2016年4月13日水曜日

『小説神髄』 坪内逍遥

某大学の通信教育部の某講義を自分なりにまとめたものです。
備忘録として残しておきます。
講義内容と違った部分があったとしても責任は持てません。
あしからず。



1 「近代文学」について


①近代文学はいつ始まったか
 ⅰ明治18年(『小説神髄』)か、明治20年(『浮雲』)か
   
  ・多くの学説が、明治18年説を取っているらしいです。明治18年、明治20年以外からという説もあるらしいけど触れなかったのであとで補足できたら補足します。明治20年説は、小田切秀雄を挙げてました。小田切は○○大の教授だったのでやたらと出てくると思いますよ。去年の教養の「文学」のときも柄谷行人がやたら出てましたし。この講義では明治18年説で話を進めていくということでした。


 ⅱ『小説神髄』を近代文学の始まりとする理由
  
  ・1つの大きな理由として、『小説神髄』が二葉亭の、『浮雲』から始まっていく近代小説に大きな影響を与えたからだと。二葉亭が坪内のところに付箋をベタベタ貼り付けた『小説神髄』を持って質問にやってきて坪内から指導を受けたというエピソードを話してました。これは去年も聞いたなと。正直去年の中澤忠之先生ってかなり優秀な先生だった気がします。まあ対面式のスクーリングとメディアスクーリングの違いもあるし、レポートの難易度とかでこっちの方が厳しいかもしれないのですけど。

  ・2つめの理由として、『小説神髄』のなかに新しい発想があったのではないかと考えられると。つまり近世文学とは一線を画するなにかがあった。それは、まったく不十分ではあったが、文学=美術(芸術)と捉える発想ではないかと。西洋的な小説のイメージですね。近世文学は娯楽であった。だからお上からも風紀を乱すものとされて刑罰まで科されたことがあったと。文学というものは道徳的でなくてはならない、そんな感じであった。つまり江戸幕府の儒教道徳の縛りがきつかったのだと。そこにそれとはまったく違う発想を坪内が、『小説神髄』で持ってきたのだという考えですね。先にも書きましたがまったく不十分なものだったのですけど。まあ、『小説神髄』を読んで知的エリートたちに新しい時代が来たな!と思わせるものだったのだろうと思います。

  ・以上の2点から、『小説神髄』を始まりとする明治18年説が有力だろうということになります。小田切秀雄の主張も読んでみたいですね。僕が持っているのは、『文芸学講義』と『文学概論』です。恥ずかしながらほとんど読んでいないのですが、前者は創作に重点が置かれているようです。書かれているのは後者のほうなのかな。後者の方が圧倒的に詳しく書かれていて、海外文学まで触れられています。


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②近代文学とはなにか

 ⅰなぜ18年~20年なのか

  ・政治上は年号が変わった明治初年から近代は始まったわけですが、文学の場合(政治もそんなにすぐ根付いたとは思えませんが)は、約20年の年月がかかったと。政治経済はシステムの問題で喫緊の課題ですからすぐ変わったのだろうと思われますが、文学は精神の領域の問題であるため20年かかったと。その20年にしても長くはなかったと考えられるということで。明治の始めの段階ではまだ仮名垣魯文が人気でしたから、まあそんなものかなと。

  ・現代で考えますと、20年前だと1996年。村上春樹が、『ねじまき鳥クロニクル』を書いたり、よしもとばななが、『キッチン』を書いた…のは1988年くらいかな、『アムリタ』が1994年ですね。その頃と今ではそんなに変わっていないという説明でした。社会情勢、政治情勢はとんでもなく変わってますけどね。文学は変わってないんだと。そういうことなのでそういうことにしておいてください。1948年に死んだ太宰治を最近の人と言ってましたからそんな感覚だということで。

  ・明治の初めにロシア文学が日本に入ってくる。なにが入ってきたのかの説明はなし。明治元年を1869年とすると、ドストエフスキーの、『地下室の手記』や、『罪と罰』、『白痴』などが入ってきていた可能性は高い。それに東京外国語大学の二葉亭がいた頃には、『カラマーゾフの兄弟』まで五大長編は全て書かれています。ロシア語専攻の二葉亭は読んでいただろう。まあ実際翻訳したのがツルゲーネフの、『あいびき』なのでそこはまた後で調べて補足しますけど、トルストイも合わせて近代最強のロシア文学に原書で触れていたのは大きなアドバンテージだっただろうと思います。

  ・政治に話を戻しますと、明治7年に自由民権運動があって、日本に「自由」と「民主主義」が入ってきた。明治初年から7年経っている。政治もすぐ根付いてないじゃないかよ!とツッコミをいれたくなるところですが、メディアスクーリングなので画面を見るしかない。メールで質問はできるんですよ。回数制限はないように思います。まあこんなくだらないこと質問しないですけど。で、大衆は「自由」、「民主主義」を徐々に自分たちのものにしていったと。帝国議会ができたのが1890年(明治23年)なので、ほら結局政治も文学も20年くらいかかるんだよ、と僕は思うのですが、「自由」、「民主主義」も精神の領域の問題ですからね。


 ⅱ近代文学の課題

 ・全15回を勉強してみてから考えてほしいということでした。「近代文学とはなにか」という大きな問題ですね。ここではあくまで一般論としてはこういう課題がある、ということで挙げられていました。では何を課題としたのか?

 
 ・3点挙げられます。
  1.必然性
  2.わたしとは
  3.社会とは

  これは奥野健男が挙げたらしいです。太宰治研究で有名な方ですね。メディアスクーリングではない方では奥野健男の、『日本文学史』がテキストになってます。この3点を合わせて、「自我の問題」と研究者のあいだでは言われているそうです。極めて深刻な問題として追求されていると。近世文学が遊び(「命懸けの遊び」だそう)と言われていたのとは対照的ですね。では説明をしていきましょう。

  近代文学には必然性がないと駄目だと。これは現代のいわゆる純文学でもよく言われることなので納得はいきますよね。僕の考えが浅い可能性はありますが取り敢えず。「必然性」を書かなくては駄目なんだという問題意識。これが「わたしとは」、「社会とは」と関連していく。わかりやすい例として『浮雲』が挙げられていました。


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  『浮雲』で見落としてはいけない、というか二葉亭が書いていたのは、
   ・個人を抑圧する社会
   ・社会に敗れていく個人

  この2点です。現代の僕らが読むと、文三の情けなさというのが際立つだけ、というように読めますが文三の情けなさには理由があったのだと。この2点を挙げて考えてみれば、『浮雲』の時点では小林秀雄が私小説に欠けていると言っていた社会の問題も書こうとしている、リアリズムが成り立つ、少なくとも成り立たせようとしている二葉亭の意識というものを感じ取れると僕は考えます。

  ちょっと話はズレますが、文三が生きている明治の新しい社会というものが、市川真人の言わせるところの「恋愛と結婚と性が結びつかない」社会ではなくなった、西欧近代のキリスト教的社会のモデルに変わっていっているのに、文三の叔父叔母は封建主義の生き残り的な存在なわけですよね。そこで江戸というものを残して威張っている、陰湿な社会のなかで文三が滅んでいくという物語を二葉亭は書いていると。漱石の『坊っちゃん』と真逆ですね。

 *ドナルド・キーンの『日本文学史 近代・現代篇一』によると、文三は士族道徳の生き残りとされていて、昇が西洋かぶれの立身出世男とされています。お勢も西洋知識にかぶれている「浮雲」のような女とされています。キーン氏の書く通りであるならば漱石の、『坊っちゃん』と同じ図式ということになります。となると『浮雲』という作品が、『坊っちゃん』の約年前に書かれたことやそのリアリズム描写の徹している(少なくとも第1篇は)も考えるに、『浮雲』は日本文学史上なお評価される作品となるでしょう。
 
  文三は優秀な男で、その優秀な男が古くさい社会に押しつぶされていく(文三の上司も友人の昇も古くさい男なのでしょう)、そんな物語のなかで、「わたしとはなにか」、「社会とはなにか」で悩む文三という主人公を創り出した二葉亭。こんな主人公を書かなくてはならない、これが二葉亭にとっての「必然性」ということなのでしょう。それゆえに、『浮雲』は近代というものにふさわしい内容を持った小説として評価されたということではないでしょうか。

  ここで再度確認すると、近代文学とは、近世文学とは違う、かつ遊びではない、ということです。坪内逍遥はそれまでの日本的なものは駄目なんだと全否定にかかったわけだろうと思います。近世文学に似るものは絶対に避けなくてはならないという西欧にどっぷり嵌っていたということだろうなと。その割には、『当世書生気質』が実作としては評価されずに終わったというのが坪内にとっては残念なことであっただろうと思います。



2『小説神髄』論

 ①坪内逍遥について
  
  ・○○先生はまず始めに、『小説神髄』は文学を学ぶ人だけでなく、文化全般を知るためにも誰もが読んでおかなければならない作品だと言っておられました。確かに、『小説神髄』は文学だけを語っている作品ではないですよね。江戸から明治へと変わる変革期に坪内が、次の時代はどのようにあるべきかを書いた作品として読めるわけです。

  ・坪内逍遥は、安政6年(1859)に生まれ、昭和10年(1935)に没します。江戸の末期からごく最近まで生きたと言っても間違いではない…と○○先生は言うのだけれど、最近じゃないだろうとw うちの親でも昭和20年代生まれですからね。僕にとっては過去の人という印象は強いです。まあそれは置いておいて、坪内は尾張藩の武士の家の出です。後輩に二葉亭四迷がいますね。だから二葉亭は坪内のところに来たというのもあるのかでしょう。

  ・重要な点は、武士の家、侍の家の子であるがゆえに、坪内は厳しい教育を受けていたということです。旧武士階級が近代文学で果たした役割は非常に大きかったということで、なぜかというと、没落したからですね。食うのに1番困っていたのが旧武士階級だったと。ゆえに社会に対して鋭い視線を向けているわけですね。自分たちを冷遇する社会に対して批判的だった。他の階級出身者が見逃してしまうところまで見えていたということです。武士階級出身者は他に北村透谷や樋口一葉を挙げていましたけど、たくさんいますよね。

  ・坪内は子供の頃から歌舞伎、戯作が好きでたくさん読んでいました。近世芸術に、もちろん近世小説というものにも造詣が深いわけです。ですが当時のインテリのパターンに漏れず、近世というものを全否定しました。西欧文明の洗礼を受けると、それまでの日本の近世芸術が取るに足らないつまらないものに見えてしまった。そう言った記述は、『小説神髄』のいたるところにあります。

  ・坪内の経歴を見ていきます。明治9年に東京に上京してきます。そして東京開成学校に入学し、英文学を学ぶ。この英文学と、子供時代に好きだった歌舞伎や貸本が坪内の教養の基礎となったということだそうです。漱石の漢文と英文学も同じで国内国外両方の素養が必要だったということですね。その後坪内は色々な国の文学を勉強します。

  ・明治16年に東大政経を卒業。学士の称号を得ます。この当時の学士は今のように大学乱立の時代ではなかったので非常に珍重されたものだったそうで。学士様が言うのなら!みたいな。その学士坪内逍遥が、小説というものを、『小説神髄』で大真面目に論じたことが大変な衝撃であった、ということらしいです。

  ・小説はそれまでは上等なものではないとみなされていました。それがとても大切で真面目なものなのだと坪内が言い出したわけですね。ちなみに二葉亭は本名を長谷川辰之助というのですが、文学をやると父に言ったときに、父が、「くたばってしめぇ」と言ったところから「二葉亭四迷」というペンネームがつけられたと言われますが、あくまで都市伝説だそうです。

  ・この当時は人情本などがお上に1ヶ月の手鎖の刑に処せられるなどという時代だったのですが、そんな状況下で坪内が、学士様が大事だと言った、ということが世間では大きな衝撃と受け止められたようです。

  ・坪内はその後、東京専門学校(後の早稲田大学)の講師となります。そこでシェイクスピア研究をし、翻訳をしました。坪内のシェイクスピアの翻訳は有名ですよね。明治18年に、『小説神髄』。ほぼ同時期に、『当世書生気質』。残念ながら実作としては評価は得られず、江戸文学に飾りをつけただけだとみなされました。はっきり言うと、『当世書生気質』は中途半端な小説だということで。


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  ・前にも書きましたが、小田切秀雄先生は、『小説神髄』は近代文学の始まりに当たらないと言っています。○○先生は、小田切先生の弟子ですが、『小説神髄』でよい、という立場を取っているようです。

  ・明治19年に坪内、二葉亭と出会う。そして明治20年に二葉亭、『浮雲』を発表。明治23年に坪内、早稲田の文学科の創設に尽力。明治24年に雑誌、『早稲田文学』を創刊。今でも続いてますね。川上未映子や黒田夏子などの芥川賞受賞者を輩出しています。当時は大正時代の私小説が多く発表されていたそうです。



②『小説神髄』の主張

   ・『小説神髄』の抜粋がプリントで配られているのですが、このブログだと貼付ができないようなので、後で抜粋部分を調べてページ数を書いておきましょう。
 
 ⅰ「人情」の描写・リアリズム
  
   ・「小説の主眼」の抜粋部分から、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。」と、有名な箇所が抜き出されています。「小説の主脳=人情」だと。人情は、人の心、考え方、心の内幕、というほどの意味だということでよいかと思われます。現在の僕らにとっては至極当たり前の主張に感じられますが、これがその当時は大変重要な主張だったのだということです。

   ・坪内のまず念頭にあったのが曲亭馬琴の、『南総里見八犬伝』で、それを否定しようとしたわけです、好きだったにも関わらず。日本的なファンタジー、ロマーンというやつ、壮大なスケールで描く嘘物語は駄目だと。余談ですが、NHKで今やっている上橋菜穂子の『精霊の守り人』は勧善懲悪ではない壮大なスケールの物語ですね。なかなか見ごたえがあるのではないかと思って観ています。

   ・まあ、そういう嘘物語を否定し、現実の世界を描いていくあるいは、現実に起こりそうなことを描いていく、そう、リアリズムの手法によって人間の心を描くのが正しいのだと坪内は主張したわけですね。「善悪正邪」の心の内幕を漏らさず描くことが必要だということです。本当に現代の僕らから見ると普通のことなのですが、テレビドラマの、『水戸黄門』とかは勧善懲悪ですよ、それまでは善悪正邪、つまり善玉は良いことしかしない、悪玉は悪いことしかしない、という作品ばかりだったわけです。そして善玉が必ず勝ってめでたしめでたしと。

   ・リアリズムは違います。上の、『浮雲』の文三がそうであったように、現代の作品でもままそうであるように、リアリズムは正義(「正義」の定義が曖昧ですが)が負けることもありますよね。坪内は勧善懲悪は駄目だ、いい人だって悪いことを考えるのだし、悪い人だっていいことを考えることがあるのだと。それを漏らさず書かなくてはならないのだと主張するわけです。

   ・坪内のいう「人情」とは、人間を表面的に描くのでは駄目で、その奥深くまで描かなくてはならないということで、それを主張したわけです。これは当時としては革命的で大変な主張だったわけですが、残念ながら、『当世書生気質』では上っ面しか描けてないではないかと非難されることとなります。坪内自身も論としては書けてもまだ実感としてよくわかってなかったということですね。


 ⅱ小説の目的と効果

  ・「小説の主眼」のところに、「まことにモーレイ氏のいへるがごとく、苟にも文壇の上に立ちて著作家たらんと欲する者は、常に人生の批判をもてその第一の目的とし、しかして筆を執るべきなり。」とあります。ここで挙げられている「(小説の)第一の目的」を○○先生は、「人生の批判」と解釈しています。ここでの「批判」は日常僕らが使う「相手を責める」などという意味ではなく、カントの使うような、「根本的に考える」といった意味です。人生を根本的に考えるのが小説だと坪内は考えたのだと○○先生は言っています。

  ・「小説総論」からの抜粋、「小説の裨益」からの抜粋から、芸術の目的とは何かについて坪内がどう考えていたかを考えるに、芸術の目的とは、「娯楽」であると。決して「教育的効果」をもたらすものではないのだと。ちょっと「あれ?」と思った方もいると思いますけどそれはあとで説明します。当時小説家はお上から睨まれる存在でした。儒教道徳が根強かった時代に前に触れた人情本など風紀を乱すものだったわけですよね。坪内はそれに対して、小説というものに教育的効果など期待してはいけない、「小説の目的」は楽しませることなのだと主張したわけです。まあ、『小説神髄』のほかの部分では、近世文学は娯楽で駄目だと言っていたくせに、今度は小説の目的とは娯楽なのだと言っているわけで、坪内の矛盾は明らかなわけです。後者が抜粋されている部分として「小説の裨益」の箇所と、「小説脚色の法則」の箇所があります。これもあとで岩波文庫版のページ数を書き足しておきましょう。こちらは芸術の効果は、教育的効果なのだと。なければただの玩具に過ぎないとまで書いています。

  ・これはどういうことよ、と思うわけですがこの点は個々人で考えてくれということでしたが、○○先生は、教育的効果は優れた芸術ならば勝手についてくる、と説明されていました。坪内は文学には効用があると、いわゆる効用説と言われる立場を取ったらしいです。文学って実際社会で役に立ちますか?という一般人が考える素朴な疑問がありますよね。坪内は、文学は役に立たないと言い切れなかったのです。だから文章が錯綜しているというわけのようです。これに対して北村透谷はひとつの考えを打ち立てたらしいですが詳しくは説明されなかったです。気になりますね。


 ⅲ近代主義の思想

  ・「小説総論」からの抜粋があり、そこでは詩など他ジャンルとの比較が論じられています。現在の僕らにとって短歌や俳句などと小説は相並ぶもので、いわばジャンルが違うという認識ですよね。それが坪内によると、当時はと言っていいのか、短歌や俳句と小説は序列があると言います。つまり、短歌や俳句は字数制限や音韻の問題で縛られる制限された表現方法で、小説という散文においてこそ人間の複雑な感情は最もよく表現できるのだ、という考え方であったように思われます。当時の日本のインテリはそう考えていたようですね。短歌など取るに足りない、西欧の近代小説こそが複雑な心を表現できるのだと。

  ・近代主義というやつです。かぶれているのですね。江戸以前を全否定したい。それが、『小説神髄』には非常に色濃い。西欧への劣等感がなせる技とも言うべきですね。


 ⅳ文体論

  ・さて、文体ですが、「文体論」の箇所が抜粋されています。そこで坪内は、新しい時代にふさわしい文体とはいかなるものかについて書いています。「西洋の諸国にては言文おおむね一途なるから」とあります。つまり、ここから言文を一致させようぜ、という発想が出てくるわけです。それを二葉亭四迷が受け継いだわけです。これは当然現代の僕らの口語体へとつながっていくものです。だから僕らの書き言葉の基礎をつくったのは坪内だと言えるということですね。この言文一致なのですが、問題は二葉亭の言文一致体が、明治40年頃に顕著になる自然主義にもつながっていくわけです。このことは次回に述べられるでしょう。


③『小説神髄』の文学史的位置づけ(まとめ)

  ・まとめに入ります。まず、『小説神髄』において坪内は文学を真面目なものとして考えました。これは大変画期的なことでした。そして人間の心の問題を重視しました。小田切秀雄が批判したように不十分ではあったのですが、一応善悪正邪入り混じった人間を書けと言ったと。儒教道徳に侵された式亭馬琴のような作品を批判しました(かなり及び腰だったようです)。そして文学にはどのような効用があるのかを探求しました。『小説神髄』では答えは出ていませんが向き合ったことに意義があると言うことでした。

  ・『小説神髄』は、その新しさゆえに近代主義の特徴が非常に強く表れている作品であると。それまでの江戸文学を全部否定する、まさに文明開化とは西欧化だ、という感じですね。そしてそのためにも新しい文体を創り出さなければならないという発想まで行き着いた。今日の口語体を創り出す端緒になったという意味でも大きな意義があったのだということです。



以上が第1回の講義内容でしたね。どんなものでしょう。これを全15回書くとなると無理じゃね~のと思わなくもないのですけどね。坪内逍遥についてはポイントは押さえられているとは思うのですが、大学の専門科目としてはどうなんだろう。この講義を足掛かりにして自分で深めていく作業は当然求められるでしょうが。

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