りんかい線天王洲アイル駅下車。徒歩10分くらい。銀河劇場はこの画像の右手にある。
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫) | |
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原作は『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』などで有名なイギリスの作家カズオ・イシグロ。『夜想曲集』は短篇が5作まとめられているもので、この舞台ではそのうちの「老歌手」「夜想曲」「チェリスト」の3作がアレンジされて1つの作品として上演された。
原作の『夜想曲集』について少し述べると、「老歌手」「降っても晴れても」「モールバンヒルズ」「夜想曲」「チェリスト」の5つの短篇で構成されていて、どれも読者に満足のいく作品に出来上がっていると個人的には思う。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあり、音楽と夕暮れがひとつのテーマとなっているように思われるのだが、読む側にとってはそう一筋縄ではいかない。音楽に対する理解が必ずしも必要というわけではないが存分に味わうためにはイシグロほどの音楽に対する造詣が必要であるだろうし、夕暮れに対する解釈はなおのこと読者は慎重に行うべきであるだろう。夕暮れが時間的問題を扱っていると仮に仮定してみても、それが自然現象として現れる時間なのか、人間に訪れる主観的時間なのか、それとも人類総体の営みにおける歴史的時間なのか。このことに関してもちろんイシグロは問いを立てただけである。解釈はこちらに任されているだろう。このような作品の描き方がチェーホフ的であると言えるかもしれない、それゆえ読み手は戸惑いを禁じ得ないだろうし、同時にその物語世界を彷徨い歩く楽しみをことさらに引き延ばすことができる。僕も何度も読み返してみたが、この作品に対するひとつの解釈は出ない。一生出ない。それゆえこの作品は読者にとって一生の友となりうるだろう。
舞台は13時開演だった。開場は12時30分。今まで舞台を見てきたが30分前の開場というのは短すぎるなという印象を受けた。銀河劇場自体のキャパシティはそれほど大きくはないと思うのだがいちおう書いておくと、座席数は746席とあり、帝国劇場や赤坂ACTシアターより小さい印象はある。その代わり座席が比較的ゆったりと座れるようにできていると感じた。あと、違いとしては座面にクッション性がないので長時間の観賞には少し不向きかもしれない。客層は9割5分以上が女性。それもかなり若い年代。土曜日の午後であるのでそれほど客層が偏ったというのは主演の東出昌大さん(以下敬称略)の効果なのだろうかと思ったりした。舞台終了後からTwitterでチェックしていたが東出昌大関連のつぶやきが多かった、と言ってもつぶやきの数自体が多くなかったというのもある。
グッズ売り場があって、Tシャツやクリアファイル、カズオ・イシグロ関連の書籍などが売っていたが僕はとりあえずプログラムとブックカバーを買って席についた。舞台はだいたい下の画像のような感じでできていて、セットチェンジはない。
上下に分かれ、右上、左上、左下、真ん中に椅子が置かれ、右下の階段も含めてそこで演技が主に行われる。会場は13時になってもざわついていて、始まる気配というのがあまり感じられていなかったのだが、そこに突然東出昌大がチェロを持って中央右の椅子に座りチェロを演奏し始める。一瞬の嬌声に続き会場のライトが暗くなり舞台の始まりとなった。
東出が中央右の椅子に座ると徐々に照明が暗くなっていきチェロの弦に弓を当てる。東出がヤネクであろう。慎重に弾き始める。ギターとコントラバスも下手から現れて椅子に座り弾き始める。それと同じくして上手から女性が現れ舞台上を横切るのだが、小説を知っているものならエロイーズだとすぐにわかる。舞台を右から左へ横切っただけなのにその存在感は半端ではない。演者は渚あきである。左上にサックス。ここで東出たちがなにを弾いているのかがわからないというのがこの作品を楽しむことに致命的であるということに気づくが時は遅し。DVD化されるのを期待しようと思っていると中央から中嶋しゅう演じる老歌手トニー・ガードナーが現れ中央の椅子に座る。そして煙草を吸い始める。音楽の夕べが始まる。
トニーはウェイターを呼んでコーヒーを頼む。言い忘れたが舞台はベネチアである。ヤネクはトニーの大ファンであるのでトニーを見つけて声をかける。二人の会話はかなり気さくだった。全体的に会話が現代的で重さというものを感じない。小説と比べても少し違和感を感じるほど会話がアレンジされている。だからと言って悪い印象があるわけではない。舞台独自の世界観をつくりだすのに一役買ったであろう。ヤネクは母と二人でトニーのレコードを集めていたなどの話をする。ヤネクは共産圏の出身であるのだが故郷は今は民主主義の国になったと話す。ネクタイを緩めるなど徐々に打ち解けてきて母は死んでいることなどを話し、彼らにとってトニーは、「比類なきガードナー」なのだと話し、笑い合う。
すると中央からリンディが現れる。安田成美が演じているのだが出てきた瞬間に僕の小説でのリンディ像が覆る。とんでもなく光り輝いている。小説での設定ではセレブリティなのだがまさにそのとおりの派手な赤い服に赤い鞄。スタイルも抜群でレッドカーペットを歩いていてもまったく不思議ではない。それでいてかつキュートでもある。リンディはトニーとヤネクに話しかけるが演奏はろくに聴いていない。ここのところは小説のリンディそのままである。
リンディが去るとトニーがヤネクに「どう思う?」と聞く。そして頼みがあると言う。リンディにゴンドラからセレナーデを聴かせてやりたいという。ギターを弾ける人間を探していると聞いてヤネクは引き受ける。8時30分にアーチ橋でと約束する。舞台は暗転する。ちなみにここまでで東出のつけている腕時計に照明の光が反射して少々気になるということが起きている。
下手からエロイーズが現れる。小説での「チェリスト」に出てくるチェリストの青年ティボールが舞台ではヤネクになっている。詳しく知りたい方は小説に当たっていただきたい。エロイーズはヤネクにチェロを教えている。「私たち」の一流の世界というものをことさらに強調する。
ここでスティーブン(近藤芳正)とリリー(入来茉里)も舞台上に登場する。この二人は「夜想曲」で出てくるのだが、リリーは小説ではブラッドリーというスティーブンの長年の友人の男なのだが舞台では若い女性となっている。スティーブンはサックスを弾く。リリーの言うにはスティーブンが売れないのは顔が悪いからで才能はあると言う。それもその顔の悪さは愛嬌のある顔の悪さではなく退屈な醜さであるということだそうだ。そのために妻のヘレンもほかの男に取られてしまうわけだがそこのところが小説では解釈の余地があるように書かれているのだが舞台ではしっかりと演出されている。リリーが口からでまかせを言っていることが明確でかちっと固まる。
アーチ橋でのトニーとヤネク。ヤネクが青いラウンドホールのアコースティックギターを持っている。
スティーブンが整形手術を受けて顔を包帯で覆って出てくる。設定上はビバリーヒルズの高級ホテルだ。小説と同じくリンディからお誘いの手紙が届く。ピンク色の可愛らしい手紙。スティーブンは朗読するがその内容がいかにもな感じでいい。スティーブンはリリーに携帯で電話をかける。会話が非常に面白い。とにかくスティーブンにとってリンディのような女は軽蔑の対象でしかない。俺はあいつの同類に成り下がったとリリーに愚痴を吐き続ける。とことんリンディをこき下ろすところが面白い。
ゴンドラ曳きのビットーリオとトニーとヤネク。ゴンドラに乗って(左下の階段がゴンドラの役になる)リンディのところへ向かう。ヤネクはトニーを敬するのだがトニーはヤネクに話し続ける。ヤネクにとっては「伝説のトニー・ガードナー」だが、もうこちらではトニーを見かけてもたとえ覚えているにしても飛びついたりすることはもうないのだと。老いぼれ歌手のトニー・ガードナーなのだと。そのあとも小説と同じく歌を歌うときには客のことを知っていなければならないなどという話しなどをし、舞台はトニーとリンディの過去の回想と混じり合う。ここから音楽が重なっていき、音が重なることにより舞台の濃度が増していくのだがそこは詳しく書く事ができない。映像化を待ちたい。
トニーは、リンディは自分を選んだということを誇りを持つように語る。階段を登ることでそのことが印象づけられる。右上の椅子にトニーとリンディが座って飴玉を舐めるシーン。隠喩であるように思われる。スローでメロウな歌が流れるがそれが今は二人の距離が離れてしまっていることの印象を強くする。回想場面を舞台の上で、現実の時間軸を舞台下で行うという視覚上も明解な演出が続く。ゴンドラはリンディの泊まるホテルの下までやってくる。
ここで舞台上部でリンディとスティーブン、下部でトニーとヤネクと2つの時間軸で舞台が進行する。今回の舞台ではこの演出が繰り返され、時間軸をもう少し丁寧に追っていけたならばさらにこの舞台の真価を味わえたのではないかと思われる。リンディとスティーブンのビバリーヒルズのホテルの一室でのやりとり。リンディはスティーブンに昔のトニーの話をする。そのなかでトニーが昔ベネチアで歌ってくれたことがあったことを話す。まさにその出来事が舞台上部で行われているという構造を持っている。
トニーとヤネクのゴンドラ上での会話。ヤネクにとってトニーはやはり特別な存在だ。トニーの歌を聴いてリンディが何故泣いていたのかを理解できない。トニーはヤネクにゆっくりと話し出す。リンディは喜んだのかもしれないし悲しんでいたのかもしれない。それはわからない。ただ、どちらであれおたがい仲が良くても別れることはあるのだと。自分は昔のようなビッグネームではない、忘れ去られて消えていこうとしている。それに自分が耐えられないのだと。カムバックしたい、それがトニーの願いだ。今の俺とリンディじゃ物笑いのたねだ、と言う。トニーもリンディも出て行く人なのだと言う。そしてヤネクに向かって、きみの母親は出て行く機会のなかった人だったのだと言う。歌っている歌詞の中身を考えるに現実との乖離が甚だしいと感じる。トニーとヤネクは「比類なきガードナー」と口を合わせてつぶやき別れる。ヤネクにとっては何があってもトニーは比類ないのだ。
右上からエロイーズが現れる。彼女は言う。才能など欲しくはなかった。「私たちだけが持つものを消し去ってくれるとしたらあなたはどうする?」
左上からスティーブンとリリー。リリーはスティーブンにあなたは自分のチャンスに気づいていないのだ、と力説する。しかしスティーブンは自分自身の力で扉を開くものしか認めないのだ。右からリンディが現れる。
リンディとスティーブンがチェスをする。メグ・ライアンのチェスセットを使っているのかは不明。リンディは、気が変になりそうになると真夜中の散歩に出かけるのだと言う。リンディの部屋の新聞記事により、今年度の最優秀ジャズミュージシャンがジェイク・マーベルだと知る。マーベルはスティーブンの知り合いで彼に言わせれば才能のない男だったはずだ。スティーブンはあんな才能のない男が、と動揺を隠せない。リンディはトニーのCDをかける。
あいだにスティーブンとリリーとのやりとりがある。リリーはどうあってもリンディと近づきになれと言うが、スティーブンはあんな軽い女に近づくのはまっぴらごめんだと言う。だがリンディに自分の演奏したCDを聴かせてくれと頼まれると探してしまう。それも最高にリンディが気にいるだろうものを。改めてもう一度リンディはスティーブンを部屋に招く。
リンディはスティーブンのCDをプレーヤーにかける。「ニアネスオブユー」。しかしリンディの顔は曇る。その姿を見てスティーブンはCDを止める。おそらく彼はリンディに才能を認めてもらえなかったことに落ち込んだのか、そしてすねたのだろう。彼は才能がないと見下していたリンディに才能を認めてもらいたかったのだろう。
ヤネクとエロイーズが出会った場面の回想。エロイーズは街のカフェでチェロを弾くヤネクに声をかける。「あなたには才能がある。でもこのままではなにもかもダメになってしまう」ヤネクはエロイーズを有名な音楽家だと感じたが彼女の名前を聞いたことはなかった。ヤネクは自分はペトロビッチから指導を受けたと言うが、エロイーズは否定的だ。彼女はペトロビッチでは満足しないのだ。
ここでは上の2つの段落の芝居が同時進行で行われている。スティーブンはリンディから連絡先を書いた紙を受け取り、ヤネクはエロイーズから連絡先の紙を受け取る。そして2人は同時に道端に投げ捨てる。しかしまた同じく拾い上げる。
リンディの部屋。リンディはスティーブンに、あなたの「ニアネスオブユー」は素晴らしかったと言う。自分はスティーブンの才能に嫉妬したのだと。そんなときあんな態度を取ってしまうのだと詫びる。そして彼女はその償いなのか、スティーブンへの純粋な賛美の気持ちなのか、偶然このホテルで明日行われる最優秀ジャズミュージシャンの授賞式で、マーベルが受け取るトロフィーを盗んでくる。「おめでとう、スティーブン。年間最優秀ジャズミュージシャンはあなたよ」と。スティーブンはありがたいと言うが、トロフィーはもとあったところに返さなくては、と言う。そして2人で夜のホテルを散歩することになる。
エロイーズの部屋でヤネクはチェロの練習をする。彼女はヤネクに指摘する。「師の教えをかたくなに守る、それに得意になっている」。ヤネクはチェロを弾き続けるが何度やってもダメだしをされる。エロイーズは言う。音楽には始まりも終わりもない、聴こえない世界の心を音にするのが音楽家だ、秘められたものが露わになるときの驚きが音楽にはあるのだと。
エロイーズ「そう、あの庭のような、私たちの庭。真の音楽家だけが知る庭」。ヤネク「行けますか、僕もその庭へ」。エロイーズ「ええ、きっと」。
暗転し、スティーブンとリンディはトロフィーを返すべく暗闇のホテルを散策する。その途中での会話。リンディ「(受賞したなかに)本当に才能のある人が何人かいるのかもしれないじゃない」。スティーブン「あなたが何者か忘れていました」。リンディ「才能がない人を見下しているの」。警備員に見つかり、咄嗟にリンディはターキーにトロフィーを突っ込む。そして自分たちを擁護するために多弁になる。警備員から辛くも逃れた2人はホテルの最上階を目指す。舞台では階段を駆け上る。上昇のイメージ。
ヤネクとエロイーズのレッスン。エロイーズ「どうしても私たちのようには聴こえませんね」。この舞台でも小説でも「私たち」という言葉が強調されているが、それは当然エロイーズとヤネクのことでもあるだろう。それ以上想像を膨らませることは差し控えるが、単純に英語で3人称を使うということに意味があるのではないかということも推測される。たぶんラフマニノフを弾いているのだろうがどの曲かは音楽の知識がないのでわからなかった。ただ第3楽章とエロイーズは言っている。そしてヤネクは、「母を想いながら弾いた」と。話しは続く。エロイーズ「私たちはお互いのことを知らなすぎる」。ヤネク「(婚約相手の実業家は)あなたを理解してくれますか、あなたの音楽を」。エロイーズ「本物の才能と暮らしていくことが難しいことは理解してくれます」。小説ではここから2人の関係に変化が起きたとある。
ヤネク「あなたならラフマニノフをどう弾かれるのですか」。エロイーズはここ1ヶ月ずっとチェロを弾いていない。エロイーズはヤネクに言葉で教え、それをヤネクは音楽にする。エロイーズ「あなたは私の大切な友人です」。ここら辺りから舞台に起伏が少なくなってくる。個人を捉えないまま抽象性が高まっていく。
エロイーズがお茶を持ってくる。そして自分はチェロの弾けないチェリストなのだと告白する。エロイーズ「私はチェリストなのですヤネク、ただ包み隠されたままの」。「私たちは貴重です」。ヤネク「弾きもしないのにご自分をチェリストだと信じている」。「自分を引き剥がそうとしていない」。エロイーズ「今まで3人のプロが私を引き剥がそうとしました、が私は拒絶しました。いつか本当の教師と巡り会える日を信じて」。「ときどきとても悲しくなる、与えられたものを活かしきっていないことが」。「怖かった、ずっとあなたに言えないことが」。
スティーブンとリンディ。おそらくホテルの最上階。リンディは自分のコネクションでスティーブンを有名にすると話す。スティーブンも薄々気づいてくる。「問題はおれ自身なんだ」。リンディ「あなたには資格がある」。「自分がなにものかわかっている、自分がなにものか」。「今夜、あなたにトロフィーをあげたことを覚えていてね、20年後も、30年後も」。このときスティーブンとリンディはトロフィーがターキーのなかにあることの重要性に気づく。見つかってはまずいと再びホテルのターキーのあった部屋を目指す。ここからコミカルな芝居が繰り広げられるのだがそこは割愛する。ほぼ小説と同じである。無事にトロフィーを返して戻る途中。スティーブン「大冒険だった」。そして妻のヘレンはもう戻ってこないことを受け止めることができなくてこの整形手術を受けたのだと告白する。リンディ「戻ってこなかったら切り替えなくちゃ」。「あなたは人生に出て行くべき」。「今夜のあたしたち最高のコンビだった」。そして2人は別れる。リンディは意味深なため息をつき、首を横に振る。スティーブンはヘレンに電話をする。「ヘレン、ありがとう」。リンディは包帯を取る。
舞台はベネチアに戻る。ゴンドラに揺られたトニーがリンディに呼びかける。「リンディ」。「ハニー、きみに歌を捧げようと思って」。「ベネチアではセレナーデを歌う」。「寒いので部屋の中で聴いてくれ」。
エロイーズとヤネク。1週間ぶりにエロイーズの部屋を訪れたヤネク。エロイーズ「ヤネク、バカンスは終わりましたか」。ヤネク「幸せを祈っています、(結婚相手は)成功なさっているし、音楽の愛好家でもある」。ヤネクは小さな室内楽の仕事に就くことになった。それを告げるとエロイーズは思わず身を乗り出す。しかし祝福する。ヤネク「エロイーズさん、さようなら。さようなら、あなたが彼と幸せに暮らせますように」。エロイーズ「あなたは弾き続けて、自分のチェロを」。
舞台は最初のベネチアに戻る。ヤネクが同じ場所でチェロを弾く。音色は昔と変わったのだろうか。ヤネクの独白。あの庭のことを考えます。幻のような場所。音楽はこの世界にある、満ちている、今ならよくわかります。僕は耳を澄ませ続ける。たとえたどり着けなくても。
ウェイターが舞台の中央にテーブルと2脚の椅子を置く。リンディがやってきて左の椅子に座る。最初とは一転して青い服と帽子にショッキングピンクの鞄だ。コーヒーを飲む。ヤネクが声をかける。「リンディ・ガードナーさんですよね」。リンディは「惚れっぽい女」をリクエストする。ヤネク「一流は廃れない、時間を超えて」。才能は大衆を認めない。大衆も才能を認めない。だが相互に支えあっている。大衆は音楽を聴く。そして音楽家は聴いてもらうのだ。ヤネク「あなたの中にもある」。
リンディ「誰かが来たら別の曲に変えてくださる」。「次の曲はあなたが弾いてね」。
終劇。
と、このような作品であった。原作をうまくアレンジしてそつなくこなす、そして原作にはない新たなメッセージ性を付与する。なかなかによくできた作品だったと思う。音楽に疎いためにそれ抜きで語ることは差し控えたいために、舞台の正確な良し悪しを判断するところまではとても言及できない。ただ、プログラムを見て関わったスタッフの発言を読んでみたのだが、僕のなかでの『夜想曲集』とはかなりの隔たりを感じた。というより、プログラム内のカズオ・イシグロのメッセージにおいてさえ僕自身納得できないところがある。というわけで、この『夜想曲集』はかなり偏った解釈で僕自身が捉えていると思ってもらっていい。そんな偏向した記事ではあるが、読んでなにか感じる手がかりになってくれたらなと思う。
最後に、小説寄りの感想を書くが、この世界で才能を開花させることができる人間は少ない。この作品では才能を信じる者たちが後悔や諦念を感じつつ卑屈になっていく様も描き出されている。そしてまた社会的に成功を収めた人間であってもその自分自身がなにゆえ成功を掴み取れたのかを反省することはない、それをすることは許されていない。自分たちが中心に置かれているわけではない社会の構造のなかで遮二無二生きざるを得ない僕ら現代人の生き様を、カズオ・イシグロ独自の目線から切り取った小品が集められた作品であると僕は思う。冒頭に書いた「夕暮れ」に関する僕自身の視点を当てはめるのならば、この世界の情景としての夕暮れの美しさ、人生の夕暮れにおける各人の生き方により見えてくる実存的な清濁併せ持った人間の美しさ、最後に人類の歴史としての夕暮れを見つめる既に反定立することのなくなった世界の黄昏。またそれらいずれにも必然としてアイロニカルな目線で捉えることができるものがあり、それを臆することなく見つめた人には人間のもうひとつの側面が写ってくるだろう。そこを超えて見出す新たな地平があるのかないのか。それは読者、観賞者の力に委ねられるものだろう。
シーフォートスクエアというのかな、そこの天井。銀河劇場にちょうど背を向けて撮っている。次にここに来ることはあるのかなと思いつつ、銀河劇場をあとにした。
以上が舞台『夜想曲集』の感想である。