2017年9月3日日曜日

ラカン フロイトの鑑別診断について。

ラカンを松本卓也氏の『人はみな妄想する』をガイドとしてラカンを読んでみたい。

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-松本卓也

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といっても思いついてことのメモ程度のものなので正確さはまったく保証できない。本ブログを読む方々は自分の思考の流れを読むことを楽しんでいただけたらと思う。


とりあえず「表象」から。
フロイトのいう表象についてメモしておく。P79にある。


フロイトが神経症と精神病の鑑別診断をするとき、「防衛」のメカニズムの種類の違いで診断しようとしている。


ここで出てくる「表象」という概念は、

『ドイツ哲学で通常もちいられる「心に思い描かれた対象」という意味での表象ではなく、むしろ「対象の側から{心的装置に}到来し、「記憶系」に記載されるもの」である。この記憶系は到来した表象の単なる集積所ではなく、表象を種々の連想の系列において相互に結びつける場所である』

とある。


素人のブログであるのでフロイトとラカンの用語を混合させて使うが、シニフィアンが外からやってくる。それが記憶系に記載される。記憶系が下の欲望のグラフのどこにあたるかはわからないが、記憶系ではシニフィアンが結びつく(A)。それはs(A)の場で読点が打たれる。


下の欲望のグラフは
http://overkast.jp/2011/07/%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%89%8B%E9%A0%86-3/

のサイトのものである。掲載の許可を得ていないので後に削除することはある。





防衛機制。防衛は抑圧と理解していいだろう。ただWikipediaの「防衛機制」の、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
レベル3に「抑圧」がある。その位置づけには注意する必要があるだろう。


P79
1 防衛の種類による鑑別診断(1894ー1896)


人は表象を受け取り、それを処理している。しかし自分にとって受け入れ難い表象=「自我にとって相容れない表象」が自我に到来するときがある。その相容れない表象は非常に苦しい情動を呼び起こす。それを解決しようとする心の動きが「抑圧」である。


神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症がある。それぞれの防衛が書かれている。ヒステリーでは転換、強迫神経症では配転。精神病では排除。神経症と精神病の鑑別診断には「相容れない表象」をどのように取り扱うかで診断に違いが出る。「相容れない表象」を心的加工することが認められるならば神経症、心的加工を認めないならば精神病と鑑別できる。


表象が非常に重要である。ラカンでは表象は「原初的シニフィアン」とある。表象という概念を曖昧にしたままではラカンを理解することはできない。フロイトに還ることがなによりも重要であろう。


精神病では「相容れない表象」を心的加工をすることはおろか「排除」してなかったことにすることに特徴がある。シニフィアンが結びつき生み出した表象の存在を認めない。抑圧という意味でさえも何も知ろうとしない態度が取られる。


ゆえに神経症は防衛によって身体症状として症状が現れるが、精神病は身体症状としては現れず表象と関連する表象がそのままのかたちで幻覚として姿を現す。

2017年7月19日水曜日

『和解』 志賀直哉

志賀直哉の『和解』について。


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志賀直哉の『和解』について、作者志賀直哉とその作品の主人公順吉について考察する。
始めに志賀についてであるが、志賀は宮城県生まれであるが育ちは東京である。父は経済界で成功した人物である。志賀は生まれてから祖母のもとで育てられる。学習院を経て東大へ進学、白樺派の主流となる。この『和解』という作品を書いていた当時父とは不和であったが、作品を書き上げる途中に「和解」を成し遂げている。
 

『和解』の主人公順吉であるが、その生い立ちについて語られることはほとんどないし不和となった原因について語られるこ
ともない。作品を読んで作者との類似点と見受けられるのは父と不和であることである。作中では妻との結婚に反対されたこと、長女の死のときの父の振る舞い、麻布の父宅に住む祖父母に会いにいく際に父を気にしなくてはならない出来事などが語られるがそれが事実であるかどうかは定かではない。


 ここで私が視点として取り上げたいのは、講義で取り上げられた、志賀の不和の描き方である。講義では不和であった父と子の和解を、その原因を描きそこからの結果としての和解を描く、つまり因果関係を描くのではなく、上記順吉について書いたように感情のもつれの出来事を繰り返し反復することによっていわば習慣的なものとして出来上がった不和というものについて描いている。そこに講義では論理より感情を優先して描く日本文学的志賀直哉像というものを求めていたように思う。それが志賀文学を好むかどうかの分水嶺となるのではないかと話されていた。


 私は上に書いた論理より感情を優先したという『和解』での志賀という作家の語りの独自性からこの作品の主人公順吉の関係性について考察してみたい。『和解』を読んでいて私が思ったのはその感情のもつれの描き方の論理性の高さである。一般に志賀の文章は名文と呼ばれているようだが、私は読んでいてその文章の装飾のなさに違和感を持った。センテンスも短く、その短いセンテンスが連なってできる文章の束が志賀文学の文体の特徴ではないかと思った。志賀のこの文章を名文と呼ぶのならば文章に装飾を凝らすような尾崎紅葉などとは違い、自然主義を徹底したゆえに出来上がった文体が志賀の文体なのではないかと感じた。その文体は私から見るとミニマリズムを徹底した非常に論理的な文章で理知的である。そのような文章が連なることによって『和解』の登場人物の感情の機微が描かれているのではないだろうか。


 『和解』に出てくる人物は非常に理知的である。父は財界で名を上げた人物であり論理展開が理知的で、順吉もその語り口は論理明快である。義母も父と子のあいだを取り持つだけの頭の回転の良さを持っている。祖母も感情を表に出すような人間としては描かれていない。皆が論理的である。つまり彼らは高等な明治のエリートなのであると私は思う。そのような人物たちについてエピソードを通して不和が語られる。父との和解に至ってはそれが顕著に現れている。引用すると父の語りはこうである。「よろしい。それで?お前の云う意味はお祖母さんが御丈夫な内だけの話か、それとも永久にの心算で云っているのか」。このような言い方は感情を重視したものの言い方ではない。その後に続く順吉の科白もそうである。


 結論を言うと、彼らは明治という時代のエリートなのである。教育をしっかりと受けた人物であるからその家族の会話も論理的で理知的になる。エリートの家族の感情のもつれにほかならない。そのようなエリートが織り成す人情劇が当時の人々に受け入れられ志賀が大人気作家となったのだということに私は奇妙を感じる。だが、それは明らかに志賀直哉という作家が『和解』の順吉を含めその家族のような環境で育ったということを語っているのに等しいことが裏付けられると思う。なぜなら『和解』のような家族を書いている志賀自身も作中人物のような論理的、理知的な文体で作品を書いているからである。



 ゆえに登場人物である順吉の語りから順吉には志賀の人間性が投影されているということは十分言うことができるのではないかと思う。以上のことは私小説ではなく本格小説にも当てはまることではあるかもしれないが、私は『和解』を読んでいて、その影に志賀直哉という人物を強く感じた。それは本格小説では可能とされるだろうロラン・バルトのテクスト論のような「作者の死」を拒否する作品の「私小説性」というものが現れているのだと考えたいと思った。

2017年6月7日水曜日

ポストモダン

ポストモダンとはなんのことなのかもうわからない世代がいるという。


僕個人の解釈としては、モダン(近代)の次の価値観を探し求めた時代がポストモダンの時代だった。それは日本にとってニューアカの時代だったろうが、僕にとっては1990年代に触れたドゥルーズ、フーコーの思想だった。


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僕が高校生当時、紀伊國屋書店でたまたま見かけたのが中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ』シリーズ。中学生のときに吉本隆明を読んでいたがまったくわけがわからない馬鹿な学生だった僕にも中沢氏の本は読みやすく中身も目から鱗だった。


まあそれはいいとして、ニューアカの名残と大学時代に触れたドゥルーズとフーコー。これが決定的に僕の思想傾向を決めたといっていい。ポストモダンに触れる前に戦後の文学状況について少し触れたい。


戦後日本の文学は大江健三郎や石原慎太郎、三島由紀夫などがセンセーショナルな作品を発表した。内向の世代と言われる人たちも批判にさらされながらも独自の視線で作品を発表した。安部公房の『箱男』は思想的に読んでも面白い。その後時代は進んで1970年代を迎える。そこに断絶がある。1970年代のある時期から日本の文学には決して無視できない断絶がある。1980年代になるとそれはもう揺り戻しが効かない事態になっていたと僕は思っている。1970年代以降の文化しか知らない日本人が現れたことにより日本はある意味変わった=終わったと言っても良いだろう。


僕はそのことに直感でなんとなく気づいていたのだが、日本文学の歴史を勉強することでそれが間違いでないことに気づいた。本物の作品が消えた。文学だけでなく、映画、絵画、彫刻、建築、あらゆるものから消えた。日本は1970年代から新しい国として生まれ変わったかのように自分たちの歴史を忘れた。それは日本人の習性が消えたわけではない。歴史が消えたのだ。


ドゥルーズが『アンチ・オイディプス』で目指したものは既存の哲学体系、ヘーゲル的哲学体系へのアンチであった、それはもちろんフロイトのエディプスの三角形へのアンチでもある、がそれが日本人にとってはもはや跡形も残らず10年代を迎えている。千葉雅也氏や國分功一郎氏、東浩紀氏などポストモダン思想の後継者的な方々の本が売れていることに光を見たいが実際自分が生活していてポストモダンを感じることなどもはや皆無だ。


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ドゥルーズが描いたもののひとつにエディプスの三角形の批判、スキゾへの逃走がある。今の若い人たち、それに限らず馬鹿な政治家も平気で発言するが、でさえも自分たちの既存の社会的役割を演じることに違和感を感じていない、いやむしろ進んで演じようとしているようにさえ見える。父であること、母であること、子であることに満足しようとしている。学校で良い成績を取ること、いい大学に入ること、いい会社に入ること、いい社員であること。男らしくあること、女らしくあること、先生であること、生徒であること。


ドゥルーズはこのような傾向を神経症的と言ったが、まさに神経症に進んでなろうとしている。人びとが感じる不安をその社会的役割を演じる=権威と同化することにより安心を与えてくれるのだ。そこにポストモダンが目指した現状を改革しようという意志はもはやない。みなが○○らしさを求め、他者に○○らしくあれ、と強制する。まさにモダンへと還っていく退行現象が起きていると僕には見える。


ゆとり世代に対する批判もあったが僕はゆとり世代を否定的には見ていない。彼らは確かに僕の世代より学習にかける時間は少なく知識量も少ないだろう。しかし、ゆとり世代はオルタナティブとして手にいれたものがあるはずなのだ。それを有効に使う、彼らの能力を引き出すことができない上の世代に問題があるのだ。そして一度舵を切ったものをまた戻そうとする。今の学生はまた詰め込みに戻る傾向があるようだが彼らに少なくとも僕の世代と同じだけの知識を吸収する力はない。戻るにはおそらく20年ほどはかかるだろう。


勘違いしないでほしいのは詰め込み教育がよいと言っているのではないということだ。別に勉強などする人はするししない人はしないのだ。むしろ一方的に上から過度に詰め込まれた人間はその後まったく伸びない。それゆえにゆとり教育という発想があったと僕は思っている。僕はポリシーとして自分をその社会的に求められた役割とは別のイメージを与えようとしている。それが奇異に映っているかもしれないが、それが社会の硬直性を打破する、改革することにつながるのだと思っている。


2017年現在、ポストモダンは消えた。あの時代の思想が一過性のものだったのかと考える向きもあるだろうが、僕はそう思わない。あの時代、僕が影響を受けたドゥルーズやフーコーは確かに真実を語っていた。暗黒の中世の時代からルネッサンスの時代を迎えたとき、例えばマキアベリの政治哲学は受け入れがたいものに映っただろう。しかしそれが人間性の政治哲学であったことは間違いない。その人間の時代がドゥルーズのスキゾ概念によって終りを迎えようとしていた。フーコーのいう人間の終焉。


あのときの熱狂。少なくとも知を大衆が手に入れたというあの感覚は偽物ではあるまい。あの時代を生きたものとしてポストモダンが空白の時代だったと言われるわけにはいかない、強くそう思うのだ。

2017年6月3日土曜日

症候と読むことの差

『現代思想』に掲載された、樫村さんの論文「ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読むとドゥルーズの問題点がクリアに示されていて自分のドゥルーズ理解の視野を広めてくれる。96年に発表されたもののようだが、東浩紀さんの『存在論的、郵便的』、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』でも扱われている。


しかし、僕はこの論文を読んでドゥルーズが間違っているとは思わないのである。ニーチェの永遠回帰を病的症候として読むか、それとも隠喩として読むかということは重要であるとは感じない。ラカンの『盗まれた手紙』からドゥルーズとラカンに共通する詐術を見出す点もなるほどと思うのだが、それにより僕のなかでドゥルーズの評価が変わることはない。ただ、本当にこの樫村さんの論文は読んでいて刺激されるし、96年当時を考えるとあの状況でここまで批判的に書けているというのは驚異的だと思う。このあと宇野邦一さんの本が出たりするわけだけど宇野さんの本は読んでいてそれほど論理的に詰められたものとは感じなかった。哲学的というよりむしろ文学的といったほうがいいように思う。ただ、宇野さんの本には文学的アプローチでなければ捉えられないドゥルーズの核心に触れていたように思う。習慣、記憶、そしておそらく言葉の問題。この点を深化させていくと樫村さんの論文とは違う地平が現れてくるように思う。


で、この「ドゥルーズのどこが間違っているのか?」のなかで僕がちょっとブログ記事として取り上げてみたいのは、この論文の是非ではなく、ニーチェの永遠回帰の解釈部分だ。ニーチェについて書かれているものを読むとまずそもそもニーチェはいったいどこまで病んでいたのかということで評価がわかれるように思う。この樫村さんの論文もニーチェの症状は実体的なものであって決して隠喩ではない(それゆえドゥルーズがハイデガーと結合させたのは間違っている)と書いていると思う。他にルー・ザロメとの恋愛により精神を病んだということに重点を置いているものや母と妹のヒステリーの影響をあげている人もいる。そして梅毒の影響の問題などもある。しかしどうだろう。僕はニーチェにそのような身体性を感じていないのだ。直感でしかないのだがニーチェの著作を読んでいて僕はそれを感じない。僕自身が重度の精神的危機に陥った経験があるからなのだが、それゆえ僕の身体性に関わることなので猶の事説得力はないだろうが、どう考えても精神に異常をきたした状態であの文章を書くことは不可能ではないだろうかという疑問を感じざるを得ない。ニーチェの文章の特異さについて書いておられる方もいるが、精神の異常をきたしているのならあの程度の文体で終わるものではない。言いすぎかもしれないが精神に異常をきたしてあの程度の文体でしか書けなかったのならばニーチェという人間の知性と感性は所詮その程度のものだったのだと切り捨ててもいいのではないだろうか(もちろん僕はそう思わないのでニーチェを読んでいるわけだが)。


樫村さんの論文のセクション1で取り上げられているニーチェの永遠回帰(論文では「永劫回帰」である。)について少し考えてみたいと思う。樫村さんはニーチェの現場とドゥルーズの理論について以下のように書いている。

「ニーチェの偽装する力、差異と強度の現場には、あらゆる不幸と興奮が渦巻いているのに、ドゥルーズ(Dz)の即時的差異には、抽象化された整合的理論にふさわしい、穏便な幸福の気配こそが支配的だからである。」

ニーチェの現場とドゥルーズの思想は場が違う。ニーチェのそれは真理=譫妄=病の発生現場である。つまりそこには病の人としたのニーチェがあり、彼が病んでいたからこそ永遠回帰を始めた思想が形成されたと考えているのだろう。もちろんそこには「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての思想であると明記しているわけではあるが。対してドゥルーズは読む人であると言っている。彼は穏健である。ニーチェが実体として感じていたものを彼は読むことで思想としている。彼の病の収集癖がそうさせているのだとも言う。果たしてカフカにおいて『変身』のザムザは症候であるのだが、ドゥルーズにとっては隠喩であるのだろうか。ここに樫村さんはニーチェとドゥルーズに決定的な差があると主張しているのだろう。


僕はこの樫村さんの主張に異論があるわけではない。ニーチェが、

「これは一般に分裂病者が、(本質的に想像的なものー幻想の欠損に由来する)認識ー行動上の困難を、「理性的」推論で補おうとして、ますます混乱に陥る(世界と身体の自明性が崩れる)ことに対応するが・・・」

とあるように分裂病者の症候を表していることはありうるのかもしれない。それにより現実=実体に触れ、混乱をきたし同一律が解体し破壊的支持関係が発動したというのも言い過ぎではないだろう。むしろここに樫村さんの言うような永遠回帰の現れを見ることができるとも思う。


だが、ドゥルーズの考える永遠回帰はまったく別の平面を描いていると言えないだろうか。彼の哲学はニーチェの影響を強く受けているがむろんそれだけではないのは明らかであろう。スピノザの一元論、プルーストの習慣、記憶、そして言葉の問題を考慮に入れただけでもニーチェの哲学とは違う平面で考えなければならないことは自明であろう。確かに隠喩、病の収集癖と言われるものはあるとしてもそれはニーチェの強度とハイデガーの差異を連結するときに不都合が生じているだけで、ドゥルーズの哲学体系、樫村さんが言うようにヘーゲルの『精神現象学』に匹敵する哲学体系の構築に齟齬をきたすような問題であっただろうか。


ニーチェの存在論は精神病特有のものであるかもしれないが、ドゥルーズの存在論は存在そのものを問うている限りそこに問題は生じないのではないだろうか。主体/非主体(存在)の問題はあるだろうが、ニーチェが病にせよなんにせよ同一律から差異に存在論的に迫ったのに対し、ドゥルーズは哲学体系から存在論に迫った。そこには方法論の違いはあるかもしれないがドゥルーズはニーチェを継承して存在論に迫ったということができるように思われる。


余談だが、この樫村さんの論文にはおそらくクロソフスキーの影響があるように思われる記述がある。僕はクロソフスキーについては不勉強で、なおかつ精神分析、倒錯についても書かれているため理解不足でここでなにか意見を述べることはできない、そして記述が長いので引用することもできないのだが、敢えて書かせてもらうと、それは象徴の世界で起こるものであり反復脅迫を悪の要素とし、それにより主体は切り刻まれるという。その至高の真理を永遠回帰としている、というように読める。しかしここでさらに、快感原則に反するものである死への意志を悪とするのでは留まらず、そこに倒錯を持ち込むことにより悪(悪魔)の書き換えをおこない、主体の外在化が起きるとされている。果たして永遠回帰は無害化され、善悪の彼岸が訪れる、とある。事態はそれほど単純ではないようで樫村さんも「実際は遥かに複雑なもの」と書かれている。


精神分析の視点からもう少し詳細な記述があってもよかった気はするし、さらに言えばニーチェの症状をもっと明確に示すことはできるように思うのだが、僕としてはニーチェはパラノとスキゾを行ったり来たりしていたように思う、ここでは立ち入らないでおく。

2017年1月18日水曜日

『こころ』 夏目漱石

二つの孤峰ーー近代的自我・他者・金銭ーー
夏目漱石『こころ』


1二つの孤峰
  ・漱石と鴎外 明治文学のなかで高い峰が二つそびえ立っている。
   いずれの流派、主義に属することがない。「自然主義の藤村、花袋」などと呼ぶことはできない。
  
  ・しかしながらその時々に隆盛を誇っていた文芸思潮の影響は受けている。二人は群れることなく独自の文学を作り上げていった。
  
  ・今まではほぼ時代順に見てきたが、漱石と鴎外は文学史にくくれないため、この二人だけは時代の流れから離れ個人について書いていく。

2夏目漱石の生涯
  ①生没年 慶応3(1867)~大正5(1916)
   ・紅露逍鴎 明治をほぼ全部生き切った明治文学の巨匠。
    彼らと漱石は同時代だが名前は入っていない。
   
   ・漱石の作品史 『猫』明治38~『明暗』大正5
    長い期間活動していたわけではない。そのため紅露逍鴎には入っていない。しかし今我々が読むと紅葉などよりずっと文学的貢献をしてきたと評価できる。
 
   ・鴎外は5年早く生まれ7年遅く死んだ。
    芥川は明治25~昭和2年。
  
  ②複雑な家庭環境
   ・江戸生まれ。夏目金之助が本名。
    夏目家に生まれ里子に出される。また実家に戻る。(塩原姓のまま実家に戻る。落ち着かない生活を送った。
   
   ・幼少期の影響かものごとを考え込んでしまうタイプで一種沈鬱なところがあった。それが作品にも影響しものごとの根底を問う文学になった。
  
  ③英国留学
   ・二松学舎で漢学を勉強。その後に英文学を学ぶ。
    明治33~36にイギリス留学。正岡子規が亡くなったという報を受けて帰国。
   
   ・漱石にとって英国留学は苦しいものだったが、鴎外にとってドイツ留学は楽しいものだった。この点は対比される。
  
   ・英国で漱石が頭がおかしくなったのではないかという噂が流れる。それだけ緊張しながら考えていたということ。英国では日本のやり方となにもかも違う。異国の状況に大変なショックを受ける。
  
   ・日本とは何か。ヨーロッパとは何か。個人主義とは何か。近代とはどういうものなのか。
  
   ・自分とは何かは自分以外のものに触れてみないとわからない。日本人は自分たちが背が低いと知らなかった。他者と比べて初めて自分がわかる。違うものに触れながら、我々とはいったい何なのかと問い始めていった。
  
  ④すぐれた先生
   ・漱石の周りには若い人が集まった。漱石は話し好き。父親としては癇癪持ちだったが青年にはいい先生だった。
  
   ・門弟 寺田寅彦、鈴木美重吉、小宮豊隆、森田草平、野上豊一郎、安部能成、芥川龍之介
  
  ⑤『こころ』の問うもの
   ・人間と人間というのは必ず衝突するものである。人間には他者が理解できない。お金は人間の悪を引き出すものである。近代に生きる我々は新しい時代の我々自身の生き方をまだ見つけ出せていないのではないか。漱石の作品には必ず深刻な問題が現れている。

 
 3時代背景
  ①大正3年
   ・『こころ』の発表された年。晩年の作といえる。明治39年の花袋の『蒲団』以降私小説が主流となっていた。白樺派も含め私小説が権威をふるっていた時代に漱石は『こころ』を書いた。
 
   ・『こころ』は私小説とは呼びがたい。漱石は私小説とはなれ合わなかった。それゆえの孤峰。
 
  ②自然主義との違い
   Ⅰ表現上の問題
   ・違いはいくらでもある。自然主義の作家は自分たちの表現の仕方を平面描写と自称した。あるがままを淡々と描いていくということである。
   
   ・花袋の『一兵卒』は平面描写。主人公は脚気で死ぬ。その死んでいく様子を淡々と描き出した。観察して描き出す自然主義の手法。
 
   ・藤村の『破戒』『新生』もあるがままを淡々と描く平面描写。
 
   ・漱石は平面描写とは少し違う。『こころ』は読んでみると探偵小説っぽい。先生の謎。死をほのめかす。読者は興味を持つ。これは新聞小説だったからということもある。表現上の様々な工夫を自然主義とは別の仕方でしている。
 
   Ⅱ内面の重視・理想という反省
   ・自然主義は「無理想・無解決」。生き方としての理想、人間はどのように生きていくべきかという問いかけはない。『一兵卒』も無解決。問いかけは出てこない。『新生』も姪が妊娠するがただ書いているだけ。反省はない。志賀直哉も生き方への反省はない。
 
   ・漱石の作品には問いかけがあった。理想がある。人間はどのように生きていくことが本当なのか。人間にとって自我はどういうものなのか。
  
   ・中の1 大学を卒業した(今の博士号を取るより偉い)私が田舎に帰る。喜んでいる父が私には馬鹿に見える。卒業証書をうまく飾ることができずコロンとひっくり返る。知識をありがたがることを少し見下す視線の描写。父の心を馬鹿にしたことを反省する気持ち。根本的に考えていこうとする鋭い批判性がある。
 
   Ⅲ社会・国家・時代という視点
   ・自然主義は個人の悲惨を描くことはできる。
    『一兵卒』 個人を描いているが戦争の是非の意識はない。
    『破戒』 苦しんでいく様。差別、社会構造の問題意識がない。天皇誕生日の日にも楽しむことができなかったという描写があるが、ヒエラルキーの頂点(天皇)に対する批判はない。
    社会性を欠いているのが日本的自然主義。
 
   ・漱石 近代とは何か。自分の生きている時代は前の時代とどう違うのか。
 
   ・上の14 明治は自由・独立・己とに満ちた時代である。
    封建時代とは明らかに違うという意識がある。
 
   ・大正3年 『私の個人主義』
    今の時代にも通用する問題意識を持っていた。恐ろしい驚くべき洞察。今の時代も解決しない問題意識を見抜いていた。

 
  4『こころ』論
   非常に面白い小説。細かく読んでいくとものすごく追究すべき問題が出てくる。またおかしなところも出てくる。
 
   ①構成について
   ・成立したときの事情。
    朝日新聞連載 1914(大正3) 4・20~8・11
    重要。構成上の工夫。表現上の工夫。
 
   ・当初の『こころ』は短編集『心』をつくろうと試みていた。しかし、第一編「先生の遺書」が長すぎて断念する。岩波で出版する際に、上・中・下にして出版された。
 
   ②構成上の破綻
   Ⅰ中途半端
    おかしいところ。私の父はどうなったか。中の最後で危篤。私は先生のところに戻る。親父がどうなったかわからない。また先生の遺書を読みながら私がどうなったかもわからない。空白。
 
   Ⅱ作中の矛盾
   ・先生から私、遺書を受け取る。
   「下」と同じ長さ。400字詰め原稿用紙200枚。「中」の16で懐に差し込んだとある。厚くて差し込めない。漱石には書を書くと長くなる癖があった。
 
   ・手紙の数 「上」の9 箱根からの絵葉書。日光から紅葉を封じ込めた封書。「上」の22 帰省中もらった手紙は2通。
   遺書を含めて3通のはず。矛盾がある。
 
   ・手紙の矛盾についてある研究者。帰省中にもらった手紙と遺書は先生から。紅葉の封書は先生の奥さんから。
 
   ・死にそうな父を置いて東京へ向かった。奥さんのところへ向かったのではないか。
 
   ・先生が奥さんを墓参りに連れて行ったか。
   「上」の6 連れて行ったことはない。
   「下」の51 連れて行った。
   長く書いているうちに漱石が忘れたという解釈。1回目は連れて行かれたという解釈も。
 
   ③先生はなぜ自裁したのか
   ・乃木の殉死。我々が生きているのはおかしいのではないかと考えた。←おかしい。先生は世捨て人。引っかかる。
 
   ・プリント1P 丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」
    
   ・松本寛「『こころ論』ーー<自分の世界>と<他人の世界>のはざまでーー」非常にいい文章。ひとつひとつ丹念に書かれている。
   
   ・この講義ではなぜ自裁したのかは話さない。自分で考える。
   
   ④『浮雲』と
   プリント9P
   ・『こころ』と『浮雲』は非常に似た作品。
    『浮雲』は失敗作。善玉悪玉がはっきりしていて相対化されていない。『こころ』とは違う。先生は善悪の矛盾を抱えている。
     
   ・2作とも母子家庭のうちの娘。主人公が入り込んでくる。関係ができそうなところで闖入者が出てくる。本田昇とK。
   
   ・図から言えることは、父がいなくなっているのが近代の社会の問題だということ。近代以降、強い力を持つ中心がなくなった。それは若い人たち、女性たちにとって悪いことばかりではないが、そこに近代の苦しみ(父の不在)を見ることができる。
   
   ⑤深淵としての他者
   ・図2 『こころ』の仕組み。
    読み手
     先生、先生の奥さん、奥さんの若い頃、K、叔父さん、義母はすべて私という語り手を通じて見ることができるもの。私というフィルターを通さなくては見ることができない。
   
   ・先生はKのことを理解していないんじゃないか。私が語った範囲でだけ読者は理解する。私を通してしかアクセスできない。先生の証言を通じてしかKを理解できない。
   
   ・叔父さんは本当に悪人なのか。先生は許していない。果たしてどうなのか。実際はそんな人じゃなかったかもしれない。先生のフィルターを通した叔父さん像。
   
   ・奥さんは先生とKの関係を知らなかったのだろうか。奥さんは知っていた可能性がある。先生と奥さんのあいだにも深淵がある。
   
   ・先生の遺書 事実をそのまま語っているのか。先生の側から見たものが書かれている可能性。嘘が書いてある可能性もある。
   
   ・お互いに理解することができない。他者と他者の物語。理解することのできない他者同士の物語。
   
   ・理解しがたい他者同士の物語。近代を生きる我々の問題。理解も共感もできない他者と他者がつながっていかなくてはならないという現代的課題。テロの恐怖=他者と他者との関係。漱石は非常に優れた文学者であった。

2017年1月9日月曜日

『蒲団』 田山花袋

*ポメラで書いています。

『蒲団』 田山花袋

もう一方の自然主義。私小説。

島崎藤村と並ぶもう一方の牽引役として名前があがる田山花袋。
彼は私小説をどのように展開していったのか。

1.田山花袋について
 ①生涯と作品
  ・館林に生まれる。明治4~昭和5年(1871~1930)。
   一葉、藤村と同じ頃に生まれ、藤村より前に没した。
   外国文学をよく吸収している。この時代は文学、思想をそれなりに吸収できる時代だった。
  
  ・館林藩の侍の子として生まれた。当時の侍は警察官や軍人になるものが多かった。花袋の父は警視庁に勤め西南戦争で死んでいる。

  ・足利、東京で奉公。英語、ヨーロッパ文学を勉強する。将来は軍人か政治家になろうと思っていた。しかし段々文学に興味を持つようになり東京に出てくる。文学に生きていこうと決意。柳田国男と知り合う。

  ・明治22年に尾崎紅葉を訪ねる。直接の指導は受けなかったが作家としてデビューする。硯友会のメンバーに。文学界ともつながりを持つ。

  ・明治30年。国木田独歩、柳田国男(松岡国男)、宮崎湖処子と「抒情詩」作品集(詩集)を出版。このころ花袋は硯友社と関わりを持ちながらもロマン主義的傾向を持っていた。

  ・博文館に就職。雑誌の編集をしながらゾラ、フローベールら自然主義文学を紹介。これは花袋の功績である。

  ・明治35年『重右衛門の最後』
   明治37年『露骨なる描写』←日本の自然主義の始まりの表現。
         日露戦争に従軍。
   明治40年『蒲団』
   明治41年『一兵卒』
         他、『生』『妻』『線』3部作。
    *明治37~40年のあいだに挟まるのが藤村の『破戒』。

  ②花袋と藤村
  ・日本の文学史 ロマン主義 → 自然主義
               詩   →  小説
    花袋は自らの身をもって体現した。他に国木田、藤村。
    花袋は当時重要な位置を占めていた硯友社と文学界とつきあいがあった。重要な人物たちとつきあいを持っていた。

  ・明治37『露骨なる描写』→39『破戒』→40『蒲団』→41『春』

  ・二人の関係 先行する花袋、それを追いかける藤村。花袋が先行していたのは外国文学を知っていたから。

  ・尾崎紅葉が亡くなると、花袋はキラキラした(内容のない)文体ではなく露骨なる描写をしなくてはならないと主張する。自然主義をリードする。しかし自然主義の一番始めの作品は藤村の『破戒』。

  ・花袋は器用ではない。藤村は器用。花袋が自然主義の傾向を示すとそれをうまいことやるのが藤村。

  ・花袋、『破戒』が出て先を越されたという焦り。花袋、『蒲団』を出す。新しい自然主義の傾向を示す。大変な衝撃をもって迎えられた。藤村は『春』を出す。社会性は希薄+フィクション=私小説の時代へ。

  ・花袋のほうが文章が下手。スケール小さいが果たした役割は大きい。吉田精一からの評価が高い。



 2自然主義とは
  
 ①二つの自然主義
  
  Ⅰ『重右衛門の最後』『破戒』『一兵卒』『田舎教師』
  ・これらの作品は社会的問題を織り込んであるフィクション。ある環境のなかに置かれたときに人間と社会はどのような化学反応を示すのか。ヨーロッパの自然主義に近い。
 
  ・『一兵卒』花袋の従軍記者のときの体験が生きている。だが体験がそのまま書かれているわけではない。¬=私小説。私小説ではとどまらないもの。正統的な自然主義の形。

  Ⅱ『蒲団』『春』ほか
  ・たくさんある。大正時代ずっと続いていく。どのようにして生まれたのか。藤村が大きくリードした。花袋、友だちに負けた焦り、いらだち。

  ・藤村は文壇のスターに。そこで乾坤一擲『蒲団』を出す。
   主人公のところに女子大生くらいの女性。主人公横恋慕。女弟子を帰す。蒲団をかぶって泣く。今も気持ち悪いが明治の当時はもっと気持ち悪かった。大変な衝撃を与えた。

  ・『蒲団』の成功で花袋は勝ち。大正文学の主流に。ヨーロッパの自然主義とは違う。正統的ではない。

  ・あんパン、カレーパンは日本的なもの。私小説も日本的なものをつくりあげた。これがダメだということはない。

  ・そもそも自然主義が持っていた問題点が誤解されて輸入された。

  ・科学
   =本質の追求
   =客観的観察
   という2つの本質。
   日本のなかに広く昔からとらえられていたものではない。ヨーロッパから入ってきた。自然科学としてきちんと入ってきたのはこの時代から。

  ・『破戒』『一兵卒』はヨーロッパの自然主義に近い。『蒲団』『春』は客観的観察に偏る。本質の追求が弱くなっている。自分を中心にして半径10メートル以内のことしか書かない。自分の貧困がどんな社会的背景を持っているかには頭がいかない。

  ・『蒲団』芳子をどう思っていたかーー書いている。
       人間にとって性欲はどういうものかーー書かれていない。

  ・私小説が日本文学の主流に。

  ②日本的自然主義の問題ーー『露骨なる描写』

  Ⅰ私小説への偏り
  ・日本的な自然主義へ=私小説へ。
   この自然主義はロマン主義との関係でとらえられていない。前回の川副先生の文章を読む。ヨーロッパはロマン主義に対する反発から生まれた。しかし『露骨なる描写』を読むとロマン主義との対立でとらえられていない。硯友社の美文との関係でとらえられているという極めて日本的な事情がある。

  ・花袋、美文を書くのが上手くない。劣等感を持っている。自然主義を書くなら美文じゃないんだ。日本的事情見いだせる。

  ・「見たまま 聞いたまま 考えたまま」を書いてみたにすぎない。

  ・本質の追究より客観的観察に重点を置く。ずれちゃっている。

  ・硯友社の文章は「見たまま 聞いたまま 考えたまま」を美しい文章に構成しなくてはならなかった。

  ・『露骨なる描写』をもとに日本の自然主義全体が進んでいく。客観的観察へ進んでいく=私小説。そのまま書いちゃう。

  Ⅱ文体の問題
  ・この時代にわれわれの書き言葉が完成した。
   美文は否定。その後の日本語は知らなくても読めるようになる。日本文学の伝統であった様々な修辞法なくなった。見立て、本歌取りなど教養を必要とするものを振り捨てる。伝統と切れてしまった。

 ③その後の私小説
  ・藤村、花袋
   徳田秋声 ←硯友社の流れから
   岩野泡鳴

  ・1葛西善蔵 ←早稲田系貧乏くさい。私小説、大正時代の主流に

  ・それ以外の私小説の流れ
    白樺派 志賀直哉 ←貧乏くさくない。心境小説。

  ・2プロレタリア文学

  ・3モダニズム文学

  三派鼎立ーー三竦み 大正末~昭和始め

 ④なぜ私小説に偏るのか
  ・花袋、なるべくスキャンダラスな素材。乾坤一擲。
   なぜそうなってしまう?
    個々の作家の特性
     藤村、ロマン主義より自然主義。
     日本文学は伝統的に壮大な想像力を作り出すことが得意ではない。日本の美術は些細なものから美を取り出すことは得意。五七五七七という定型に些細な日常を芸術として作り上げていく。『指輪物語』のようなスケールの大きな作品は苦手。
     
     ストイックなものが好き。私小説はまじめに不健康な生活をする。一生懸命破滅する。自分を追いつめていく。この点も私小説と合致するのでは。

 ⑤主題の価値について
  ・私小説みたいなことばかり書いている。酒に溺れ妻に逃げられる。社会的問題を書いていない。それに対してプロレタリア文学がけちをつける。
  
  ・その小説がある主題を持っている。社会的主題が含まれているかどうかは作品の価値とは別。主題については等価である。日本の自然主義より西洋の自然主義が価値が上というわけではない(川鍋)。


 3『蒲団』論ーー事実か否か
  ・私小説の始まり。
  
  ①「女教師」
  ・橋本佳の非常に重要な指摘。『蒲団』に類似した事件がある。「見たまま 聞いたまま 考えたまま」ではないでしょう。

  ②芳子のモデルの証言
  ・美知代の手紙がある。恨みつらみが書かれている。花袋の反応は『蒲団』に出ていない。事実そのままを書いたとは言い難い。

  ③情景描写
  ・9月は10月になった。(プリントの傍線部分)ラストシーン。情景描写がそのまま主人公の心理描写になっている。←花袋は文章下手だったから。見たまま、聞いたままとは言い難い。

  ・傍線 言葉の選び方が新聞の記事のような文章とは違う。
   ラスト 薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた。←本当に風が吹暴れていたか?晴れていたかもしれない。このような場面がラストにふさわしいから花袋は書いたのでは。その通りの情景があったとは考えにくい。
 
  ・『蒲団』は私小説であるが事実をそのまま写したとは考えにくい。文章表現である以上、事実をそのまま書くことはできないのではないか。書き写して文章にすることはできないのではないか。事実そのままを書くことの不可能性。