2016年1月3日日曜日

『風の歌を聴け』 村上春樹

久方ぶりです。ご無沙汰しておりました。

風の歌を聴け (講談社文庫)
風の歌を聴け (講談社文庫)村上 春樹

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今回は村上春樹のデビュー作、『風の歌を聴け』を紹介したいと思います。
長く離れていたので「ですます調」ではなかった気がします。
ではそれを修正して、この作品について少し書いてみたいと思う。


村上春樹はこの作品で、群像新人賞を受賞した。芥川賞の候補作にもなったが受賞は逃す。この作品にまつわるエピソードがある。春樹はどうしてもこの作品の書き出しをうまく書けないでいた。そこでタイプライターを取り出し、出だしを英語で書いてみた。するとすんなりと書くことができたのだということだ。春樹は日本語に付着する余分な意味に悩んでいたのだろう。それを英語という異国の言語で書くことによってそぎ落としたのだと思われる。春樹の文体からミニマルを感じるという人もいるのではないだろうか。このエピソードは噂では聞いていたのだが最近発売された、『職業としての小説家』に春樹自身が書いていたので噂は真実であったのだろう。


この作品を僕は今回読み直してみたわけだが思ったことはやはり当時の時代の香りが強い作品だということだ。もちろん現在時から読み取れることは多くある。だがその当時はかなりセンセーショナルなものとして読まれたのではないかと感じるのだ。この作品は作家の処女作としては優れてよく企まれている、戦略的だと感じる。そして春樹の作品にある、春樹の、世界に対する姿勢、ひとつのポーズを取っているあの姿勢がよく出ている。ゆえに当時の文壇だけでなく当時の人々に流れていた空気のなかでも新鮮に見えたということは言えるだろう。


あらためて作品を読んでいくと顕著であると僕が思うのが、「逆接の接続詞の多さ」と「シンプルな文章」、そして「短い断章」で区切ってあることだ。まず何かをある姿勢でぽいっと投げかけ、それに対して逆接を持ってくる。そしてここが特徴だがその答えが微妙にずれている。特に前半部はそのずれがおそらく普通に学校教育を受けた人間が読んだら、煙に巻かれたように感じるほどなのだ。はっきり言えば、そこには意味のない極めて軽い文章が羅列してある。


いったいどういうことなのだ。これが全共闘の世代の後に現れた、新世代ポップスの香りを持った文学なのか、と僕はあくまで想像することしかできないのだが例えばこんな会話がある。

「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか? きっと何もかも上手くいくぜ。」
「手始めに何をする?」
「ビールを飲もう。」

何でもできると言っているやつら(僕と鼠)がやることがビールを飲むことだ。60年代の学生たちは学生紛争のなかで戦っていた。学生たちにとって何でもできるならば世界を変えるために力を使えと言いたかったかもしれないし行動を起こせと言いたかったかもしれない。しかし彼らはビールを飲む、と言った。こういうシラケ感、肩透かし感、諦念がこの作品では基調としてあるかのように描かれている。少なくとも主人公と鼠は行動によって世界を変えることを完全に諦めている。むしろ世界には鼻から期待していないと言ってもいい。


僕が小説家になろうと目指していたときに少なからず影響を受けた人物がいる。その人は渡部直己なのだが(彼は、『それでも作家になりたければ漱石に学べ!』などを書いている)、彼によると春樹の作品はチャリティー文学でしかないらしい。春樹の、『風の歌を聴け』も、『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』のなかで渡部独特の皮肉をまじえて批判している。渡部の読みは僕が学生時代に多大なる影響を受けたフランス現代思想の影響下にあるよう(蓮實や柄谷をよく引き合いに出す)だが、確かに彼が言うようにこの作品からは、ドゥルーズの言うような文章からの複雑な豊饒性、具象性の現れというものはない気がする。


渡部についてどうこういうことはないのだがあえて僕は思うには、渡部の春樹評価はもうちょっと古いかなと思う。なぜそう思うかを説明する前に、僕が春樹の作品を読み始めたのが、『ねじまき鳥クロニクル』以降だったということを知っておいていただきたい。『ねじまき鳥クロニクル』は春樹作品のなかではデタッチメントからコミットメントへと方向転換をし始めたターニングポイントとして位置付けられている。僕もそう思う。それ以前の作品はどうしても読んでいて欠けている部分があった。そう指摘されてもしかたがないところはある。現実への有効的効果がほぼないということ、政治性の欠如と春樹の思考パターンに現れている自己中心性(極めて神経症的な)、つまり他者の存在への歩み寄りがない。そのあたりを渡部直己は、『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者についてのルポルタージュを引き合いに出して洒脱に批判している、もちろん痛烈に批判しているといってもいい。


『ねじまき鳥クロニクル』以降に関しては僕はほぼリアルタイムで読んできた。その当時の空気を感じながら読んできた体験から春樹を評価すると、彼は少しずつ世界や他者について考え始めた、それまでは本当に一定の読者に自分なりのメッセージを作品に乗せているだけでいいやと考えていた節があるような気がしたが、明らかに変わっていったと言えるだろう。もともと春樹は文章を書く才能は持っていて、それをスタイリッシュな文体でいわゆる日本では純文学と言われるような要素を持たせつつ、物語の骨格までも様々なパーツに分解して再構築しなおすというポストモダン的な技術も持ち合わせた優れた作家だったと思うのだが、それ以前の作品には先ほど書いたように送信されたメッセージに非常に受けが悪い部分がある、何を言っているかわからない部分があるとは思う。


『風の歌を聴け』に話を戻すと、この作品は作中の「鼠」が「僕」の誕生日であり、クリスマスイブに毎年送ってくる本を僕たちが読んでいるという構造になっている。今ではそれほど目新しくはないし、お洒落でもないかもしれないけれどとても面白い仕掛けになっている。そしてこの「鼠」という男がとても興味深い人物で、彼は、『風の歌を聴け』を含めた、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』のいわゆる「鼠三部作」に登場している。一説には、『ノルウェイの森』にも登場しているのではないかとも言われている。


鼠は登場した時点で「なにか」に負けている。彼はいったい何をそんなに絶望しているのだろうと不思議に思うわけだが、それが作中第31章で、ある手がかりが与えられることになる。彼はおそらく学生運動の活動家であったのではないかと思う(作品の時間の流れをを見ると矛盾はあるのだが)。そしてそれには彼の「家」に問題があった。その矛盾を抱えながら鼠は活動していたのだろう。そして彼は敗れた。敗れた人間には何も残らない。彼は「ジェイズバー」で飲んだくれることになる。そんな彼が自分の心境を語る場面が第31章なのだ。何もかもあらゆるものに意味を見いだせない、そして意味を見いだせないそのことに取り立てて不都合を感じていない主人公の「僕」に対し鼠は語るのだがこのバーでの会話が非常に興味深い。


僕らがある存在と対峙するとしよう。その存在がある程度の大きさ、自分に見合った相手であるならばいいが、それを遥かに凌駕する大きさ、とてつもない大きさの存在だったとする。そうすると僕らはその存在の概観さえもつかみ取ることができないのだ。その巨大な存在の本質を明らかにすべくその抽象性をなんとか引き出そうとするがそれができない。その結果、僕らに見えてくるものはその存在のあくまで表面の具象性でしかないのだ。その巨大な存在の一部分をこと細かく描写することしかできない。それが僕らの限界なのだと。


だから鼠は諦める、そして自分にとってなんらかの自分が啓発されていくような文章を書いていきたいと決意する。彼は戦いに敗れて目的を失った。その代わりに今度は自分のために作品を書こうと考え、そして毎年「僕」に本を書いて寄越すようになる。


この、『風の歌を聴け』には、その時代を生きてきた人間たちの人生の、意識の断片が書かれている。僕、鼠、小指のない女、DJ、病気と闘っている少女、レコードを貸してくれた女、ジェイ・・・。そんな人々が抱えている社会に対する大きな、そして漠然としたあの当時の問題を春樹は「ずれ」と「逆接」という手法を使って(まだこの作品の時点ではシンプルにすぎるが)、巧みに描き出していると思う。この作品の驚くべきところは会話がかみ合っているところがまったくといっていいほどないところだ。しかし、それは春樹の企みであることは確かであろう。それが意識的なのか無意識的なのかはわからないのだが。そして加藤典洋が、『村上春樹 イエローページ』で書いているように、もしかしたら鼠は異世界にいるのかもしれない。


この作品の評価すべきところは、後半部であって前半部はそのための準備された無意味な軽さでしかないように僕は思う。特に第28章で突然街について話し出す。ここから加速度的に物語のエンジンの回転数が上がっていく。登場人物たちの抱えている不安や悲しみの叫びといったものが露わにされていく。この点をナルシシズムなのだといったらそうなのだろうと思うのだが、それをナルシシズムというだけで終わらせることができないような物語構造を春樹は前半部で準備していると思う。この作品はナルシスに浸らなくても、感傷的にならなくても少なくとも作家の処女作としては抜群によくできていると思う。確かに、世界との関わりに関しては、特に政治性においては、無関心の立場を取っているのだが彼らがその時代を生きていたのだという息吹を感じることができる。それは言えるように思う。


最後に作家の資質について付け加えておきたい。作家というものは文章を書ければいいというものではないと僕は考える。あくまで僕の理想とする作家像である。それは教養人でなけらばならない、あらゆるジャンルを網羅する広い文化的な知識を持ったものであることが理想とされるだろう。現代日本の教育制度で高い偏差値を取っているとか(もちろん低ければなにかと問題はあると思うが)、特に国語の成績がよかった、文章を書くのが得意だったということでは全然ない。まず第一に必要とされるのはそれが常人を遥かに超えた文化を自分のうちに抱えていること、それを開陳すべくその手段として文章を書いているのだということだと思うのだ。そのようなものの名前を挙げれば夏目漱石や谷崎潤一郎などがあげられると思う。僕の定義に当てはまる現代の作家はあまりに少ないと思う。学校でしっかり勉強してきて努力を重ねていい文章を書けるようになった、というものではないというのが僕の考えだ。


文学を芸術なのだと考えるのならば、才能のない人間はいくら努力しても優れたアートをつくることはない。つくれるのだ、特に小説というジャンルにおいては、という考えを持っている人がいるかもしれないが、それは芸術性というものを排除した上での小説というものだと思う。それならば書けると思う。そのことは村上春樹がすでに証明している、彼はこつこつとただひたすら努力してきたのだということを、『職業としての小説家』に書いている。ただ彼はそういうスタンスを取りながらも少なくない才能を持っていたように思うが。


この、『風の歌を聴け』は言葉でなにかを表現することの難しさ、ほぼ不可能であるということを書いていると思う。それを「書かない」という方法論でなんとか「書く」ことができないだろうかと悪戦苦闘してきた、それは春樹がこの処女作から現在にいたるまで通底しているテーマだと僕は思う。


最近、『村上春樹は、むずかしい』という本を加藤典洋が出した。久しぶりの加藤典洋の村上春樹論ではないだろうか。僕も買ったのだがまだ読んではいない。春樹を加藤典洋のように肯定する人もいるが、一方で柄谷行人や渡部直己のように否定する人もいる。といっても後者のここ最近の作品に対する評価はあまり読んだことがないので、もしかしたらもう評価の対象にはなっていないという可能性もあるのだが。


このような賛否両論のある春樹だが、僕は『1Q84』では何かひとつ乗り越えたなという印象を受けた。彼の作品のなかで溜まっていた澱のようなものがなにか昇華されたのではないだろうかと。しかし新しいステージへと向かうのかと思われた春樹だったが、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』ではあれ?と思った部分があり、話自体は面白かったのだがまだどのような評価をしたらよいのだろうかと僕は迷ってしまっていて未だに保留している。


ということで正月早々、『風の歌を聴け』と春樹の作品で始めたのだが、それは僕が春樹が基本的に好きだからだ。そのスタンスは変わらないだろうと思う。しかし他の春樹ファンと話す機会があるとかなり違った読み方をしているな・・・と不安を持ってしまうのだが。だが自分独自の読みができないのならば読まなくてもいいだろうということにもなるであろう。


ということで新年の初めは、『風の歌を聴け』であった。

2015年10月25日日曜日

私というもの

自分というものがそんなに確かなものだろうか。果たして僕らはこの世界というものを本当に認識しているのか。もししているのならどういった方法で・・・。


まさに人間との確執のなかで生きている私だが、私が「本当」、「真実」に出会えることはあるのだろうか。もちろん「真実」といってもイデア的なものではない、私がそう信じているものだ。だから「本当」という言い方が近いかもしれない。


私は生まれてから、様々なものに触れて生きてきた。きっと幼年時代は瑞々しい感受性があり、触れるものあらゆるものに衝撃を受けていたのではないだろうか。それは私が感受性豊かだということではない。人間とはそういったものだということだ。


しかし私はいま、情報にあふれた社会のなかで生きている。全てにおいて先に意味が与えられている。私はその意味に乗っかるカタチでものごとを受け取っている・・・そう感じざるを得ない。


それが悪いことだとは言わない。しかし私はそれを望まない。私は「本当」に触れたい。「本当」のなにかに触れて生きることの意味を知りたい。そのためには苦しみさえも耐えてみせる。


この世界、というとき、それは私の意識が触れるられる可能性があるもの、しかし未だ触れられていない触れることができないもの、と受け取ってほしい。私は「もの」に触れられない。目の前のシャープペンシルに触れられない。リモコンにも触れられない。人の肌にも触れられない。意識は時間に触れられない。この瞬間も触れられなければ、過去にも未来にも触れられない。自己にも触れられない。デカルトのいうコギトにも触れられない。ならば尚の事他者に触れることなどできようはずがない。私はこの世界で何にも触れることができず、ただ孤独のなかで生きている。その孤独だという意識、それだけは自分のものかもしれない。


私は普段、世界と触れ合おうとは考えていない。しかし、世界に拒絶されるときが突然現れる。私はそのものが自分と触れ合っているとは気づいていなかった、もしかして触れ合ってもいなかったかもしれない、それにも関わらず自分からそのものが離れていくことを感じる。それは私から遠ざかり帰ってこない。そのとき私は激しい苦痛とともに途方もない孤独を感じる。


私ははたと気づく。私のまわりが変わっていく。すべてのものが私のなかで色褪せていく。意味を失っていく。価値を失っていく。私は何にも触れることができない。私は世界のなかで絶対的に孤独だ。自分は世界からこんなにも孤独だったのかと知り絶望に襲われる。私は全てのことを諦め、去っていくことを決意するだろう。


しかし、そんなときふと現れる「なにか」があった。それは過去にあったのか。いや、過去にはない、私の意識に備わったものだ。その「なにか」に気づく装置が私には備わっていた。私はその「なにか」に促されて私は世界へ立ち向かおうとする。世界を私が、あらかじめ意味や価値を決められていた世界を解体し、私は世界を再構築する。私が解釈する世界が現れる。その世界ではシャープペンシルはただのシャープペンシルではない。ただひとつの「この」シャープペンシルだ。他者も然り。私の目の前に現れたあなたは「この」あなたであり、私にとっての唯一の存在だ。私は世界を手に入れた。私の触れた「本当」の世界。あなたにとっても私はそんな「この」私であって欲しいと思う。


だが、ふと考える。私は私の世界を取り戻した。しかし私はまた絶望を覗くだろう。そしてまた私は世界を取り戻そうと藻掻く。それは永遠に続く苦悩である。たとえそれが永遠にやってきたとしても私はそれを「是」と言い続けられるだろうか。この苦しみを抱えながら人生を生きていくことが果たしてできるだろうか。これが現実の正体なのか。「本当」に触れる、裸の「現実」に触れる、それはかくも恐ろしいことなのか。現実の深淵を覗くこと・・・

2015年10月9日金曜日

iOSでハイレゾを聴くには。

先日、コンビニに立ち寄ったときに、とある雑誌が目にとまった。


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表紙は『ガルパン』。『ガールズ&パンツァー』。いや、『ガルパン』って僕はよく知らないのだが(名前だけは聞いたことがある)、前々からハイレゾっていいなと思っていたところに、こういう敷居の低そうな雑誌があったので、ちょっと手に取ってみた、そして買った。


開くと、『ガルパン』についての解説があり、どうやら女子高生が戦車で戦うアニメらしい。2015年11月21日から劇場公開されるので特集が組まれたのかな。『ガルパン』は積極的にハイレゾ音源で音楽を配信しているようだ。まあ僕はあまり興味がないのでこれ以上は突っ込まないでおく。


読み進めていくと、「ハイレゾを聴くための機器を選ぶ」とある。
スタイル01 ポータブルオーディオ
スタイル02 PCオーディオ
スタイル03 ネットワークオーディオ
とある。


実は僕はPCにDACをつないでいる。FOSTEXのHPーA3。


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これをつないで、スタイル02のPCオーディオの状況はできているのだが、残念ながらヘッドホンはハイレゾに対応していない。AKGのQ701。音源もハイレゾはほとんど持っていなかった。あったのが昔、e-onkyoが配信していたQUEENのベストとあとはビル・エヴァンスくらい。とにかく愛用しているiTunesがハイレゾに対応していないので、ハイレゾ化は諦めていたのだ。


しかし、この雑誌を読むと、スタイル01のポータブルオーディオを使ったハイレゾ化は非常に魅力的なのではないかと思えてきた。1番簡単なのが、10月10日に発売されるソニー製のウォークマンを購入することだ。ソニーはハイレゾ音源を豊富に抱えているMoraを持っているし、なによりこの発売されるウォークマンが安価だということだ。最安値で2万2千円くらいなのではないか。付属のIEヘッドホンがハイレゾ対応しているかはわからないが。



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オンキョーもミドルクラスの携帯プレーヤーを発売している。


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こっちは実売価格が6万5千~7万5千くらい。高いんじゃない?と思わせるものなのだが、これぐらいのきっちりしたつくりでないと音にノイズが入って綺麗な音はでないだろう。内蔵メモリが非搭載なのは気になるが。


と、ここまで読んでいて気づいたことがある。どうやらiPhoneやiPadでもハイレゾ音源を楽しめるようだぞと。ではどうするのか。


まず必要なものを言おう。必要なのは、iOSでハイレゾを管理することができるアプリ。iTunesがハイレゾ対応していないので新しいアプリを入手する必要がある。メジャーなところでオンキョーやソニーのものがあるが、僕はNe PLAYERというのをおすすめしたい。パソコンで同期をするときに、アプリでファイルを共有するだけだ。そんなに難しいことはない。もちろん落とすべきハイレゾ音源は、オンキョーだろうがMoraだろうがどこでもいい。Ne PLAYERで共有してしまえばいい。


さらに必要な機器を揃えよう。まず、iPhoneなどの充電をするためのソケットの部分に接続する、ポータブルヘッドホンアンプが必要になる。アンプに本体のハイレゾ音源をデジタルのまま送るのだ。僕はiFI-Audioの、nano iDSDをオススメする。なぜなら圧倒的に安いから。あらゆるハイレゾフォーマットに対応しながら価格は非常に抑えられている。


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もちろん、このnano iDSDから直接iPhoneへはつなげられない。そこで必要なのがカメラアダプターだ。


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これにさらに、USBを変換する機器が必要になる。


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これにより、iPhoneからカメラアダプタ+変換名人=nano iDSDへと接続が完了する。これで接続の問題はないはずだ。ヘッドホンはハイレゾ対応を購入すること。そして自分の耳に合った機種を納得いくまで選ぶこと、これが大事。僕のお薦めとしては、オーディオテクニカのCKR10。



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ハイレゾを楽しみたい人ならば、このCKR10くらいは持っているべきなのではないだろうか。ハイレゾの解像度に対応できる優秀な機種だと思う。


音楽は、基本e-onkyoのサイトで落とせばいいだろう。好みによってMoraやOTOTOYとかもある。僕はe-onkyoで十分である。クラシックやジャズは豊富だし、J-POPもそれなりにあるし、Anime関連も豊富だ。では聴いてみよう。


しかし!ここで問題が起こった。コネクタをiPhoneに差すと、バッテリー消費が高すぎて、アクセサリが認識しないのだ。これは非常に困った。ではこのような事態にどうすればいいのか。それはカメラアダプターとポータブルヘッドホンアンプの間に、セルフパワーのハブを噛ませることだ。それを行うことにより、バッテリーの消費電力の問題はあっけなく解決する。しかし、このことによってポータブルの利点、どこでも聴けるという最大の利点を失ってしまうのだ。これはキツイ。


探せば携帯の充電器があるのかもしれないが、今はそれを探す気力もない。とにかくハイレゾ音源を聴いてみようじゃないか。試しに落としてみたのが、浜崎あゆみの「DAYS」のクラシックバージョン。うん、なかなか音がいい。基本、今迄聴いていたヘッドホンよりいいもので聴いているのでこんなものだろうと。もうひとつ、堀江由衣の「半永久的に愛してよ」を聴いてみる。堀江はなぜだかよくわからないが楽曲に実力派プレイヤーが揃うという不思議な現象がある。さて聴いてみる。


聴いた瞬間まず、ヴァイオリンの音が違う。ハイレゾと既存のCD音源の違いは説明するまでもないと思うが、音の解像度が違うのでヴァイオリンのような弦楽器だと弦が奏でる音の豊かさが如実に現れCD音源とは比較にならない。おそらくハイレゾに1番向いているのはクラシックで、その中でも弦楽器だろう。


表現者の出したかった音というものがハイレゾだとより近い形で表現できるのだ。素人の僕でも聞き取れたという事実は大きいだろう。ミュージシャンとしても、自分の表現をより忠実に再現してくれる、このハイレゾ音源は歓迎すべきものだろう。これからはハイレゾが来る。いよいよ来る。そんな印象を受けた。


全部揃えるとなると面倒だし、多少金もかかるが、それに見合っただけの音が出ていると僕は思う。



PS 今日はノーベル文学賞の発表があった。村上春樹はまた落選したということだが、もちろん僕は受賞するとは思っていなかった。春樹の世界への貢献度はまだノーベル文学賞のレベルではないと思っている。また、別の視点から見れば、春樹にはあまりノーベル文学賞と相性はよくないのではないかとも思う。だが、毎度毎度こうして話題をつくってくれるこのノーベル文学賞フィーバーは歓迎すべきものだろう。今日は中学生がスマホで春樹落選の報を教えてくれたが、まあ普段本を読まない中学生にとっても話題になっているのだからよいことなのだろうと思っている。

2015年9月18日金曜日

感情移入するということ。

なかなか更新できないでいる当ブログだが、放置しているわけではない。ただ、書くだけの出来事が起きないだけであった。。。今回、とある某読書家さんのレビューを読んでいて思うところがあったので記事を書いてみようと思った。


その読書家さんは村上春樹、綿矢りさ、よしもとばなななどの感想を残されていた方で、読書傾向が似ているのかなと思い某サイトでお気に入り登録していたのだ(あちらからは登録されてこなかったのだが)。かなり本を読んでいる方で感想にも豊かな感受性が感じられていつもなるほど~と感心していたのである。


その方が先日、あの世間で話題になった神戸連続児童殺傷事件の彼が書いた『絶歌』について感想を書いていたのだ。書かれていることはもっともで、少年Aよ名前を名乗って書け、収入の乏しい仕事でも働き続けろ、それが責任を取るということだ、と非常に説得力のある感想を書かれていた。さらに『絶歌』からの引用をしておられた。この部分。


「祖母やサスケ。愛する者たちを次々に奪っていった死。自分には手も足も出せない領域にあった死を、自分の力でこちら側に引き寄せた。死をこの手で作り出せた。さんざんに自分を振りまわし、弄んだ死を、完璧にコントロールした。この潰れた猫の顔は、死に対する自分の勝利だ。」


僕は『絶歌』を読んでいないのだが、おそらく人間に手を出す前に猫を惨殺していた頃の少年Aの独白の引用だと思っている。確かに怖しい存在ではある。さらにこの読書家さんによると、『絶歌』には、少年Aが自分のつくった紙細工の天使を月の光に照らして恍惚とする、という場面が描かれているらしい。そのことに関してもこの読書家さんははっきりと拒否の姿勢をとっておられる。


ここからは僕の勝手な妄想に入るので、この読書家さんとはまったく関連のない話になるのでそれを断っておく。僕はこの神戸連続児童殺傷事件について事件が起きた当時人よりは多少ではあるが調べていたと思う。大学に夏休みのレポートを提出する課題となっていたからだ。少年A=酒鬼薔薇聖斗の身体性についての問題がレポートの課題だったが主題がずれてしまって評価は低かったことを覚えている。少年Aについて僕が肯定することは何もないと思っている。彼は現在公式ホームページを立ち上げているが、そのギャラリーの絵を見るとあらためて戦慄を覚えざるを得ない。この記事のタイトルは「感情移入するということ」とあるが、決して少年Aに感情移入するということではないのだということははっきりと言っておきたい。


では、かなりデリケートな話になったが続けようと思う。


つまりはフィクションの問題だ。僕らは読書をしているとき、多かれ少なかれ感情移入をしていると思う。その作品の登場人物の誰か、または作品の世界観や作者の文体など。そのなかでも1番シンプルなもの、登場人物への感情移入に絞って考えてみたい。


例えば推理小説、東野圭吾の作品を挙げてみよう。『容疑者Xの献身』の犯人である高校教師石神。犯人と言っているところでネタバレなのであるが、この作品は石神が犯人であることが重要なのではなく、石神がいかにして完全犯罪を行ったかが重要であるのでよいだろうと考える。石神はある事情で殺人の肩代わりをするわけだが、その結末を読む限りまさに「献身」である。読者の多くは石神に同情≒感情移入したであろう。


僕たちはこのようにして作品に感情移入をして読むことをほぼ当然のこととしているのだが、ここで少し考えてみたいのは上の少年Aが書いた手記、『絶歌』だ。読んでいないのに書くというのが暴力的であるとは思うのだが敢えて書かせてもらいたい。少年Aは僕にとって憎むべき存在であり、それゆえに彼の手記など手にとって読むことをしたくないのだが格好の事例ではあるので考えてみたい。彼の手記が事実に基づいて書かれていたものだと仮定する。上で登場頂いた読書家さんは少年Aへの感情移入を拒否した。感情移入の定義は、「対象自体が何らかの感情や情緒を表出していると感じ理解すること。」と三省堂新明解国語辞典にあるが、続いて、「俗には」とあり、「自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味にも用いられる。」とある。ここでは世間一般ではメジャーであると思われる後者の定義で話を進めたい。上の読書家さんは少年Aに自分の感情を投影できなかった。自分と少年Aとの感情があまりにも違いすぎていたからであろうか。


僕がここでいつもひっかかりとして思っていたことを取り上げたい。みなが当然のこととしていることであろうが敢えて考えてみたい。少年Aのように事実として起こった事件をもとに書かれた、例えば今回取り上げた手記に関しては感情移入は難しいだろう。なぜなら彼の存在のリアリティが僕らの感情移入を阻害するからだ。しかし歴史上起こった事件を題材にした小説などは山ほどある。戦記物などを僕が読むときには当然のことながらその多くをフィクションとして読んでいるわけで、そこにはどのような大悪人でも感情移入の余地を残しているように思う。それがノンフィクションとして書かれていてもその余地はあるように思う。


つまり言いたいのは、僕らが小説、映画、テレビドラマなどある媒体を通して出来事を追体験するときに、どうしても起こってしまうのは剥き出しのリアリティの欠如、作り手の意志による暴力的改ざんなのではないか。ではそうなったときに例えば、果たして今回のような『絶歌』のような手記が限りなくフィクションとして読まれたのならば、つまりリアリティを失った状態で感受する人間がいたとしたならば、少年Aに感情移入する人間もいるのではないだろうか。僕がこのことを強く感じるのは少年Aの手記を買う人がいるのだということに少なからぬ衝撃を受けているからなのだ。彼の異常人格に少なからずコミットしてみたいと思っている人がいるのだ、それが少年Aに報酬を与えることになるにも関わらず、僕はそのことに衝撃を感じる。彼の手記などは彼の手で言いように書き換えられた暴力的に行われた自己弁護のフィクションでしかないだろうと僕は思っている。


フィクションというものはある種のリアリティを出来事から削ぎ落とす危険を孕んでいる。小説などの媒体ではそれをうまく利用して作品を芸術として表現している作家もいる。しかし、多くの作品においてはフィクションはあくまでフィクションでしかない絵空事で現実とは一切関わりのないものですよというスタンスを取っているものが多いのが事実だ。フィクションに現実では叶わないものを夢見てそれに感情移入することはよいだろう。しかし、この世界のヒリヒリするほどの現実感を漂わせる作品というものもある。そういったものはフィクションだからという言い訳は当然通用しないように思う。そこに敢えて感情移入、上記の前者における感情移入を引き起こすことは絶対に不可欠なわけでそれなくしては作品の存在価値は無きに等しくなってしまうだろう。


つまりは現実を小説というフィクションの形式で語ることには相当の注意を払って行われなければならない。そこに安易にメタファを混ぜて語った場合にはこの世界を歪めてしまうとてつもない危険を孕んでいるのだということを僕は感じるのだ。それを権威のあるとされる作家などが行った場合、それは激しく糾弾されなければならないだろう。もはや作家にそれほどまでの役割や責任は与えられていないという声もあるだろうが、僕はまだ作家には世界への影響力は計り知れないものがあると考えている。書店に行って玉石混交の本を手軽に手に取ることができるこの時代だからこそ尚更読み手にもある種の責任を取る覚悟はいるのかもしれない。いや、小説などは絵空事なのだといい続ける決意のある人ならば別ではあるが。

2015年8月7日金曜日

『夜想曲集』 カズオ・イシグロ そして『パルムの僧院』 スタンダール。

僕が非常に気に入っている小説がある。
『パルムの僧院』だ。


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なにがいいかと聞かれてもうまくいうことはできないのだが、この作品にはとびきりお気に入りの登場人物が現れる。主人公のファブリス、そしてその叔母のジーナだ。この2人を中心にした物語なのだが、これが大変に面白いのかというと面白い。だがじゃあ他の名作と呼ばれる作品より図抜けているのかと聞かれればそれほどでもないような気もする。例えば古典の名作『カラマーゾフの兄弟』のほうが登場人物がはっきりと区別されていて、3人の兄弟の役割もしっかりしていて、その彼らの思想対決は読むものをひきこむだろう。『パルムの僧院』にはそういった思想対決などというものはまったくない。ではいったい僕はこの作品のどこに惹きつけられているのか。


ところで、このブログで『夜想曲集』について感想を書いたのだがその記事もアクセス数がこのブログではずば抜けて高い。それがどういう理由かもまたわからないのだが、あの感想は物語世界の登場人物にフォーカスを当てた読み方をしていたのでそこのところが『夜想曲集』の読み方としてはシンプルでほかの方の書かれたものより読みやすかったのかもしれない。


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このBloggerに誘っていただいた師である麸之介師匠と、この作品についてお話させていただいて、この作品の魅力の一端を少なからずご教授頂いたので、前記事をこの記事を書くことによりお蔵入りさせるかな・・・と思っている。まあこれから書いてみて決めるけれども。だからといって『夜想曲集』について文学の王道的に批評できるわけではないので、そこは麸之介師匠にお任せして、僕は僕なりに自由に書かせてもらえればと思う。


で、なんで『パルムの僧院』を出してきたかというとなのだが、それはちょっと『夜想曲集』と比べることができるのではないかと思ったからだ。最近巷で流行っている、東京オリンピックロゴ問題のように似ているとかいうことを言いたいのではない。パスティーシュだとかそういうことを言いたいのではない。ただ、感覚的に比べられるんじゃない?と思っただけだ。まあ、カズオ・イシグロが『パルムの僧院』を読んでいないということは考えられないので、もしかしたらちょっとは影響を受けた部分はあるのかもしれないこともないかもしれないが、そんなことを調べる気もないし出てこないであろうから無視して良いだろう。


では書いてみよう。

『夜想曲集』の舞台は5つの短篇に分かれているのでいろいろだが、舞台のほうを観た(記事にしている)のでその影響からだろう、イタリアのベネチアの印象が強い。音楽を愛するものたちがベネチアに集まり物語を繰り広げる、そこではほろ苦い人生がイシグロのユーモア溢れる筆致で切り取られていて、副題のとおりまさに「音楽と夕暮れ」をめぐる物語となっている。補足だが、この短篇集は他にもイギリス、アメリカを舞台にしている。


対して『パルムの僧院』は、イタリアが舞台だ。パルム公国を中心に物語は進んでいく。主人公のファブリスは情熱的な青年で人生という草原を駆け抜ける華麗な白馬のような印象。その魅力に周囲の人間たちも惹き込まれていく。そんなファブリスを愛するジーナ叔母。彼女も周りを惹きつけて止まない美貌を持っている。この二人が小国パルムで繰り広げる情熱の物語だ。


一見するとどこに比較する部分があるのか、あるとしたらイタリアが舞台なだけではないのか、ということになるだろうがその通りである。イタリアが舞台なのである。だが僕がここで注目したい点は3点ある。「作者と舞台の関係」、「場」、「作者の存在」、その3点が『夜想曲集』と『パルムの僧院』を僕が結びつける理由となった。


まず第1点は、作者と物語となった舞台との関係性である。イシグロはイギリス人である。つまりイギリス人の作者がイタリアについて書いた(上記にあるようにこじつけの印象はあると思うが)。対してスタンダールはフランス人である。フランス人であるスタンダールがイタリアについて書いた。この異国人がイタリアについて書くということが、この2作品ではかなりの効果を持たせていると思う。当然のことながら異国について書くということはそれなりの理由があるだろう。決して安易に舞台を選ぶなどということはあり得ない。スタンダールに関してはイタリアへの敬慕の念というものは伝記にも、そしてこの作品の冒頭の「緒言」にも書かれている。イシグロがイタリアを選んだ理由というものはよくわからないがこの『夜想曲集』を読んでいてイタリアの印象というのは強い。イギリスやアメリカが舞台の短篇よりも異国感というのは確かに感じる。そこにイシグロの思いというものを感じ取ることは可能であると思う。


第2点は、作者が設定した「場」の問題である。『パルムの僧院』における登場人物たちの活躍する舞台は非常に限定されている。世界を飛び回るなどということはもちろんないし、ほとんどがパルム公国の限られた場で物語が進行する。これはイシグロの『夜想曲集』にも近いことが言えると思う。ベネチアなどの都市の限られた場所で物語は進行する。しかし、『パルムの僧院』においては納得してもらえる部分はあるだろうが、『夜想曲集』においては短篇である。短篇であるゆえに舞台=場が限定されるのはそれほど珍しいことではない、というかまったくない。ではなぜ僕が共通点を感じたかというと、その「場」への作者のコントロールの意識だ。両作品ともに作者である、スタンダール、イシグロともに、舞台となる「場」を非常に綿密に、人工的とさえ言えるまでコントロールしているということができないか。つまりつくられた世界に作者が圧倒的なまでのコントロールが行き届いている。この作者の「場」への意識のこだわり、それはこの2人の作者が作品を並々ならぬ集中力で描き出したことの証明であるといえないか。


第3点は、作者の語りの現れ方だ。スタンダールの『パルムの僧院』という作品での僕の印象は、作者があまりに前面に出ている、というものだ。それが出すぎているということではない。この作品を僕が大好きな理由はおそらく、このスタンダールの、作品に介入してくるほどの作品への肯定の意識だと思う。『パルムの僧院』を読むと、スタンダールが登場人物、特にファブリスとジーナを熱烈なまでに愛しているということが感じられる。このスタンダールの偏愛とも言っていいほどの情熱が、ファブリスとジーナ、その他の人物を、神がかり的に生き生きとした人間、魅力溢れる人間であることを担保しているように思う。対して『夜想曲集』においては、イシグロは物語のどこに座しているかがわからない。この作品の誰がイシグロを代弁しているかということもわからない。ただ言えるのは、イシグロの書く文体から生まれる心的イメージのなかを僕たちは物語として体験できるだけだ。しかし、『夜想曲集』を読み込んでいくうちに、イシグロがその物語世界の奥の世界、俄のラカニアン的に言わせてもらいたいが、僕らが体験しているイメージの世界=「想像界」とは別のところ、そこでイシグロは言葉というツールを用いて、象徴界に綿密な設計図を書き込むことにより僕らに芸術的としか言い様のない世界を体験させてくれているのだといえないか。ゆえに、スタンダールとイシグロは語りの現れ方という意味で対照的な作家であると僕は感じたのだ。


以上の3点を見比べることにより、『パルムの僧院』が『夜想曲集』と似ているとかそういうことではなく、小説の書き方として、スタンダールとイシグロが非常に優れた書き手であるということを僕は少しではあるが感じ取ることができたような気がする。言いたいことはそれだけだ。


スタンダールは墓碑に「生きた、書いた、愛した」と書かれるように望んだという。スタンダールの小説への情熱は僕のこころを動かさずにはおれない。対するイシグロは数作品を読んだ印象でしかないが、墓碑になにか刻むような人物ではないような気がする。しかしもちろんこうして比べているのだから、『夜想曲集』を含めイシグロの作品は、極めて個人的意見だが、僕にとってスタンダールと肩を並べる作品であると感じている、いやそこまでの理解はない、感じ始めているのだ。


小説は描き方によって作品の景色、印象がまったく変化する。その作者それぞれの個性的な文章表現を受容できる感性を持ちたいと強く思う。文章表現の可能性についてスタンダールとイシグロという2人の作者を通して心に深く刻みこむことができたと僕は感じた。もちろん、上で挙げた『カラマーゾフの兄弟』もまったく違う印象を僕に与えてくれた最高の作品のひとつであると思っている。これから出会うであろう新しい作品たちがまだまだ待ち受けていると思うと知的好奇心を擽られずにはおられない、そういった気分だ。


と、ここまで書いてみたが、この記事のアクセス数を目安に、旧記事の『夜想曲集』は閉じることを考えたいと思っている。こちらでは『夜想曲集』の内容については触れなかったが、旧記事の「舞台『夜想曲集』」のほうで物語部分は書いているし、閉じたら閉じたでじきにまた書くであろうとも思う。この記事はちょっと短かったかなとも思うがとりあえずここまでで。



2015年7月10日金曜日

存在するのではなく発生する。

かなり前だが、某ブログにおいてデカルト主義についてちらっと書いたことがあったが、それに対して某ブロガーさんに現象学の立場からご指摘を頂いた。果たして主体とは何なのか?その問いに対して僕なりの答えというものは用意していたつもりであったが、現象学、実存主義に対する僕の勉強不足があったために今、さらなる迷いの森に入り込んでしまった感がある。


ただ言えるのは、僕はフランス現代思想を読んできたので、いやこの言い方は曖昧であろう、ドゥルーズ、ラカン、フーコーを少なくとも自分の思考の中心としてきたので、当然の帰結として主体に対して現象学的立場は取れるのだろうか?と少なからず思っている。と、不透明な言い方になるのはドゥルーズは確実にサルトルの影響を受けていると感じられるからだ。いくら素人の生兵法といえどもフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティの影響なしにドゥルーズを語ることは許されまい。




哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)
哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)ジル・ドゥルーズ 加賀野井 秀一

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上の本はドゥルーズの哲学者のアンソロジー本である。「哲学の教科書」とあるように、ドゥルーズの様々な哲学者についての全66篇のアンソロジーが収録されている。そして冒頭にドゥルーズの最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」が収録されている。


この本のなかで訳者である加賀野井秀一氏がドゥルーズについて簡潔にまとめた「はじめに――ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」が書かれている。そこでは加賀野井氏のドゥルーズに対するスケッチが書かれている。この文章は非常によく纏められていると個人的に思う。加賀野井氏のドゥルーズのスケッチを足がかりにして人間の主体について少し書いてみたいと思う。


ドゥルーズはその前期に数々の哲学者のアンソロジー本を出している。その後代表的作品、『差異と反復』、『意味の論理学』、後期(もしくは中期)にガタリとの共著、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を出版する、大雑把ではあるが。ドゥルーズの最後の論文は「内在性:1つの生・・・・・」というもので、1995年に『フィロゾフィー』誌に掲載されたものだ。この論文について加賀野井氏は「はじめに――・・・」でこう書いている。


「ドゥルーズはこの小論を、唐突に「超越論的領野とは何か」と問うことから始め、全体を「超越論的領野は内在面によって規定され、内在面は生によって規定される」という命題の変奏とした。彼は言う。「超越的なものは超越論的なものではない」。だがそれをフッサール的あるいはカント的な区別と混同してはなるまい。ドゥルーズにとっての超越論的領野とは、たとえば「非―主観的な意識の純粋な流れ」であり、「前反省的かつ非人称的な意識」であり、「自我のない意識の質的持続」である。これは明らかにサルトルだ。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p14~p15)


この引用からわかるように、ドゥルーズは最後の論文においてもサルトルを意識している。非人称的・絶対的・内在的な意識に帰せられる主観のない超越論的領野をサルトルは提示している。この意識と比較するとき主観や客観は「超越的なもの」であるということになる。


つまり本来ならば超越論的領野としてイメージされるべきはカントであろう。そしてフッサールであるかもしれない。しかし、ドゥルーズにおいては超越論的領野として意識されるのはサルトルであるというのだ。但し、ドゥルーズは歩を進めてベルクソンの概念を導入してはいるが。


さらに加賀野井氏は論を進めて、「内在性:1つの生・・・・・」の論文にあるとおり、「内在」について言及する。


「内在はそれ自身の内にのみあり、何らかのものの内にあったり、それに所属していたりすることはない。そして、内在がもはや自分以外のものへの内在でなくなる時にこそ、人は<内在面>について語ることができるようになる。」(同書p15)


この「内在」という表現が僕には非常に難しい。この内在については、デリダもドゥルーズと論じることがあったならば問題となるのは「内在性」をめぐるものであっただろうと言っている。『哲学とは何か』のなかでドゥルーズはこの「内在面」を「根源的な経験論」と言い換えている。


つまりは内在は主観に所属するものではないということではないか。主観に内在するものは内在ではない、内在のうちに内在がある、それは出来事である。つまり概念である限りでの可能的世界だけである。つまり内在面を語ることができるのは可能的世界の表現もしくは概念的人物としての他者だけであるということだろうか。この誰にも所属していない経験論とはいったい何か。


「つまるところこれは、<知覚の現象学>であるよりもむしろ<概念の内在学>とでも言うべきものとなる。あるいはまた、<生きられたものの現象学>ではなく<生きるものの存在論>と言っても構うまい。概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である。」(同書p16)


孫引きになるが、ドゥルーズの言葉を引用しよう。


「純粋な内在は、1つの生と呼ばれるであろうし、それ以外にはありえない。内在も生への内在ではない。何ものにも内在しない内在は、それ自体が生なのだ。生は内在の内在であり、絶対的内在であって、完全な力であり至福である」(同書p16)


つまり、ここから主体の持つ意味というものの手がかりを得られることになる。ドゥルーズにおいてはデカルトのいうコギトはない。ゆえにコギトのなかに内在云々ということはありえない。そのことは初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」でも書かれている。


論を急ぐのなら、ドゥルーズにおいてはカントのいう超越論的領野というものを肯定はする。しかしそこでドゥルーズがカントを批判していると思われるところは、その超越論的領野がアプリオリに「ある」ということだ。つまり超越論的領野の発生について考えることをカントはしていないということだ。


ドゥルーズの言う、「出来事」とは何か。ここでこの「出来事」に対する捉え方で参考にさせてもらったのは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』である。國分功一郎氏は同書p62で、「ライプニッツ自身が『述語』を『出来事』と同視している」と書いている。その記述を使わせてもらうならば出来事=述語でよいであろう。あらゆるものは出来事(述語)から発生する。そこでは主体を中心にはものを考えられない。その帰結として、発生の原因をどこに求めるのかということになる。それがドゥルーズが初期にこだわったヒュームの経験論へと続くというわけであろう。『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズは「経験論は出来事と他者しか知らない」と書いている。


さらにドゥルーズはガタリとの共同作業から主体への別の着想も得ていたのではないかと考える。ここでヒュームの経験論と接続できるかは僕の能力不足、勉強不足でわからないがガタリのラカン派精神分析からドゥルーズがなにがしかの新しい着想を得ていたのは『アンチ・オイディプス』という著作が存在していることからも明らかであろう。


主体について『アンチ・オイディプス』ではガタリとの共著であることから当然にラカンの理論が応用されているのだろうが(ガタリはラカン派の異端であるが)、そこではフロイトのエディプスコンプレックスが批判の的となっている。フロイトは無意識という偉大な発見をしたがそれをエディプスの三角形というギリシア悲劇の内的イメージに閉じ込めてしまった。ドゥルーズ=ガタリの言わせるところによれば、無意識とは世界であったように思う。ゆえに個の意識ではそれを垣間見ることはできない。この世界の実体を掴むことはなにものにもできない。世界と個をつなぐのはかの有名な概念「欲望する機械」であろう。内在面と噛み合うかどうかはこの欲望する機械が世界とうまく噛み合うかにかかっている。調子が狂えば人は神経症へと向かう。フロイトはエディプス理論によって、ドゥルーズ=ガタリのいうスキゾ経験を主体へと強制するが、ドゥルーズ=ガタリは主体からの逃走線を引く。逃走を助けるものとしてスキゾ分析がある。人間を主体にしない、スキゾという内在面の隙間へと逃走させる。


と、ここまで書いてきたがどうもまとまる気配がないのでこの続き、または修正は次の機会にしたいと思う。しかし、ドゥルーズがサルトルを強烈に意識していた、そして内在という問題こそが鍵であるということ、その内在とうまく接続できなかったが、主体中心の発想からの脱却、出来事=述語に発生の原因を問うているということは確かであろう。


最後に、ヒュームについてドゥルーズの考えが「ベルクソン流の物言いをすれば」という断りつきで注釈されている箇所を引用しておきたい。


「要するに主体とは、初めのうちは1つの刻印であり、諸原理によって残された1つの印象であるが、その印象を利用することのできる1つの機械へと徐々に変わってゆく印象なのである。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p23)


実際書いている時点で既に十数年前の知識のうろ覚えを無理やり組み立てただけのまさに砂上の楼閣の文章になっていることに気づいていたが、なかなかにドゥルーズにおける主体を素人が取り出してみせるということは不可能に近いのではないかとも思う。あまりにも稚拙な内容ではあるが、誰にでもわかるように書く、ということが自分にできる最大限のことであると思うので、その自分に課した使命だけは果たそうと思っている。

2015年6月26日金曜日

勝つやつには勝つだけの理由がある。

1部の生徒は期末テストが終わった。他の生徒も今日までで終わり。長かった戦いはひとまず終わろうとしている。今回は中2に対してかなり比重をかけて教え込んだ。今年の中2生の傾向としてはとにかく素直に話を聞いてくれる傾向にあるということ。問題を粘り強く解く。間違っても正解するまで頑張る。その結果アベレージとしては92点台という好成績を確保してくれた。中2の数学のこの基礎のところ(連立方程式)でつまずくとあとで取り戻させるのが難しいのでなかなか頑張ってやってくれたと思う。


「90点以上取ったら村上春樹の『1Q84』貸してやるぞ」と言っていた男子は見事94点を取ったが『1Q84』はいらないらしい。むしろ村上龍のほうが好きなようだ。まあ中2でW村上(古い?)を読んでいる時点で見所のある男なのではあるが、『限りなく透明に近いブルー』を読みたいらしいがどうだろう。『希望の国のエクソダス』を読んだことがあると聞くと贔屓したくなる、というか色々教え込みたくなる欲望が出てきてしまうのだがそこは今のところ抑えている。村上龍は大江、中上の担っていた部分を引き受けているのだ、龍の世界の本質を見抜く目は鋭い・・・などと語りたいのだがあまり確信的でないことは立場上言わないほうがいいかもしれない。ちなみに僕は龍の本のなかでは『カンブリア宮殿』が好きだw


1年生は今回が初の期末テストということになったが、数学に関してはまずまずといったところ。授業の感触からあまり取れないかもしれないという不安(これは毎年ある)もあったが予想以上に取ってきた。今年の1年のいいところは無邪気だということ。別の言い方をするとうるさいということなのだが、まあ1回期末テストを受けてその重要さを認識したらちょっとは変わるだろうと思っている。今回の結果を見るとみんなちゃんと教えたら成績の伸びる子だと確認できたのでひと安心だ。


問題は3年生で、3年生はまだ返却されていないので結果がわからないのだが、テストは相当難しかったらしい。3年の今の時期はもう入試モードに入っていなければならないのだが、特に男子が仲が良すぎて危機感を連帯することで不安を打ち消してしまっている気がする。志望校を下げてその高校で高順位を取って・・・ということを考えている子もいる。数学は確かに社会に出ても実学としては役に立たない子も出てくるとは思うが、人間の思考の型というものは数学で形成される部分は多いだろう。式の計算から方程式、展開、因数分解、関数、極限、微分積分と覚えておかなければ近い将来後悔することさえも知らずに人生を終えてしまうのでは・・・などと思うのだがこれが目的意識を芽生えさせるのは大変なのだ。


1番勉強のできる子(女子)は今日までが試験なのだが昨日も塾にやってきた。見た瞬間に顔色が違ったので、顔色が悪いぞ大丈夫か?と思わず声をかけてしまった(女子には失礼だったかも)のだがやはり連日睡眠を削って勉強しているとのこと。みんな天才天才と言っているのだが、もちろん才能に溢れた子ではあるのだが、人間だから。1番を守り続けることのプレッシャーは半端じゃないと思う。なにせ常に目指すのが満点だから。僕の見たなかでは1番努力している。人間的にも成長している。この子を新潟高校に入れてやりたいが、お姉さんとお母さんが新潟南高校出身なのでちょっと新潟南高校に行きたがっているのかなとも感じる。新潟高校、新潟南高校どちらを受けるにしろ入試では満点を取るつもりの猛者どもと戦わなばならないから大変だろう。(,,゚Д゚) ガンガレ!


あともうひとりラブライバーの女の子(仮)が目覚めつつある。志望校を決めて本格的にやるつもりだ。なかなか生意気な子だったのだが「(○○高校入りたいので)お願いします」なんて言われたので正直驚いた。女子は変わるね。目的意識を持つと一直線。実はこの子は1年生当時から空間把握能力の高い子だと思っていた。なかなか勉強に身が入っていなかったのだがこの時期ならまだ間に合うだろう。志望校合格レベルまで引き上げてやりたいと思う。(,,゚Д゚) ガンガレ!


などと中学生が試験で四苦八苦しているなか、僕はH&Mに服を買いに行っていた・・・すまぬ。バーゲンをやっていたのでね~やっぱり安い。アイテム1個1000円くらいですわ。ポロシャツ1枚、シャツ2枚、Tシャツ1枚、ハーフパンツ2枚、ブレスレットにベルト、ソックスと買っても1万円くらい。これがファストファッションというものなのか・・・となりのZARAもよさそうだし、時代は変わりつつあると思った。ちなみにH&Mの上にAKB48の姉妹グループ、NGT48の劇場ができるのだ。


あとは読書の近況。最近はラカン。あとドゥルーズ。やっと戻ってきたぜ・・・という感じで。某ブログでは本来小説の登場人物、作者の心理をラカン、ドゥルーズによって読み解く、みたいなのをやりたかった。でも全然できていなかったのだが、デリダも含めてなんとかその真似事でもしてみせねばなるまいと思ったりしている。でもやれるかはわからない。日本語の小説を読んでいていつも気になるのは音韻をどこまで意識すればいいかという事。少なくとも現代の話体で漢字を使っちゃうともうわからなくなってこない?という長年の疑問がある。源実朝とかの和歌ならなんとかわかるけど、散文でどこまで注意深くなれるかというのは・・・。僕にはちょっと無理っぽくてそれで英語に逃げたくなるわけだ。やっぱりアルファベットと仮名漢字では違うのではないかと僕は思うのだがどうだろう。


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などと書いてきたが最後に中学生による絵をアップして終わろうと思う。





書いてあるとおり、アンパンマン。未来のNGT48候補生の描いたアンパンマン。字が抜群に上手い子。






K画伯の絵。画像は斜めになったが、下が僕らしい。どう見ても人間ではないのだが、彼女の目にはこう映っているのだろう。Twitterに上げてくれと言われたがBloggerに上げてやることにした。いちおう格上げのつもり。






ここまで行くとなにを書いているのかがよくわからないのだが、どうやら左のうさぎらしきもののなかには人が入っているらしい。想像力に溢れた子である。



と、こんな感じが近況。