二葉亭四迷『浮雲』
1文学史における『浮雲』
・今回の講義では二葉亭の、『浮雲』を扱ったわけですがそれはやはり前回の「近代史の始まり」論争があり、それとの関連で言文一致が問題となります。
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①位置づけ
・『浮雲』を近代文学史上でどのように位置づけるか。○○先生はここをかなり端折られて、結論を言うと、と言って坪内の、『小説神髄』との成立年の差はわずか数年でしかないので、どちらも日本近代文学の始まりと言ってよく、片や小説、片や評論ということで、2つ合わせて「日本近代文学の始まり」と言っていい、それに異論はないと思うと仰ります。そうなると、第1回から書いている明治18年説VS明治20年説って何だったの?と思うわけですが、そこはね、僕も大人なので自分で調べますわ。わからなかったらメールで質問してみるかな。
・『浮雲』とそれ以前の(江戸)小説には断絶があります。坪内の言う、人情を書いているかどうか、正邪善悪と勧善懲悪の差など。このことはつまり、『浮雲』は江戸の文学を正当に受け継いでいないということです。近代小説はそこからズレたところから始まっている。非常に象徴的作品だったということです。
・なぜ二葉亭がそんな小説を書けたかは前回も書いたと思いますが、二葉亭の素養がなにより大きい。二葉亭は外国文学から受けた影響が非常に大きかった。近世文学も好きだったのだけど、その影響は表面的なものだったそうです。江戸以前の文学=近世文学との断絶、親の遺産を受け継がなかった、それが日本の近代文学の大きな特徴と言えるでしょう。
②二葉亭四迷について
・明治の文学史を考えるときに外すことのできないキーマン二葉亭。その人物像に迫ってみましょう。
ⅰ生涯と作品
・1864年(元治1)~1909年(明治42年)没。ほぼ明治とともに生きた人物と言えましょう。本名は長谷川辰之助。尾張藩士の子で江戸に生まれました。『浮雲』でも市ヶ谷周辺の景色が描かれています。明治維新後にフランス語を勉強しています。余談ですが明治の文人は雅号を持っていました。鴎外や漱石もそうです。この文章では長谷川辰之助は二葉亭四迷で通していこうと思います。
・二葉亭は最初から作家になろうと思っていたわけではなく、軍人になろうと思っていました。しかし二葉亭は目が悪かったのですね。それで受験に失敗してしまいます。それから外交官志望に転じます。東京外国語大学に入学しロシア語を専攻します。二葉亭は、ロシアの南下政策に対して義憤を抱いていました。「お国のために何かをしたい」そんな強い思いを持っていたのですね。
・侍の子であったために社会というものに対する問題意識を強く持っていたという出自の問題もあります。当時の侍の子は軍人や警察官になった人が多かったらしいです。島崎藤村の、『破戒』を読むと、登場人物の敬之進が、士族で何とか生き残れたのは役場へ出るとか学校へ勤めるとか、それ位のものさ、と話しているのですが。敬之進が60歳くらいですから時代的にも合っている。どうなのでしょう。
・東京外語大では、グレイという先生に教えを受けます。グレイは教材にロシア文学を使ったのです。そこで二葉亭とロシア文学との出会いがあったわけです。そして文学の眼を開かせられます。しかし卒業間近に問題が起きます。東京外語大と一橋大学が併合されることになったのです。二葉亭はそれが気に入らなくて大学を辞めてしまいます。一橋は商人の子が通う大学でした。士族の自分が同じところで学ぶことはできないと考えたのではないでしょうか。○○先生は「そりが合わない」と表現していました。
・そして明治18年、二葉亭は坪内を訪ねます。どこで、『小説神髄』を手に入れたかは触れていませんでしたが、付箋をベタベタ貼り付けて坪内に話を聞きに行きました。前回も書きましたね。そして坪内から指導を受けて、『浮雲』を発表。明治20年に第1篇、明治21年に第2篇、明治22年に第3篇です。
・ここでひとつ問題になるのが、坪内の指導がどこまで、『浮雲』に影響しているかです。○○先生は、坪内の指導というより、坪内の手により様々訂正、加筆がされたのではないだろうかとおっしゃっていました。坪内が冒頭のほとんどに手を入れたのではないかと。それだけ坪内の影響力というのは当時強く、『浮雲』の最初の出版の際も「坪内雄蔵」という坪内の本名の名義で出版されています。坪内のネームバリューの大きさを窺わせますね。明治22年に完結したわけですが、実際には二葉亭の目論見としては続く予定でいたのそうです。未完のまま終わりましたが。
・二葉亭は波乱の生涯を生きていました。明治15~16年と文学の世界から離れます。政府・陸軍関係の語学の仕事、情報関係の仕事をしていたそうです。その後商売を起こします。日露戦争前にはハルビン、北京に行きます。その後日本に帰国し大阪朝日新聞の東京出張員になります。二葉亭は作品を明治39年、『其面影』、明治40年、『平凡』を書いていますがこの2つくらいしか書いていません。当時の風習として新聞に書かれる小説はその新聞記者が書いていたそうです。
・その後朝日新聞の特派員としてロシアに赴きますが、胸の病気を患い、明治42年インド洋ベンガル湾で命を落とします。ここで注意しておきたいのは、二葉亭は文学一本の人ではなかったのだということです。
ⅱその問題点
・問題点を挙げてみましょう。まず1つめは、明治の文学を担った人たちには士族の子が多かった。二葉亭も士族の子です。前にも書きましたが侍の子は高い教養を持っていたからです。しかし必ずしも社会的によい地位を得られなかったため社会に批判的な目を持っていました。2つめは士族の子は社会に対する強い関心を持っていました。二葉亭も軍人になり語学・情報関係の仕事をしていました。他の士族の子の文人として樋口一葉、北村透谷、夏目漱石、森鴎外などなど挙げられます。彼らに共通するところは、社会に対する強い関心を持っていたということです。
・「政治から文学へ」。小田切秀雄はこの視点に注目しました。例えば、北村透谷は自由民権運動に敗れ文学の世界に来ました。小田切秀雄その人もそうでした。3つめとして、二葉亭のロシア文学への素養の深さが挙げられます。当時の語学の勉強というものは、自分で辞書をつくりながら勉強をするというまさに一から(0から?)の勉強です。ゆえに非常に厳しいものでした。
・二葉亭の作品は近世文学とはまったく別の土壌から生まれたといえるわけですが、それと対照的な人物として尾崎紅葉が挙げられます。彼は硯友社を立ち上げ外国文学の影響を受けた作品を書いていますが、その作品には近世文学の要素も大きく受け継いでいました。
・二葉亭はではロシア文学からどのような影響を受けたのでしょうか。第1回の記事でも書きましたが、「わたしとは何か」「社会とは何か」という視点です。わたしと社会との関わりとはいったいどいういうものなのかという視点は、日本の近世文学にはなかったのです。これは確実にロシア文学から二葉亭が吸収したものでしょう。
・ロシアも日本も世界のなかでは後進国でした。ロシアは帝政ロシアの前近代的仕組み、日本は封建制の仕組みを壊して早急に近代化しなくてはならないという使命を帯びていました。近代化の波にもみくちゃにされながら必死の思いで西欧化しようとしていたという点に共通点がありました。そのなかで人々は大変な苦しみを経験することになりましたが。
・『浮雲』で文三は開化された近代的知性の持ち主で、外国語ができ論理的なものの考えもできるエリートでした。文三以外の人物は、無教養で封建的人間として描かれます。友人の昇は別かもしれませんが。つまり、『浮雲』という小説は当時の開化した人間の生きづらさを描いた作品であったのですが、それはロシア文学からの強い影響があって書かれたものだったのです。
・二葉亭は文学一筋に生きた人間ではありませんでした。政治→文学→政治と職を転々としました。その当時の文学の価値とはいかなるものだったのでしょうか。そして現在の僕たちにとって文学の価値は?文学とは役に立たないものなのでしょうか、価値のないものなのでしょうか。それを自分なりに考える必要があると○○先生はおっしゃっていました。みなさんひとりひとりが考えてみてくださいと。
2『浮雲』論
①『浮雲』はなぜ近代文学なのか
・『浮雲』は岩波文庫や新潮文庫、青空文庫で読めます。非常に古くさくてよくわからない箇所もありますが近代文学と言えるでしょう。ではなぜそう言えるのでしょうか。
ⅰ逍遥の問題意識を徹底化
・『浮雲』では、『小説神髄』で書かれている、善悪正邪の心のうちをもらさず描かなければならない、それが人間を書くということだ、という意識を徹底化しています。勧善懲悪は否定されます。勧善懲悪の否定は坪内が初めて言い出したことだそうです。二葉亭はさらに坪内の問題意識を徹底的に描きました。人間の根本のところに何があるのか、社会との関係をどのように捉えるのがよいのかということです。坪内はこの点をよく理解していませんでした。それゆえの、『当世書生気質』の失敗がありました。
・『当世書生気質』は読むとそれなりに面白いのですが、二葉亭が意識した内容の深みまでは到底達成していません。戯作レベルだと○○先生は仰ります。人間の心の奥深くまでは達していない。それに対して、『浮雲』は達していたと評価します。根本に潜む社会の問題、他者との関係がきちんと描かれていると。
・坪内は、人生への批判がなくては駄目だ、と言いましたが、『当世書生気質』ではそれをうまく書くことができませんでした。それが、『浮雲』では達成されています。『浮雲』を読んで当時の人びとは人生について根本的に考えることができたのです。
a.内容
・奥野健男の、『日本文学史』のP28の第1段落を読むとわかります。引用します。
「ではなぜ『浮雲』を近代文学のはじまりとするかといえば、それは作者と主人公、つまり作者と小説の構成とが抜き差しならない強い関係で結ばれている点にあるのです。近代的自我にめざめ、人間的に生きようとする青年は、当時の日本の藩閥政治を中心とする現実社会には受け入れられず、疎外され、孤立しなければならぬという作者の実感がこの作品の底にあるのです。それははっきりいえば、現実の体制的、主流的風潮に対する告発復讐の意識です。それが日本の現実に違和感を抱いていた当時のめざめた青年たちに、文三の悩みはひとごととは思えない切実な共感を抱かせたのです。」(『日本文学史』P28)
・当時の人々にとって文学は、遊びではなく、極めて真面目な研究であったということです。わたしとは、社会とは、ということと真剣に向き合わなければならなかったわけですね。
b.文体
・そのためにはそれを表現しうる文体を新しく創り出さなければならなかったわけです。『浮雲』は実験的でラディカルなものと評価され、ある程度の成功を収めました。
・『浮雲』は言文一致体の始まりの作品のひとつと言えます。それ以前に山田美妙が言文一致体を試みたりしていましたがそれよりも二葉亭は徹底していました。美妙はそれにスキャンダルで消えます。
・言文一致体は現代の僕らが使う書き言葉です。学校や新聞はこの文体で書かれています。言文一致体は古典の素養も要らず難しくない、つまり少なくとも現代ではほぼ誰もが読むことができます。当時はこのようなスタイルで書くことは確立していなかったので誰もが手探りでした。この時代の作家たちの作品に触れてみてください。様々な文体が試されていることがわかるでしょう。例としては、樋口一葉の、『にごりえ』、『たけくらべ』。幸田露伴の、『五重塔』。これらの作品は、『浮雲』以降に書かれたものですが、『浮雲』より読みにくいです。ゆえに二葉亭は「内容」、「文体」ともに日本の近代文学の始まりをつくった人だと言えるでしょう。
②偉大なる先駆・偉大なる失敗作
・『浮雲』は未完でした。二葉亭の最終的なプランでは、主人公の文三が発狂して終わる、というプランを考えていたようです。しかし、『浮雲』という作品があまりにも不安定だったために第1篇、第2篇、第3篇と書かれているうちに文体もおかしくなってきます。読んでみるとよくわかることです。第1篇では戯作や落語を手本にして書かれています。三遊亭圓朝の影響があるでしょう。
・第2篇になると、非常に心理描写が濃くなってくる。ここまで読み続けてきた人は、ずいぶん不安定になったなと感じるでしょう。そして人称、作者の位置が安定してこなくなる。読んでいて非常に面白いのではありますが、近世小説の軽さ、皮肉が前面に出てきています。そうかと思えば、作者が文三の内側にいるのか、文三になりきっていると言っていいのか、作者は登場人物の内面を含めて全部わかっているような書き方をしています。お勢のことを「尻の軽いどうしようもない女」だと二葉亭が言ったり、作者の位置が安定してこなくなります。
・中村光夫は、『二葉亭四迷伝』に書いています。『浮雲』は失敗の多い作品だったと。ほとんどお手本にするものがなかったので落語、戯作を参考にしたり二葉亭は悪戦苦闘している。中村は、偉大なる先駆、偉大なる失敗作、と評しています。
③日本近代文学一般の原型
・『浮雲』には、近代文学の始まりというだけであるだけでなく、その後展開される文学の色々な問題点が隠されています。それを見ていきます。
ⅰ<余計者>
・『浮雲』には、
強い必然性
わたしとは
社会とは
を考えたときに、社会/人間(個人)、との関係が描かれたわけですが、それに留まらず、社会↔個人の対立が描かれています。また、プランとして、近代↔封建、が書かれる予定でそのなかで文三は追い詰められて発狂するというプランが用意されていました。この図式に当てはまる近代小説は多いように思われます。
・では、なぜ対立しなければならないのか。個人の側に視点を向けてみると、真っ当であるが故に抑圧される文三のような個人を描くことは、今まで見えてこなかった社会の真実をあぶり出すことになります。抑圧され死んでいく側からの見えてくる真実の姿=<余計者>を書くことによってそれは積極的な価値を持つことになりました。
・強い側(社会)から書いてもそれを見出すことはできないということです。この書き方の手本はロシア文学にあるようです。それを象徴するもので日本独自の形態と言われるものに私小説があります。大正時代の破滅型の作家たちの描く主人公はろくでもない奴ばかりです。彼らは<余計者>なのです。彼らが社会でもみくちゃにされる姿を通して人間と社会の本質を見出していくのが私小説です。
・太宰治の、『如是我聞』があります。太宰の書く小説の主人公は<余計者>です。太宰は社会の片隅で滅びていく余計者にこそ人間の真実がある、と考えていました。太宰は、芥川の苦悩が志賀直哉にはまったく分かっていない、と言っています。
「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
日陰者の苦悶。
弱さ。
聖書。
生活の恐怖。
敗者の祈り。
君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。」
太宰は他に、『畜犬談』で、「芸術家はもともと弱い者の味方だったはずなんだ」と書いています。負けていく中から真実を捉えていこうという姿勢を取ります。
ⅱリアリズム
・『浮雲』はリアリズム小説と言われますが、その定義は非常に難しいです。現実にありそうなことを現実にありそうに書くことがリアリズムの定義と言っていいでしょう。それに反対するものに、作家泉鏡花の作品や水木しげるの作品があると○○先生はおっしゃります。
・『浮雲』は正確に言うと、リアリズム小説のなかでも写実主義と言われるものになります。近代日本はリアリズム小説を書くことを目指していたようです。その象徴が、『浮雲』になるのですが。日本では坪内、二葉亭の功績?によりローマンの文学が育たなかったのです。ローマンとはロマン、空想的、冒険的、伝奇的要素を持った小説のことです。江戸期の式亭馬琴の、『南総里見八犬伝』のようなものは否定しました。
・坪内は近世文学を否定しましたから、リアリズムがいいんだと頑なに言い続けました。それを二葉亭が実作として、『浮雲』を創り出しました。それにより日本の小説はそれから長くリアリズム中心の小説がヘゲモニーを握ることになります。
・トールキンの、『指輪物語』などが出てくる土壌を失ったのです。そのことは非常に残念であると○○先生はおっしゃっています。リアリズムは面白くない、非常に残念だと。
④小説言語の問題
・言文一致の問題のことです。それを取り上げます。
ⅰ手本
・二葉亭は戯作、落語を手本としました。この講義は、『浮雲』に焦点を当てられているためか、二葉亭が、「あいびき」を翻訳するときにどのようにしたのかということは触れられていませんでした。故にここでは戯作、落語を手本としたということで進めていきます。
ⅱ地の文の問題
・圓朝の、『怪談牡丹灯籠』、為永春水の、『春色梅児誉美』の影響が見られます。まず二葉亭は圓朝の落語を参考にします。落語というのは落語家が話しているのを文字にしたわけですから言文一致している。問題となるのは地の文です。落語に地の文はないですから。それをどうするかに二葉亭は非常に苦労しただろうと思います。そしてもう一つの問題が韻の問題です。『春色梅児誉美』は人情本でそれを参考にしたわけですが、この作品は七音五音で書かれていて非常にリズムよく書かれています。それを近代小説においては捨てなければならない、と二葉亭は考えたのでしょう。二葉亭もかなり苦しんだらしいのですが。
ⅲその後の展開
・ここで最後に確認しておきたいのは、言文一致体が始めから近代小説の文体の覇権を握っていたわけではないということです。先程も書きましたが、幸田露伴の、『五重塔』が明治25年、樋口一葉の、『たけくらべ』が明治28~29年の発表です。
・明治40年頃に日本は自然主義が主流となりますが、それとともに言文一致体が主流となります。それにより僕らの今読み書きしている口語文の基礎となった文体が確立されるのです。つまり覇権を握ったのです。この平易な文章の創出は読むために必要な古典等の教養を不要なものとしました。樋口一葉や幸田露伴は古典の素養がないと読みきることはできません。
・僕らの現代の世界はありがたいと言えるのですが、日本の近代文学が江戸以前の古典と切り離されてしまったという大きな弊害も生じてしまったのです。
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