2015年6月9日火曜日

『古事記』 日本文学全集01  池澤夏樹

河出書房から出ている、池澤夏樹編集の「日本文学全集」シリーズ。もうこの時点で7巻まで出てるかな、かなり差をつけられたが、とりあえず01巻の『古事記』から。


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)
古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)池澤夏樹

河出書房新社 2014-11-14
売り上げランキング : 26630


Amazonで詳しく見る by G-Tools



この『古事記』は今まで出されてきた『古事記』とはまったく(まったくではない)違うスタンスで作られている。正直最初に読んだときは、「ああ、意欲的ではあるがこれは失敗作かも」と思ったが、読めば読むほど池澤夏樹の『古事記』に対する愛着が見えてきて、この作品がいわば太安万侶に対するリスペクトとして作られていることがわかる。そうなると俄然面白くなってきて何度も何度も読み返してしまうのだ。この記事ではこの『古事記』がいかにほかのそれと違うのかを、冒頭に書かれている、「この翻訳の方針」を見ていくことによって伝えてみたいと思う。



「この翻訳の方針――あるいは太安万侶さんへの手紙」と題して池澤によって書かれている。1300年まえに書かれたことへの驚嘆と、しかし今ではもうそのままでは読めなくなってしまっている現状を語っている。だが僕たちはあなたの時代の人たちがどのように生きていたのかを知りたいのだという思いを池澤は綴る。


池澤は自分が翻訳の仕事をこなしてきたと語り、だがそれでも『古事記』を現代語に訳するのは大変な仕事だと言う。それはフランス語やギリシャ語以上に難しい、なぜなら古代の日本語は現代の日本語から親しい、それゆえその息遣いまでもわかってしまうからだと。ではそれを正確に伝えるためにどうしたのだろうか。


訳すためにはこれこれ相当の工夫を重ねることになったと池澤は書いている。以下に書くが、ここからこの『古事記』を訳するに当たっての基本方針、大きくは2つのことが語られている。


1、文体ないし口調を残す。
池澤は、これは今までの訳者もそうしてきたのだが、ほとんどの訳書が古代の時代の現代のわれわれの知らないことを文章に織り込んでしまっていたと語る。それゆえ文体が間延びしてしまって文章の息遣いが損なわれるていたのだと言いたいのであろう。それゆえ脚注をつけることで文章に織り込むことを避けることにしている。現代語訳の基礎として使ったのは、本居宣長の『古事記伝』という礎石の上に構築された西郷信綱の『古事記注釈』だ。


2、最も大きな困難としてのテクストの多様性。
『古事記』には、形式において関係の薄い3種類のテクストが混在していると池澤は述べる。
「神話・伝説」
「系譜」
「歌謡」
これに対してそれぞれに適した文体を採用する必要があると言う。


「神話・伝説」について。
『古事記』編纂について、文字に書き残し後の世に残す、ということが大事だったが、太安万侶は口承の色濃く言葉を漢字に移した、と池澤は言う。具体的にどういうことか見てみよう。

於是亦、高木大神之命以覚白之、大神御子、自此於奥方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。従其立後応幸行。(返り点は略)

とある。これでは今の読者が読むことは困難である。続いて西郷信綱の読み下し文を見る。

是に亦、高木大神の命以ちて覚し白さく、「天つ神の御子、此れより奥つ方に莫入り幸しそ。荒ぶる神甚おほかり。今、天より八咫烏を遣わさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし」とまをしたまひき。

この書き下し文の特徴は、「」を使っている、つまり直接話法を採用していることである。ここで池澤が指摘していることは、この直接話法の前後に出てくる、「白さく」、「まをし」の「まをす」である。宣長の当時は直接話法が無かったので、「」の代わりにその前後に「まをす」を使うことで、その人の発言を示したのではないかと池澤は推測している。これが生むリズムを高く評価している。それを自分の訳で失わせたくないと池澤は考え、どうしたのだろうか。下に見る。

ここでタカギが諭して言うには――
「天つ神の子よ、この先に行ってはいけない。荒ぶる神がうじゃうじゃ居る。天から八咫烏を送るから、八咫烏が導くとおりその後を追って進みなさい」と言った。

池澤は宣長と西郷信綱にならって、「言う」を前後に繰り返す方法を採用した。僕が思うに、こうすることにより文章の持つリズム感は保たれたと思う。もちろん黙読においては多少ぎこちなさを残したかもしれないが、『古事記』の口承性、その当時の貴族たちが自分の祖先たちを声に出して詠まれた際のことを想像することもできるだろうようになっていると思う。


次に『古事記』における「生む」の意味についても池澤による説明がある。神々や天皇の系譜は必ず「生む」ことでつながっている。ここで気をつけてほしいのは、天皇が「生む」のであって、妻が生むのではないということだ。妻に「産ませた」のでもないように感じる。よって、

此の天皇、葛城之會都毘古の女、石之日売命(大后)を娶して、生みませる御子・・・

「天皇が・・・を妻として・・・生んだ」という形式で書かれていると池澤は指摘する。よってその形式をいかすために、

葛城之會都毘古(カヅラキノソツ・ビコ)の娘、(のちに大后となる)
 石之日売命(イハ・ノ・ヒメのミコト)を妻として生んだ子は、

とならった。ちなみに人間の能力を超えたことを表現する際に、自発形というものが使われることがある。それは天皇や皇族の行為にも使われるものだが、その尊敬語は受動態が使われる。妻が子どもを「生む」という行為が超自然的なものとして崇められていたのではないかと想像することは可能であろう。それゆえ意味の点から言ってもそれを損なわない訳になっているのではないかと僕は思う。


また、人の名はこの『古事記』では、基本的に最初は上のように漢字に()内にカタカナで読み。2回目は漢字の横に振り仮名。3回目以降は主要部分だけを独立させ片仮名、という方法をとっている。つまり、

「天照大神(アマテラス・オホミカミ)」
「天照大神」にフリガナ。
「アマテラス」

となっている。


「系譜」について。
天皇の系譜に、地方豪族を取り込み中央集権を高める目的でつくられたことを想定すれば極めて政治的なものであるのは当然である。登場する神の数は312。ここで池澤が注意したことは固有名詞には意味があるのだから、できるだけ忠実に訳すということであった。例えば、

建速須佐之男命(タケ・ハヤ・スサノヲのミコト)

はそのまま訳し、脚注に「タケは勇猛、ハヤは勢いがあること、スサも止まるところを知らず『荒れすさぶ』ところから来る」と記している。

また、「オホエノイザホワケノミコト」は、

大江之伊邪本和気命(オホエ・ノ・イザホ・ワケの・ミコト)

としている。()内の「の」が気になるだろうが、「の」は漢字では表記されていない。発語の際に補われるものは平仮名を使っている。また、仮名遣いには歴史的仮名遣いが採用されている。そうしないと見分けがつかない人名が出てきてしまうからである。


そして古文を読む際に、かなりの人がひっかかる敬語についても配慮されている。敬語が使われているのは直接話法の部分だけになっている。地の文の敬語はすべて捨てられている。これにより読みは飛躍的に楽になったのだが、一方古文を読んだときわれわれが感じる格調の高さの幾分かを損ねたのではないかとは思う。


「歌謡」について。
『古事記』のなかで歌を採用する際の、太安万侶の苦労を慮る池澤の記述がある。しかしその苦労のおかげで『万葉集』以前の歌をわれわれは知ることができたのだと記している。




と、以上こんな感じで書かれている。最初にも書いたが、本を開いたときはその斬新さに多少の危うさを感じたのだが、読み進めるそして読みを繰り返すことによって徐々に慣れてくるものは確かにある。現代の読者の読みの水準を考慮すれば、これこそ現代の『古事記』の訳の決定版と言ってもいいのではないだろうか。池澤は大きな仕事をしたのだと感服せざるを得ないのは僕だけではないだろうと思う。


これ以上の簡略化は『古事記』自体の性質を変えるものになるだろう。これよりもより易しくとなると児童向けにならざるを得ない。大人が楽しめるギリギリのところまではハードルを下げてくれたなと感じている。個人的には、『古事記』にここ数十年以内にこれ以上読みやすいものが訳されるとは思えないので、読んでみたいというかたにはこの池澤夏樹版を僕はお薦めする。


中身についても非常に興味深いものがあったので、機会があれば記事にしたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿