2017年6月3日土曜日

症候と読むことの差

『現代思想』に掲載された、樫村さんの論文「ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読むとドゥルーズの問題点がクリアに示されていて自分のドゥルーズ理解の視野を広めてくれる。96年に発表されたもののようだが、東浩紀さんの『存在論的、郵便的』、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』でも扱われている。


しかし、僕はこの論文を読んでドゥルーズが間違っているとは思わないのである。ニーチェの永遠回帰を病的症候として読むか、それとも隠喩として読むかということは重要であるとは感じない。ラカンの『盗まれた手紙』からドゥルーズとラカンに共通する詐術を見出す点もなるほどと思うのだが、それにより僕のなかでドゥルーズの評価が変わることはない。ただ、本当にこの樫村さんの論文は読んでいて刺激されるし、96年当時を考えるとあの状況でここまで批判的に書けているというのは驚異的だと思う。このあと宇野邦一さんの本が出たりするわけだけど宇野さんの本は読んでいてそれほど論理的に詰められたものとは感じなかった。哲学的というよりむしろ文学的といったほうがいいように思う。ただ、宇野さんの本には文学的アプローチでなければ捉えられないドゥルーズの核心に触れていたように思う。習慣、記憶、そしておそらく言葉の問題。この点を深化させていくと樫村さんの論文とは違う地平が現れてくるように思う。


で、この「ドゥルーズのどこが間違っているのか?」のなかで僕がちょっとブログ記事として取り上げてみたいのは、この論文の是非ではなく、ニーチェの永遠回帰の解釈部分だ。ニーチェについて書かれているものを読むとまずそもそもニーチェはいったいどこまで病んでいたのかということで評価がわかれるように思う。この樫村さんの論文もニーチェの症状は実体的なものであって決して隠喩ではない(それゆえドゥルーズがハイデガーと結合させたのは間違っている)と書いていると思う。他にルー・ザロメとの恋愛により精神を病んだということに重点を置いているものや母と妹のヒステリーの影響をあげている人もいる。そして梅毒の影響の問題などもある。しかしどうだろう。僕はニーチェにそのような身体性を感じていないのだ。直感でしかないのだがニーチェの著作を読んでいて僕はそれを感じない。僕自身が重度の精神的危機に陥った経験があるからなのだが、それゆえ僕の身体性に関わることなので猶の事説得力はないだろうが、どう考えても精神に異常をきたした状態であの文章を書くことは不可能ではないだろうかという疑問を感じざるを得ない。ニーチェの文章の特異さについて書いておられる方もいるが、精神の異常をきたしているのならあの程度の文体で終わるものではない。言いすぎかもしれないが精神に異常をきたしてあの程度の文体でしか書けなかったのならばニーチェという人間の知性と感性は所詮その程度のものだったのだと切り捨ててもいいのではないだろうか(もちろん僕はそう思わないのでニーチェを読んでいるわけだが)。


樫村さんの論文のセクション1で取り上げられているニーチェの永遠回帰(論文では「永劫回帰」である。)について少し考えてみたいと思う。樫村さんはニーチェの現場とドゥルーズの理論について以下のように書いている。

「ニーチェの偽装する力、差異と強度の現場には、あらゆる不幸と興奮が渦巻いているのに、ドゥルーズ(Dz)の即時的差異には、抽象化された整合的理論にふさわしい、穏便な幸福の気配こそが支配的だからである。」

ニーチェの現場とドゥルーズの思想は場が違う。ニーチェのそれは真理=譫妄=病の発生現場である。つまりそこには病の人としたのニーチェがあり、彼が病んでいたからこそ永遠回帰を始めた思想が形成されたと考えているのだろう。もちろんそこには「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての思想であると明記しているわけではあるが。対してドゥルーズは読む人であると言っている。彼は穏健である。ニーチェが実体として感じていたものを彼は読むことで思想としている。彼の病の収集癖がそうさせているのだとも言う。果たしてカフカにおいて『変身』のザムザは症候であるのだが、ドゥルーズにとっては隠喩であるのだろうか。ここに樫村さんはニーチェとドゥルーズに決定的な差があると主張しているのだろう。


僕はこの樫村さんの主張に異論があるわけではない。ニーチェが、

「これは一般に分裂病者が、(本質的に想像的なものー幻想の欠損に由来する)認識ー行動上の困難を、「理性的」推論で補おうとして、ますます混乱に陥る(世界と身体の自明性が崩れる)ことに対応するが・・・」

とあるように分裂病者の症候を表していることはありうるのかもしれない。それにより現実=実体に触れ、混乱をきたし同一律が解体し破壊的支持関係が発動したというのも言い過ぎではないだろう。むしろここに樫村さんの言うような永遠回帰の現れを見ることができるとも思う。


だが、ドゥルーズの考える永遠回帰はまったく別の平面を描いていると言えないだろうか。彼の哲学はニーチェの影響を強く受けているがむろんそれだけではないのは明らかであろう。スピノザの一元論、プルーストの習慣、記憶、そして言葉の問題を考慮に入れただけでもニーチェの哲学とは違う平面で考えなければならないことは自明であろう。確かに隠喩、病の収集癖と言われるものはあるとしてもそれはニーチェの強度とハイデガーの差異を連結するときに不都合が生じているだけで、ドゥルーズの哲学体系、樫村さんが言うようにヘーゲルの『精神現象学』に匹敵する哲学体系の構築に齟齬をきたすような問題であっただろうか。


ニーチェの存在論は精神病特有のものであるかもしれないが、ドゥルーズの存在論は存在そのものを問うている限りそこに問題は生じないのではないだろうか。主体/非主体(存在)の問題はあるだろうが、ニーチェが病にせよなんにせよ同一律から差異に存在論的に迫ったのに対し、ドゥルーズは哲学体系から存在論に迫った。そこには方法論の違いはあるかもしれないがドゥルーズはニーチェを継承して存在論に迫ったということができるように思われる。


余談だが、この樫村さんの論文にはおそらくクロソフスキーの影響があるように思われる記述がある。僕はクロソフスキーについては不勉強で、なおかつ精神分析、倒錯についても書かれているため理解不足でここでなにか意見を述べることはできない、そして記述が長いので引用することもできないのだが、敢えて書かせてもらうと、それは象徴の世界で起こるものであり反復脅迫を悪の要素とし、それにより主体は切り刻まれるという。その至高の真理を永遠回帰としている、というように読める。しかしここでさらに、快感原則に反するものである死への意志を悪とするのでは留まらず、そこに倒錯を持ち込むことにより悪(悪魔)の書き換えをおこない、主体の外在化が起きるとされている。果たして永遠回帰は無害化され、善悪の彼岸が訪れる、とある。事態はそれほど単純ではないようで樫村さんも「実際は遥かに複雑なもの」と書かれている。


精神分析の視点からもう少し詳細な記述があってもよかった気はするし、さらに言えばニーチェの症状をもっと明確に示すことはできるように思うのだが、僕としてはニーチェはパラノとスキゾを行ったり来たりしていたように思う、ここでは立ち入らないでおく。

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