なかなか更新できないでいる当ブログだが、放置しているわけではない。ただ、書くだけの出来事が起きないだけであった。。。今回、とある某読書家さんのレビューを読んでいて思うところがあったので記事を書いてみようと思った。
その読書家さんは村上春樹、綿矢りさ、よしもとばなななどの感想を残されていた方で、読書傾向が似ているのかなと思い某サイトでお気に入り登録していたのだ(あちらからは登録されてこなかったのだが)。かなり本を読んでいる方で感想にも豊かな感受性が感じられていつもなるほど~と感心していたのである。
その方が先日、あの世間で話題になった神戸連続児童殺傷事件の彼が書いた『絶歌』について感想を書いていたのだ。書かれていることはもっともで、少年Aよ名前を名乗って書け、収入の乏しい仕事でも働き続けろ、それが責任を取るということだ、と非常に説得力のある感想を書かれていた。さらに『絶歌』からの引用をしておられた。この部分。
「祖母やサスケ。愛する者たちを次々に奪っていった死。自分には手も足も出せない領域にあった死を、自分の力でこちら側に引き寄せた。死をこの手で作り出せた。さんざんに自分を振りまわし、弄んだ死を、完璧にコントロールした。この潰れた猫の顔は、死に対する自分の勝利だ。」
僕は『絶歌』を読んでいないのだが、おそらく人間に手を出す前に猫を惨殺していた頃の少年Aの独白の引用だと思っている。確かに怖しい存在ではある。さらにこの読書家さんによると、『絶歌』には、少年Aが自分のつくった紙細工の天使を月の光に照らして恍惚とする、という場面が描かれているらしい。そのことに関してもこの読書家さんははっきりと拒否の姿勢をとっておられる。
ここからは僕の勝手な妄想に入るので、この読書家さんとはまったく関連のない話になるのでそれを断っておく。僕はこの神戸連続児童殺傷事件について事件が起きた当時人よりは多少ではあるが調べていたと思う。大学に夏休みのレポートを提出する課題となっていたからだ。少年A=酒鬼薔薇聖斗の身体性についての問題がレポートの課題だったが主題がずれてしまって評価は低かったことを覚えている。少年Aについて僕が肯定することは何もないと思っている。彼は現在公式ホームページを立ち上げているが、そのギャラリーの絵を見るとあらためて戦慄を覚えざるを得ない。この記事のタイトルは「感情移入するということ」とあるが、決して少年Aに感情移入するということではないのだということははっきりと言っておきたい。
では、かなりデリケートな話になったが続けようと思う。
つまりはフィクションの問題だ。僕らは読書をしているとき、多かれ少なかれ感情移入をしていると思う。その作品の登場人物の誰か、または作品の世界観や作者の文体など。そのなかでも1番シンプルなもの、登場人物への感情移入に絞って考えてみたい。
例えば推理小説、東野圭吾の作品を挙げてみよう。『容疑者Xの献身』の犯人である高校教師石神。犯人と言っているところでネタバレなのであるが、この作品は石神が犯人であることが重要なのではなく、石神がいかにして完全犯罪を行ったかが重要であるのでよいだろうと考える。石神はある事情で殺人の肩代わりをするわけだが、その結末を読む限りまさに「献身」である。読者の多くは石神に同情≒感情移入したであろう。
僕たちはこのようにして作品に感情移入をして読むことをほぼ当然のこととしているのだが、ここで少し考えてみたいのは上の少年Aが書いた手記、『絶歌』だ。読んでいないのに書くというのが暴力的であるとは思うのだが敢えて書かせてもらいたい。少年Aは僕にとって憎むべき存在であり、それゆえに彼の手記など手にとって読むことをしたくないのだが格好の事例ではあるので考えてみたい。彼の手記が事実に基づいて書かれていたものだと仮定する。上で登場頂いた読書家さんは少年Aへの感情移入を拒否した。感情移入の定義は、「対象自体が何らかの感情や情緒を表出していると感じ理解すること。」と三省堂新明解国語辞典にあるが、続いて、「俗には」とあり、「自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味にも用いられる。」とある。ここでは世間一般ではメジャーであると思われる後者の定義で話を進めたい。上の読書家さんは少年Aに自分の感情を投影できなかった。自分と少年Aとの感情があまりにも違いすぎていたからであろうか。
僕がここでいつもひっかかりとして思っていたことを取り上げたい。みなが当然のこととしていることであろうが敢えて考えてみたい。少年Aのように事実として起こった事件をもとに書かれた、例えば今回取り上げた手記に関しては感情移入は難しいだろう。なぜなら彼の存在のリアリティが僕らの感情移入を阻害するからだ。しかし歴史上起こった事件を題材にした小説などは山ほどある。戦記物などを僕が読むときには当然のことながらその多くをフィクションとして読んでいるわけで、そこにはどのような大悪人でも感情移入の余地を残しているように思う。それがノンフィクションとして書かれていてもその余地はあるように思う。
つまり言いたいのは、僕らが小説、映画、テレビドラマなどある媒体を通して出来事を追体験するときに、どうしても起こってしまうのは剥き出しのリアリティの欠如、作り手の意志による暴力的改ざんなのではないか。ではそうなったときに例えば、果たして今回のような『絶歌』のような手記が限りなくフィクションとして読まれたのならば、つまりリアリティを失った状態で感受する人間がいたとしたならば、少年Aに感情移入する人間もいるのではないだろうか。僕がこのことを強く感じるのは少年Aの手記を買う人がいるのだということに少なからぬ衝撃を受けているからなのだ。彼の異常人格に少なからずコミットしてみたいと思っている人がいるのだ、それが少年Aに報酬を与えることになるにも関わらず、僕はそのことに衝撃を感じる。彼の手記などは彼の手で言いように書き換えられた暴力的に行われた自己弁護のフィクションでしかないだろうと僕は思っている。
フィクションというものはある種のリアリティを出来事から削ぎ落とす危険を孕んでいる。小説などの媒体ではそれをうまく利用して作品を芸術として表現している作家もいる。しかし、多くの作品においてはフィクションはあくまでフィクションでしかない絵空事で現実とは一切関わりのないものですよというスタンスを取っているものが多いのが事実だ。フィクションに現実では叶わないものを夢見てそれに感情移入することはよいだろう。しかし、この世界のヒリヒリするほどの現実感を漂わせる作品というものもある。そういったものはフィクションだからという言い訳は当然通用しないように思う。そこに敢えて感情移入、上記の前者における感情移入を引き起こすことは絶対に不可欠なわけでそれなくしては作品の存在価値は無きに等しくなってしまうだろう。
つまりは現実を小説というフィクションの形式で語ることには相当の注意を払って行われなければならない。そこに安易にメタファを混ぜて語った場合にはこの世界を歪めてしまうとてつもない危険を孕んでいるのだということを僕は感じるのだ。それを権威のあるとされる作家などが行った場合、それは激しく糾弾されなければならないだろう。もはや作家にそれほどまでの役割や責任は与えられていないという声もあるだろうが、僕はまだ作家には世界への影響力は計り知れないものがあると考えている。書店に行って玉石混交の本を手軽に手に取ることができるこの時代だからこそ尚更読み手にもある種の責任を取る覚悟はいるのかもしれない。いや、小説などは絵空事なのだといい続ける決意のある人ならば別ではあるが。