2015年10月25日日曜日

私というもの

自分というものがそんなに確かなものだろうか。果たして僕らはこの世界というものを本当に認識しているのか。もししているのならどういった方法で・・・。


まさに人間との確執のなかで生きている私だが、私が「本当」、「真実」に出会えることはあるのだろうか。もちろん「真実」といってもイデア的なものではない、私がそう信じているものだ。だから「本当」という言い方が近いかもしれない。


私は生まれてから、様々なものに触れて生きてきた。きっと幼年時代は瑞々しい感受性があり、触れるものあらゆるものに衝撃を受けていたのではないだろうか。それは私が感受性豊かだということではない。人間とはそういったものだということだ。


しかし私はいま、情報にあふれた社会のなかで生きている。全てにおいて先に意味が与えられている。私はその意味に乗っかるカタチでものごとを受け取っている・・・そう感じざるを得ない。


それが悪いことだとは言わない。しかし私はそれを望まない。私は「本当」に触れたい。「本当」のなにかに触れて生きることの意味を知りたい。そのためには苦しみさえも耐えてみせる。


この世界、というとき、それは私の意識が触れるられる可能性があるもの、しかし未だ触れられていない触れることができないもの、と受け取ってほしい。私は「もの」に触れられない。目の前のシャープペンシルに触れられない。リモコンにも触れられない。人の肌にも触れられない。意識は時間に触れられない。この瞬間も触れられなければ、過去にも未来にも触れられない。自己にも触れられない。デカルトのいうコギトにも触れられない。ならば尚の事他者に触れることなどできようはずがない。私はこの世界で何にも触れることができず、ただ孤独のなかで生きている。その孤独だという意識、それだけは自分のものかもしれない。


私は普段、世界と触れ合おうとは考えていない。しかし、世界に拒絶されるときが突然現れる。私はそのものが自分と触れ合っているとは気づいていなかった、もしかして触れ合ってもいなかったかもしれない、それにも関わらず自分からそのものが離れていくことを感じる。それは私から遠ざかり帰ってこない。そのとき私は激しい苦痛とともに途方もない孤独を感じる。


私ははたと気づく。私のまわりが変わっていく。すべてのものが私のなかで色褪せていく。意味を失っていく。価値を失っていく。私は何にも触れることができない。私は世界のなかで絶対的に孤独だ。自分は世界からこんなにも孤独だったのかと知り絶望に襲われる。私は全てのことを諦め、去っていくことを決意するだろう。


しかし、そんなときふと現れる「なにか」があった。それは過去にあったのか。いや、過去にはない、私の意識に備わったものだ。その「なにか」に気づく装置が私には備わっていた。私はその「なにか」に促されて私は世界へ立ち向かおうとする。世界を私が、あらかじめ意味や価値を決められていた世界を解体し、私は世界を再構築する。私が解釈する世界が現れる。その世界ではシャープペンシルはただのシャープペンシルではない。ただひとつの「この」シャープペンシルだ。他者も然り。私の目の前に現れたあなたは「この」あなたであり、私にとっての唯一の存在だ。私は世界を手に入れた。私の触れた「本当」の世界。あなたにとっても私はそんな「この」私であって欲しいと思う。


だが、ふと考える。私は私の世界を取り戻した。しかし私はまた絶望を覗くだろう。そしてまた私は世界を取り戻そうと藻掻く。それは永遠に続く苦悩である。たとえそれが永遠にやってきたとしても私はそれを「是」と言い続けられるだろうか。この苦しみを抱えながら人生を生きていくことが果たしてできるだろうか。これが現実の正体なのか。「本当」に触れる、裸の「現実」に触れる、それはかくも恐ろしいことなのか。現実の深淵を覗くこと・・・

2 件のコメント:

  1. わたくし、以前、このへんのことを書いたことがあるんです。そのときの考え方は、たぶん今も変わっていません。「わたし」は確固としたものではないし「このわたし」はほかのひとの見る「わたし」ではないし、「このわたし」だって「わたしが知覚しているわたし」にすぎないし……まあそんなようなこと。「わたし」が存在するとすれば、どこかにある、というより「あいだ」にある、みたいなこと。だからわたしは「この」わたしに拘ることはない、なんてねー。

    わたしは、ふにゃふにゃと、永劫回帰に「是」ということから逃げているような気もします。

    こちらを見返す深淵を覗き込むことからも。怯懦であることよ。わたしはいつか、乾坤一擲、賭けることはあるだろうか。

    またゆっくり考えてみたいと思います。機会を与えてくださってありがとうございます。

    あ、最後に。せんせい、よろしければ、ついったに更新情報を投稿してくだされ。でないと見逃しちゃうかもしれないから。(ダッシュボードの更新情報が埋もれちゃってたのよ)

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    1. コメントありがとうございます!

      「あいだ」にあると僕も思ってたのですよ、僕が20年来こだわっているフランス現代思想でもそうじゃない。でも最近サルトルをこつこつと読んでるの。ドゥルーズもデリダもサルトルの影響を滅茶苦茶受けてることに気づいたのよね、今更気づいたのが恥ずかしいのだけど。「この」をどうにか自分のものにしないと駄目なんだろうなと思ったわけ。そしてそこには時代的限界もまたあったのだろうと。それをものにできたら、もう1回「あいだ」の方に戻ってきたいと思います。

      永劫回帰もちょっとよくわからなくなってきてます、迷路に入ったw 現代を時代を逆行してニーチェまで戻り、なおまたデカルトに戻り、『探求Ⅰ』での柄谷行人の解釈に行き着く・・・やばい、迷っている・・・。

      でもね、デリダが言っていたかいまいち不明ですが、裁判=Justiceが脱構築の実行の場だと。そして正義=Justiceを考える上でサルトルから考えてみたいのです。

      麸之介師匠も考えてみてください。なにか閃いたら教えてね!

      この記事、もうひとつの方で書くつもりだったのだけど間違って、こっちにアップしちゃったのw

      更新情報の投稿の仕方わからない・・・下のTwitterのボタンを押せばいいのかな?

      あと、例のブログなんだけど、どうやらGoogleアカウントが必要らしいのよ!
      アカウント取ってくれる?
      すごい面倒なことになってきたわね・・・。

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