最近は夏目漱石の『こころ』を読んでいました。『こころ』は僕が最初にまともに読んだ小説です。僕は『こころ』を読んだとき、僕という存在を根本から考えさせられる、そういう体験をしました。それはいったいなんだったのでしょう。そのなかの大きな要因のひとつに、「下 先生と遺書」があると僕は考えます。
こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館)
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「下 先生と遺書」は先生がもうひとりの主人公「私」に向けた手紙=遺書です。この遺書は先生の実体験をもとに書かれています。漱石の『こころ』という小説のなかに存在する先生が私に過去を告白する。そういう形式を取っています。先生は遺書を書いたわけですが、それが僕には先生の私小説のように読めました。僕はきっとその私小説のもつ吸引力に惹かれていったのだと思います。僕は先生の遺書から先生の「わたし」を感じ驚愕し震え戦いたのです。
これは私小説の元祖といってもいいかもしれないジャン・ジャック・ルソーの『告白』に近いかもしれません。僕はこの小説を無視することはできないです。自分の過去を赤裸々に告白する。
「最後の審判のラッパはいつでも鳴るがいい。わたしはこの書物を手にして最高の審判者の前に出ていこう。高らかにこう言うつもりだーーーこれがわたしのしたこと、わたしの考えたこと、わたしのありのままの姿です。よいこともわるいことも、おなじように率直にいいました。何一つわるいことをかくさず、よいことも加えもしなかった。(略)永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりないわたしと同じ人間を集めてください。わたしの告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹を立て、わたしのみじめさに顔を赤くするなら、それもいい。彼らのひとりひとりが、またあなたの足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、「わたしはこの男よりいい人間だった」といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです。」(『告白』 J・J・ルソー)
先生の遺書とルソーの『告白』の恐ろしいまでの切迫感。これが僕のいう「わたし」の謎です。その謎を僕は追いかけてきました。しかし最近になりますが、芥川龍之介の「藪の中」を読んだのです。
藪の中
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「藪の中」は説明する必要のないほど有名な作品ですので説明はしませんが、多襄丸、妻、死んだ夫の3つの視点からひとつのある出来事が描かれています。ここで使われているのはWikipediaにありますように内的多元焦点化という手法です。僕もよく理解していませんが、「藪の中」は3人がそれぞれ事件の起こったことについて証言しています。そしてそれぞれ3人の言っていることがかみ合わない。これはどういうことだろうという話です。
僕は「藪の中」を読んで気づきました。ひとりの人間=「わたし」が真実だと思うことをどれだけ切実に訴えても、三人称視点で書いてしまうと「わたし」が本当の真実だと思ったことが実は真実ではなくなるのだと。多襄丸にとって、妻にとって、夫にとっては真実であることが三人称という視点で見ると本当に自分の思い込みのようなものになってしまう。さらに技術的には三人称の特性として語り手が隠蔽されてしまうために真実は現れてきません。
僕はそれを考えたとき、『こころ』の先生の遺書は先生にとっての真実でしかなく、実際起きた出来事はもしかしたらそうではなかったのだろう部分を多く占めているのではないかと思いました。しかし先生は書いた。そうせざるを得なかったからです。僕たちも相手に自分の思いを伝えるために何かを書いたことがあるでしょう。その方法は告白になるように思います。そして日本近代文学の王道であった私小説も自己暴露という性質を多分に抱えているためにそのような要素が大きいのではないかと思います。飛躍しますが、つまり日本の近代小説で僕がもっとも考え重要だと思っていた「わたし」は一人称に現れるわたしであり(三人称の私小説もありますが)、それは三人称で描かれるとそのフィクション性が暴露されてしまうのではないか、と僕は感じるに至りました。もしかしたら私小説作家たちはそのことに自覚的に作品を書いていたのではないかと思ったりしました。それはあまりにも悲しい。ですがそれゆえに尊い気がします。
最近読んだ本に、佐々木敦の『新しい小説のために』があります。この本では新しい私小説の方法が検討されています。わたしというのは本来ひとつの決まった形はもっていない。接する相手やその場所、時間によって様々なわたしを使い分ける。そういう時代に強固なわたしなど必要があるのか。そのときそのときで自分を変化させていく、平野啓一郎のいう「分人」という概念もそれに近いかもしれません。そしてこの本ではさらに踏み込んで、わたしという身体的制限さえ超えていこうとしています。SNSというコミュニケーションツールが日常化したとき、わたしはそのSNSの一部となります。そこでは自分の意見と他人の意見の境界が不分明になっていく。あるグループの一員として、わたしの代わりはいくらでもいそうな、そんなコミュニティのなかで自分を保っていく方法論として「わたし」ではなく「わたしたち」というものが私小説における「わたし」へと現代はアップデートされているのではないか。僕は読んでいてそう思いました。
新しい小説のために
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僕のように「わたし」は「わたし」でしかない。その「わたし」で人とぶつかっていきたい。そう考える時代は過ぎたのではないか。僕はそのように感じました。ただただ虚構の「わたし」を夢見る僕。そんなことを考えたとき、もう終わったのではないかと僕は感じました。それゆえここで『こころ』を巡る旅はひとまず終了。そう思ったわけです。
しかし、そう思っているときに僕に救世主が現れました。僕に哲学のしかたを教えてくれたY師匠です。名前はいちおう伏せさせてもらいます。Yさんのデカルト解釈を読んだとき、僕は自分が本当に井の中の蛙でしかないことに気づかされました。そうなのだ僕が求めていたものはそんな簡単な「わたし」だけではないんだ、僕にはもっともっと考えることがある。Yさんはデカルトの言っているのは「Cogito, ergo sum」ではない、それはスピノザのいうように「Ego sum cogitans」なのだと言います。それがデカルトの真髄であり、後期ハイデガーが目指したテーマなのだと。
新しい「わたし」を自分で考えたい。僕が自分で考え、身体の隅ずみまで浸透し納得する「わたし」というものを。そのためにはまだまだやることがあるだろう。まずはもう1度デカルトを読んでみよう。自分が納得いくまで。頭の悪い自分でもなにか見つけることができるはずだ。そういう希望がYさんのおかげで湧いてきました。
Y師匠から芭蕉のうたをいただきました。
「雲雀より上に安らふ峠かな」
雲雀よりも高いところにある安らぎの場所に到達できるのだろうか。いつかYさんとそんなところで一緒におにぎりを食べてみたい。
僕はきっと一生このうたを忘れないでしょう。Yさん、ありがとう!!
まだやれる!そう思ったのでした。
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