2016年1月3日日曜日

『風の歌を聴け』 村上春樹

久方ぶりです。ご無沙汰しておりました。

風の歌を聴け (講談社文庫)
風の歌を聴け (講談社文庫)村上 春樹

講談社 2004-09-15
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今回は村上春樹のデビュー作、『風の歌を聴け』を紹介したいと思います。
長く離れていたので「ですます調」ではなかった気がします。
ではそれを修正して、この作品について少し書いてみたいと思う。


村上春樹はこの作品で、群像新人賞を受賞した。芥川賞の候補作にもなったが受賞は逃す。この作品にまつわるエピソードがある。春樹はどうしてもこの作品の書き出しをうまく書けないでいた。そこでタイプライターを取り出し、出だしを英語で書いてみた。するとすんなりと書くことができたのだということだ。春樹は日本語に付着する余分な意味に悩んでいたのだろう。それを英語という異国の言語で書くことによってそぎ落としたのだと思われる。春樹の文体からミニマルを感じるという人もいるのではないだろうか。このエピソードは噂では聞いていたのだが最近発売された、『職業としての小説家』に春樹自身が書いていたので噂は真実であったのだろう。


この作品を僕は今回読み直してみたわけだが思ったことはやはり当時の時代の香りが強い作品だということだ。もちろん現在時から読み取れることは多くある。だがその当時はかなりセンセーショナルなものとして読まれたのではないかと感じるのだ。この作品は作家の処女作としては優れてよく企まれている、戦略的だと感じる。そして春樹の作品にある、春樹の、世界に対する姿勢、ひとつのポーズを取っているあの姿勢がよく出ている。ゆえに当時の文壇だけでなく当時の人々に流れていた空気のなかでも新鮮に見えたということは言えるだろう。


あらためて作品を読んでいくと顕著であると僕が思うのが、「逆接の接続詞の多さ」と「シンプルな文章」、そして「短い断章」で区切ってあることだ。まず何かをある姿勢でぽいっと投げかけ、それに対して逆接を持ってくる。そしてここが特徴だがその答えが微妙にずれている。特に前半部はそのずれがおそらく普通に学校教育を受けた人間が読んだら、煙に巻かれたように感じるほどなのだ。はっきり言えば、そこには意味のない極めて軽い文章が羅列してある。


いったいどういうことなのだ。これが全共闘の世代の後に現れた、新世代ポップスの香りを持った文学なのか、と僕はあくまで想像することしかできないのだが例えばこんな会話がある。

「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか? きっと何もかも上手くいくぜ。」
「手始めに何をする?」
「ビールを飲もう。」

何でもできると言っているやつら(僕と鼠)がやることがビールを飲むことだ。60年代の学生たちは学生紛争のなかで戦っていた。学生たちにとって何でもできるならば世界を変えるために力を使えと言いたかったかもしれないし行動を起こせと言いたかったかもしれない。しかし彼らはビールを飲む、と言った。こういうシラケ感、肩透かし感、諦念がこの作品では基調としてあるかのように描かれている。少なくとも主人公と鼠は行動によって世界を変えることを完全に諦めている。むしろ世界には鼻から期待していないと言ってもいい。


僕が小説家になろうと目指していたときに少なからず影響を受けた人物がいる。その人は渡部直己なのだが(彼は、『それでも作家になりたければ漱石に学べ!』などを書いている)、彼によると春樹の作品はチャリティー文学でしかないらしい。春樹の、『風の歌を聴け』も、『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』のなかで渡部独特の皮肉をまじえて批判している。渡部の読みは僕が学生時代に多大なる影響を受けたフランス現代思想の影響下にあるよう(蓮實や柄谷をよく引き合いに出す)だが、確かに彼が言うようにこの作品からは、ドゥルーズの言うような文章からの複雑な豊饒性、具象性の現れというものはない気がする。


渡部についてどうこういうことはないのだがあえて僕は思うには、渡部の春樹評価はもうちょっと古いかなと思う。なぜそう思うかを説明する前に、僕が春樹の作品を読み始めたのが、『ねじまき鳥クロニクル』以降だったということを知っておいていただきたい。『ねじまき鳥クロニクル』は春樹作品のなかではデタッチメントからコミットメントへと方向転換をし始めたターニングポイントとして位置付けられている。僕もそう思う。それ以前の作品はどうしても読んでいて欠けている部分があった。そう指摘されてもしかたがないところはある。現実への有効的効果がほぼないということ、政治性の欠如と春樹の思考パターンに現れている自己中心性(極めて神経症的な)、つまり他者の存在への歩み寄りがない。そのあたりを渡部直己は、『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者についてのルポルタージュを引き合いに出して洒脱に批判している、もちろん痛烈に批判しているといってもいい。


『ねじまき鳥クロニクル』以降に関しては僕はほぼリアルタイムで読んできた。その当時の空気を感じながら読んできた体験から春樹を評価すると、彼は少しずつ世界や他者について考え始めた、それまでは本当に一定の読者に自分なりのメッセージを作品に乗せているだけでいいやと考えていた節があるような気がしたが、明らかに変わっていったと言えるだろう。もともと春樹は文章を書く才能は持っていて、それをスタイリッシュな文体でいわゆる日本では純文学と言われるような要素を持たせつつ、物語の骨格までも様々なパーツに分解して再構築しなおすというポストモダン的な技術も持ち合わせた優れた作家だったと思うのだが、それ以前の作品には先ほど書いたように送信されたメッセージに非常に受けが悪い部分がある、何を言っているかわからない部分があるとは思う。


『風の歌を聴け』に話を戻すと、この作品は作中の「鼠」が「僕」の誕生日であり、クリスマスイブに毎年送ってくる本を僕たちが読んでいるという構造になっている。今ではそれほど目新しくはないし、お洒落でもないかもしれないけれどとても面白い仕掛けになっている。そしてこの「鼠」という男がとても興味深い人物で、彼は、『風の歌を聴け』を含めた、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』のいわゆる「鼠三部作」に登場している。一説には、『ノルウェイの森』にも登場しているのではないかとも言われている。


鼠は登場した時点で「なにか」に負けている。彼はいったい何をそんなに絶望しているのだろうと不思議に思うわけだが、それが作中第31章で、ある手がかりが与えられることになる。彼はおそらく学生運動の活動家であったのではないかと思う(作品の時間の流れをを見ると矛盾はあるのだが)。そしてそれには彼の「家」に問題があった。その矛盾を抱えながら鼠は活動していたのだろう。そして彼は敗れた。敗れた人間には何も残らない。彼は「ジェイズバー」で飲んだくれることになる。そんな彼が自分の心境を語る場面が第31章なのだ。何もかもあらゆるものに意味を見いだせない、そして意味を見いだせないそのことに取り立てて不都合を感じていない主人公の「僕」に対し鼠は語るのだがこのバーでの会話が非常に興味深い。


僕らがある存在と対峙するとしよう。その存在がある程度の大きさ、自分に見合った相手であるならばいいが、それを遥かに凌駕する大きさ、とてつもない大きさの存在だったとする。そうすると僕らはその存在の概観さえもつかみ取ることができないのだ。その巨大な存在の本質を明らかにすべくその抽象性をなんとか引き出そうとするがそれができない。その結果、僕らに見えてくるものはその存在のあくまで表面の具象性でしかないのだ。その巨大な存在の一部分をこと細かく描写することしかできない。それが僕らの限界なのだと。


だから鼠は諦める、そして自分にとってなんらかの自分が啓発されていくような文章を書いていきたいと決意する。彼は戦いに敗れて目的を失った。その代わりに今度は自分のために作品を書こうと考え、そして毎年「僕」に本を書いて寄越すようになる。


この、『風の歌を聴け』には、その時代を生きてきた人間たちの人生の、意識の断片が書かれている。僕、鼠、小指のない女、DJ、病気と闘っている少女、レコードを貸してくれた女、ジェイ・・・。そんな人々が抱えている社会に対する大きな、そして漠然としたあの当時の問題を春樹は「ずれ」と「逆接」という手法を使って(まだこの作品の時点ではシンプルにすぎるが)、巧みに描き出していると思う。この作品の驚くべきところは会話がかみ合っているところがまったくといっていいほどないところだ。しかし、それは春樹の企みであることは確かであろう。それが意識的なのか無意識的なのかはわからないのだが。そして加藤典洋が、『村上春樹 イエローページ』で書いているように、もしかしたら鼠は異世界にいるのかもしれない。


この作品の評価すべきところは、後半部であって前半部はそのための準備された無意味な軽さでしかないように僕は思う。特に第28章で突然街について話し出す。ここから加速度的に物語のエンジンの回転数が上がっていく。登場人物たちの抱えている不安や悲しみの叫びといったものが露わにされていく。この点をナルシシズムなのだといったらそうなのだろうと思うのだが、それをナルシシズムというだけで終わらせることができないような物語構造を春樹は前半部で準備していると思う。この作品はナルシスに浸らなくても、感傷的にならなくても少なくとも作家の処女作としては抜群によくできていると思う。確かに、世界との関わりに関しては、特に政治性においては、無関心の立場を取っているのだが彼らがその時代を生きていたのだという息吹を感じることができる。それは言えるように思う。


最後に作家の資質について付け加えておきたい。作家というものは文章を書ければいいというものではないと僕は考える。あくまで僕の理想とする作家像である。それは教養人でなけらばならない、あらゆるジャンルを網羅する広い文化的な知識を持ったものであることが理想とされるだろう。現代日本の教育制度で高い偏差値を取っているとか(もちろん低ければなにかと問題はあると思うが)、特に国語の成績がよかった、文章を書くのが得意だったということでは全然ない。まず第一に必要とされるのはそれが常人を遥かに超えた文化を自分のうちに抱えていること、それを開陳すべくその手段として文章を書いているのだということだと思うのだ。そのようなものの名前を挙げれば夏目漱石や谷崎潤一郎などがあげられると思う。僕の定義に当てはまる現代の作家はあまりに少ないと思う。学校でしっかり勉強してきて努力を重ねていい文章を書けるようになった、というものではないというのが僕の考えだ。


文学を芸術なのだと考えるのならば、才能のない人間はいくら努力しても優れたアートをつくることはない。つくれるのだ、特に小説というジャンルにおいては、という考えを持っている人がいるかもしれないが、それは芸術性というものを排除した上での小説というものだと思う。それならば書けると思う。そのことは村上春樹がすでに証明している、彼はこつこつとただひたすら努力してきたのだということを、『職業としての小説家』に書いている。ただ彼はそういうスタンスを取りながらも少なくない才能を持っていたように思うが。


この、『風の歌を聴け』は言葉でなにかを表現することの難しさ、ほぼ不可能であるということを書いていると思う。それを「書かない」という方法論でなんとか「書く」ことができないだろうかと悪戦苦闘してきた、それは春樹がこの処女作から現在にいたるまで通底しているテーマだと僕は思う。


最近、『村上春樹は、むずかしい』という本を加藤典洋が出した。久しぶりの加藤典洋の村上春樹論ではないだろうか。僕も買ったのだがまだ読んではいない。春樹を加藤典洋のように肯定する人もいるが、一方で柄谷行人や渡部直己のように否定する人もいる。といっても後者のここ最近の作品に対する評価はあまり読んだことがないので、もしかしたらもう評価の対象にはなっていないという可能性もあるのだが。


このような賛否両論のある春樹だが、僕は『1Q84』では何かひとつ乗り越えたなという印象を受けた。彼の作品のなかで溜まっていた澱のようなものがなにか昇華されたのではないだろうかと。しかし新しいステージへと向かうのかと思われた春樹だったが、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』ではあれ?と思った部分があり、話自体は面白かったのだがまだどのような評価をしたらよいのだろうかと僕は迷ってしまっていて未だに保留している。


ということで正月早々、『風の歌を聴け』と春樹の作品で始めたのだが、それは僕が春樹が基本的に好きだからだ。そのスタンスは変わらないだろうと思う。しかし他の春樹ファンと話す機会があるとかなり違った読み方をしているな・・・と不安を持ってしまうのだが。だが自分独自の読みができないのならば読まなくてもいいだろうということにもなるであろう。


ということで新年の初めは、『風の歌を聴け』であった。

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