浪漫主義から自然主義へ・文体の問題
1国木田独歩の生涯
①生涯と作品
・明治4(1871)年に生まれ明治41(1908)年に没。まさに明治生まれの人です。37年という短い生涯でした。東京専門学校を中退しています。明治24年にキリスト教の洗礼を受けていてキリスト教に対する理解の深かった人です。国木田の時代はヨーロッパの様々な考え方が日本人のものとなりつつあった時代でした。
・明治25年にイギリスの詩人ワーズワースに触れます。このことは国木田の文学に非常に大きな影響を与えることになります。明治27年に日清戦争に従軍します。帰国後明治30年に『抒情詩』を田山花袋、柳田国男と発表。明治34年に『武蔵野』という「武蔵野」を含む作品集を発表します。
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・明治30年に発表した『抒情詩』は共著の詩集です。その作風は浪漫主義的でありました。「独歩吟」が非常に有名です。この当時柳田国男も詩を書いていました。
・明治34年の『武蔵野』には「武蔵野」「忘れえぬ人々」「源おじ」が収録されています。明治37年に『牛肉と馬鈴薯』を発表。明治40年に『窮死』を発表。
・国木田は浪漫主義から自然主義へと移り変わる時代を生きました。国木田は経営していた会社が傾き、胸の病気も悪くなっていき亡くなってしまいました。国木田は骨の髄まで浪漫主義的作家でした。自然主義的作品を書いたのは国木田の身体が弱っていったことと関係があると捉えるのが一般的のようです。
②その問題点
・短編「武蔵野」ですが、この随筆とも言えるものはワーズワース、ツルゲーネフの影響が色濃い作品です。国木田の時代の人々は外国の文学・思想を自分たちのものとして消化できた時代の人々でした。
・国木田は短編の名手で今読んでもその輝きを失っていません。短編の創始者としても国木田は高い評価を受けています。国木田は短い文章の中に詩的な思いを存分に残すことができる才能を持っていました。
・また社会に対する関心も非常に強く、尾崎紅葉のときに触れた民友社の設立にも関わっていました。平民主義を掲げ、反差別、平等思想を持っていました。社会を変えていこう、よくしていこうという強い思いは小民(=大衆、庶民)への共感として国木田の作品のどこからでも立ち上がってきます。代表的なものとして「忘れえぬ人々」「源おじ」「窮死」が挙げられます。
・民友社が国家主義へ向かうと国木田は文学へと重点を移していきます。社会的関心は持ちながら文学へと傾いて行ったのです。「政治から文学」へという移行は小田切秀雄など風潮としてあったようです。北村透谷が自由民権運動に挫折し文学へと移ったのもその一例です。これらの移行は魂に関わる問題だったのです。
・纏めると、国木田はローマン派の詩人として『抒情詩』『武蔵野』でスタートし、ローマン派の詩人として仕事を始めましたが『牛肉と馬鈴薯』以降リアリズム小説の作家へと移っていきます。それは島崎藤村、田山花袋なども同じでした。その当時の一般的傾向というものだったとも言えます。
2浪漫主義
①浪漫主義とはなにか
・浪漫主義とはなにかについても樋口一葉のときに書きました。再度書くと、浪漫主義の傾向は文字通りロマンチックな傾向で作品としては「独歩吟」「武蔵野」が挙げられ、現実よりも夢見るような世界への逃避という傾向があります。島崎藤村の詩を見ればわかるように非常に夢見がちな世界観を持っています。
・またそれのみならず恋愛感情をも含む自我の開放というのがもうひとつの大きな目的としてありました。自分らしい生きかたの追究です。当時は古くさい社会とのぶつかり合いは避けられませんでした。封建的社会との対立は必須でした。
・社会への批判という一面、戦う浪漫主義という一面は忘れることはできません。北村透谷や樋口一葉から国木田までそれは一貫しています。一葉は「女なりけるものを」と女だからといって制限されることはおかしいのではないか、女性だからといって何故苦しまなくてはならないのかということを「叙情性と批評性」を混じえて作品を書いています。「叙情性と批評性」は国木田にも当然見受けられます。
②独歩における浪漫主義
・国木田の浪漫主義の特徴として3点が挙げられます。1叙情性と2叙景を描きながらいかに生きるべきかという3社会の問題を描き出していることです。この3点がしっかりと結びついています。
・傷つきやすい自我を叙情的に表現するという手法です。傷つきやすい自我を肯定する傾向は「独歩吟」「武蔵野」に見られます。
・叙情性と叙景は強く結びついていて切り離すことはできません。それが社会に対する問いを非常に強く発生させることになります。「忘れえぬ人々」における登場人物の問いは国木田の問いといっていいでしょう。
・人間に対する信頼が非常に温かに流れているのが国木田の作風です。小民に対する温かなまなざしも同様です。国木田の作品には酷い人間は出てきません。
・そういった描き方が浪漫主義の特徴であったのです。それに代わる自然主義では悪を誇張して書くという手法も出てきます。
3自然主義へ
・その後文芸史の主流は自然主義へと向かいます。では自然主義とはどういったものなのでしょうか。
①自然主義とは
・19世紀後半にフランスの作家エミール・ゾラを中心にして起こりヨーロッパ各国へと広がった文芸思潮のことを言います。
・国木田の「武蔵野」は自然主義ではなく浪漫主義にくくられます。
・自然主義の「自然」とはイコール自然科学で、自然科学の方法を文学に応用したものです。つまり物理・化学・数学の方法が応用されたのです。
・それによりどんなものが描き出されたかというと、社会・人間の2点が挙げられます。社会と人間の関係を客観的かつ冷徹に描き出す主張、方法です。広く言えばリアリズムの手法のひとつと言えるでしょう。リアリズムの手法というのは現実にありそうなことを現実にありそうに書くという手法です。対立するものとしては泉鏡花の書くような神秘的作品が挙げられるでしょう。
・自然主義はヨーロッパで大流行し、日本でも明治40年前後から主流となります。それは大正時代まで続きました。保守本流です。昭和の始まりに三派鼎立の時代がありましたが、その一翼の私小説は自然主義の流れを汲んでいます。私小説は今でも芥川賞を受賞している作品もあるので今の時代にも続いているとも言えるでしょう。
・本家のヨーロッパではロマン主義の対極にあります。傷つきやすい自我を叙情的に書くのに対して厳しい現実を容赦なく客観的に書くという手法です。ロマン主義の反動ともいえるでしょう。
②文学史的展開ーー浪漫主義から自然主義へ
a.浪漫主義から自然主義への展開における日欧の相違
・ロマン主義から自然主義への移行はヨーロッパの文学史においては一般的なことですが、ヨーロッパと日本では多少の違いがあります。先にも書きましたがヨーロッパの自然主義はロマン主義への反発として生まれた側面が大きいです。
b.反発・内的必然・個人的理由
・日本でも浪漫主義に対する反発の側面はありましたがそれだけでは片付けられない点があります。まず内的必然が挙げられます。浪漫主義は自我の追究があり、自分らしく生きるにはどうすればよいのかということを強く訴えかけていました。それに加えて古くさい社会=封建社会との対立があったことは何度も書きました。
・その中で潰されていく人間たち、それを重点的に書いていく、それに重心を傾けていく傾向が日本ではありました。それを見る角度を変えてみると自然主義となっていったのです。つまり浪漫主義を徹底していった結果自然主義になっていったのです。
・日本ではこの見方というのは重要です。島崎藤村や与謝野晶子は社会と向き合い対立しました。そこから自然主義へと内的必然として移っていったのです。
・また、個人的理由として島崎藤村、田山花袋という人々がそもそもリアリズムで実力を発揮する素養を持っていたということも挙げられます。島崎藤村は浪漫主義的作品も上手いのですが圧倒的に自然主義的作品を多く残しています。田山花袋は浪漫主義的作品、特に詩ではその才能を発揮することができず自然主義の飾り立てしない文章でこそその才能を発揮することができたといえるでしょう。
・国木田は上の2人とは違い、骨の髄まで浪漫主義の詩人でした。しかし後年は自然主義的作品を書いていきます。
③独歩の自然主義的傾向
・明治40年に『窮死』を発表します。その筆致は非常に冷たく、冷徹な視点で希望の持てないリアリズムの文学を書き上げます。
・明治37年の『牛肉と馬鈴薯』以降リアリズムへと傾斜し、『窮死』までが国木田の自然主義的作品です。
・日本の自然主義はこの間、田山花袋が明治35年に『重右衛門の最後』、明治37年に『露骨なる描写』を書き、島崎藤村は明治39年に『破戒』を書いています。
・ゆえに国木田は日本の初期の自然主義の一翼を担っていたと言えましょう。リアリズムへ傾斜していったことは間違いありません。しかし国木田はそれにより身も心もぼろぼろとなります。骨の髄から浪漫主義的詩人であった国木田にとって無理がたたったのです。
・国木田は37歳という若さで命を落としますが、彼が長命であったならば日本独自の自然主義が出来上がっていたであろうと思われます。
4文体ーー日本の自然主義のもう一つの問題
・日本の自然主義は浪漫主義の追究した自我の問題、社会の問題の延長線上で生まれました。さらにそれに加えて文体の問題が挙げられます。この自然主義の文体がその後の日本の文章のスタンダードになっていくのです。
a.口語へ
・田山花袋は『露骨なる描写』で硯友社的美文に対する反発を表明しました。それは花袋が美文を上手く書けなかったことに起因し、それゆえ美文を批判したのです。
・花袋の主張した自然主義の文章は読んでいても面白くありません。しかしそれが花袋により自然主義を推し進めるものとなったのです。この時期が日本の近代的な小説の言語が確立される時代と重なります。
b.現代の文章表現の源流
・明治34年に発表された『武蔵野』の「武蔵野」「忘れえぬ人々」は我々が今読んでいる文章となんら変わりません。しかし、「源おじ」は文語で書かれています。『武蔵野』という作品は非常に不思議な作品集で文語と口語が混じっているのです。
・つまり『武蔵野』出版当時にはまだ小説の言語ははっきりとした方向を持っていなかったということです。しかし、国木田が口語に傾斜していることは窺えます。
・樋口一葉の『たけくらべ』のような文語が明治28~29年、尾崎紅葉の『金色夜叉』のような地の文が文語で会話文が口語というものが明治30年にありました。それが口語へと傾斜したのが明治34年ということも言えるのではないでしょうか。それは二葉亭四迷の言文一致をより洗練された形で示したとも言えると思います。
・そして明治40年頃、島崎藤村の『破戒』、田山花袋の『蒲団』の出現で、我々の使う言葉の原型が口語体の確立という形でほぼ完成するのです。
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