僕個人の解釈としては、モダン(近代)の次の価値観を探し求めた時代がポストモダンの時代だった。それは日本にとってニューアカの時代だったろうが、僕にとっては1990年代に触れたドゥルーズ、フーコーの思想だった。
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僕が高校生当時、紀伊國屋書店でたまたま見かけたのが中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ』シリーズ。中学生のときに吉本隆明を読んでいたがまったくわけがわからない馬鹿な学生だった僕にも中沢氏の本は読みやすく中身も目から鱗だった。
まあそれはいいとして、ニューアカの名残と大学時代に触れたドゥルーズとフーコー。これが決定的に僕の思想傾向を決めたといっていい。ポストモダンに触れる前に戦後の文学状況について少し触れたい。
戦後日本の文学は大江健三郎や石原慎太郎、三島由紀夫などがセンセーショナルな作品を発表した。内向の世代と言われる人たちも批判にさらされながらも独自の視線で作品を発表した。安部公房の『箱男』は思想的に読んでも面白い。その後時代は進んで1970年代を迎える。そこに断絶がある。1970年代のある時期から日本の文学には決して無視できない断絶がある。1980年代になるとそれはもう揺り戻しが効かない事態になっていたと僕は思っている。1970年代以降の文化しか知らない日本人が現れたことにより日本はある意味変わった=終わったと言っても良いだろう。
僕はそのことに直感でなんとなく気づいていたのだが、日本文学の歴史を勉強することでそれが間違いでないことに気づいた。本物の作品が消えた。文学だけでなく、映画、絵画、彫刻、建築、あらゆるものから消えた。日本は1970年代から新しい国として生まれ変わったかのように自分たちの歴史を忘れた。それは日本人の習性が消えたわけではない。歴史が消えたのだ。
ドゥルーズが『アンチ・オイディプス』で目指したものは既存の哲学体系、ヘーゲル的哲学体系へのアンチであった、それはもちろんフロイトのエディプスの三角形へのアンチでもある、がそれが日本人にとってはもはや跡形も残らず10年代を迎えている。千葉雅也氏や國分功一郎氏、東浩紀氏などポストモダン思想の後継者的な方々の本が売れていることに光を見たいが実際自分が生活していてポストモダンを感じることなどもはや皆無だ。
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ドゥルーズが描いたもののひとつにエディプスの三角形の批判、スキゾへの逃走がある。今の若い人たち、それに限らず馬鹿な政治家も平気で発言するが、でさえも自分たちの既存の社会的役割を演じることに違和感を感じていない、いやむしろ進んで演じようとしているようにさえ見える。父であること、母であること、子であることに満足しようとしている。学校で良い成績を取ること、いい大学に入ること、いい会社に入ること、いい社員であること。男らしくあること、女らしくあること、先生であること、生徒であること。
ドゥルーズはこのような傾向を神経症的と言ったが、まさに神経症に進んでなろうとしている。人びとが感じる不安をその社会的役割を演じる=権威と同化することにより安心を与えてくれるのだ。そこにポストモダンが目指した現状を改革しようという意志はもはやない。みなが○○らしさを求め、他者に○○らしくあれ、と強制する。まさにモダンへと還っていく退行現象が起きていると僕には見える。
ゆとり世代に対する批判もあったが僕はゆとり世代を否定的には見ていない。彼らは確かに僕の世代より学習にかける時間は少なく知識量も少ないだろう。しかし、ゆとり世代はオルタナティブとして手にいれたものがあるはずなのだ。それを有効に使う、彼らの能力を引き出すことができない上の世代に問題があるのだ。そして一度舵を切ったものをまた戻そうとする。今の学生はまた詰め込みに戻る傾向があるようだが彼らに少なくとも僕の世代と同じだけの知識を吸収する力はない。戻るにはおそらく20年ほどはかかるだろう。
勘違いしないでほしいのは詰め込み教育がよいと言っているのではないということだ。別に勉強などする人はするししない人はしないのだ。むしろ一方的に上から過度に詰め込まれた人間はその後まったく伸びない。それゆえにゆとり教育という発想があったと僕は思っている。僕はポリシーとして自分をその社会的に求められた役割とは別のイメージを与えようとしている。それが奇異に映っているかもしれないが、それが社会の硬直性を打破する、改革することにつながるのだと思っている。
2017年現在、ポストモダンは消えた。あの時代の思想が一過性のものだったのかと考える向きもあるだろうが、僕はそう思わない。あの時代、僕が影響を受けたドゥルーズやフーコーは確かに真実を語っていた。暗黒の中世の時代からルネッサンスの時代を迎えたとき、例えばマキアベリの政治哲学は受け入れがたいものに映っただろう。しかしそれが人間性の政治哲学であったことは間違いない。その人間の時代がドゥルーズのスキゾ概念によって終りを迎えようとしていた。フーコーのいう人間の終焉。
あのときの熱狂。少なくとも知を大衆が手に入れたというあの感覚は偽物ではあるまい。あの時代を生きたものとしてポストモダンが空白の時代だったと言われるわけにはいかない、強くそう思うのだ。