはり目を引く。このあと新潟を練習拠点にしているフィギュアスケーター今井遥さんの始球式や子供たちがノックを受けるなどサービス精神も満点。わたしを野球に連れてってと歌いたくなるぐらいである。
僕もこんな感じで巨人のタオルとミニメガホンを持って観戦。かなり猫背だが、休みのときくらい猫背にさせてくれよ~普段は背筋伸ばしてなきゃいけないんだからさ。実際のところ背もたれがなくてちょっと背筋が痛かったりした。巨人はタイムリーヒットが出るとみんながタオルを回して応援するんだぜ。
などと書いたがまだ試合は始まってはいない。だが試合の内容は書かないと予告しておく。なぜなら書いてもそんなに読んでくれるとは思わないからさ。本当に書きたいことは次回書く事にする。今回はとりあえずここまで。いちおう書いておくと4番は巨人が大田、DeNAが筒香だった。
それでは次回に続く。
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