2015年5月28日木曜日

舞台『夜想曲集』 カズオ・イシグロ原作 小川絵梨子演出

2015年5月16日、東京天王洲アイルにある、銀河劇場にて舞台『夜想曲集』を観劇した。






りんかい線天王洲アイル駅下車。徒歩10分くらい。銀河劇場はこの画像の右手にある。




夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro

早川書房 2011-02-04
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原作は『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』などで有名なイギリスの作家カズオ・イシグロ。『夜想曲集』は短篇が5作まとめられているもので、この舞台ではそのうちの「老歌手」「夜想曲」「チェリスト」の3作がアレンジされて1つの作品として上演された。


原作の『夜想曲集』について少し述べると、「老歌手」「降っても晴れても」「モールバンヒルズ」「夜想曲」「チェリスト」の5つの短篇で構成されていて、どれも読者に満足のいく作品に出来上がっていると個人的には思う。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあり、音楽と夕暮れがひとつのテーマとなっているように思われるのだが、読む側にとってはそう一筋縄ではいかない。音楽に対する理解が必ずしも必要というわけではないが存分に味わうためにはイシグロほどの音楽に対する造詣が必要であるだろうし、夕暮れに対する解釈はなおのこと読者は慎重に行うべきであるだろう。夕暮れが時間的問題を扱っていると仮に仮定してみても、それが自然現象として現れる時間なのか、人間に訪れる主観的時間なのか、それとも人類総体の営みにおける歴史的時間なのか。このことに関してもちろんイシグロは問いを立てただけである。解釈はこちらに任されているだろう。このような作品の描き方がチェーホフ的であると言えるかもしれない、それゆえ読み手は戸惑いを禁じ得ないだろうし、同時にその物語世界を彷徨い歩く楽しみをことさらに引き延ばすことができる。僕も何度も読み返してみたが、この作品に対するひとつの解釈は出ない。一生出ない。それゆえこの作品は読者にとって一生の友となりうるだろう。


舞台は13時開演だった。開場は12時30分。今まで舞台を見てきたが30分前の開場というのは短すぎるなという印象を受けた。銀河劇場自体のキャパシティはそれほど大きくはないと思うのだがいちおう書いておくと、座席数は746席とあり、帝国劇場や赤坂ACTシアターより小さい印象はある。その代わり座席が比較的ゆったりと座れるようにできていると感じた。あと、違いとしては座面にクッション性がないので長時間の観賞には少し不向きかもしれない。客層は9割5分以上が女性。それもかなり若い年代。土曜日の午後であるのでそれほど客層が偏ったというのは主演の東出昌大さん(以下敬称略)の効果なのだろうかと思ったりした。舞台終了後からTwitterでチェックしていたが東出昌大関連のつぶやきが多かった、と言ってもつぶやきの数自体が多くなかったというのもある。


グッズ売り場があって、Tシャツやクリアファイル、カズオ・イシグロ関連の書籍などが売っていたが僕はとりあえずプログラムとブックカバーを買って席についた。舞台はだいたい下の画像のような感じでできていて、セットチェンジはない。







上下に分かれ、右上、左上、左下、真ん中に椅子が置かれ、右下の階段も含めてそこで演技が主に行われる。会場は13時になってもざわついていて、始まる気配というのがあまり感じられていなかったのだが、そこに突然東出昌大がチェロを持って中央右の椅子に座りチェロを演奏し始める。一瞬の嬌声に続き会場のライトが暗くなり舞台の始まりとなった。


東出が中央右の椅子に座ると徐々に照明が暗くなっていきチェロの弦に弓を当てる。東出がヤネクであろう。慎重に弾き始める。ギターとコントラバスも下手から現れて椅子に座り弾き始める。それと同じくして上手から女性が現れ舞台上を横切るのだが、小説を知っているものならエロイーズだとすぐにわかる。舞台を右から左へ横切っただけなのにその存在感は半端ではない。演者は渚あきである。左上にサックス。ここで東出たちがなにを弾いているのかがわからないというのがこの作品を楽しむことに致命的であるということに気づくが時は遅し。DVD化されるのを期待しようと思っていると中央から中嶋しゅう演じる老歌手トニー・ガードナーが現れ中央の椅子に座る。そして煙草を吸い始める。音楽の夕べが始まる。


トニーはウェイターを呼んでコーヒーを頼む。言い忘れたが舞台はベネチアである。ヤネクはトニーの大ファンであるのでトニーを見つけて声をかける。二人の会話はかなり気さくだった。全体的に会話が現代的で重さというものを感じない。小説と比べても少し違和感を感じるほど会話がアレンジされている。だからと言って悪い印象があるわけではない。舞台独自の世界観をつくりだすのに一役買ったであろう。ヤネクは母と二人でトニーのレコードを集めていたなどの話をする。ヤネクは共産圏の出身であるのだが故郷は今は民主主義の国になったと話す。ネクタイを緩めるなど徐々に打ち解けてきて母は死んでいることなどを話し、彼らにとってトニーは、「比類なきガードナー」なのだと話し、笑い合う。


すると中央からリンディが現れる。安田成美が演じているのだが出てきた瞬間に僕の小説でのリンディ像が覆る。とんでもなく光り輝いている。小説での設定ではセレブリティなのだがまさにそのとおりの派手な赤い服に赤い鞄。スタイルも抜群でレッドカーペットを歩いていてもまったく不思議ではない。それでいてかつキュートでもある。リンディはトニーとヤネクに話しかけるが演奏はろくに聴いていない。ここのところは小説のリンディそのままである。


リンディが去るとトニーがヤネクに「どう思う?」と聞く。そして頼みがあると言う。リンディにゴンドラからセレナーデを聴かせてやりたいという。ギターを弾ける人間を探していると聞いてヤネクは引き受ける。8時30分にアーチ橋でと約束する。舞台は暗転する。ちなみにここまでで東出のつけている腕時計に照明の光が反射して少々気になるということが起きている。


下手からエロイーズが現れる。小説での「チェリスト」に出てくるチェリストの青年ティボールが舞台ではヤネクになっている。詳しく知りたい方は小説に当たっていただきたい。エロイーズはヤネクにチェロを教えている。「私たち」の一流の世界というものをことさらに強調する。


ここでスティーブン(近藤芳正)とリリー(入来茉里)も舞台上に登場する。この二人は「夜想曲」で出てくるのだが、リリーは小説ではブラッドリーというスティーブンの長年の友人の男なのだが舞台では若い女性となっている。スティーブンはサックスを弾く。リリーの言うにはスティーブンが売れないのは顔が悪いからで才能はあると言う。それもその顔の悪さは愛嬌のある顔の悪さではなく退屈な醜さであるということだそうだ。そのために妻のヘレンもほかの男に取られてしまうわけだがそこのところが小説では解釈の余地があるように書かれているのだが舞台ではしっかりと演出されている。リリーが口からでまかせを言っていることが明確でかちっと固まる。


アーチ橋でのトニーとヤネク。ヤネクが青いラウンドホールのアコースティックギターを持っている。


スティーブンが整形手術を受けて顔を包帯で覆って出てくる。設定上はビバリーヒルズの高級ホテルだ。小説と同じくリンディからお誘いの手紙が届く。ピンク色の可愛らしい手紙。スティーブンは朗読するがその内容がいかにもな感じでいい。スティーブンはリリーに携帯で電話をかける。会話が非常に面白い。とにかくスティーブンにとってリンディのような女は軽蔑の対象でしかない。俺はあいつの同類に成り下がったとリリーに愚痴を吐き続ける。とことんリンディをこき下ろすところが面白い。


ゴンドラ曳きのビットーリオとトニーとヤネク。ゴンドラに乗って(左下の階段がゴンドラの役になる)リンディのところへ向かう。ヤネクはトニーを敬するのだがトニーはヤネクに話し続ける。ヤネクにとっては「伝説のトニー・ガードナー」だが、もうこちらではトニーを見かけてもたとえ覚えているにしても飛びついたりすることはもうないのだと。老いぼれ歌手のトニー・ガードナーなのだと。そのあとも小説と同じく歌を歌うときには客のことを知っていなければならないなどという話しなどをし、舞台はトニーとリンディの過去の回想と混じり合う。ここから音楽が重なっていき、音が重なることにより舞台の濃度が増していくのだがそこは詳しく書く事ができない。映像化を待ちたい。


トニーは、リンディは自分を選んだということを誇りを持つように語る。階段を登ることでそのことが印象づけられる。右上の椅子にトニーとリンディが座って飴玉を舐めるシーン。隠喩であるように思われる。スローでメロウな歌が流れるがそれが今は二人の距離が離れてしまっていることの印象を強くする。回想場面を舞台の上で、現実の時間軸を舞台下で行うという視覚上も明解な演出が続く。ゴンドラはリンディの泊まるホテルの下までやってくる。


ここで舞台上部でリンディとスティーブン、下部でトニーとヤネクと2つの時間軸で舞台が進行する。今回の舞台ではこの演出が繰り返され、時間軸をもう少し丁寧に追っていけたならばさらにこの舞台の真価を味わえたのではないかと思われる。リンディとスティーブンのビバリーヒルズのホテルの一室でのやりとり。リンディはスティーブンに昔のトニーの話をする。そのなかでトニーが昔ベネチアで歌ってくれたことがあったことを話す。まさにその出来事が舞台上部で行われているという構造を持っている。


トニーとヤネクのゴンドラ上での会話。ヤネクにとってトニーはやはり特別な存在だ。トニーの歌を聴いてリンディが何故泣いていたのかを理解できない。トニーはヤネクにゆっくりと話し出す。リンディは喜んだのかもしれないし悲しんでいたのかもしれない。それはわからない。ただ、どちらであれおたがい仲が良くても別れることはあるのだと。自分は昔のようなビッグネームではない、忘れ去られて消えていこうとしている。それに自分が耐えられないのだと。カムバックしたい、それがトニーの願いだ。今の俺とリンディじゃ物笑いのたねだ、と言う。トニーもリンディも出て行く人なのだと言う。そしてヤネクに向かって、きみの母親は出て行く機会のなかった人だったのだと言う。歌っている歌詞の中身を考えるに現実との乖離が甚だしいと感じる。トニーとヤネクは「比類なきガードナー」と口を合わせてつぶやき別れる。ヤネクにとっては何があってもトニーは比類ないのだ。


右上からエロイーズが現れる。彼女は言う。才能など欲しくはなかった。「私たちだけが持つものを消し去ってくれるとしたらあなたはどうする?」


左上からスティーブンとリリー。リリーはスティーブンにあなたは自分のチャンスに気づいていないのだ、と力説する。しかしスティーブンは自分自身の力で扉を開くものしか認めないのだ。右からリンディが現れる。


リンディとスティーブンがチェスをする。メグ・ライアンのチェスセットを使っているのかは不明。リンディは、気が変になりそうになると真夜中の散歩に出かけるのだと言う。リンディの部屋の新聞記事により、今年度の最優秀ジャズミュージシャンがジェイク・マーベルだと知る。マーベルはスティーブンの知り合いで彼に言わせれば才能のない男だったはずだ。スティーブンはあんな才能のない男が、と動揺を隠せない。リンディはトニーのCDをかける。


あいだにスティーブンとリリーとのやりとりがある。リリーはどうあってもリンディと近づきになれと言うが、スティーブンはあんな軽い女に近づくのはまっぴらごめんだと言う。だがリンディに自分の演奏したCDを聴かせてくれと頼まれると探してしまう。それも最高にリンディが気にいるだろうものを。改めてもう一度リンディはスティーブンを部屋に招く。


リンディはスティーブンのCDをプレーヤーにかける。「ニアネスオブユー」。しかしリンディの顔は曇る。その姿を見てスティーブンはCDを止める。おそらく彼はリンディに才能を認めてもらえなかったことに落ち込んだのか、そしてすねたのだろう。彼は才能がないと見下していたリンディに才能を認めてもらいたかったのだろう。


ヤネクとエロイーズが出会った場面の回想。エロイーズは街のカフェでチェロを弾くヤネクに声をかける。「あなたには才能がある。でもこのままではなにもかもダメになってしまう」ヤネクはエロイーズを有名な音楽家だと感じたが彼女の名前を聞いたことはなかった。ヤネクは自分はペトロビッチから指導を受けたと言うが、エロイーズは否定的だ。彼女はペトロビッチでは満足しないのだ。


ここでは上の2つの段落の芝居が同時進行で行われている。スティーブンはリンディから連絡先を書いた紙を受け取り、ヤネクはエロイーズから連絡先の紙を受け取る。そして2人は同時に道端に投げ捨てる。しかしまた同じく拾い上げる。


リンディの部屋。リンディはスティーブンに、あなたの「ニアネスオブユー」は素晴らしかったと言う。自分はスティーブンの才能に嫉妬したのだと。そんなときあんな態度を取ってしまうのだと詫びる。そして彼女はその償いなのか、スティーブンへの純粋な賛美の気持ちなのか、偶然このホテルで明日行われる最優秀ジャズミュージシャンの授賞式で、マーベルが受け取るトロフィーを盗んでくる。「おめでとう、スティーブン。年間最優秀ジャズミュージシャンはあなたよ」と。スティーブンはありがたいと言うが、トロフィーはもとあったところに返さなくては、と言う。そして2人で夜のホテルを散歩することになる。


エロイーズの部屋でヤネクはチェロの練習をする。彼女はヤネクに指摘する。「師の教えをかたくなに守る、それに得意になっている」。ヤネクはチェロを弾き続けるが何度やってもダメだしをされる。エロイーズは言う。音楽には始まりも終わりもない、聴こえない世界の心を音にするのが音楽家だ、秘められたものが露わになるときの驚きが音楽にはあるのだと。


エロイーズ「そう、あの庭のような、私たちの庭。真の音楽家だけが知る庭」。ヤネク「行けますか、僕もその庭へ」。エロイーズ「ええ、きっと」。


暗転し、スティーブンとリンディはトロフィーを返すべく暗闇のホテルを散策する。その途中での会話。リンディ「(受賞したなかに)本当に才能のある人が何人かいるのかもしれないじゃない」。スティーブン「あなたが何者か忘れていました」。リンディ「才能がない人を見下しているの」。警備員に見つかり、咄嗟にリンディはターキーにトロフィーを突っ込む。そして自分たちを擁護するために多弁になる。警備員から辛くも逃れた2人はホテルの最上階を目指す。舞台では階段を駆け上る。上昇のイメージ。


ヤネクとエロイーズのレッスン。エロイーズ「どうしても私たちのようには聴こえませんね」。この舞台でも小説でも「私たち」という言葉が強調されているが、それは当然エロイーズとヤネクのことでもあるだろう。それ以上想像を膨らませることは差し控えるが、単純に英語で3人称を使うということに意味があるのではないかということも推測される。たぶんラフマニノフを弾いているのだろうがどの曲かは音楽の知識がないのでわからなかった。ただ第3楽章とエロイーズは言っている。そしてヤネクは、「母を想いながら弾いた」と。話しは続く。エロイーズ「私たちはお互いのことを知らなすぎる」。ヤネク「(婚約相手の実業家は)あなたを理解してくれますか、あなたの音楽を」。エロイーズ「本物の才能と暮らしていくことが難しいことは理解してくれます」。小説ではここから2人の関係に変化が起きたとある。


ヤネク「あなたならラフマニノフをどう弾かれるのですか」。エロイーズはここ1ヶ月ずっとチェロを弾いていない。エロイーズはヤネクに言葉で教え、それをヤネクは音楽にする。エロイーズ「あなたは私の大切な友人です」。ここら辺りから舞台に起伏が少なくなってくる。個人を捉えないまま抽象性が高まっていく。


エロイーズがお茶を持ってくる。そして自分はチェロの弾けないチェリストなのだと告白する。エロイーズ「私はチェリストなのですヤネク、ただ包み隠されたままの」。「私たちは貴重です」。ヤネク「弾きもしないのにご自分をチェリストだと信じている」。「自分を引き剥がそうとしていない」。エロイーズ「今まで3人のプロが私を引き剥がそうとしました、が私は拒絶しました。いつか本当の教師と巡り会える日を信じて」。「ときどきとても悲しくなる、与えられたものを活かしきっていないことが」。「怖かった、ずっとあなたに言えないことが」。


スティーブンとリンディ。おそらくホテルの最上階。リンディは自分のコネクションでスティーブンを有名にすると話す。スティーブンも薄々気づいてくる。「問題はおれ自身なんだ」。リンディ「あなたには資格がある」。「自分がなにものかわかっている、自分がなにものか」。「今夜、あなたにトロフィーをあげたことを覚えていてね、20年後も、30年後も」。このときスティーブンとリンディはトロフィーがターキーのなかにあることの重要性に気づく。見つかってはまずいと再びホテルのターキーのあった部屋を目指す。ここからコミカルな芝居が繰り広げられるのだがそこは割愛する。ほぼ小説と同じである。無事にトロフィーを返して戻る途中。スティーブン「大冒険だった」。そして妻のヘレンはもう戻ってこないことを受け止めることができなくてこの整形手術を受けたのだと告白する。リンディ「戻ってこなかったら切り替えなくちゃ」。「あなたは人生に出て行くべき」。「今夜のあたしたち最高のコンビだった」。そして2人は別れる。リンディは意味深なため息をつき、首を横に振る。スティーブンはヘレンに電話をする。「ヘレン、ありがとう」。リンディは包帯を取る。


舞台はベネチアに戻る。ゴンドラに揺られたトニーがリンディに呼びかける。「リンディ」。「ハニー、きみに歌を捧げようと思って」。「ベネチアではセレナーデを歌う」。「寒いので部屋の中で聴いてくれ」。


エロイーズとヤネク。1週間ぶりにエロイーズの部屋を訪れたヤネク。エロイーズ「ヤネク、バカンスは終わりましたか」。ヤネク「幸せを祈っています、(結婚相手は)成功なさっているし、音楽の愛好家でもある」。ヤネクは小さな室内楽の仕事に就くことになった。それを告げるとエロイーズは思わず身を乗り出す。しかし祝福する。ヤネク「エロイーズさん、さようなら。さようなら、あなたが彼と幸せに暮らせますように」。エロイーズ「あなたは弾き続けて、自分のチェロを」。


舞台は最初のベネチアに戻る。ヤネクが同じ場所でチェロを弾く。音色は昔と変わったのだろうか。ヤネクの独白。あの庭のことを考えます。幻のような場所。音楽はこの世界にある、満ちている、今ならよくわかります。僕は耳を澄ませ続ける。たとえたどり着けなくても。


ウェイターが舞台の中央にテーブルと2脚の椅子を置く。リンディがやってきて左の椅子に座る。最初とは一転して青い服と帽子にショッキングピンクの鞄だ。コーヒーを飲む。ヤネクが声をかける。「リンディ・ガードナーさんですよね」。リンディは「惚れっぽい女」をリクエストする。ヤネク「一流は廃れない、時間を超えて」。才能は大衆を認めない。大衆も才能を認めない。だが相互に支えあっている。大衆は音楽を聴く。そして音楽家は聴いてもらうのだ。ヤネク「あなたの中にもある」。


リンディ「誰かが来たら別の曲に変えてくださる」。「次の曲はあなたが弾いてね」。



終劇。



と、このような作品であった。原作をうまくアレンジしてそつなくこなす、そして原作にはない新たなメッセージ性を付与する。なかなかによくできた作品だったと思う。音楽に疎いためにそれ抜きで語ることは差し控えたいために、舞台の正確な良し悪しを判断するところまではとても言及できない。ただ、プログラムを見て関わったスタッフの発言を読んでみたのだが、僕のなかでの『夜想曲集』とはかなりの隔たりを感じた。というより、プログラム内のカズオ・イシグロのメッセージにおいてさえ僕自身納得できないところがある。というわけで、この『夜想曲集』はかなり偏った解釈で僕自身が捉えていると思ってもらっていい。そんな偏向した記事ではあるが、読んでなにか感じる手がかりになってくれたらなと思う。



最後に、小説寄りの感想を書くが、この世界で才能を開花させることができる人間は少ない。この作品では才能を信じる者たちが後悔や諦念を感じつつ卑屈になっていく様も描き出されている。そしてまた社会的に成功を収めた人間であってもその自分自身がなにゆえ成功を掴み取れたのかを反省することはない、それをすることは許されていない。自分たちが中心に置かれているわけではない社会の構造のなかで遮二無二生きざるを得ない僕ら現代人の生き様を、カズオ・イシグロ独自の目線から切り取った小品が集められた作品であると僕は思う。冒頭に書いた「夕暮れ」に関する僕自身の視点を当てはめるのならば、この世界の情景としての夕暮れの美しさ、人生の夕暮れにおける各人の生き方により見えてくる実存的な清濁併せ持った人間の美しさ、最後に人類の歴史としての夕暮れを見つめる既に反定立することのなくなった世界の黄昏。またそれらいずれにも必然としてアイロニカルな目線で捉えることができるものがあり、それを臆することなく見つめた人には人間のもうひとつの側面が写ってくるだろう。そこを超えて見出す新たな地平があるのかないのか。それは読者、観賞者の力に委ねられるものだろう。






シーフォートスクエアというのかな、そこの天井。銀河劇場にちょうど背を向けて撮っている。次にここに来ることはあるのかなと思いつつ、銀河劇場をあとにした。

以上が舞台『夜想曲集』の感想である。

2015年5月19日火曜日

なんにもないが俺たちにはスタジアムがある。 その2

新潟エコスタジアムで行われた、10日のDeNA対巨人戦の続き「その2」。
予告したように、試合内容にはほとんど触れることはない。


試合の前に、応援グッズを買いに行こうということで、グッズ売り場を探しに行く。このエコスタもそうだが、応援グッズは球場内には売っていない。球場内で買えるのは飲食物。ここエコスタではほぼ祭りの屋台で売っているような、焼きそば、アメリカンホットドッグ、たこ焼き、あともちろん野球観戦につきもののビール、そしてソフトドリンクなどだ。


応援グッズは一度球場の外に出て、販売しているエリアに行かなければならない。僕は3塁側席だったのでビジター側、巨人軍の応援を一応することになる。内野だからそんなに縛りはきつくないが。3塁側のゲート下に巨人の応援グッズ、若干1塁側のところにDeNAと巨人のグッズが混合して売られているエリアがある。もしかしたら意外に思われるかたもいるかもしれないが、その他の球団のグッズは売っていない。東京ドームだとショップがあるので12球団のグッズが買えるのだが、新潟は特設テントを設けてそこで売っているのでそこまでの余裕はない。というかDeNA対巨人だからね。サッカーやバスケとかもそうなのではないだろうか。


3塁側ゲートを出る(半券を持っていないと再入場できないので注意)と、巨人軍のグッズが売っている。Tシャツとかキャップとか、タオル、メガホン等等。僕は特に応援している選手はいなかったがあえて言うなら原監督が好きだ。やはり現役時代の活躍を見ているから。落合にポジションを奪われてからのね、あの苦難の日々を乗り越えてからの、第2回WBCを優勝に導き、常勝巨人の再復興と、あの人はやはり何か持ってますわ。


とりあえず、メガホンと、実はこの時点では寒かったのでバスタオルを買った。体に巻いて暖を取ろうと。このバスタオルには「新成」と書いてあり、選手たちのサインがプリントしてある。「新成」は今年のジャイアンツのスローガンなのだろうか。普段あまり野球を観ないのでよくわからなかった。





本当はレプリカユニフォームがあったらいいなと思っていたのだが、それはなかった。球場に来ている人で着用している人がかなりいたので、それを見ていて最近のユニフォームはかっこよくなったのだなと思っていたのだった。


レプリカユニフォームはちなみに安いもので8000円くらいしたと思う。おそらく生地のもっとしっかりしたもので1万5000円くらい。野球ファン、というかスポーツを応援する人はこれくらい出すのだな。僕はTシャツも買わなかったのだが一応野球ファン・・・だ。


1塁側方面へと歩いていると、人だかりができていた。なんだろう、みんなが写真を撮っているようだ。もしかして有名人が来ているとか?選手は試合前で練習しているからいないだろう。僕は人だかりを覗いてみた、すると・・・





そこには大きな背中をしたなにかがいた。ユニフォームには「DB.STARMAN」とある。なにものなのだろうか。この時点で僕はDB.STARMANを知らなかったことを告白しておく。このDB.STARMAN、いわゆる巨人の「ジャビット」や中日の「ドアラ」のような、DeNAベイスターズのマスコットキャラクターだ。


みんなが写真を撮っている。さらに付け加えておこう。このDB.STARMANはこの世界には1体しかいない(と思う)。DeNAの新潟遠征に同行して、わざわざ新潟までやってきてくれたわけだ。ありがとうDB.STARMAN。


このDB.STARMAN、みんなと一緒に写真撮影などをしていたのだが、しばらく見ているとなにかしようとしている。後ろ姿だけで申し訳ない。なかなかこっちを向いてくれなかったので。





さて、上の画像に注目して欲しい。かなり愛嬌のある横顔を見せているが、どうやらなにかをしようとしている。手前の青いベイスターズのユニフォームを着ている方に注目。手に何かを持っている。黒と・・・白のなんだろう?と思っていると、そのなにかをDB.STARMANに手渡した。それを受け取ったDB.STARMANは一生懸命その黒と白の物体でなにかをしようとしている。そして、DB.STARMANがこちらを向いた・・・





!!!DB.STARMAN!あなた!あなた、その耳!!なぜおにぎりをつけてるの!?耳におにぎり!?そしてこちらに歩いてくる!僕は動揺を隠せなかった。なぜおにぎりを耳につけているのか。僕は恐ろしさのあまりDB.STARMANに飛び蹴りをしそうになった。あとでわかったことだが、あのおにぎり装着のDB.STARMANはご当地限定仕様らしい。つまり新潟でしかおにぎりSTARMANは見れないということだ。そして会場ではご当地限定のDB.STARMANのグッズが売っているのだった。新潟=コシヒカリ=おにぎり・・・うん、安易ではあるが耳におにぎりを装着するというそのアイデアを僕は高く評価する。





こんにちは、DB.STARMAN。見れば見るほど愛嬌のある顔だ。おにぎりがそれを2倍増しにしている、いや3倍増しか。DB.STARMANのおかげでDeNAベイスターズもファンの数が増えたことだろう。少なくとも僕はこのあとすぐにDB.STARMANのご当地限定グッズを探しに走った。しかし売り切れていたのだった・・・。


DB.STARMANと別れたあと、僕は3塁側席に戻った。午後2時プレイボール。試合が始まると一転して日差しが強くなった。太陽の日差しは3塁側スタンドを照りつけたのだった。もしかするとそこまで計算してスタジアムを建設したというのか・・・今度はホーム側のスタンドで見ようとそう思うくらいの直射日光だった。僕はたまらずサングラスを着用する。車を運転するから持っていたので助かった。


試合前のDB.STARMAN(先ほどのDB.STARMAN)の活躍を紹介しておこう。





まずはDeNA側の応援スタンドにファンサービスをするDB.STARMAN。しばらくライトの芝生のあたりをうろちょろしている。この画像はズームを最高度にして撮っている。






そして続いて、レフトスタンドの巨人応援外野スタンドの前で、巨人ファンを挑発?するDB.STARMAN。巨人ファンにもサービスを忘れない律儀なDB.STARMAN。寝転がったりしている。


そして僕はすっかりDB.STARMANのファンになってしまった。プロ野球のマスコットキャラクターって、今はこんなにファンサービスしてくれるのだ、と感動したのだった。あなたの街にもDB.STARMANが訪れるかもしれません。そのときはきっとご当地仕様のDB.STARMANになっていることでしょう。みなさん楽しみにしていてください。それでは・・・


と、終わってしまってもいいのだが、一応試合の結果だけは書いておこうと思う。





巨人のバッテリーは、ルーキーの高木勇投手と若手の小林捕手。対するDeNAは、須田投手と嶺井捕手。高木投手はこの時点で開幕から5連勝中であった。





そして試合終了後の電光掲示板。DeNAが4-2で勝利したのだった。今日のヒーローは倉本遊撃手。練習のときからその肩の強さを見て、この選手は将来のDeNAを担う選手になることだろうと感じていた。打率は2割を切っているのだが、どんまい今日のようにチャンスで打てる男ならば大丈夫だ。今後の活躍に期待したい。


こんな感じで終わった野球観戦だった。新潟という街にはいまひとつ盛り上がれる場所がない。しかし僕らにはエコスタジアム、そしてビッグスワンがある。あたりは田園地帯で田舎そのものだが、それが派手な演出をすることを可能にしているのだ。これが街中にあれば騒音問題も発生してくるだろう。さらに、もとが田んぼだっただけに開発の際にきちんと区画整理されていて交通の便が比較的よいのである。


新潟にはなんにもないが俺たちにはスタジアムがある。誇りに思える場所である。

2015年5月10日日曜日

なんにもないが俺たちにはスタジアムがある。 その1

5月9日、10日と新潟にプロ野球の試合がやってきた。


なにかよくわからないが、DeNAの主催試合であるようだ。10日は日曜日。前日にチケットが取れるか確認してみると、内野SS席以外には余裕がある。せっかくだから行ってみるか、と思い立ちチケットと駐車場のチケット?をセブンイレブンで購入。巨人側の内野S席だ。DeNA側は売り切れていた。なぜ売り切れているのかはプロ野球ファンならばわかるだろう。


ということで日曜日の朝10時半頃家を出る。試合の行われるエコスタジアムまでは車で20分程かかる。紫鳥線をまっすぐ、曲がって弁天線を真っ直ぐ、曲がるともうエコスタジアム。エコスタジアムが見えてきたが駐車場の位置を調べていかなかったのがまずかった。無料(チケットを事前に買う)駐車場が4つ、それに有料駐車場が複数あるらしい。当然駐車場のチケットを買っているので無料駐車場のほうを探す。あ、もしかしたら山に行っちゃうかも、というところで第4駐車場の入口を発見。チケットを見せて中に入る。エコスタとかなり距離があるな~。


まあでも目の前にはエコスタが見える。




この時点で11時くらい。試合開始が14時で、開場が12時。早く来すぎたというわけでもない。12時ころになれば渋滞が起きるだろうと早めに来ていただけだ。しかし、画像では車はまったく駐車していないが・・・。


歩くと、実はエコスタの隣にはビッグスワンというサッカー場がある。正確に言うと多目的競技場のようなものだが、ここでサッカー日本代表の国際Aマッチが行われている。





この近くには新潟テルサというイベント会場があり、そこでは有名なアーティストがライブをしたりしている。また、新潟産業振興センターという催物場もある。最近ではガタケットが行われており、若者に人気だ。その他にも新潟市の基幹病院、新潟市民病院もある。ここらの地域と中心街を繋ぐためにBRTというフランスのナントで走っている高速バスを走らせようという計画がある。できたらできたでみんな使うと思うのだが、市民の間でも意見が二分している。




これがビッグスワン。収容人数は忘れたが4万人は入ると思う。新潟ではNo.1の規模を誇る会場だ。昔はここでB'zやSMAPなどがライブをしていたが最近は使われないようだ。なぜか理由は知らない。ちなみに最初はドームにするという話であったような気がしたが予算の関係上客席だけに屋根がつくようになったということだったと思う。新潟は雪国なので、冬にも使えるようにドーム型にすべきだったと思う。




ビッグスワンの横には鳥屋野潟公園というものがある。とにかくここらへんは田舎なので自然が多い。この画像は鳥屋野潟公園の反対にある池なのだが、池とは思えぬほど大きい。この近くにはバーベキューができる施設もある。自然万歳な立地である。


そしてこのビッグスワンの向かい側、歩いて5分かからないところに先ほどのエコスタがある。




なにかおどろおどろしい雲とそこに聳えるスタジアム。だが天候はいい。20度はなかったのだが肌寒いというほどではなかった。この左手には新潟駅からのシャトルバスが止まる停留所がある。公共交通機関を使って来られるかたはシャトルバスを使うことになる。続々と人が集まってくる。そんななか12時開場とともに入場する。


14番ゲートから入場。スタジアムにはペットボトルの蓋は持っていくことができない。だからペットボトルの蓋をゲートの入口で回収されてしまう。僕は500mlのミネラルウォーターを持っていったので蓋がないとかなり困った。まあそれはいいとして、場内でまず昼ごはんを調達する。野球観戦といえばのアメリカンホットドッグとたこ焼きを購入する。たこ焼きはどうだろ・・・そんなに売ってないかも。


そして席へ。内野席とはいっても2階だったのでフィールドから遠いかなと思っていたがそれほどではなかった。巨人の選手が練習をしていた。僕はビジター側。だから巨人側で観戦していた。





まさにボールパーク。5月の雲と遠くに見える山並み、そして解放されている外野の芝生席。フィールドに植えられているのはもちろん天然芝だ。




バックネットは張ってあるが、それ以外はフィールドと観客席を隔てるものはほとんどない。鮮やかな緑の芝生がやはり目を引く。このあと新潟を練習拠点にしているフィギュアスケーター今井遥さんの始球式や子供たちがノックを受けるなどサービス精神も満点。わたしを野球に連れてってと歌いたくなるぐらいである。




僕もこんな感じで巨人のタオルとミニメガホンを持って観戦。かなり猫背だが、休みのときくらい猫背にさせてくれよ~普段は背筋伸ばしてなきゃいけないんだからさ。実際のところ背もたれがなくてちょっと背筋が痛かったりした。巨人はタイムリーヒットが出るとみんながタオルを回して応援するんだぜ。


などと書いたがまだ試合は始まってはいない。だが試合の内容は書かないと予告しておく。なぜなら書いてもそんなに読んでくれるとは思わないからさ。本当に書きたいことは次回書く事にする。今回はとりあえずここまで。いちおう書いておくと4番は巨人が大田、DeNAが筒香だった。


それでは次回に続く。

『想像ラジオ』 いとうせいこう

こんにちは。
今回は買おう買おうと思っていて、なかなか買えなかった『想像ラジオ』の感想を書きたいと思います。
初めて「文藝」で読んでからどれほどの月日が流れたのか・・・。
アメブロに数行補足しています。
それではいきます。


想像ラジオ (河出文庫)/河出書房新社
¥486


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DJアークの軽妙な語りにより始まるこの『想像ラジオ』。
Amazonのレビューでは賛否両論、芥川賞候補作とあって、多くの人が感想を書いています。



僕も単行本が出たときに感想を書いたかな~文藝で読んだときに書いたのかもしれませんね。でもあの頃は震災の空気にまだ飲まれていたので正確な判断はできてませんでしたね、きっと。今もできてるかわかりませんが。



さて内容ですが、5章構成で、1、3、5章がDJアークの語りになっています。このDJアークの語りが軽いのではないかという意見が多くあるようです。僕が想像するに、と言っても当然みなさん気づかれると思うのですが、DJが話してるから話し言葉になっているわけですよね。だから普通の会話みたいな口調なのです。そしてそれは当然作家のいとうせいこうさんは意図的にやっているわけですよね。なにせDJに語らせるという設定にしているのですから。



このDJアーク、東日本大震災の津波に流されてどこかの木の枝に引っかかった死者です。その彼が生きてるか生きてないか気づいてるのかわからない状態でDJをやっているのです。「想ー像ーラジオー」みたいな。ラジオのDJの設定にしたというのはやはり聴取者、つまり受け手のことを考えてでしょうね。あの震災後の状況でみんなが1番耳を傾けたのはラジオじゃないですか。テレビという方ももちろんいると思いますけど、震災後の混乱のあと、東北は長いあいだ渋滞していましたよね。多くの人が車に乗っていてラジオを聴いていたというのはあるでしょう。



みんなに届け、想像ラジオ、ということです。実際DJアークのような亡くなり方をされた方というのはかなりの数おられるという話を聞きます。1万5千人以上の方が亡くなられているという事実は、1万5千人以上の方の死体があるということです。そんなことは想像できない、というかたは想像してみてください。そんなDJアークがこの物語の主人公です。



DJアークは若い頃は音楽を志したり、作家を志したりして、その後音楽業界に職を持っていたのですが、一念発起して田舎で土を売る仕事を兄とやることに決めて東北の太平洋側の小さな町に帰ってきたのです。妻と子どもがいます。子どもは東京に残してきたのかな。息子の名前は草助です。草のようにいろんな風が吹いても柔らかく受け流す瑞々しい子に育ってほしいみたいな、アメリカンスクールにアークは父のすねをかじって通わせているようです。



DJアークは想像ラジオを通していろいろな人と交流します。このラジオは耳を澄まして想像してみると聴こえるらしい。いろんなリスナーがアークに電話?をしてきます。でもDJアークはこの想像ラジオで密かにやろうとしていることは、妻と子どもと連絡をとることなのですね。どうして連絡してこないの?もしかして死んじゃったんじゃないの?などと不安に思ったりするのですけど、アークさんそれってもしかして奥さんと子どもさんは生きてるから連絡がとれないんじゃないですか、などと励まされもします。実際父と兄は連絡取れましたからね。この結末がどうなるかは読んでみてください。



僕も最初はこの作品を読んでちょっとした違和感を感じたのですが、それはAmazonレビューで多くの方が言及されていた口調の軽さなのかなと思ったのですが、それは上で書いたようにわざとDJに語らせているのは明白ですし、ラジオを媒体としたのもいとうせいこうさんが意図しているもので、さらに言えば、DJアークという平均よりちょっと下の人物を主人公に持ってくることによって、より悲劇を喜劇的なユーモアで包んでしまおうというか、そこまで言うと言いすぎですかね、作品のバランスを取ろうとしていると思うのですよね。



だから読んでみて、面白くなかったとか軽すぎるとか感じた人に僕がおすすめしたいのは、まず第1に、東日本大震災とはひとまず距離を置いて作品を読んでみること。そうするとこの作品の構造、文体がよくできているということがわかると思います。また第2には、東日本大震災の当時のことを思い出してみてください。テレビから流れるあの映像。土砂崩れで家族を生き埋めにされた女性が必死に救助隊に助けを求めている場面が今でも脳裏に焼きついています。もう何もなくなっちゃったよ、と号泣されておられました。そこまでの状況のなかでDJアークはみんなにラジオを発信しているのだと想像してみてください。こんな切ないことってありますか。



いとうせいこうさんは、おそらくこの作品が後世になっても読み伝えられるように、みんなが想像してくれるようにと願って書いたのだろう、ということをまさに僕らが「想像」できるのではないかと思います。この作品は文体としては独創的ではないように思います。そこが芥川賞を受賞できなかった理由のひとつではないかと思います。でもそれはきっと書き手であるいとうせいこうさんは、自分の名前が残るより、いっそ読み人知らずになってしまってもいいから、伝承としてこの震災が長く語り継がれることを祈って書いたのではないのかなと僕は思います。



この作品の2章でおもに語られていましたが、震災を体験しないものが震災を語る資格がない、などということがあるのだろうかという問題があります。このことはかなりデリケートな問題なので結論は出ないでしょうが、僕が思うに震災については自分が語らなくても誰かが語ります。ならば自分なりの意見を持って語ったほうがいいのではないでしょうかということです。太平洋戦争について僕の祖父はなにも語りませんでした。今思うと語らないのではなかったような気がしますね。それだけ深い傷だったのでしょう。僕が戦争について知っているのは学校で教えられたからでしょう。語り継がれないものは消えていくか誰かが語るものです。そして1番恐ろしいのが歴史が改ざんされることですよね。



震災について想像してみてください、そして語れるのかどうか考えてみてください、ということをいとうせいこうさんは伝えたかったのではないでしょうか。広島や長崎のように僕らが福島を語ること。阪神・淡路大震災や東日本大震災などの自然災害についても。成長神話のなかで原発推進がお決まりごとのようになっていますが本当にみんなはどこまで快適な生活を送りたいのでしょうか。いい加減にどこかで考え方を変えてみる必要は本当にないのか、ちょっと立ち止まってみる必要もあるのではないでしょうか。アメリカグローバリズムによって世界は緊張をいや増しているということはないでしょうか。世界を動かすトップエリートたちは国を動かすことがただ楽しいというだけのゲームとして世界を動かしている側面はないでしょうか・・・などと僕が言うまでもないことですが。



震災後に書かれた作品としては、この『想像ラジオ』と、川上弘美さんの『神様 2011』、高橋源一郎さんの『恋する原発』など。僕の読む本の傾向が偏っているのであくまで僕が読んだ作品ということで。川上さんの作品は『神様』の2011年度版。震災後に表現や想像力がどのように変わってしまったかを作家らしいアプローチで書いていましたね。といってもそんなに真剣に読んでなかったのですが。でもさすが作家さんということですよね。



そういう点でこの『想像ラジオ』はあまり文学作品と言えるものではなかったかもしれませんが、DJアークという語り手のおかげで、ふだん本などを読まない人たちにも受け入れられる作品になっていたのではないかと思います。まあもともと作品の文学的な出来不出来というものは僕のような人間が評価するものではないのでそれは人それぞれということで。



あ、あと補足ですが、この作品は死者であるアークが想像を働かせていろいろな人と「想像ラジオ」で交流を図るわけですが、それが生者の耳まで聞こえるのかという問題もありますよね。この問題を通して、いったい「死の世界」というものがどのようにして成り立っているのかということも考えさせられると思います。死の世界というのは生の世界が存在し、そこにいる人々が想像することを通してこそ存在する、と考えることもできるのではないでしょうか。だからDJアークの「想像ラジオ」というもの自体が僕らの死後の世界への憧憬となっていると言っても過言ではないでしょうね。この作品は僕らの想像力を試している。



最後に、僕はこの『想像ラジオ』について人に話して聞かせたのですよ。そうしたら泣かれる方もいらっしゃったのですね。だからこの作品の小説のフレームや語りの手法などに違和感を感じた方も、それはそれとして受け入れて読んでみてほしいです。きっと心に伝わってくるものがあると思います。この作品はふだん本を読んでいる人だけでなく、もっと大きな層、でかいことを言うなら日本語を読める人全員をターゲットとしている本だと思います。読んでいない方は1度読んでみることをおすすめします。

2015年5月5日火曜日

『夜想曲集』 カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの『夜想曲集』を読んだ。


夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro

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カズオ・イシグロの作品は『日々の名残り』、『わたしを離さないで』の2作を読んでいる。だが未だにその核心が掴めない作家でいる。それはおそらくイギリス独特の風土から来る物語造形が僕のなかで馴染んでいないからではないかと思っている。上2作の長篇は個人的には優れた作品であったと思うが、それと並ぶ作品、それ以上の作品はあると思っているので取り立ててカズオ・イシグロではなくてはならない理由はない。


5月1日に『忘れられた巨人』が発売されたがまだ買っていない。買うのを躊躇していたのは、買うための積極的な理由が見当たらなかったからだ。そこで5月11日から東京の銀河劇場で舞台『夜想曲集』が公演されるのだが、これを機会に『夜想曲集』のほうを再読してみることに決めた。読み終わって書いたのがこの感想である。


まずこの作品だが、夜想曲という名前を冠している通り、小品=短篇作品が5つで構成されている。
「老歌手Crooner」
「降っても晴れてもCome Rain  or Come Shine」
「モールバンヒルズMalvern Hills」
「夜想曲Nocturne」
「チェリストCellists」
この5作品を1つの繋がりあるものとして作品は構成されている。


「老歌手」

おそらく米ソ冷戦終結後の時代であろう、共産圏出身の男ヤンが主人公になっている。ひとつ書いておくが、この5作品に共通すると言っていいかもしれないが、主人公である語り手は主要な位置を占めることはない。この小品ではタイトル通り、老歌手のトニー・ガードナーが主人公となっている。


トニーはまだ冷戦期に一世を風靡した歌手である。彼の名声は共産圏に住んでいたヤンの家族にまで聞こえていて、ヤンの母親はトニーの歌に心励まされ生きていた一人だった。ヤンの母親にとって共産圏の暮らしというのがどういうものであったかは推測するしかないのだが、トニーのような西の国の歌手の歌が心の支えとなる、それもトニーは大衆歌手だ、それが皮肉でもある。


そのトニーはベネチアに妻のリンディと旅行に来ていたところでヤンと出会う。ヤンはギタリストで、彼はトニーに妻のリンディに愛の歌を捧げるイベントの伴奏者を頼まれる。舟で水路を通り、彼らの泊まっているホテルの窓の下でトニーが愛の歌をリンディに捧げるのだ。ヤンにはロマンティックなイベントに思われるが、トニーとリンディには複雑な事情があることがわかる。


リンディはトニーとは再婚で、それ以前はディーノという流行歌手と結婚していた。しかしディーノの人気が陰り始めるとともに2人の仲も冷え込んでいった。そしてディーノと別れ、トニーと結婚した。彼女はミネソタ生まれでアメリカンドリームを追いかける典型的な女だった。ディーノが傾くとともにリンディは次のパートナーを探し始めた。そういう女だとトニーもわかっていた。そして人気が陰るときがトニーにもやってきた。だがリンディと同じくトニーもパートナーを探していたのだ。自分に陰りが見え始めたことに気づき、若いパートナーを探し始める。若い女と結婚し再起を賭けることに決めたのだ。このことが一体どこまでリアリティを持っているのかは僕にはわからないが、物語としては明解ではある。大衆芸術の世界で生きる2人には大衆の人気がなによりだ。必要なのは才能ではない。


トニーはリンディの心に届けとばかりに歌声を送るが、それはリンディには届かない。そして届かないことにリンディも気づき涙する。2人は交わす会話も噛み合わない。なにもかもがうまくいかない時期が来たのだ。ただそれだけだ。そしてそこにはヤンとその母親が抱いていたトニー・ガードナーはいなかった。そこにいるのは27年連れ添った妻に別れのメッセージを送る、年老いた老歌手トニー・ガードナーがいるだけだった。


と、こう書くといかにもシリアスな話のように思われるかもしれないが、この小品集には、僕が今まで読んだカズオ・イシグロ作品のなかでもずば抜けてユーモアが盛り込んである。この「老歌手」ではあからさまではないが、年を経た夫婦の年月を感じさせる独特のユーモアがある。この『夜想曲集』の5作品すべてに言えることだが、出てくる登場人物には人間としての深みはない。つまりは教養的な人物など出てこないと言っていい。吐き気がするほど薄っぺらい人間も出てくる。人生について一辺倒な答えしか出せない思考停止状態の人物などもいる。


しかし、それらの人々にも必ずといっていいほどあるのがその「味」だ。彼らがこの同じ世界で生きているかもしれないと「共感」させるなにかがある。それが作品にほどよい「味」を与えている。つまり大味な人間描写をカズオ・イシグロはまったくしていない。味にも深みがあるだろうと言われれば、そういう意味では深みはある。だがその味付けは一流の料理人の味付けだと言っていい。僕が読んだ前2作品よりも抜群に優れている点はそこにある。


冒頭でも書いたのだが、カズオ・イシグロの長篇に匹敵する作品はあるだろう。しかしこの作品のような優れた短篇集はなかなか読んだことがない。代替できない、まさにカズオ・イシグロならではの短篇集であると言えるだろう。


書いていたら長くなってきたので、他の4小品はさらりと。


「降っても晴れても」

舞台はスペイン。うだつの上がらない中年男レイモンド。大学時代の友人夫妻チャーリーとエミリの家を訪れる。2人の関係はギクシャクしており、チャーリーにエミリとの仲を取り持ってくれと頼まれる。その頼まれかたがまず巫山戯ている。


要は、お前ほどのうだつの上がらないやつを見れば、エミリは俺のことを見直すだろう、ということ。レイも”あること”がきっかけでその話に乗ることになる。その前に書いておきたいのはチャーリーが歯医者の女に恋をしているということだ。肉体関係はもちろん恋愛関係にもなっていない。ただ、チャーリーは歯医者の女に会うためにせっせと「デンタルフロスを使いすぎている」。チャーリーはそういうやつだ。レイは上に書いたような”あること”からチャーリーとエミリの家を近所の犬が現れて部屋をぐちゃぐちゃにしたと見せかけなくてはならなくなる。そして犬の真似をして部屋を荒らしているところをエミリに見られる。このあと、レイとエミリの噛み合わない会話が続く。


読み直して気づくことは物語から受ける印象が村上春樹に近いということだ。もちろんこのような言い方は作家に対する侮辱と取られかねないが、非常に読みやすく、「チェリスト」は少々違うように思うのだが、登場人物の行動の傾向、そのあとの展開というのが抜群に面白い。そしてタイトルの付け方のセンス、この小品ならば、くたびれかけつつある人間に「夕暮れ」が象徴されていると言っていいだろうか。いささかシンクロしすぎている気がしなくもないが、その善し悪しの評価は読者に委ねられるだろう。


「モールバンヒルズ」

モールバンヒルズが舞台。主人公のギタリスト志望の男が、姉のマギーとその夫ジェフの経営するカフェで働くという話。主にドイツ人夫婦ティーロとゾーニャとの交流が語られる。


とにかく5作品を通じてまともな人間関係などない(それが普通?)というほどみんながギクシャクしている。ジェフは主人公の音楽の才能を認めない。姉のマギーもそれに近い。ティーロとゾーニャはそんななかで主人公の弾くギターを評価してくれる主人公の「芸術」の理解者だ。だがこの夫婦の仲があまりうまくいっていない。結婚生活の中ですれ違いが起きてしまって歳月が過ぎてしまったようだ。ひとつ感じられるのは、ゾーニャはティーロを大部分で認めていないだろう。僕に言わせればティーロは何もかもに批判する能力がない。判断力が欠如している。ゆえに行動が常に受動的にならざるを得ない。そしてそれを本人がまったく自覚していない、そういうことになるだろう。いい意味で言えば楽天的と言えるかもしれないが。


この『夜想曲集』に通底して見られるのは、古い女は若い女に男を取られる。そして逆もまた然りということだ。そのことを肯定的に見るか否定的に見るかはまた読者に委ねられるが、それが作品全体にある種の倫理的ではない別の価値観を与えているように思う。そのことはカズオ・イシグロの他の作品でも感じられる。僕なりの言い方をさせてもらえば、紋切り型の人間は出てこない。ゆえに善人なんてものも出てこない。悪人もない。だからみんなが相対的なものの見方でしか評価できない。そこが一種独特のリアリティを作中に醸し出させているとは言えるだろう。


「夜想曲」

5作品のなかで最もページ数が割かれている作品。この作品には「老歌手」で出てきたリンディ・ガードナーが再び登場している。主人公はスティーブ。サックス奏者で39歳。自分がサックス奏者として成功しないのは顔が悪いからだという理由で整形手術をすることになる。それまでの経緯が巫山戯ているのだが、そこは読んでみて楽しんでもらいたい。


最高クラスの腕を持つ医師に整形手術をしてもらったスティーブ。顔は包帯でぐるぐる巻きで、ビバリーヒルズの高級ホテルで術後の経過を見ている。そのスティーブの隣の部屋が、たまたまテレビで有名なセレブ、リンディ・ガードナーだった。スティーブはリンディからの不意の電話を受けてリンディの部屋を訪れることになる。


その前にスティーブのことを少々書いておく。彼はクロゼットの中でサックスを弾くことを日課にしている。変人ではない。家が狭いので近所迷惑にならないようにクロゼットを擬似防音室のように作り変えその中でサックスの練習をしているのだ。そんな彼の姿を見てか、妻はほかの男に取られてしまう。だがスティーブには音楽で成功するという夢がある。そのためには日夜クロゼットのなかに籠るのだ。


さて、リンディに呼ばれたスティーブだが、スティーブにとってリンディは、「この世の浅はかさと胸糞の悪さを象徴する存在」である。彼女と会話を続けるうちにスティーブは、おれはこのくずと同じところまで成り下がった、と思う。結局自分も大衆受けを狙うこの女のようなクズ野郎なのかなと。


繰り返し言うが、この『夜想曲集』を流れるのはユーモアである。僕たちはこの清濁併せ持つ世界を受け入れることが必要になるのだ。決してスティーブのことを悪く思わないでほしい。それが通じないのならば、僕の文章の表現力不足であるので、是非本作品を直に読んでいただきたい。5つの小品はそれぞれ明確な結末などはないがそれぞれの完成度は非常に高い、と僕は思う。書くべきことは書ききっているという感触を受ける。


スティーブに関しては、芸術の大衆化を受け入れないという姿勢が感じられる。しかしはっきり言うと、スティーブ本人に才能があるかどうかもこの作品には書かれていない。文章ではその音楽を書ききることはできないからだ。上では書かなかったが、スティーブは妻を取られた男の金で、しかも妻の提案で顔を整形するという奇行に走る男だ。この男のどこまでを信用すればいいのかはなかなか難しい。


とにかく道徳的とか倫理的とかそういうものとは別な、神話的とも言える、ゆえに現代では滑稽に思われる、独特の世界観があるのだ。それがカズオ・イシグロの世界を窮屈でなくさせているとははっきりと言えるだろう。


では、この「夜想曲」で印象に残った台詞を抜粋してみる。


>「けつに釘刺して死ね!」
けつに釘が刺さったら死ぬのかは不明である。もしかしたら英語圏の慣用句かもしれないが僕は英語圏に行ったことさえないので検証不可能である。


>「ええ、とてもよかったです」おれはそう言いながら、これはサックスのことでいいんだろうな、と思った。
リンディがスティーブに元夫のトニーのCDを聴かせる場面。リンディは大衆音楽を聴きながら恍惚状態になっている。耐えられない程感傷的なリンディがスティーブに感想を聞いてそれに答えた場面。リンディがスティーブをサックス奏者と認識しているかは不明。


>「スティーブ、あなたチェスはやる? わたしは世界最低のプレーヤだけど、チェスセットはすごいのがあるの。先週メグ・ライアンからもらったのが」
世界最低のプレーヤもメグ・ライアンのチェスはお気に入りらしい。それ以上は敢えて突っ込まずに次へ。


>「おれに旦那のレコードを聞かせやがった。くそっ。いまも別のやつをかけてるだろう。おれも落ちぶれたもんだ。あれがいまのおれのレベルか」
スティーブの台詞。


>「メグ・ライアンのチェスセットって何だ。駒が全部メグなのか」
電話で友人のブラッドリーがスティーブに言った台詞。


と、リンディの俗物ぶりが延々と続くこの十数ページ。その後、リンディがスティーブの演奏したCDを聴く場面がある。それを聴いたリンディはゆっくりと踊りだすがそれは長続きせず、2人のあいだに気まずい空気が流れる。このあとの結末は是非読んで確かめて欲しい。スティーブは終いにはステージ上で七面鳥の丸焼きを右手に刺してぼ~っと突っ立っている男になる。


ただ、リンディは興味深い台詞を吐く。
人生は一人の人間を愛するより大きい、と。


「チェリスト」

舞台はイタリア。主人公はサックス奏者、いや、語り手がサックス奏者で主人公はチェリストのティボールだろう。この小品はティボールとチェロの大家エロイーズ・マコーニックの話だ。


ティボールは元共産圏のハンガリー出身の若者だ。彼はオレグ・ペトロビッチの指導を受けたことを誇りに思っている。だがある日ティボールの前にエロイーズが現れて彼のチェロを指導することになる。ティボールは彼女の指導のもと、チェロの腕を上げていくが、ひとつエロイーズには謎があった。それはエロイーズがチェロを弾かないことだ。


この小品ではティボールのエロイーズに対する内面の移り変わりを丁寧に描いている。疑念が信頼に変わり、また疑念へと。エロイーズはおもわせぶりに”わたしたちのようではない”などと抽象的なことを言ったりするが、それが意味するところはわからないまま日々が過ぎていく。


結局エロイーズが本物であったか、偽物であったかはわからない。ただ、エロイーズに触れたことでティボールは変わった。彼は友人から、ある室内楽グループの仕事を持ちかけられるが、それに対してそれが自分には相応しくないと感じ、断ろうとして友人を怒らせたりするようになる。周りはエロイーズのせいでティボールは変わってしまったと言うのだった。


ただ、この作品の結末を僕なりに解釈するのならば、エロイーズは本物であったかもしれない。しかし彼女は芸術とは縁遠い実業家の男と結婚する。一方エロイーズから本物を伝授されたティボールは芸術の本物への扉を開けてしまったのだろう。といっても彼は室内楽グループの職に就くことになるのだが。だが、「夜想曲」でのリンディの台詞に合わせるのならば、エロイーズは一人を愛する道を選び、ティボールは人生を選んだようにも見える。だが、何度も言うようだが、そこには答えはない。


と、5作品について、ちょっとした感想を書いてきたが、『夜想曲集』という作品の魅力を少しでも書くことができていたらなと思う。カズオ・イシグロの長篇とはまた別の、短篇のための作品を書いたのだろうということをかなりはっきりと僕はこの作品を読んで感じたのだ。「音楽」と「夕暮れ」の、まさに人生の断片を鮮やかな筆致で切り取った5つの小品、そしてそれが纏められた短篇集になっているのではないだろうか。


カズオ・イシグロに興味を持たれた方は、本作品、それは決してカズオ・イシグロの入門的なものではない、そして最新の時代の作品に触れたいのなら『忘れられた巨人』を手にとってみてほしい。


忘れられた巨人
忘れられた巨人カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄

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