『パルムの僧院』だ。
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なにがいいかと聞かれてもうまくいうことはできないのだが、この作品にはとびきりお気に入りの登場人物が現れる。主人公のファブリス、そしてその叔母のジーナだ。この2人を中心にした物語なのだが、これが大変に面白いのかというと面白い。だがじゃあ他の名作と呼ばれる作品より図抜けているのかと聞かれればそれほどでもないような気もする。例えば古典の名作『カラマーゾフの兄弟』のほうが登場人物がはっきりと区別されていて、3人の兄弟の役割もしっかりしていて、その彼らの思想対決は読むものをひきこむだろう。『パルムの僧院』にはそういった思想対決などというものはまったくない。ではいったい僕はこの作品のどこに惹きつけられているのか。
ところで、このブログで『夜想曲集』について感想を書いたのだがその記事もアクセス数がこのブログではずば抜けて高い。それがどういう理由かもまたわからないのだが、あの感想は物語世界の登場人物にフォーカスを当てた読み方をしていたのでそこのところが『夜想曲集』の読み方としてはシンプルでほかの方の書かれたものより読みやすかったのかもしれない。
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このBloggerに誘っていただいた師である麸之介師匠と、この作品についてお話させていただいて、この作品の魅力の一端を少なからずご教授頂いたので、前記事をこの記事を書くことによりお蔵入りさせるかな・・・と思っている。まあこれから書いてみて決めるけれども。だからといって『夜想曲集』について文学の王道的に批評できるわけではないので、そこは麸之介師匠にお任せして、僕は僕なりに自由に書かせてもらえればと思う。
で、なんで『パルムの僧院』を出してきたかというとなのだが、それはちょっと『夜想曲集』と比べることができるのではないかと思ったからだ。最近巷で流行っている、東京オリンピックロゴ問題のように似ているとかいうことを言いたいのではない。パスティーシュだとかそういうことを言いたいのではない。ただ、感覚的に比べられるんじゃない?と思っただけだ。まあ、カズオ・イシグロが『パルムの僧院』を読んでいないということは考えられないので、もしかしたらちょっとは影響を受けた部分はあるのかもしれないこともないかもしれないが、そんなことを調べる気もないし出てこないであろうから無視して良いだろう。
では書いてみよう。
『夜想曲集』の舞台は5つの短篇に分かれているのでいろいろだが、舞台のほうを観た(記事にしている)のでその影響からだろう、イタリアのベネチアの印象が強い。音楽を愛するものたちがベネチアに集まり物語を繰り広げる、そこではほろ苦い人生がイシグロのユーモア溢れる筆致で切り取られていて、副題のとおりまさに「音楽と夕暮れ」をめぐる物語となっている。補足だが、この短篇集は他にもイギリス、アメリカを舞台にしている。
対して『パルムの僧院』は、イタリアが舞台だ。パルム公国を中心に物語は進んでいく。主人公のファブリスは情熱的な青年で人生という草原を駆け抜ける華麗な白馬のような印象。その魅力に周囲の人間たちも惹き込まれていく。そんなファブリスを愛するジーナ叔母。彼女も周りを惹きつけて止まない美貌を持っている。この二人が小国パルムで繰り広げる情熱の物語だ。
一見するとどこに比較する部分があるのか、あるとしたらイタリアが舞台なだけではないのか、ということになるだろうがその通りである。イタリアが舞台なのである。だが僕がここで注目したい点は3点ある。「作者と舞台の関係」、「場」、「作者の存在」、その3点が『夜想曲集』と『パルムの僧院』を僕が結びつける理由となった。
まず第1点は、作者と物語となった舞台との関係性である。イシグロはイギリス人である。つまりイギリス人の作者がイタリアについて書いた(上記にあるようにこじつけの印象はあると思うが)。対してスタンダールはフランス人である。フランス人であるスタンダールがイタリアについて書いた。この異国人がイタリアについて書くということが、この2作品ではかなりの効果を持たせていると思う。当然のことながら異国について書くということはそれなりの理由があるだろう。決して安易に舞台を選ぶなどということはあり得ない。スタンダールに関してはイタリアへの敬慕の念というものは伝記にも、そしてこの作品の冒頭の「緒言」にも書かれている。イシグロがイタリアを選んだ理由というものはよくわからないがこの『夜想曲集』を読んでいてイタリアの印象というのは強い。イギリスやアメリカが舞台の短篇よりも異国感というのは確かに感じる。そこにイシグロの思いというものを感じ取ることは可能であると思う。
第2点は、作者が設定した「場」の問題である。『パルムの僧院』における登場人物たちの活躍する舞台は非常に限定されている。世界を飛び回るなどということはもちろんないし、ほとんどがパルム公国の限られた場で物語が進行する。これはイシグロの『夜想曲集』にも近いことが言えると思う。ベネチアなどの都市の限られた場所で物語は進行する。しかし、『パルムの僧院』においては納得してもらえる部分はあるだろうが、『夜想曲集』においては短篇である。短篇であるゆえに舞台=場が限定されるのはそれほど珍しいことではない、というかまったくない。ではなぜ僕が共通点を感じたかというと、その「場」への作者のコントロールの意識だ。両作品ともに作者である、スタンダール、イシグロともに、舞台となる「場」を非常に綿密に、人工的とさえ言えるまでコントロールしているということができないか。つまりつくられた世界に作者が圧倒的なまでのコントロールが行き届いている。この作者の「場」への意識のこだわり、それはこの2人の作者が作品を並々ならぬ集中力で描き出したことの証明であるといえないか。
第3点は、作者の語りの現れ方だ。スタンダールの『パルムの僧院』という作品での僕の印象は、作者があまりに前面に出ている、というものだ。それが出すぎているということではない。この作品を僕が大好きな理由はおそらく、このスタンダールの、作品に介入してくるほどの作品への肯定の意識だと思う。『パルムの僧院』を読むと、スタンダールが登場人物、特にファブリスとジーナを熱烈なまでに愛しているということが感じられる。このスタンダールの偏愛とも言っていいほどの情熱が、ファブリスとジーナ、その他の人物を、神がかり的に生き生きとした人間、魅力溢れる人間であることを担保しているように思う。対して『夜想曲集』においては、イシグロは物語のどこに座しているかがわからない。この作品の誰がイシグロを代弁しているかということもわからない。ただ言えるのは、イシグロの書く文体から生まれる心的イメージのなかを僕たちは物語として体験できるだけだ。しかし、『夜想曲集』を読み込んでいくうちに、イシグロがその物語世界の奥の世界、俄のラカニアン的に言わせてもらいたいが、僕らが体験しているイメージの世界=「想像界」とは別のところ、そこでイシグロは言葉というツールを用いて、象徴界に綿密な設計図を書き込むことにより僕らに芸術的としか言い様のない世界を体験させてくれているのだといえないか。ゆえに、スタンダールとイシグロは語りの現れ方という意味で対照的な作家であると僕は感じたのだ。
以上の3点を見比べることにより、『パルムの僧院』が『夜想曲集』と似ているとかそういうことではなく、小説の書き方として、スタンダールとイシグロが非常に優れた書き手であるということを僕は少しではあるが感じ取ることができたような気がする。言いたいことはそれだけだ。
スタンダールは墓碑に「生きた、書いた、愛した」と書かれるように望んだという。スタンダールの小説への情熱は僕のこころを動かさずにはおれない。対するイシグロは数作品を読んだ印象でしかないが、墓碑になにか刻むような人物ではないような気がする。しかしもちろんこうして比べているのだから、『夜想曲集』を含めイシグロの作品は、極めて個人的意見だが、僕にとってスタンダールと肩を並べる作品であると感じている、いやそこまでの理解はない、感じ始めているのだ。
小説は描き方によって作品の景色、印象がまったく変化する。その作者それぞれの個性的な文章表現を受容できる感性を持ちたいと強く思う。文章表現の可能性についてスタンダールとイシグロという2人の作者を通して心に深く刻みこむことができたと僕は感じた。もちろん、上で挙げた『カラマーゾフの兄弟』もまったく違う印象を僕に与えてくれた最高の作品のひとつであると思っている。これから出会うであろう新しい作品たちがまだまだ待ち受けていると思うと知的好奇心を擽られずにはおられない、そういった気分だ。
と、ここまで書いてみたが、この記事のアクセス数を目安に、旧記事の『夜想曲集』は閉じることを考えたいと思っている。こちらでは『夜想曲集』の内容については触れなかったが、旧記事の「舞台『夜想曲集』」のほうで物語部分は書いているし、閉じたら閉じたでじきにまた書くであろうとも思う。この記事はちょっと短かったかなとも思うがとりあえずここまでで。