2016年11月24日木曜日

『偉業』 ウラジミール・ナボコフ 光文社古典新訳文庫

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフロシア語:Владимир Владимирович Набоков 発音 [vlɐˈdʲimʲɪr nɐˈbokəf] ( 聞く)ヴラヂーミル・ヴラヂーミラヴィチュ・ナボーカフ英語:Vladimir Vladimirovich Nabokov [nəˈbɔːkəf, ˈnæbəˌkɔːf, -ˌkɒf], 1899年4月22日ユリウス暦4月10日) - 1977年7月2日)は、帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパアメリカで活動した作家詩人。少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』で世界的に有名になる。昆虫 (鱗翅目) 学者チェス・プロブレム作家でもある。アメリカ文学史上では、亡命文学の代表格の一人である。ウラジミールまたはラジーミル・ナボコフと表記されることもある。


彼が1932年に書いた"Подвиг (Glory)" が1974年に渥美昭夫により『青春』というタイトルで翻訳された。2016年に新訳として光文社古典新訳文庫から『偉業』として出版された。ナボコフはロシア語版、英語版をともに書いており渥美訳の『青春』は”Glory"から、貝澤訳は"Подвиг "からの訳である。僕は貝澤訳を読んだ。以下は貝澤訳について書く。


偉業 (光文社古典新訳文庫)
偉業 (光文社古典新訳文庫)ウラジーミル ナボコフ 貝澤 哉

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”言葉の魔術師”として知られるナボコフであるが僕は高校時代に『ロリータ』を読んだだけであった。手元にある『ロリータ』の巻末を見てみると平成18年11月1日発行とある。つまり僕の高校時代には新潮文庫はいまだ若島正訳の『ロリータ』を出版していなかったようである。おそらく大久保康雄訳で読んだと思われる。最近この若島訳の『ロリータ』を読んでみたがこの作品に対して抱いていたイメージとかなり違った。この記事では『偉業』について書くためこれ以上『ロリータ』には触れないでおく。


ナボコフに言われることとして、要点だけを言って真ん中を抜いてくるという独特の文体の仕組み、彼独特の面白い比喩が挙げられるようだ。言葉遊びも非常に多く使用しその語彙が豊富で沼野允義氏は『賜物』を翻訳したときに辞書を引いても出てこないロシア語がたくさん使われていて自分のロシア語の能力に絶望したというようなことを書いている。対して英語版の作品もほとんどがナボコフ自身の手によるものだが英語版は英語圏に受け入れやすいよう、少々荒っぽい言い方をすれば商品化しやすいように書き換えられた部分が多いようだ。『カメラ・オブスクーラ』は大幅な改変が行われている。


ナボコフ作品の特徴としてジョイスやプルーストの影響が強いであろうことが『偉業』を読んでも推測できる。ナボコフが少なくともベルクソンを熱心に読んでいたという事実はあるようで彼の時間と空間に対する考えはベルクソン的であることも読んでいて感じられる点である。またイメージが様々な事象を移っていくことも指摘されており例えば『カメラ・オブスクーラ』では「赤」というイメージが木苺の赤からマグダの肌の色へと移り最後にはクレッチマーの血の色へと移っていく。イメージとして使われる素材として爬虫類が多いことも知られている。ナボコフは昆虫学者でもある。円城塔氏の『道化師の蝶』がナボコフからインスパイアされたものであることは沼野氏と円城氏の対談から知っていた。


『偉業』を読んだ感想を大雑把に始めに書くと、僕が今まで読んだ作品の中でも異常に細部にこだわりを持つ作品であったという印象である。もちろん『偉業』はナボコフ作品のなかではそのような傾向が特に顕著だと言えない部分があるらしい。しかし一見ナボコフの自伝的作品と名指され作品自体の評価はそれほど高くない『偉業』であるが僕はこの作品をナボコフの自伝的作品とは読んでいないし読み終わったときは優れた作品に出会ったときの感動を覚えた。この作品を読んで思ったのは言葉というものはコンテクストに組み込まれて初めてその本来の意味を確定できるということであった。ナボコフは作品において一見細部にこだわるあまり作品全体のテーマ性のようなもの(それがあるのだとしたら)とは関わりのない別の次元で様々な事象を独特の比喩表現を通して書いていると思われるのだが、言葉といういわば「言の葉っぱ」を喩えるならオセロゲームの優れた打ち手のように素人には一見無意味な一手を数々と繰り出す。その一手一手がゲームが終盤に近づくにつれてパチンパチンと自分の色へと裏返り最後は黒(もしくは白)のイメージで盤上が埋まるのである。それがナボコフの作品を読んでいて感じることだ。極めて具象的でかつ論理的に作品の細部は書かれている、そしてそのひとつひとつの事象が独特のイメージを喚起させるのだが、そのイメージ群が作品を読み終えたときに大きなイメージとして読み手を圧倒する、それが『偉業』を読み終わったときに僕が感じたものであった。


ナボコフは『偉業』の主人公のマルティンについて最初から「冒険のための冒険」しか目指しておらず、「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」だけであると1966年にインタビューを受けたときに述べている。そのような造形をしたマルティンをナボコフはアイロニカルに語っているのか、それとも読者は逆に肯定的にとらえていよいものか、そのことを念頭に置きながら『偉業』について考えてみたいと思う。


『偉業』は第50章で終わっているが第11章が欠けている。ナボコフという作家を考えるとなにか意図をもってしていることは推測できるのだがその意味するところはわからなかった。主人公マルティン・エーデルワイス、その苗字は「高貴な白」という意味を持つ。彼の本作品を通じてのイメージを表しているかもしれない。マルティンの祖父はスイス人で1860年代に妻インドリコフと結婚しセルゲイ・ロベルトヴィチをもうける。マルティンの父である。彼は医者で妻ソフィア・ドミトリエヴナとのあいだにマルティンをもうけるが後に妻と子と別居する。一家はロシアに住んでいたがソフィアとマルティンはヤルタへと移る。ソフィアはロシア的なものを嫌い英国的なものを好んだ。マルティンが母から受けた影響は強い。彼は子供時代から豊かな感受性を持ち合わせていて(幾分神経症的と思われるほどの)、幼少時代自分のベッドの上にかかっていた祖母が書いた水彩画に執着する。その水彩画は風景画で、森林が描かれておりその森の奥へと曲がりくねった小径が続いている。この水彩画の風景がこの作品にとって決定的な意味を持つ。母は幼かったマルティンに寝るときに英語の本を読んでくれるのだがその物語に水彩画と同じ森の小径が出てくるのだ。そのことに母が気づきませんようにとマルティンは今まで味わったことのない胸の高鳴りを感じることになる。この高鳴りの感情がマルティンの人生を以降縛りつけることになる。


ナボコフの文体の特徴として長いシンタックスが挙げられると思うが、それは僕も初めて読んでいった際は苦労されられた。しかし繰り返し読むことによって少なくとも日本語訳については訳者の努力の賜物であると思うのだがそれが心地よく感じられるのだ。僕が普段小説、特に凡庸と言っていいかもしれない小説を読むときに感じる焦りのようなものは僕の心の内に現れることはなく、ナボコフのおそらく知性を感じさせる文章を楽しむことができたようだ。この『偉業』に関してはどこのページを捲ってもそこに書かれている文章は非常に知的で情感に溢れた描写で書かれておりまさに1文字1文字が丁寧に練られて書かれていると実感することができる。話が逸れたので作品内容についての記述に戻る。


ナボコフは作品内のある出来事への布石を作品中の読者の記憶から薄れるほど前に置いていたりする。例えばマルティンが愈々架空の国ズーアランドへと旅立つことになる場面が終盤に描かれるがその前に何度もその動機となり得たであろう出来事を綴っている。『偉業』は約390頁に渡る作品だがその最初の記述は22頁の父とのエピソードから書かれている。この布石の打ち方は上に挙げたようにナボコフがオセロゲームの手を考えるように前もってほとんど関連がないかのように書かれている。同じく母のエピソードも書かれておりマルティンの子供時代がズーアランドへの旅を決意させるような若者に育てたことが暗に意味されているのだろう。他にもキーワードとして書いておきたいのは「Fragile」「グルジア人はアイスクリームを食べない」など。さらに付け加えることになるが、この作品中ではロシア、スイス、フランス、イギリスの様々な都市、そしてその経路(船中、列車内)が舞台となるがこのことはナボコフが旅する作家であったということも重要であるし、それら舞台となった国々の文化が色濃く反映されて作中人物が描かれているためにその人物たちの性格の特徴という点も注意深く読んでいかなければ読者は見誤る恐れがあるだろうということも書いておかねばなるまい。


マルティンは夢と現実を言ったり来たりして自分の記憶を改ざんする癖があるがこれは精神分析的に言えば反復強迫に近いものがあるように思う。病的とまではいかないがマルティンの他人と比べて極めて神経質な性格を物語る癖として作品を読む際には記憶に残しておいてよいだろう。


『偉業』という作品の前半部で特に印象深く本作品で重要な役割を果たしたと思われる出来事にギリシアへ向かう船中でアーラという25歳の婦人とマルティンが出会う場面である。マルティンにとってアーラは大人の女性で初めて恋に落ちる女性となる。彼女は既婚者であり詩人でもある。彼女とのファーストコンタクトは船中での「紫水晶の」という言葉であるが、彼女は次のような詞を書いている。

「紫のシルクの上、帝政風の天幕のもと、
あの人は私のすべてを慰めた、吸血鬼の口で吸いつきながら、
でも明日にはもう二人とも死ぬさだめ、身を焦がして灰になり、
麗しき二人のからだは、砂地へと散り混じる」

不倫の詩であろう。アーラは人気の詩人で貴婦人たちはこの詩を懸命に書き留めるのに夢中になるほどだ。そんなアーラとの出会いにマルティンは心踊らされる。母はアーラのことを悪魔主義と呼びながらもマルティンが恋をしたことには肯定的なようでアーラを受け入れようとする素振りも見せる。アーラについてのマルティンの印象は77頁から2頁ほどかけて詳細に描写されている。この描写は注目すべきであろう。後にこのアーラの印象が「黒い彫像」を見たときに鮮明に浮かんでくるのだ。マルティンにとってアーラは「赤」の存在。アーラのつけていたルビーの指輪は血の象徴であり、この象徴がイメージとして最終盤まで物語に付き纏ってくるのだ。「紫水晶の」をうまく感じ取れないマルティンを子ども扱いするアーラであったが彼女がマルティンの最初の女となる。


イギリスではジラーノフ家の人々と懇意になる。ジラーノフ氏(ミハイル・プラトーノヴィチ)、その妻のオリガ・パーヴロヴナ、その長女ネリー、次女ソーニャ、オリガの妹エレーナ、その娘イリーナである。この中でソーニャはまたこの物語で非常に重要な役割を果たす女性である。登場したこの章は第13章だが以降最終章までソーニャとマルティンとの共通の友人ダーウィンの三角関係に似たものが続く。イリーナは知的障害を持っているのだが彼女も物語で感情をつま弾く役割を果たしているように思う。イリーナについてはなぜこの物語にイリーナのような女性が必要であったのかはよく考えてみる必要がある。ここから第21章に至るまでマルティンのイギリスの特にケンブリッジ大学での出来事が書かれている。ここまで読んだ段階では作品のタイトルとなった「偉業」という言葉は出てこないのもあるし、旧訳の『青春』のほうが適切なタイトルであるかもしれないと考えてしまう人も多いと考える。


この作品で読み手が力を入れて読まねばならないのは第22章、第23章であろう。マルティンはスイスに戻っている。そこでマルティンが険しい岩棚を歩く場面がある。マルティンは後にもう1度岩棚を歩く。マルティンは岩棚の下の奈落の誘惑と闘うがその奈落の奥底には点のように小さな白いホテルが見える。マルティンの傍の岩壁を黒ずくめの蝶々が彼を挑発するかのように昇っていく。この岩棚の体験はマルティンにとって非常に大きなものだったことが暗示されるのだがその後イギリスに戻るとソーニャの姉ネリーとその夫の死去の報せを聞くことになる。ジラーノフ家は喪に服しており、マルティンの体験はジラーノフ家の喪に霞んでいく。それはジラーノフ氏へのマルティンのお悔やみの言葉が洗面所のドア越しに行われることにより強調される。ここで22章は終わるのだがナボコフはさらに次の23章でもジラーノフ家の喪を書くことによりマルティンの体験の意味を書き換えていく。ヨゴレヴィチという場違いな男が訪問しジラーノフ家は益々暗さを深めていく。その後マルティンがチェーホフの短篇集を持って部屋に戻り「犬をつれた奥さん」(示唆的である)を読んでいるとにわかに自分の理由のない不安の原因を悟る。いま自分のいる部屋が亡くなったネリーの部屋だったのだ。するとソーニャが部屋を訪れる。ソーニャはマルティンのいるベッドに乗ってマルティンに話しかけるのだがマルティンはソーニャの訪問の理由に気づかない。彼はスイスの岩棚で奈落の誘惑に勝った自分の話をしてしまう。ソーニャは自分の内面の不安の話をしながらマルティンの毛布にもぐり込もうとする。マルティンはソーニャを抱きしめ唇を頬に押し当てる。ソーニャは両の頬を濡らし部屋を出て行ってしまう。彼女はネリーとこの部屋で明け方まで話していたことを思い出しマルティンを訪問しただけだったのだ。マルティンはあくる日の朝ジラーノフ氏と浴室で対面してしまい彼のばかばかしさはさらに強調され、ソーニャからは「クレチン(低能)」と名指されることになる。この2章で書かれたことが決定的にマルティンのズーアランドへの旅と関わっていることは間違いないであろう。


『偉業』は約390頁の作品だがその中間、ほぼ半ばの第24章の最後198頁において(時間的には作品の結末が書かれた数年後に)マルティンの母ソフィアが「周囲に聞こえるほどのうめき声をあげた」という記述がある。このうめき声がこの作品でのひとつの象徴となっていることもまた疑い得ないだろう。最終盤393頁に次のような記述がある。

「ダーウィンは頬を拭って、ソーニャのほうは見ないようにしていたが、感じていたのは英国人が感じ得る最高に恐ろしい衝動――叫びたいという衝動だった。」

この「叫び」を象徴する人物が作中に存在する。それが上記で少し触れたソーニャの従妹イリーナだ。イリーナは知的障害を持った女性である。しかしここでもナボコフは彼女をただの象徴としては扱っていない。彼女の持つ叫びの原因となった複雑な事情は第36章で語られている。イリーナは14歳のとき暖房客車に母親と乗っていた際にチンピラに絡まれ、別の列車では父親がならず者の兵士たちに窓から捨てられてしまうという事件に遭遇した。その後イリーナはチフスを患い一命はとりとめたが言葉が喋れなくなり唸り声しかあげられなくなったのだった。この叫びや叫びの前の最高に恐ろしい衝動が『偉業』という作品においては感情が盛り上がる場面で何度も登場する。


最後に色のイメージについて少し書いておきたい。マルティンの苗字であるエーデルワイスはスイスの国花で「高貴な白」という意味だということは書いた。この作品で度々登場する色は多い。緑、黒、光や闇など注目すべき色はたくさんあるが白と対比されるものとして赤をあげておきたい。赤をイメージするものとして最初に明確なかたちで現れたのはアーラだ。アーラの指輪の真っ赤なルビー。それは罪、そして血=死をイメージさせるものなのだ。赤はその後煙草の火など至る所でこの作品のイメージをかたづくり、最後にダーウィンのパイプの火となり現れる。そのとき我々はマルティンの結末を物語の筋からでなくイメージから想像することになるのである。彼は自分の生来の「白」のイメージに背き「赤」のイメージに惹かれそれを追い求めた男だったと言えるだろう。


『偉業』はマルティンに焦点を当てて考えた場合、彼のズーアランドへの「冒険のための冒険」でありまさにナボコフ自身が言うように「だれにも必要のない頂上を取りに行こうとしている」作品であると言うことができる。この作品を読んでマルティンに対してどのような思いを抱くかは人それぞれであろうが僕はマルティンのなしたことは「偉業」であると思う。この作品をまとめることは困難であると感じるので何が原因でなにがこのような結果をもたらしたかを書くことは不毛であろう。ただナボコフの言葉を僕の言葉で言い換えさせてもらうならばマルティンは空の器を取りに行くという偉業に身を投じたのだと言えるのではないだろうか。まだまだ書くべきことはあるのだがこれ以上は冗長になると考えとりあえずここで終わりとしようと思う。また書くべき必要があると感じたならば追記として書きたいと考えている。


*メモとして。
樅の木の森を通る小径。何もかもがじめじめして霞んでいる。靄の奥にある建物。あの絵の中の景色のように謎めいている。黒い小径、濁った水、湿気を含んだ風のなかに灯る火。パイプの火がマルティンの行方を暗示している。