2015年4月21日火曜日

日大法学部の建物内部には天秤を持った女神がいる。

なにか書くべき、と思っていながら書く事がない。書かないと文章力が落ちる気がする。といっても今までもたいしたことは書いてこなかったがこつこつと書いてきたことにも多少なりとも意味があったらしい。


週末は街に出かけて、時計のオーバーホールを頼んできた。そんな大した時計ではないのだが一応手巻き式の時計なのでメンテナンスはしておかなくては。ノモスというちょっと名前が固いブランドの時計だ。シンプルなデザインでタキメーターとかまったくついていない。焦げ茶色の革ベルトがかなり古びてきたので変えようかしらと。夏が来るまで待とうか悩むところ。


ノモスというと、ピュシス。強引に話を変える・・・。 アリストテレスの『二コマコス倫理学』をちら読みする。ここに出てくる「正義」について。正義justiceだ。justiceというと、正義なのだけど、この場合まあ英語だと「法」とか「裁判」とか言う意味も入ってくるようだ。ところで日大の法学部の建物には正義の天秤を持った女神様の像が立っている。これ毎年見てる。なぜ見てるのかは秘密。どうなの、他の大学にもあるのかなと思う。

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)
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アリストテレスの正義論によると、正義は「一般的正義」と「特殊的正義」に分けられる。さらに「特殊的正義」が、「矯正的正義」と「配分的正義」に分かれる。
一般的正義――法、道徳。
矯正的正義――民事の損害賠償、刑罰
配分的正義――社会保障
ということになるだろう。


よくわからないが情緒的な「正義」は一般的正義に入るのかね、アリストテレスによると。情緒的正義というのが曖昧で定義のないものだから少なくとも日本的な正義のイメージをこのカテゴリーとすり合わせるのは面倒なようだ。ロールズの正義論は概ね配分的正義について語っているのだろう。特殊的正義を語る上で重要なのは「価値」についてだろう。配分的正義は価値相応のものを貰わなくては割に合わない。税金や社会保険料を多く払うものがそれ相応の利益を得る。当たり前のようだが当たり前でないこと。社会権により修正は加えられるだろうが、みんなそれ相応の利益は欲しいだろう。矯正的正義は「価値」は問題にならない。そりゃ、人を殺しても、税金をたくさん払っているから罪が軽くなるとかね、それは現代ではありえない・・・よね。



ということで、書くことがなくなったので、今読んでいる本などを。

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アメリカの夜 (講談社文庫)阿部 和重

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阿部和重の『アメリカの夜』
物語の構造がちょっと凝っていて面白いというのもあるが、とにかく薄っぺらい描写が読んでいて楽しい。実は40ページくらいしか読んでいないのでどんな内容?と聞かれても答えれないのであしからず。一時読もうとしたときにことごとく廃版だったのだが、最近調べてみたら再版されていることに気づいた。まあ最初のブルース・リーについて書かれたところで、これなんなの?と思って読まれない可能性がある作品ではあると思う。「截拳道」とかもうみんな知らないだろう、と思うのだがそこがまたズレてる感じがしていい。阿部和重はフィリップ・K・ディックが好きなのかな。『ヴァリス』に言及しているところがかなりマニアックな感じがする。世代的には『ブレードランナー』の世代だからそれほど不思議でもないとは思う。




そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります (講談社文庫)
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川上未映子の『そらすこん』
こうやって並べられると本人たちは不快に思うかもしれないが、名も無き小市民がちょっとした楽しみでやっているブログなのでとにかくスルーしていただきたい。川上未映子と僕は考えているところというかなんだろう、なにかが決定的に違うような気がする。『すべて真夜中の恋人たち』とか『ヘヴン』とかね、面白いと思うし楽しんで読んでいるのだけどなにかが違う。タイトルのセンスとか好きなのだけど。そういえば川上さんは日大の通教に在学中だとか。先ほどの日大法学部のすぐ近くにある。書いてるうちに無意識につながったかな。


そういえば中学生が修学旅行から帰ってきたのだが、京都~大阪を周る学校と東京~千葉~神奈川を周る学校があるらしい。なにか豪華になったなと思う。僕の頃は飛騨・高山だった。職人さんの手仕事を見て回り、木彫りのお家をもらって、飛騨の奥地の山荘で宿泊するというちょっと地味な感じだった。だが温泉がでかかった記憶がある。ちなみに大阪組はユニバーサル・スタジオ・ジャパン、東京組は東京ディズニーリゾートも入っている。ハリーポッターとかミッキーとかね。お土産はやはり女子しか買ってこないのだな。やはり男子の方はマメじゃないのかなと思ったりもする。それともおうちの方の躾の問題なのだろうか。


などと書いていたら0時を回ったので寝ることにする。
(=´ω`)ノおやすみだょぅ

2015年4月5日日曜日

だからお前はすごいんだ。

ブログの更新が久しぶりだが、特にサボっていたわけではない。こちらのブログはある程度考えがまとまってから書こうと思っているので更新頻度はこれからも上がらにかもしれない。


ということで、読んだ本の紹介を。
今回は『グレート・ギャツビー』 村上春樹訳。


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先日、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』を観た。ディカプリオ主演で当時の謎めくような煌びやかな社交界のなかで光り輝く男ギャツビーが描かれていた。映画を観たのはこれで3回目だ。1回目は映画館で、2回目はどこだろう、どこかのチャンネル。そして3回目はWOWOWでだ。今回観ることでやっと『華麗なるギャツビー』という作品がどのような物語だったのかがなんとなくわかってきたような気がする。



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映画では冒頭で現れるgreen lightが印象的だ。ブキャナン邸の桟橋の尖塔につけられた灯。それが何を意味するのかは不明であるが、バズ・ラーマンはgreen lightを観客に印象づけようとしている。このgreen lightが何かの象徴であることは確かと言えよう。映画はかなり脚色がしてあり、登場人物たちの行動がより鮮明に描かれている。当然のことながら小説の細かい描写をそのまま映像化することは不可能でバズ・ラーマンは小説を忠実に映像化するならば7時間の大作にしなければならないだろうと言っている。よって映画はよりドラマティックかつよりわかりやすいものとなっている。T・J・エックルバーグ博士の眼がこの映画では不気味な視点として繰り返し現れてくる。まるで何かに見られているような。この映画ではすべての真相を知っているものはいない。ただ、エックルバーグ博士の眼だけは、この作品の真実を知っているぞと語りかけてくる、しかも強迫的に、感じる。映画ではまた豪奢な世界観のなかでデイジーが小説と対比するとより美しく描かれている。まずトムとデイジーの娘が出てこない。そしてこれは僕の主観が入るところだがデイジーが若く見える。ギャツビーより2歳年長のはずのデイジーが歳下に見える。印象的なシーンとしてギャツビーがデイジーを屋敷に招待したとき、クローゼットからシャツをばらまくシーンがある。幾種類もの生地の色とりどり鮮やかなシャツを次々とデイジーに向かって投げるギャツビー。まるで自分はデイジーに何でも与えられるのだということを誇示するかのように。デイジーはギャツビーが次々と投げてくるシャツを楽しそうに見ているがやがて泣き出す。デイジーの心はどのように移り変わったのだろうか。小説では次のようにある。


「...Suddenly, with a strained sound, Daisy bent her head into the shirts and began to cry stormily.

"They're such beautiful shirts," she sobbed, her voice muffled in the thick folds. "It makes me sad because I've never seen such - such beautiful shirts before."」『The great gatsby』


このシーンは映画において非常にうまく機能しているように思う。デイジーが何を悲しいと思ったのかはわからない。それはギャツビーへの悲しさだったのか、それとも今の自分の生活への悲しさだったのか。



映画は後半のプラザホテルでのシーンやその後の例の自動車事故についても観客に非常にわかりやすく明解に描かれている。幾分の脚色に小説の読者は多少戸惑うかもしれないが登場人物の造形は崩れていないので許容範囲と言えよう。そして物語は終焉を迎える。



バズ・ラーマンの映画を見直して思うにとてもよく出来ていたし、ギャツビーについて考えさせられることが多かった。また小説と比較することにより相対的に作品を見ることができるようになったと思う。そして気づいたのは自分がギャツビーという男をあまりに典型的な人物として捉えてしまっていたことだ。大雑把に言うと、彼は金持ちになってデイジーを取り戻しに来たということだ。しかし彼はそんな一言では形容できない、つまりgreatな男なのだ。ギャツビーはピンクのスーツ、黄色い車、豪華な大邸宅そして毎夜のパーティー、贅の限りを尽くした男のように見える。しかし彼の中に常にあるものがある。彼が目指していたなにかがある。彼はそのために、文中の言葉を借りるならば”精神を高めるために”、努力をしてきた。その目指した未来に存在したのがデイジーであったのだ。だから彼の目指したものは未来、彼の壮大なる夢はもっと先にあった。ギャツビーの夢はアメリカの夢だ。あの冒頭、そして最後に描写されるgreen lightは夢の灯りだったのだと思う。彼はアメリカの夢を追いかけるために努力を欠かさなかった。そこで手に入れたものとしてこの作品で最も印象的な台詞"old sport"がある。彼は紳士風を振舞うためにピンクのスーツ、黄色の車、社交的なパーティー、そしてイギリスオックスフォード風に「オールドスポート」を身につける。しかし彼とは決定的に出自の違う根っからの”上流”のトムの前ではそれはイラつかせる成金趣味でしかない。ギャツビーはどんなに自分を律し高めようともその壁を乗り越えることはできない。そしてそれはデイジーを奪われるということにも繋がる。彼はアメリカの夢に手を伸ばす。象徴としてのデイジーを奪い返すことができるかというところで覆される。彼のいわゆる”インチキ”なところがどうしようもなくあらゆるところで見え隠れする。それはどうしようもなく仕方のないことなのだ。だがそれが、ギャツビーが目指した夢、アメリカの、西部出身の、誰もが夢見るものなのだ。


「Gatsby belived in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - tomorrow we will run faster, stretch out our arms furthe...And one fine morning -

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.」『The great gatsby』



ニックは判断を留保することでジェイ・ギャツビーという仮面の奥に潜む、ジェームズ・ギャッツという哀しい男を見つけることができた。僕らと同じくギャツビーもアメリカの夢に狂わされた人間なのだと。どこで間違った?どこで一体何を間違った?彼は自分にそう問いかけ続けている。そんなギャツビーに対してニックが作品で彼に唯一の賛辞を与えるシーン。


「"They're rotten crowd," I shouted across the lawn, "You're worth the whole damn bunch put together."」『The great gatsby』



ギャツビーはアメリカの夢だ。そしてそれを象徴するのがgreen lightだ。彼が求めていたものは、冒頭に戻るとはっきりする。Thomas Parke d'Invilliersの引用に現れている。アメリカの夢のメタファーとしてのデイジー。それを追いかけ続けたジェイ・ギャツビー。夢を追いかける真っ直ぐな男ギャツビー、そしてそれを喰いものにし、彼の葬儀にもやってこない東部の金持ちたち。それはトムは当然、デイジーも同様だ。ニックがギャツビーに惹かれた理由はうまく説明できない。それを理解するため、そして言葉にするためにはこの作品は緻密すぎて読み込むのに多くの時間が必要であり僕の筆力もまだ足りない。それでも僕にもギャツビーがgreatな理由がようやくわかりかけてきたと言いたい気がする。


あと、この『グレート・ギャツビー』は僕がほぼ唯一英語で読んだ作品といっていいが、やはりちょっと翻訳した作品との微妙なニュアンスの違いというのがあるように思う。そのあたりが気になる方は原書で読むことをお薦めしたい。僕は村上春樹の翻訳版を片手に読んでいたが、そういう読み方でも多少なりとも得るところはあるように思う。