2015年4月21日火曜日

日大法学部の建物内部には天秤を持った女神がいる。

なにか書くべき、と思っていながら書く事がない。書かないと文章力が落ちる気がする。といっても今までもたいしたことは書いてこなかったがこつこつと書いてきたことにも多少なりとも意味があったらしい。


週末は街に出かけて、時計のオーバーホールを頼んできた。そんな大した時計ではないのだが一応手巻き式の時計なのでメンテナンスはしておかなくては。ノモスというちょっと名前が固いブランドの時計だ。シンプルなデザインでタキメーターとかまったくついていない。焦げ茶色の革ベルトがかなり古びてきたので変えようかしらと。夏が来るまで待とうか悩むところ。


ノモスというと、ピュシス。強引に話を変える・・・。 アリストテレスの『二コマコス倫理学』をちら読みする。ここに出てくる「正義」について。正義justiceだ。justiceというと、正義なのだけど、この場合まあ英語だと「法」とか「裁判」とか言う意味も入ってくるようだ。ところで日大の法学部の建物には正義の天秤を持った女神様の像が立っている。これ毎年見てる。なぜ見てるのかは秘密。どうなの、他の大学にもあるのかなと思う。

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)アリストテレス 高田 三郎

岩波書店 1971-11-16
売り上げランキング : 37255


Amazonで詳しく見る by G-Tools



アリストテレスの正義論によると、正義は「一般的正義」と「特殊的正義」に分けられる。さらに「特殊的正義」が、「矯正的正義」と「配分的正義」に分かれる。
一般的正義――法、道徳。
矯正的正義――民事の損害賠償、刑罰
配分的正義――社会保障
ということになるだろう。


よくわからないが情緒的な「正義」は一般的正義に入るのかね、アリストテレスによると。情緒的正義というのが曖昧で定義のないものだから少なくとも日本的な正義のイメージをこのカテゴリーとすり合わせるのは面倒なようだ。ロールズの正義論は概ね配分的正義について語っているのだろう。特殊的正義を語る上で重要なのは「価値」についてだろう。配分的正義は価値相応のものを貰わなくては割に合わない。税金や社会保険料を多く払うものがそれ相応の利益を得る。当たり前のようだが当たり前でないこと。社会権により修正は加えられるだろうが、みんなそれ相応の利益は欲しいだろう。矯正的正義は「価値」は問題にならない。そりゃ、人を殺しても、税金をたくさん払っているから罪が軽くなるとかね、それは現代ではありえない・・・よね。



ということで、書くことがなくなったので、今読んでいる本などを。

アメリカの夜 (講談社文庫)
アメリカの夜 (講談社文庫)阿部 和重

講談社 2001-01-17
売り上げランキング : 153545


Amazonで詳しく見る by G-Tools


阿部和重の『アメリカの夜』
物語の構造がちょっと凝っていて面白いというのもあるが、とにかく薄っぺらい描写が読んでいて楽しい。実は40ページくらいしか読んでいないのでどんな内容?と聞かれても答えれないのであしからず。一時読もうとしたときにことごとく廃版だったのだが、最近調べてみたら再版されていることに気づいた。まあ最初のブルース・リーについて書かれたところで、これなんなの?と思って読まれない可能性がある作品ではあると思う。「截拳道」とかもうみんな知らないだろう、と思うのだがそこがまたズレてる感じがしていい。阿部和重はフィリップ・K・ディックが好きなのかな。『ヴァリス』に言及しているところがかなりマニアックな感じがする。世代的には『ブレードランナー』の世代だからそれほど不思議でもないとは思う。




そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります (講談社文庫)
そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります (講談社文庫)川上 未映子

講談社 2009-11-13
売り上げランキング : 173867


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


川上未映子の『そらすこん』
こうやって並べられると本人たちは不快に思うかもしれないが、名も無き小市民がちょっとした楽しみでやっているブログなのでとにかくスルーしていただきたい。川上未映子と僕は考えているところというかなんだろう、なにかが決定的に違うような気がする。『すべて真夜中の恋人たち』とか『ヘヴン』とかね、面白いと思うし楽しんで読んでいるのだけどなにかが違う。タイトルのセンスとか好きなのだけど。そういえば川上さんは日大の通教に在学中だとか。先ほどの日大法学部のすぐ近くにある。書いてるうちに無意識につながったかな。


そういえば中学生が修学旅行から帰ってきたのだが、京都~大阪を周る学校と東京~千葉~神奈川を周る学校があるらしい。なにか豪華になったなと思う。僕の頃は飛騨・高山だった。職人さんの手仕事を見て回り、木彫りのお家をもらって、飛騨の奥地の山荘で宿泊するというちょっと地味な感じだった。だが温泉がでかかった記憶がある。ちなみに大阪組はユニバーサル・スタジオ・ジャパン、東京組は東京ディズニーリゾートも入っている。ハリーポッターとかミッキーとかね。お土産はやはり女子しか買ってこないのだな。やはり男子の方はマメじゃないのかなと思ったりもする。それともおうちの方の躾の問題なのだろうか。


などと書いていたら0時を回ったので寝ることにする。
(=´ω`)ノおやすみだょぅ

2015年4月5日日曜日

だからお前はすごいんだ。

ブログの更新が久しぶりだが、特にサボっていたわけではない。こちらのブログはある程度考えがまとまってから書こうと思っているので更新頻度はこれからも上がらにかもしれない。


ということで、読んだ本の紹介を。
今回は『グレート・ギャツビー』 村上春樹訳。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)/中央公論新社
¥886
Amazon.co.jp





先日、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』を観た。ディカプリオ主演で当時の謎めくような煌びやかな社交界のなかで光り輝く男ギャツビーが描かれていた。映画を観たのはこれで3回目だ。1回目は映画館で、2回目はどこだろう、どこかのチャンネル。そして3回目はWOWOWでだ。今回観ることでやっと『華麗なるギャツビー』という作品がどのような物語だったのかがなんとなくわかってきたような気がする。



華麗なるギャツビー [DVD]/ワーナー・ホーム・ビデオ
¥1,543
Amazon.co.jp



映画では冒頭で現れるgreen lightが印象的だ。ブキャナン邸の桟橋の尖塔につけられた灯。それが何を意味するのかは不明であるが、バズ・ラーマンはgreen lightを観客に印象づけようとしている。このgreen lightが何かの象徴であることは確かと言えよう。映画はかなり脚色がしてあり、登場人物たちの行動がより鮮明に描かれている。当然のことながら小説の細かい描写をそのまま映像化することは不可能でバズ・ラーマンは小説を忠実に映像化するならば7時間の大作にしなければならないだろうと言っている。よって映画はよりドラマティックかつよりわかりやすいものとなっている。T・J・エックルバーグ博士の眼がこの映画では不気味な視点として繰り返し現れてくる。まるで何かに見られているような。この映画ではすべての真相を知っているものはいない。ただ、エックルバーグ博士の眼だけは、この作品の真実を知っているぞと語りかけてくる、しかも強迫的に、感じる。映画ではまた豪奢な世界観のなかでデイジーが小説と対比するとより美しく描かれている。まずトムとデイジーの娘が出てこない。そしてこれは僕の主観が入るところだがデイジーが若く見える。ギャツビーより2歳年長のはずのデイジーが歳下に見える。印象的なシーンとしてギャツビーがデイジーを屋敷に招待したとき、クローゼットからシャツをばらまくシーンがある。幾種類もの生地の色とりどり鮮やかなシャツを次々とデイジーに向かって投げるギャツビー。まるで自分はデイジーに何でも与えられるのだということを誇示するかのように。デイジーはギャツビーが次々と投げてくるシャツを楽しそうに見ているがやがて泣き出す。デイジーの心はどのように移り変わったのだろうか。小説では次のようにある。


「...Suddenly, with a strained sound, Daisy bent her head into the shirts and began to cry stormily.

"They're such beautiful shirts," she sobbed, her voice muffled in the thick folds. "It makes me sad because I've never seen such - such beautiful shirts before."」『The great gatsby』


このシーンは映画において非常にうまく機能しているように思う。デイジーが何を悲しいと思ったのかはわからない。それはギャツビーへの悲しさだったのか、それとも今の自分の生活への悲しさだったのか。



映画は後半のプラザホテルでのシーンやその後の例の自動車事故についても観客に非常にわかりやすく明解に描かれている。幾分の脚色に小説の読者は多少戸惑うかもしれないが登場人物の造形は崩れていないので許容範囲と言えよう。そして物語は終焉を迎える。



バズ・ラーマンの映画を見直して思うにとてもよく出来ていたし、ギャツビーについて考えさせられることが多かった。また小説と比較することにより相対的に作品を見ることができるようになったと思う。そして気づいたのは自分がギャツビーという男をあまりに典型的な人物として捉えてしまっていたことだ。大雑把に言うと、彼は金持ちになってデイジーを取り戻しに来たということだ。しかし彼はそんな一言では形容できない、つまりgreatな男なのだ。ギャツビーはピンクのスーツ、黄色い車、豪華な大邸宅そして毎夜のパーティー、贅の限りを尽くした男のように見える。しかし彼の中に常にあるものがある。彼が目指していたなにかがある。彼はそのために、文中の言葉を借りるならば”精神を高めるために”、努力をしてきた。その目指した未来に存在したのがデイジーであったのだ。だから彼の目指したものは未来、彼の壮大なる夢はもっと先にあった。ギャツビーの夢はアメリカの夢だ。あの冒頭、そして最後に描写されるgreen lightは夢の灯りだったのだと思う。彼はアメリカの夢を追いかけるために努力を欠かさなかった。そこで手に入れたものとしてこの作品で最も印象的な台詞"old sport"がある。彼は紳士風を振舞うためにピンクのスーツ、黄色の車、社交的なパーティー、そしてイギリスオックスフォード風に「オールドスポート」を身につける。しかし彼とは決定的に出自の違う根っからの”上流”のトムの前ではそれはイラつかせる成金趣味でしかない。ギャツビーはどんなに自分を律し高めようともその壁を乗り越えることはできない。そしてそれはデイジーを奪われるということにも繋がる。彼はアメリカの夢に手を伸ばす。象徴としてのデイジーを奪い返すことができるかというところで覆される。彼のいわゆる”インチキ”なところがどうしようもなくあらゆるところで見え隠れする。それはどうしようもなく仕方のないことなのだ。だがそれが、ギャツビーが目指した夢、アメリカの、西部出身の、誰もが夢見るものなのだ。


「Gatsby belived in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - tomorrow we will run faster, stretch out our arms furthe...And one fine morning -

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.」『The great gatsby』



ニックは判断を留保することでジェイ・ギャツビーという仮面の奥に潜む、ジェームズ・ギャッツという哀しい男を見つけることができた。僕らと同じくギャツビーもアメリカの夢に狂わされた人間なのだと。どこで間違った?どこで一体何を間違った?彼は自分にそう問いかけ続けている。そんなギャツビーに対してニックが作品で彼に唯一の賛辞を与えるシーン。


「"They're rotten crowd," I shouted across the lawn, "You're worth the whole damn bunch put together."」『The great gatsby』



ギャツビーはアメリカの夢だ。そしてそれを象徴するのがgreen lightだ。彼が求めていたものは、冒頭に戻るとはっきりする。Thomas Parke d'Invilliersの引用に現れている。アメリカの夢のメタファーとしてのデイジー。それを追いかけ続けたジェイ・ギャツビー。夢を追いかける真っ直ぐな男ギャツビー、そしてそれを喰いものにし、彼の葬儀にもやってこない東部の金持ちたち。それはトムは当然、デイジーも同様だ。ニックがギャツビーに惹かれた理由はうまく説明できない。それを理解するため、そして言葉にするためにはこの作品は緻密すぎて読み込むのに多くの時間が必要であり僕の筆力もまだ足りない。それでも僕にもギャツビーがgreatな理由がようやくわかりかけてきたと言いたい気がする。


あと、この『グレート・ギャツビー』は僕がほぼ唯一英語で読んだ作品といっていいが、やはりちょっと翻訳した作品との微妙なニュアンスの違いというのがあるように思う。そのあたりが気になる方は原書で読むことをお薦めしたい。僕は村上春樹の翻訳版を片手に読んでいたが、そういう読み方でも多少なりとも得るところはあるように思う。

2015年3月20日金曜日

『トーテンアウベルク_屍「かばね」かさなる緑の山野』

*2014年の年始の他ブログでの記事の再掲載です。

『トーテンアウベルク』 エルフリーデ・イェリネク 読みました。


トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野/三元社
¥2,100
Amazon.co.jp


ちょっと新しいものを読んでみるかな、と手を取りました。刺激を受ける作品で読んでみてよかったと思わせる作品でした。しかし…といったところです^^




イェリネクは、ノーベル文学賞を受賞しているので知っている方もいらっしゃると思います。イェリネクはオーストリアのドイツ語作家です。父親が労働者階級出身のユダヤ人化学者で、母親がウィーンの富裕層出身でカトリックでした。父親と母親は違う価値観を持っていて、イェリネクは苦しんだ子供時代を過ごしたそうです。



それでこの『トーテンアウベルク』なのですが、帯に「アーレントが拳をふりあげ、ハイデガーが呟く。」と書いてあります。僕もそれに期待して買ったのですが、読んでみたところ正直よく分かりませんでした。イェリネクはウィーン市立音楽院でパイプオルガン、ピアノ、リコーダー、作曲を学んでいて、ウィーン大学で美術史と演劇学を専攻し、そしてオルガン奏者国家試験にも合格しています。こういった経歴を見ると、なんとなくああ、こんな文章書きそうだなと納得します。



読んでいてまず、話の筋がないです。ないのは別に珍しいことでもないですが翻訳者の熊田泰章によると「あるひとつのセンテンスで用いられた、あるひとつの名詞が、次のセンテンスで、小説の内容、ストーリーと無関係に、もてあそばれてしまう」というわけです。どんな感じかというと、



「今はここに座っている。まるで鏡の中に捕らわれたようにして。でも、あなたは、もう今では、あなたのお母さんの小さな子供ではない。それに、あなたのお父さんは、森の中の木を切った空き地を濡れそぼって歩いている。日の光が木の枝の間の穴を通って射し込んでいるが、しかし、あなたの情熱は……それは、もう何の力もない。」



という感じです。翻訳者の苦労が垣間見える文章ですね。かろうじてセンテンスで使われた言葉が次のセンテンスと結びついていることがわかります。この文章はドイツ語で音読されると非常に美しく響くらしいのですが、ドイツ語の素養がない僕にはちょっと無理です。しかしドイツ語原文を読んでみたいと思わせる魅力というものは持っています。演劇化もされていますし、イェリネクは映画化されるときのことも考えて本書の冒頭で指示も出しています。



それで中身は?と言われると言葉に窮するのですが、少し調べてみたことを紹介してお茶を濁そうと思います。



題名の「トーテンアウベルク」ですが、ドイツ語で調べてみてもありません。「Totenauberg」です。そこでネットサーフィンを暫く続けていると、「Todtnauberg」を発見できます。「トートナウベルク」は山の名前です。ここでパウル・ツェランとマルティン・ハイデガーと繋がります。「トートナウベルク」はツェランがハイデガーを訪れた後に、ハイデガーのナチズム加担をめぐって書かれた詩の名前です。ツェランはハイデガーからホロコーストについての言葉を求めたのですがハイデガーは沈黙するだけだったようです。イェリネクがオーストリアというナチズムに最も近い国にいることと、父親がユダヤ人だということを考えるにこの作品に込められたイェリネクの強い思いというのは十分窺い知れるでしょう。



ツェランの「トートナウベルク」は『パウル・ツェラン 全詩集 Ⅱ』に入っているようですね。


パウル・ツェラン全詩集 第Ⅱ巻/青土社
¥7,140
Amazon.co.jp




題名の「Totenauberg」を「toten」と「auberg」とに分けて、「死の」「アウベルク(berg=山)」と考えてみて、「Todtnauberg」をもじったのだろうと思いますし、副題の「屍(かばね) かさなる 山野」もナチスのホロコーストを想わせます。



中身に関しては本当に、言葉の断片が音符のようで、それが重なりメロディを奏でる、という感じなので意味をとりだすのは難しいです。3回ほど読みましたが、ハイデガーとアーレント、それにナチスと殺害された人々の対比、もちろん登場人物は様々でイェリネクはそこに多くのイメージを想起させるように書いていることはわかります。それは読んでみて感じていただきたいと思います。



イェリネクというと他に、『ピアニスト』、それと『光りのない。』等があります。『光りのない。』はポスト3.11の世界について書かれていて、僕も持っています。ちょっと日本語で読むのはキツイ作家かもしれませんが興味を持たれた方は読んでみてください。


光のない。/白水社
¥2,835
Amazon.co.jp

2015年3月19日木曜日

コンビニエンスストアバトル。

 図書館で、『アメリカン・マスターピース 古典篇』という本を借りてくる。柴田元幸翻訳叢書とある。この本、あとがきを見ると、『準古典篇』、『現代篇』と続くらしいのだが、『古典篇』が出てから1年半経つのに『準古典篇』が出ていないところをみると、もしかしたらこれで終わりかもしれないという予感がする。出版がスイッチ・パブリッシングというのもそんな香りをいや増している。


この本、その名の通りアメリカ古典文学のマスターピースを収録している。最初はナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド Wakefield」。ホーソーンは『緋文字』を持っているが、現代小説と語り方が違うので時代を感じてしまって読み終わっていない。「ウェイクフィールド」も同じだった。でも短編なのでこちらは読み終える。ウェイクフィールド夫妻の話なのだが、少し説明しづらい。あらすじを書くとすべて説明してしまうことになりかねない。あと試みにAmazonのリンクを貼っておく。リンクしてないかも…。


ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻
ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻N・ホーソーン E・ベルティ 柴田 元幸

新潮社 2004-10-28
売り上げランキング : 261459


Amazonで詳しく見る by G-Tools


上の本は、エドゥアルド・ベルティの「ウェイクフィールドの妻」も収録してある。柴田元幸に言わせるところの「女性の視点からの語り直し」をした作品のようだ。つまり妻からってことだと思う。読んでいないので推測。


「女性の視点からの語り直し」をしてほしいと思ったのは、僕がアメブロの記事で書いた「舞姫」。エリスからの視点で書いてほしいと思った。そっちのほうが面白いでしょ。でも「ウェイクフィールド」は本当に「妻」が「現れない」といっていい作品だからそういう意味では違うのかなとも思う。


舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)
舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 
森 鴎外

岩波書店 1981-01-16
売り上げランキング : 74309


Amazonで詳しく見る by G-Tools


「ウェイクフィールド」は最初に読んだときにはマスターピースとまで言えるのかと疑問に思ったが、ポール・オースターの『幽霊たち』に影響を与えている、そして上の「ウィクフィールドの妻」も、など考えて頑張って読んでみた。

幽霊たち (新潮文庫)
幽霊たち (新潮文庫)ポール・オースター Paul Auster

新潮社 1995-03-01
売り上げランキング : 7397


Amazonで詳しく見る by G-Tools


この作品は、時代を踏まえていないと理解するのが難しい部分が確かにある。大都市の人間たちの不在について書かれていると言われればその通りなのだ。なにせ隣に住んでいるのに気づかないのだからw まあそれはそれとして、ちょっとした思いつきから自分という存在を社会から消去できてしまうことになるのだというその当時の社会と個の関係というのは興味深い。現代社会ならどうだろう、国民にナンバーを貼りつけるような時代でもそうなるのだろうか。


あと、昔アメブロで書いたエルフリーデ・イェリネクの『トーテンアウベルク』のレビュー記事を貼ろうと思っている。記事の内容自体はあまり気に入っていないのだが、やはりあの作品は半端なかったなと思うので。


トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野
トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野エルフリーデ イェリネク Elfriede Jelinek

三元社 1996-08
売り上げランキング : 1187379


Amazonで詳しく見る by G-Tools


イェリネクというと、wowowでやっていたときに観た『ピアニスト』。印象に残る作品であった。原作はどんなふうに書かれているのだろうと、Amazonで検索してみると、もう絶版らしかったので古書で買った。


ピアニスト (女の創造力)
ピアニスト (女の創造力)エルフリーデ イェリネク Elfriede Jelinek

鳥影社ロゴス企画部 2002-02
売り上げランキング : 523552


Amazonで詳しく見る by G-Tools


まだ読んでいないので何とも言えないが、ちらっと見た感じでは、『トーテンアウベルク』ほど読みにくいことはないようだ。ノーベル文学賞をとっても絶版になることってあるのだな、と出版業界の事情はまったくわからないが思ったりした。


そして、タイトルだが、コンビニ(ファミマ)に立ち寄ったときにちょうど弁当が入荷してきたところで、店員がバーコードを打って棚に並べるのを客が待っていたのだった。それをちらっと見ていたのだけど、明らかに店員がバーコードをなかなか打たないし、棚に並べないでなんだろうかレイアウトでも考えているような態度をしている。店員は客に気づいているのに並べないというのは明らか。これ、僕が店長だったらこの店員(おそらくバイト)クビにしてるかもと思ったという話。店員の接客の意識低いなと思っただけの話だけど、そういえば前にテレビでタレントの有吉がバイトをしているときにそんな心理戦があるという話をしていたことがあった。コンビニ店員を正社員にするわけにもいかず、こういう時代が続くのだろう…と思った。とつまらない日常の風景をタイトルにしてみたのだった。

2015年3月16日月曜日

新潟県公立高校入試終わる。

新潟県公立高校の入試が終わりました。


新潟県は今年から高校受験の方法が変わったのです。2日にわけられて、1日目が統一試験、2日目が各学校の独自のいわゆる筆頭検査といわれるものです。


だから今年の3年生は結構不安だったのじゃないかなと。うちの塾では全員合格したので結果オーライだったのですが、対策を十分練れたとは言えなかったです。


統一試験は、翌日の新聞に問題と正答例が出るのですが、まあ簡単でした。数学はこれは満点取れるぞ、という問題で、落としたらまずいなと思っていました。うちの生徒にはもっと難易度の高い問題をやらせていたので肩透かしをくらった感もあります。社会も簡単すぎるだろ~という問題で、全体的に難易度は下がったのではないかという印象です。


ある生徒は、公立試験の前の私立の入試に落っこちたのです(落ちたのはドカベンのモデルになった新潟明訓高校)。ここを落ちると新潟は本当に私立が少ないので大変なことになります。その子は自宅から遠い公立高校を受験することになったのですが、偏差値的にいうと妥当なところなのですがその子の実力からするとまわりの高校のレベルが低いのでそういう選択になったようです。結果は楽勝だと思っていたので結果を聞いてもそうだろう、程度だったのですがやはり合格したと聞かされると嬉しい。


あとはギリギリになって倍率が下がった高校というのがありまして。それを見越して志望校を下げないで挑んだ子なども見事合格しました。入試ってそういう駆け引き要るよね、と思います。


中3の年明け頃から目の色が変わってきましたから、やはり本気モードになればみんなやるやつばかりなんです。この成功体験を今後の人生に生かしてもらえたらなと思います。


そして、今年の筆頭検査の傾向がわかったので来年は対策が立てやすいなと。今の中2はちょっと性格に難ありの子が多いのでどうなることかわかりませんが…。でも3年になったら変わるだろうと期待しています。


今、臨時で小学生も見ているのですが小学生は可愛い。いや、変な意味じゃなくて。分数なんか教えてあげると素直に喜びますから。あんな素直だった頃の気持ちを僕たちはいつ忘れてしまったのか…(泣) 親御さんがね、子供のことを心配して一生懸命なのですよ。親の気持ちっていうのはわかりますしありがたいですね。僕もその気持ちに応えてあげられたらと思います。


まあでもそんなことを言いつつ、自分では社労士の勉強やら哲学、文学を読んだりしている…背信行為!全力でやれよ!と言われたら申し訳ない、と答えるしかないです。でもね、人間は人間から学ぶものでね、単に問題が解ければいいというわけではないと思っているので。僕の生きざまから何かを学び取ってほしいですね。小4の女の子からは年齢を言ったら、「じゃあ、もうすぐ死ぬね。」と、無邪気な言葉をいただきました!w


それなりに楽しい日々を送ってます。

2015年3月11日水曜日

なにを言っているのかわからないが、なにかすごいことを言っている気がする。

いまいちBloggerの仕組みがよくわからないなか記事を書いてみる。
オリジナルの記事は2つ目です。


最近、話題になっている講談社選書メチエの『西洋哲学史』を本屋でちらっと見ていたのです。どんな人が書いているのかなと思って手に取ったくらいなのですけど。神崎繁、熊野純彦、鈴木泉…とああ東大教授の人たちが集まってるのね、と思ってみてて。「哲学は、哲学史ではない。哲学することが大事である」みたいな耳に痛いわ~と。このシリーズは4巻で完結なのですけど、射程はベルクソンまでと結構手前で終わる。いい加減フランス現代思想の総括をしてくれと思うけれどもどうやらそこはまだ歴史ではないらしい。


で、4巻見てたのです。そうしたら著者のなかに滝口清栄なる名前が…。あれ?先生、お久しぶりです!僕、滝口先生からヘーゲルの『精神現象学』を学んだのです。今は中学生を相手に塾をやっていたりもしてたはず。もちろん大学の講師もしているようですけど。正直このメンバーのなかに入ってるというのが驚き(すごく失礼!すいません!)だったのです。いや~懐かしいな~と思わず4冊買ってしまいました。


で、この『西洋哲学史』ですが、まあ難しいのです。でも読めないか?と聞かれれば読むことはできる感じ。まだ1巻の半分も読んでないのですけど。まあ読み終えてみないと何とも言えないので、それは後日ということで。ただ、「ある」の衝撃は確かに!やっと実感しましたわ。ニーチェの遠近法主義並みの衝撃でした。今頃気づくなって?それは言わないでください…。ニーチェの遠近法主義というと思い出すのが、ネットサーフィンをしていて池田光穂なる人のサイトに辿りついたときのこと。この人のサイトにアクセスした途端にサファリが応答しなくなった。結構昔の話なので、いまのパソコンなら大丈夫な気がしますけど、ああ、こういうことってあるんだ、みたいなことを感じたのを覚えています。なにかよくわからないサイトでした。


それよりあれ!?BloggerってAmazonのリンク貼れないの!? とりあえずドゥルーズとクレソンの共著の『ヒューム』を貼りたいのですけど。まあいいや。


で、この本なのですが、どうもクレソンの書いている部分は理解できるようだ。しかし、ドゥルーズの書いている部分が異様に難しい。さすがに卒論で『経験論と主体性』を書いているだけあってヒュームについては調べつくしているようだ、当たり前かw


まあヒュームがデカルトを批判したバークリ僧正のさらに上をいったということは誰でも読むだけでわかると思うのだけど、ヒュームの持つ倫理性というやつ!それが何を言っているかが錯綜してますな。これはどうやったらわかるようになるのか。よくわからないのですっ飛ばして終わりの方へ向かう。


ドゥルーズのいう「利己主義者」というのはとてもわかりやすい。いわゆる「慈愛」というものが、最も遠き者まで届くのか、と言われれば届かないよね、ということで。それをなすべきための手段として「正義」がある。「正義」は目的ではなく手段なのだと。これが一種の結論ではないけど、言いたいことではあるのだろう。偏向してはいけない、それが倫理というもの。


このブログでは今更隠すまでもないので言うけど、僕は法政大学法学部を出ている。法学部というのは関係ないのだけど、文学部出てるの!?みたいな誤解を招くといけないのでエクスキューズとしていちおう書いておく。で、同大学の文学部のシラバスを見てみると、今更ながらカントと和辻哲郎関係の講義が多いことに気づく。これは伝統なのだろうか。大学によって特色が違うのだろうというのが結論。いつか機会があれば講義を受けてやろうと思っている~。


まあなにがいいたいかと言うと、この『ヒューム』という本はこの記事のタイトル通り、「なにを言っているのかわからないが、なにかすごいことを言っている気がする。」と感じたということ。このブログではわからないところはわからないと言っておくことに決めたので、なんとなくこういう感覚だよねと思ったところがあっても敢えて書かないことにしておく。

2015年3月8日日曜日

『日蝕』 平野啓一郎  その6(終)

『日蝕』に戻ってきました。
この話で問題とされるべき一番の点は錬金術です。



ピエェル・デュファイという男が錬金術を行う、そしてそれをニコラは目撃し、魅了され自らも錬金術の研究をを試みるようになる。当然のことながら錬金術を行うということは異端でありそれは異端審問にかけられる危険性を多分に孕んでいるということです。端的に言うと魔女狩りですよね。それでも尚且つ魅了して止まない体験をニコラは目撃するのです。


その前に脱線しますが、日野と平野の対談の一部を。

「日野  『日蝕』の中でぼくが最も気にかかった人物は、ブランコに乗っているジャンという唖の少年でした。あれが一番気になります。


平野  あの少年の人物造形にはかなりいろいろな要因が重なっていて、なかなかひと口には言えませんが。ただ、基本的に主人公はトマス主義者ですから、理性によって世界は理解できる、記述できると考えるわけです。中世合理主義というのはアリストテレス受容以降のもので、常に何かの目的がある。ところが、ブランコ遊びというものは行って帰るだけで、何の目的もないですよね。それを見たときに、トマス主義者である主人公はゾッとする……そういうことは一つあります。


日野  ブランコの場面は、ニーチェの「永劫回帰」も思い出させますね。


平野  それも意識してました。」(「聖なるものを求めて」『ディアローグ』)


ブランコ遊びから永劫回帰を引き出してくるところに僕は少し疑義を挟みたい気がしますが確かに本作においてジャンというのは特殊な人間で重要なキーパーソンであることは確かだろうと思います。読む方はジャンという唖の少年のことを少し気にかけて読んでもらいたいです。




ここで錬金術の話です。錬金術というとダークファンタジーの超有名漫画『鋼の錬金術師』で耳にタコができる程聞かされる等価交換。錬金術とは等価交換なのか。ピエェル・デュファイは錬金術で両性具有者アンドロギュノスを創り上げる、そのアンドロギュノスが異端審問にかけられ焚刑に処される場面がこの本作の最大の見どころです。そこで日蝕が起こり、アンドロギュノスは陽物を屹立とさせスペルムを以って太陽を射る。そのスペルムは陰門の内部に流れ込む。そして燃え尽きたアンドロギュノスの灰の中から金塊が…。



偶発的な出来事が時を同じくして起こります。太陽が月と重なり、唖のジャンが初めて鞦韆を降りて狂的に哄笑する。アンドロギュノスは単体をもって射精し受精する。



ここでニコラは感じます。私は僧であり、異端者であった。男であり、女であった。私はアンドロギュノスであり、アンドロギュノスは私であったと。



述べたいことは多数ありますがここではアンドロギュノスが残した金塊というモノにスポットを当てて考えてみます。もう一度問います。これは等価交換なのか? 以前述べたようにトマス主義者は不等価交換を認めています。それは公平価格においてという限定つきですが。しかしピエェル・デュファイが異端審問にかけられたという事実を考えると作中での錬金術はトマス主義者にとって異端以外のなにものでもないと言えるでしょう。



僕の理解不足もあると思いますが、平野はどう考えても「矛盾した記述は矛盾のままに」していると思います。僕的に考えると、太陽と月の結合による日蝕という生成、鞦韆という無意味な運動からの哄笑という生成、アンドロギュノスの射精と受精による金塊の生成。これは不等価交換以外のなにものでもない。主人公ニコラはそれに魅了されピエェル・デュファイの錬金術を引き継いだと考えていいと思います。



等価交換は魔術、占星術というイメージもありますが現代の化学の基礎を築いたものでもあります。ニコラはトマス主義の異端者でもありますがより近代の先駆者でもあるように書かれていると感じました。なぜ彼をそのようにかき立てるかと言えば、それはアンドロギュノスの焚刑にイエス・キリストを見たからであろうと想像するに難くないと思われます。そしてそれ故この作品が平野のいう「ロマンティック三部作」の第一作目であることも納得できると思います。



『鋼の錬金術師』のいうように錬金術は等価交換ではない。そのことには『鋼の錬金術師』の作者もおそらく気づいているのではないのでしょうか。最後に主人公は、
「10もらって10返してるだけじゃ同じなので
10もらったら、自分の1を上乗せして
11にして次の人に渡す、
等価交換を否定する法則だけど
これを証明したい」
と言って終わるらしいです。僕はコミックスを読んだけれど忘れています。



『日蝕』はトマス神学と錬金術という道具を使って極めてロマンティックに描かれた小説と言えると思います。



また、批評家の東浩紀は本作を、
「本作が既存の純文学よりもむしろファンタジー小説や漫画、アニメ、ゲームなどのエンターテインメントにおける想像力と深いかかわりを持っていることを指摘した。東によれば、作中に登場する錬金術、ホムンクルス、巨人といった要素は、同時期にベストセラーを記録している三浦健太郎のファンタジー漫画『ベルセルク』の世界観と完全に一致する」(ウィキペディア)
と評しています。


平野は若年ながらその膨大な知識と教養においてサブカルチャーの要素を多分に含む本作を純文学まで底上げしたと言えるかもしれないです。



結論としては非常に物語性の強い作品であり、読む者にかなりの知識の前提を強要するという意味で深い読みをさせる余地を含んだ作品でもあり、文体からして作者の意図するところ明確な鴎外風の教養小説でもあるといったところでしょうか。僕はいっそのこと文語文で書いてしまった方が本作の魅力はより発揮されるのではないかと思いますが、それは平野の言うところの現代を否定するということなのでしょうか。三島由紀夫の再来ということに関して言えば石原慎太郎のいうコマーシャリズムということに近い印象を僕も受けざるを得ませんが、平野本人は三島の影響を多分に受けていると言っているのでそこは本作以降に期待するということにもなるだろうと思います。



あとは現在の視点からの印象ですが、平野はかなり器用な作家で様々な作家の手法を取り入れることに長けていて、それが逆に作品を矮小化している部分があるのかもしれないという危惧はちらりと感じています。器用貧乏と言ったらいいでしょうか。しかし、現在37歳という若さでこれだけの作品群を書き上げていることに対して同世代の人間にとっては見過ごすことは許されないと思います。



『日蝕』において中世ヨーロッパを、『一月物語』において小説というものが導入され始めた日本の近代を、『葬送』においてヨーロッパの小説の全盛を、『決壊』においてインターネットの時代を、『ドーン』において近未来SFを、とエクリチュールの手法を自在に駆使して新たなものを書き続けています。平野がそういう意味においても「分人」という概念を造りだしたのも彼の作家としてのアイデンティティの多様さとみるか、ただの器用な奇策師とみるか判断を慎重にするべきだと思います。只、平野の小説家としての文体の一貫性のなさは意図的である、ということは言えるようです。それ故、平野を読む人間は注意深く読みを進めていかなければならない。そう考えると平野ほど見ていて面白い作家もなかなかいないと思います。



以上で『日蝕』再考とさせていただきます。平野啓一郎という人間に興味を持たれた方は読んでみてください。僕も引き続き平野を時系列的に読んでいきたいと思っています。