2016年7月22日金曜日

『人間失格』 太宰治

夏真っ盛りである。自分は訳あって太宰治を読むことになり5月からちくま文庫版の全集を読んでいる。太宰の作品で最も有名なものは『人間失格』らしい。自分は『走れメロス』ではないかと思っていたが『人間失格』が夏目漱石の『こころ』と並ぶベストセラーだということだ。


ということで自分は今年の始めに『人間失格』を読みたいと言った愛弟子青年Kに『人間失格』を含む本を贈呈した手前、ここで『人間失格』について自分の思うところを書いておくべきではないかと思い至った。この記事は漱石の『こころ』における「先生の遺書」と同じである。Kよ、心して読むように。



斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)
斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)太宰 治

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太宰治。
本名津島修治1909~1948。青森県津軽郡出身。家は大地主で父は貴族院議員も勤めている。中学の頃より作家志望であった。弘前高校を卒業後、東京大学仏文科に入学。その後中退。東大入学の頃より井伏鱒二に師事していた。1935年には佐藤春夫に師事。田中英光と交流。戦後は無頼派と言われた。1930年、田部シメ子と入水自殺を図る。1937年、小山初代とカルモチン自殺を図る。1948年、山崎富栄と入水自殺を図り、死亡。


『人間失格』の作品の構造を見てみよう。まず「はしがき」があり、「第1の手記」「第2の手記」「第3の手記」があり最後に「あとがき」がある。「はしがき」と「あとがき」の主人公は作家であろう。対して「手記」の主人公は大庭葉蔵である。上に書いた太宰の経歴を見る限り大庭葉蔵=太宰治という見方ができると思われる。また「あとがき」に出てくるスタンド・バアのマダムは「手記」にも登場する。そのマダムから葉蔵と思われる3葉の写真と3通の手紙を渡されるので、葉蔵と作家は同じ舞台(日本)の違った時間軸にいるということがわかる。


太宰という作家について詳しく書かれた本が出版されている。奥野健男の書いたものである。


太宰治 (文春文庫)
太宰治 (文春文庫)奥野 健男

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読むと奥野の太宰への思い入れを感じることができる。この記事での奥野についての記述は上の本から取っている。今は絶版状態で入手困難であるので図書館か古書で入手してもらいたい。


奥野健男は太宰という人間を分裂性性格であると断じている。その根拠は奥野の書に直接当ってほしいが、『人間失格』の「第1の手記」からも窺える。駅のブリッジの件や、食事というものへの無関心、父にお土産を聞かれたエピソードなど、葉蔵は生活の営みに対する実感というものをまったく感じることができないという性質を持っている。それはナルシシズム、他者への恐怖と繋がっていくのだが、奥野はその原因として先天的(遺伝的)にまたは環境的に培われた(封建制や下男、女中による性的虐待など)ものとして分裂性性格があると書いているのである。


太宰に対してシンパシーを抱く人たちは現代でも多くいると思うが、彼らはおそらく太宰の上記の気質を自己も内包していると感じているのではないか。太宰は少年期、芥川龍之介に心酔していたらしいが、芥川の自裁のあと、『如是我聞』で志賀直哉に次のようなことを書いている。


「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
日陰者の苦悩。
弱さ。
聖書。
生活の恐怖。
敗者の祈り。
君たちは何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。」(『如是我聞』 青空文庫)


如是我聞
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志賀直哉は小説の神様とまで言われた日本人の心性を直感的に鋭くとらえた作品を残している。高校教科書でも「城の崎にて」が載っていると思うが、「小僧の神様」などは読んだ人もいるかもしれない。志賀は文学史的には白樺派に属し調和型の私小説作家と区分されている。志賀の恐ろしいところは弱者に対する思いがあまりにも薄いことである。彼は太平洋戦争という国難においても戦前、戦中、戦後とそのアイデンティティは変わらなかった。白樺派の作家たちは特殊であると僕は思うので是非直接読んでみて欲しい。


『如是我聞』に戻るが、太宰が挙げているものを芥川が本当に苦悩していたかというと僕としては多少のズレはあるように感じる。それは別の人間がまったく同じ感情を抱くということはありえぬのだから当然であるのでここでは問題にしない。ただ、志賀に対する太宰の怒りというか訴えは真実であろう。芥川の晩年の作品を読むと感じられるあの鬼気迫る自己の精神のクライシスは太宰も共有していたように思う。それゆえ志賀のようなアイデンティティの振れぬ人物に太宰や芥川のような揺れ動く人間の苦悩は全くと言っていいほど理解できなかったであろう。太宰は初期の作品『葉』においてすでにヴェルレエヌから「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」という文章を引いている。太宰のアイデンティティの著しいほどの不安定は晩年まで、『人間失格』まで続いていたのであろう。


では『人間失格』という作品について見てみる。上に書いたとおり3通の手記を「はしがき」と「あとがき」で挟んだ構成になっている。ここで真っ先に出るであろう疑問は、なぜ3通の手記だけではいけなかったのか、ということである。なぜ「はしがき」と「あとがき」が必要であったのかということだ。太宰は実はこの『人間失格』の前に『トカトントン』でメタ視点を置く手法を試みている。『トカトントン』を精読してみれば分かるが、終盤部に私と某作家を見ている人物が現れる。僕はこの人物が太宰であると思う(正確に言えば私も某作家も太宰であろう)。

「この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。」(『ヴィヨンの妻』「トカトントン」p63 新潮文庫)


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ヴィヨンの妻 (新潮文庫)太宰 治

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この『トカトントン』という作品は非常に企まれている。優れた作品であると思うので読んでみて欲しい。太宰は企みの多い作家なのである。僕は『トカトントン』と同様に『人間失格』にもからくりがあると考える。太宰は葉蔵=太宰などと読み手に容易に読ませるような作品は書かない作家なのである。ゆえに「はしがき」と「あとがき」には当然意味が有る。


僕の考えを書こう。『人間失格』において葉蔵=太宰であるとは言える。しかし、葉蔵のすべてが太宰であるとは考えにくい。つまりは葉蔵は太宰の一部ではないかということだ。なぜそのように言えるかの根拠は先に書いたように、この『人間失格』は構造的にメタ視点を持たせており、葉蔵という人物をその葉蔵の主観と、作家の客観およびバアのマダムから見た葉蔵と多視点から相対的に見せることを意図しているように思えるからである。葉蔵という人物を一言でいうならば弱者である。意志薄弱であり他人の自分評におびえ道化を演じる弱さ、そしてその行動の幼稚さ、ナルシシズム。このような人間に対する深い同情を太宰は禁じ得なかっただろうが、それが自分であることには同様の嫌悪を持っていたであろう。他者を赦すことで自分を赦そうと企むがそれができぬアンチノミー。それが太宰である。


『人間失格』は太宰の遺作である。『グッド・バイ』があるが未完であるからそう考えても良いだろう。太宰はこの『人間失格』に己の集成を書き残したと考えることができる。そしてそれは「人間、失格」である葉蔵=太宰の「罪」の魂である。太宰は葉蔵という人物を書くことによってこの世界に自分の罪の告白をしたのだ。そしてそれにより自分の魂の救済を試みたのだと僕は考える。罪のアントは罰である。太宰は『如是我聞』に「聖書」という言葉を書いている。太宰は己が死んだときには神による審判を受けねばならない。そのための命懸けの闘いが『人間失格』という作品で行われたのではないか。そして葉蔵が罰せられることにより太宰は罪を償うことができこの世を去ることができたのではないか。そのように考えなければこの作品の構造の意味を理解することは難しいと考える。


太宰は作品に3つの手記を挟むことによって葉蔵=罪なる自己を相対的に描くことを可能とせしめた。太宰という人物の作品の全体を鳥瞰してみてほしい。彼は常に『人間失格』のような無頼の作品ばかりを書いてきたわけではない。僕の心動かされた『走れメロス』や『黄金風景』などといった作品には別の太宰もまた書かれている。吉本隆明は『人間失格』には、

「中期の健康な市民であろうと心がけた、そういう時代の作品と生きかた、つまりそういう時代を通過した太宰自身が含まれていないようにおもわれます」(松本和也『太宰治『人間失格』を読み直す』p17 水声社)

と書いており、精神の自伝としては足りないと書いている。僕もその通りではないかと考える。太宰という人間が、その魂が芸術家として持つ性ゆえにその自己の持つ罪を作品という形で罰したくなった、しなければならなくなったのではないかと僕は考えるのだ。よって僕は、葉蔵は太宰の「罪」なのだと結論づける。私小説の読み方のように登場人物を安易に作家とするような読み方は『人間失格』においてはできないと僕は考える。


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蛇足ではあるが、もう一つ考えてみたいことがある。以上のように読んでいったときに葉蔵という人物を太宰はフィクションとしてどう捉えていたのだろうかということだ。もちろん太宰は個人的には罪として捉えていたということは書いた。だが太宰は作家である。作家としての太宰は読み手に葉蔵をどのように読ませたかったのだろうかということだ。奥野健男の取るように太宰を分裂性性格と見たならば、太宰と同時代の読み手は太宰自身の精神のクライシスの問題を葉蔵に仮託したと読んだだろうと推測される。太宰の死を終着点とした個の実存の問題であると。それは奥野の著書を読むと窺われることだ。一方現代の読み手はどう読んでいるのか。先にも引用した松本和也の『太宰治『人間失格』を読み直す』に書かれていることで実際書に当たって欲しいが、太宰の問題は現代においてはコミュニケーションの問題へと帰結するのだと述べている。現代のようなモノにあふれた時代においては人でさえも物象化し自己に対する実感を持てなくなっている。社会のなかで極めて浅く表面的にしか生きることができない僕たちの存在の軽さの問題に太宰の問題が重なってくる。ちなみに松本の書には作家綿矢りさの太宰についての発言が引用されている。そこで綿矢は『人間失格』を読んだときに自分が漠然と考えていた内面の問題がすべて書かれていたと発言している。綿矢の高校の頃の発言のようだが作家としての言葉としては少々残念ではあると思う。綿矢をフォローするならば、綿矢の作品は彼女が太宰が書いた以外の現代に即した内面の問題を書いているのだろうと言えるということだ。


太宰が『人間失格』を通して書きたかったこと、それは人間が社会のなかで生きていく際に必ず向き合うことになる「倫理性」の問題ではないのか。志賀を批難したアイデンティティの問題も倫理性と表裏一体の問題であろう。『人間失格』は、この「倫理性」との対決、アイデンティティとの対決に敗北した太宰が最後に自分の罪を告白し罰を受けることを是とした物語ではなかったのではないだろうか。僕は世間で言われているようなナルシシズムに浸った「太宰神話」は太宰に対する壮大な読み違いだと思っている。もちろんそう読んでいる人がいても僕になにかを言う権利はないのだが。太宰治は一人の人間であった。しかしその創り出された作品は芸術の高みに至った。太宰は太宰自身が心酔した芥川のように同じく「人工の翼」を持って空へと舞い上がったのだ。読み手が「太宰神話」のような読み違いをするのならばそれは太宰を空から再び大地へと引きずり落とすことにならないだろうか。太宰は極めて偉大な作家である。太宰はナルシシズム的な読みをしている者たちを天上でうすら笑っているのではないだろうか。なぜなら葉蔵のような人間を最も嫌っていたのも太宰自身だからである。


最後に近代文学について。作家である辻原登は近代人、近代小説について次のように述べている。

「近代人とは、つまり、自己を意識した一人の人間のこと。そして、近代小説とは、物語が物語を意識したもの。つまり、物語が物語を疑う。これが近代小説の、構造的に最も特徴的なことだと思います。」(『東京大学で世界文学を学ぶ』p346 集英社文庫)

太宰こそが近代人、そして近代小説を見事に書き上げた作家ではないだろうか。


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*芥川龍之介に対する「人工の翼」については吉本隆明の「芥川龍之介の死」を参考にした。晶文社の『吉本隆明全集5』に収録してある。


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