2015年10月9日金曜日

iOSでハイレゾを聴くには。

先日、コンビニに立ち寄ったときに、とある雑誌が目にとまった。


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表紙は『ガルパン』。『ガールズ&パンツァー』。いや、『ガルパン』って僕はよく知らないのだが(名前だけは聞いたことがある)、前々からハイレゾっていいなと思っていたところに、こういう敷居の低そうな雑誌があったので、ちょっと手に取ってみた、そして買った。


開くと、『ガルパン』についての解説があり、どうやら女子高生が戦車で戦うアニメらしい。2015年11月21日から劇場公開されるので特集が組まれたのかな。『ガルパン』は積極的にハイレゾ音源で音楽を配信しているようだ。まあ僕はあまり興味がないのでこれ以上は突っ込まないでおく。


読み進めていくと、「ハイレゾを聴くための機器を選ぶ」とある。
スタイル01 ポータブルオーディオ
スタイル02 PCオーディオ
スタイル03 ネットワークオーディオ
とある。


実は僕はPCにDACをつないでいる。FOSTEXのHPーA3。


FOSTEX 32bit DAC & ヘッドホンアンプ HP-A3
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これをつないで、スタイル02のPCオーディオの状況はできているのだが、残念ながらヘッドホンはハイレゾに対応していない。AKGのQ701。音源もハイレゾはほとんど持っていなかった。あったのが昔、e-onkyoが配信していたQUEENのベストとあとはビル・エヴァンスくらい。とにかく愛用しているiTunesがハイレゾに対応していないので、ハイレゾ化は諦めていたのだ。


しかし、この雑誌を読むと、スタイル01のポータブルオーディオを使ったハイレゾ化は非常に魅力的なのではないかと思えてきた。1番簡単なのが、10月10日に発売されるソニー製のウォークマンを購入することだ。ソニーはハイレゾ音源を豊富に抱えているMoraを持っているし、なによりこの発売されるウォークマンが安価だということだ。最安値で2万2千円くらいなのではないか。付属のIEヘッドホンがハイレゾ対応しているかはわからないが。



SONY ウォークマン A20シリーズ 16GB ハイレゾ音源対応 2015年モデル シルバー NW-A25 SM
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オンキョーもミドルクラスの携帯プレーヤーを発売している。


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こっちは実売価格が6万5千~7万5千くらい。高いんじゃない?と思わせるものなのだが、これぐらいのきっちりしたつくりでないと音にノイズが入って綺麗な音はでないだろう。内蔵メモリが非搭載なのは気になるが。


と、ここまで読んでいて気づいたことがある。どうやらiPhoneやiPadでもハイレゾ音源を楽しめるようだぞと。ではどうするのか。


まず必要なものを言おう。必要なのは、iOSでハイレゾを管理することができるアプリ。iTunesがハイレゾ対応していないので新しいアプリを入手する必要がある。メジャーなところでオンキョーやソニーのものがあるが、僕はNe PLAYERというのをおすすめしたい。パソコンで同期をするときに、アプリでファイルを共有するだけだ。そんなに難しいことはない。もちろん落とすべきハイレゾ音源は、オンキョーだろうがMoraだろうがどこでもいい。Ne PLAYERで共有してしまえばいい。


さらに必要な機器を揃えよう。まず、iPhoneなどの充電をするためのソケットの部分に接続する、ポータブルヘッドホンアンプが必要になる。アンプに本体のハイレゾ音源をデジタルのまま送るのだ。僕はiFI-Audioの、nano iDSDをオススメする。なぜなら圧倒的に安いから。あらゆるハイレゾフォーマットに対応しながら価格は非常に抑えられている。


アイファイ・オーディオ USB入力専用デジタルヘッドフォンアンプDAコンバーター/DDコンバーター/USB入力専用プリアンプiFI-Audio nano iDSD
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もちろん、このnano iDSDから直接iPhoneへはつなげられない。そこで必要なのがカメラアダプターだ。


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これにさらに、USBを変換する機器が必要になる。


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これにより、iPhoneからカメラアダプタ+変換名人=nano iDSDへと接続が完了する。これで接続の問題はないはずだ。ヘッドホンはハイレゾ対応を購入すること。そして自分の耳に合った機種を納得いくまで選ぶこと、これが大事。僕のお薦めとしては、オーディオテクニカのCKR10。



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ハイレゾを楽しみたい人ならば、このCKR10くらいは持っているべきなのではないだろうか。ハイレゾの解像度に対応できる優秀な機種だと思う。


音楽は、基本e-onkyoのサイトで落とせばいいだろう。好みによってMoraやOTOTOYとかもある。僕はe-onkyoで十分である。クラシックやジャズは豊富だし、J-POPもそれなりにあるし、Anime関連も豊富だ。では聴いてみよう。


しかし!ここで問題が起こった。コネクタをiPhoneに差すと、バッテリー消費が高すぎて、アクセサリが認識しないのだ。これは非常に困った。ではこのような事態にどうすればいいのか。それはカメラアダプターとポータブルヘッドホンアンプの間に、セルフパワーのハブを噛ませることだ。それを行うことにより、バッテリーの消費電力の問題はあっけなく解決する。しかし、このことによってポータブルの利点、どこでも聴けるという最大の利点を失ってしまうのだ。これはキツイ。


探せば携帯の充電器があるのかもしれないが、今はそれを探す気力もない。とにかくハイレゾ音源を聴いてみようじゃないか。試しに落としてみたのが、浜崎あゆみの「DAYS」のクラシックバージョン。うん、なかなか音がいい。基本、今迄聴いていたヘッドホンよりいいもので聴いているのでこんなものだろうと。もうひとつ、堀江由衣の「半永久的に愛してよ」を聴いてみる。堀江はなぜだかよくわからないが楽曲に実力派プレイヤーが揃うという不思議な現象がある。さて聴いてみる。


聴いた瞬間まず、ヴァイオリンの音が違う。ハイレゾと既存のCD音源の違いは説明するまでもないと思うが、音の解像度が違うのでヴァイオリンのような弦楽器だと弦が奏でる音の豊かさが如実に現れCD音源とは比較にならない。おそらくハイレゾに1番向いているのはクラシックで、その中でも弦楽器だろう。


表現者の出したかった音というものがハイレゾだとより近い形で表現できるのだ。素人の僕でも聞き取れたという事実は大きいだろう。ミュージシャンとしても、自分の表現をより忠実に再現してくれる、このハイレゾ音源は歓迎すべきものだろう。これからはハイレゾが来る。いよいよ来る。そんな印象を受けた。


全部揃えるとなると面倒だし、多少金もかかるが、それに見合っただけの音が出ていると僕は思う。



PS 今日はノーベル文学賞の発表があった。村上春樹はまた落選したということだが、もちろん僕は受賞するとは思っていなかった。春樹の世界への貢献度はまだノーベル文学賞のレベルではないと思っている。また、別の視点から見れば、春樹にはあまりノーベル文学賞と相性はよくないのではないかとも思う。だが、毎度毎度こうして話題をつくってくれるこのノーベル文学賞フィーバーは歓迎すべきものだろう。今日は中学生がスマホで春樹落選の報を教えてくれたが、まあ普段本を読まない中学生にとっても話題になっているのだからよいことなのだろうと思っている。

2015年9月18日金曜日

感情移入するということ。

なかなか更新できないでいる当ブログだが、放置しているわけではない。ただ、書くだけの出来事が起きないだけであった。。。今回、とある某読書家さんのレビューを読んでいて思うところがあったので記事を書いてみようと思った。


その読書家さんは村上春樹、綿矢りさ、よしもとばなななどの感想を残されていた方で、読書傾向が似ているのかなと思い某サイトでお気に入り登録していたのだ(あちらからは登録されてこなかったのだが)。かなり本を読んでいる方で感想にも豊かな感受性が感じられていつもなるほど~と感心していたのである。


その方が先日、あの世間で話題になった神戸連続児童殺傷事件の彼が書いた『絶歌』について感想を書いていたのだ。書かれていることはもっともで、少年Aよ名前を名乗って書け、収入の乏しい仕事でも働き続けろ、それが責任を取るということだ、と非常に説得力のある感想を書かれていた。さらに『絶歌』からの引用をしておられた。この部分。


「祖母やサスケ。愛する者たちを次々に奪っていった死。自分には手も足も出せない領域にあった死を、自分の力でこちら側に引き寄せた。死をこの手で作り出せた。さんざんに自分を振りまわし、弄んだ死を、完璧にコントロールした。この潰れた猫の顔は、死に対する自分の勝利だ。」


僕は『絶歌』を読んでいないのだが、おそらく人間に手を出す前に猫を惨殺していた頃の少年Aの独白の引用だと思っている。確かに怖しい存在ではある。さらにこの読書家さんによると、『絶歌』には、少年Aが自分のつくった紙細工の天使を月の光に照らして恍惚とする、という場面が描かれているらしい。そのことに関してもこの読書家さんははっきりと拒否の姿勢をとっておられる。


ここからは僕の勝手な妄想に入るので、この読書家さんとはまったく関連のない話になるのでそれを断っておく。僕はこの神戸連続児童殺傷事件について事件が起きた当時人よりは多少ではあるが調べていたと思う。大学に夏休みのレポートを提出する課題となっていたからだ。少年A=酒鬼薔薇聖斗の身体性についての問題がレポートの課題だったが主題がずれてしまって評価は低かったことを覚えている。少年Aについて僕が肯定することは何もないと思っている。彼は現在公式ホームページを立ち上げているが、そのギャラリーの絵を見るとあらためて戦慄を覚えざるを得ない。この記事のタイトルは「感情移入するということ」とあるが、決して少年Aに感情移入するということではないのだということははっきりと言っておきたい。


では、かなりデリケートな話になったが続けようと思う。


つまりはフィクションの問題だ。僕らは読書をしているとき、多かれ少なかれ感情移入をしていると思う。その作品の登場人物の誰か、または作品の世界観や作者の文体など。そのなかでも1番シンプルなもの、登場人物への感情移入に絞って考えてみたい。


例えば推理小説、東野圭吾の作品を挙げてみよう。『容疑者Xの献身』の犯人である高校教師石神。犯人と言っているところでネタバレなのであるが、この作品は石神が犯人であることが重要なのではなく、石神がいかにして完全犯罪を行ったかが重要であるのでよいだろうと考える。石神はある事情で殺人の肩代わりをするわけだが、その結末を読む限りまさに「献身」である。読者の多くは石神に同情≒感情移入したであろう。


僕たちはこのようにして作品に感情移入をして読むことをほぼ当然のこととしているのだが、ここで少し考えてみたいのは上の少年Aが書いた手記、『絶歌』だ。読んでいないのに書くというのが暴力的であるとは思うのだが敢えて書かせてもらいたい。少年Aは僕にとって憎むべき存在であり、それゆえに彼の手記など手にとって読むことをしたくないのだが格好の事例ではあるので考えてみたい。彼の手記が事実に基づいて書かれていたものだと仮定する。上で登場頂いた読書家さんは少年Aへの感情移入を拒否した。感情移入の定義は、「対象自体が何らかの感情や情緒を表出していると感じ理解すること。」と三省堂新明解国語辞典にあるが、続いて、「俗には」とあり、「自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味にも用いられる。」とある。ここでは世間一般ではメジャーであると思われる後者の定義で話を進めたい。上の読書家さんは少年Aに自分の感情を投影できなかった。自分と少年Aとの感情があまりにも違いすぎていたからであろうか。


僕がここでいつもひっかかりとして思っていたことを取り上げたい。みなが当然のこととしていることであろうが敢えて考えてみたい。少年Aのように事実として起こった事件をもとに書かれた、例えば今回取り上げた手記に関しては感情移入は難しいだろう。なぜなら彼の存在のリアリティが僕らの感情移入を阻害するからだ。しかし歴史上起こった事件を題材にした小説などは山ほどある。戦記物などを僕が読むときには当然のことながらその多くをフィクションとして読んでいるわけで、そこにはどのような大悪人でも感情移入の余地を残しているように思う。それがノンフィクションとして書かれていてもその余地はあるように思う。


つまり言いたいのは、僕らが小説、映画、テレビドラマなどある媒体を通して出来事を追体験するときに、どうしても起こってしまうのは剥き出しのリアリティの欠如、作り手の意志による暴力的改ざんなのではないか。ではそうなったときに例えば、果たして今回のような『絶歌』のような手記が限りなくフィクションとして読まれたのならば、つまりリアリティを失った状態で感受する人間がいたとしたならば、少年Aに感情移入する人間もいるのではないだろうか。僕がこのことを強く感じるのは少年Aの手記を買う人がいるのだということに少なからぬ衝撃を受けているからなのだ。彼の異常人格に少なからずコミットしてみたいと思っている人がいるのだ、それが少年Aに報酬を与えることになるにも関わらず、僕はそのことに衝撃を感じる。彼の手記などは彼の手で言いように書き換えられた暴力的に行われた自己弁護のフィクションでしかないだろうと僕は思っている。


フィクションというものはある種のリアリティを出来事から削ぎ落とす危険を孕んでいる。小説などの媒体ではそれをうまく利用して作品を芸術として表現している作家もいる。しかし、多くの作品においてはフィクションはあくまでフィクションでしかない絵空事で現実とは一切関わりのないものですよというスタンスを取っているものが多いのが事実だ。フィクションに現実では叶わないものを夢見てそれに感情移入することはよいだろう。しかし、この世界のヒリヒリするほどの現実感を漂わせる作品というものもある。そういったものはフィクションだからという言い訳は当然通用しないように思う。そこに敢えて感情移入、上記の前者における感情移入を引き起こすことは絶対に不可欠なわけでそれなくしては作品の存在価値は無きに等しくなってしまうだろう。


つまりは現実を小説というフィクションの形式で語ることには相当の注意を払って行われなければならない。そこに安易にメタファを混ぜて語った場合にはこの世界を歪めてしまうとてつもない危険を孕んでいるのだということを僕は感じるのだ。それを権威のあるとされる作家などが行った場合、それは激しく糾弾されなければならないだろう。もはや作家にそれほどまでの役割や責任は与えられていないという声もあるだろうが、僕はまだ作家には世界への影響力は計り知れないものがあると考えている。書店に行って玉石混交の本を手軽に手に取ることができるこの時代だからこそ尚更読み手にもある種の責任を取る覚悟はいるのかもしれない。いや、小説などは絵空事なのだといい続ける決意のある人ならば別ではあるが。

2015年8月7日金曜日

『夜想曲集』 カズオ・イシグロ そして『パルムの僧院』 スタンダール。

僕が非常に気に入っている小説がある。
『パルムの僧院』だ。


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パルムの僧院 (上) (新潮文庫)スタンダール 大岡 昇平

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なにがいいかと聞かれてもうまくいうことはできないのだが、この作品にはとびきりお気に入りの登場人物が現れる。主人公のファブリス、そしてその叔母のジーナだ。この2人を中心にした物語なのだが、これが大変に面白いのかというと面白い。だがじゃあ他の名作と呼ばれる作品より図抜けているのかと聞かれればそれほどでもないような気もする。例えば古典の名作『カラマーゾフの兄弟』のほうが登場人物がはっきりと区別されていて、3人の兄弟の役割もしっかりしていて、その彼らの思想対決は読むものをひきこむだろう。『パルムの僧院』にはそういった思想対決などというものはまったくない。ではいったい僕はこの作品のどこに惹きつけられているのか。


ところで、このブログで『夜想曲集』について感想を書いたのだがその記事もアクセス数がこのブログではずば抜けて高い。それがどういう理由かもまたわからないのだが、あの感想は物語世界の登場人物にフォーカスを当てた読み方をしていたのでそこのところが『夜想曲集』の読み方としてはシンプルでほかの方の書かれたものより読みやすかったのかもしれない。


夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)
夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro

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このBloggerに誘っていただいた師である麸之介師匠と、この作品についてお話させていただいて、この作品の魅力の一端を少なからずご教授頂いたので、前記事をこの記事を書くことによりお蔵入りさせるかな・・・と思っている。まあこれから書いてみて決めるけれども。だからといって『夜想曲集』について文学の王道的に批評できるわけではないので、そこは麸之介師匠にお任せして、僕は僕なりに自由に書かせてもらえればと思う。


で、なんで『パルムの僧院』を出してきたかというとなのだが、それはちょっと『夜想曲集』と比べることができるのではないかと思ったからだ。最近巷で流行っている、東京オリンピックロゴ問題のように似ているとかいうことを言いたいのではない。パスティーシュだとかそういうことを言いたいのではない。ただ、感覚的に比べられるんじゃない?と思っただけだ。まあ、カズオ・イシグロが『パルムの僧院』を読んでいないということは考えられないので、もしかしたらちょっとは影響を受けた部分はあるのかもしれないこともないかもしれないが、そんなことを調べる気もないし出てこないであろうから無視して良いだろう。


では書いてみよう。

『夜想曲集』の舞台は5つの短篇に分かれているのでいろいろだが、舞台のほうを観た(記事にしている)のでその影響からだろう、イタリアのベネチアの印象が強い。音楽を愛するものたちがベネチアに集まり物語を繰り広げる、そこではほろ苦い人生がイシグロのユーモア溢れる筆致で切り取られていて、副題のとおりまさに「音楽と夕暮れ」をめぐる物語となっている。補足だが、この短篇集は他にもイギリス、アメリカを舞台にしている。


対して『パルムの僧院』は、イタリアが舞台だ。パルム公国を中心に物語は進んでいく。主人公のファブリスは情熱的な青年で人生という草原を駆け抜ける華麗な白馬のような印象。その魅力に周囲の人間たちも惹き込まれていく。そんなファブリスを愛するジーナ叔母。彼女も周りを惹きつけて止まない美貌を持っている。この二人が小国パルムで繰り広げる情熱の物語だ。


一見するとどこに比較する部分があるのか、あるとしたらイタリアが舞台なだけではないのか、ということになるだろうがその通りである。イタリアが舞台なのである。だが僕がここで注目したい点は3点ある。「作者と舞台の関係」、「場」、「作者の存在」、その3点が『夜想曲集』と『パルムの僧院』を僕が結びつける理由となった。


まず第1点は、作者と物語となった舞台との関係性である。イシグロはイギリス人である。つまりイギリス人の作者がイタリアについて書いた(上記にあるようにこじつけの印象はあると思うが)。対してスタンダールはフランス人である。フランス人であるスタンダールがイタリアについて書いた。この異国人がイタリアについて書くということが、この2作品ではかなりの効果を持たせていると思う。当然のことながら異国について書くということはそれなりの理由があるだろう。決して安易に舞台を選ぶなどということはあり得ない。スタンダールに関してはイタリアへの敬慕の念というものは伝記にも、そしてこの作品の冒頭の「緒言」にも書かれている。イシグロがイタリアを選んだ理由というものはよくわからないがこの『夜想曲集』を読んでいてイタリアの印象というのは強い。イギリスやアメリカが舞台の短篇よりも異国感というのは確かに感じる。そこにイシグロの思いというものを感じ取ることは可能であると思う。


第2点は、作者が設定した「場」の問題である。『パルムの僧院』における登場人物たちの活躍する舞台は非常に限定されている。世界を飛び回るなどということはもちろんないし、ほとんどがパルム公国の限られた場で物語が進行する。これはイシグロの『夜想曲集』にも近いことが言えると思う。ベネチアなどの都市の限られた場所で物語は進行する。しかし、『パルムの僧院』においては納得してもらえる部分はあるだろうが、『夜想曲集』においては短篇である。短篇であるゆえに舞台=場が限定されるのはそれほど珍しいことではない、というかまったくない。ではなぜ僕が共通点を感じたかというと、その「場」への作者のコントロールの意識だ。両作品ともに作者である、スタンダール、イシグロともに、舞台となる「場」を非常に綿密に、人工的とさえ言えるまでコントロールしているということができないか。つまりつくられた世界に作者が圧倒的なまでのコントロールが行き届いている。この作者の「場」への意識のこだわり、それはこの2人の作者が作品を並々ならぬ集中力で描き出したことの証明であるといえないか。


第3点は、作者の語りの現れ方だ。スタンダールの『パルムの僧院』という作品での僕の印象は、作者があまりに前面に出ている、というものだ。それが出すぎているということではない。この作品を僕が大好きな理由はおそらく、このスタンダールの、作品に介入してくるほどの作品への肯定の意識だと思う。『パルムの僧院』を読むと、スタンダールが登場人物、特にファブリスとジーナを熱烈なまでに愛しているということが感じられる。このスタンダールの偏愛とも言っていいほどの情熱が、ファブリスとジーナ、その他の人物を、神がかり的に生き生きとした人間、魅力溢れる人間であることを担保しているように思う。対して『夜想曲集』においては、イシグロは物語のどこに座しているかがわからない。この作品の誰がイシグロを代弁しているかということもわからない。ただ言えるのは、イシグロの書く文体から生まれる心的イメージのなかを僕たちは物語として体験できるだけだ。しかし、『夜想曲集』を読み込んでいくうちに、イシグロがその物語世界の奥の世界、俄のラカニアン的に言わせてもらいたいが、僕らが体験しているイメージの世界=「想像界」とは別のところ、そこでイシグロは言葉というツールを用いて、象徴界に綿密な設計図を書き込むことにより僕らに芸術的としか言い様のない世界を体験させてくれているのだといえないか。ゆえに、スタンダールとイシグロは語りの現れ方という意味で対照的な作家であると僕は感じたのだ。


以上の3点を見比べることにより、『パルムの僧院』が『夜想曲集』と似ているとかそういうことではなく、小説の書き方として、スタンダールとイシグロが非常に優れた書き手であるということを僕は少しではあるが感じ取ることができたような気がする。言いたいことはそれだけだ。


スタンダールは墓碑に「生きた、書いた、愛した」と書かれるように望んだという。スタンダールの小説への情熱は僕のこころを動かさずにはおれない。対するイシグロは数作品を読んだ印象でしかないが、墓碑になにか刻むような人物ではないような気がする。しかしもちろんこうして比べているのだから、『夜想曲集』を含めイシグロの作品は、極めて個人的意見だが、僕にとってスタンダールと肩を並べる作品であると感じている、いやそこまでの理解はない、感じ始めているのだ。


小説は描き方によって作品の景色、印象がまったく変化する。その作者それぞれの個性的な文章表現を受容できる感性を持ちたいと強く思う。文章表現の可能性についてスタンダールとイシグロという2人の作者を通して心に深く刻みこむことができたと僕は感じた。もちろん、上で挙げた『カラマーゾフの兄弟』もまったく違う印象を僕に与えてくれた最高の作品のひとつであると思っている。これから出会うであろう新しい作品たちがまだまだ待ち受けていると思うと知的好奇心を擽られずにはおられない、そういった気分だ。


と、ここまで書いてみたが、この記事のアクセス数を目安に、旧記事の『夜想曲集』は閉じることを考えたいと思っている。こちらでは『夜想曲集』の内容については触れなかったが、旧記事の「舞台『夜想曲集』」のほうで物語部分は書いているし、閉じたら閉じたでじきにまた書くであろうとも思う。この記事はちょっと短かったかなとも思うがとりあえずここまでで。



2015年7月10日金曜日

存在するのではなく発生する。

かなり前だが、某ブログにおいてデカルト主義についてちらっと書いたことがあったが、それに対して某ブロガーさんに現象学の立場からご指摘を頂いた。果たして主体とは何なのか?その問いに対して僕なりの答えというものは用意していたつもりであったが、現象学、実存主義に対する僕の勉強不足があったために今、さらなる迷いの森に入り込んでしまった感がある。


ただ言えるのは、僕はフランス現代思想を読んできたので、いやこの言い方は曖昧であろう、ドゥルーズ、ラカン、フーコーを少なくとも自分の思考の中心としてきたので、当然の帰結として主体に対して現象学的立場は取れるのだろうか?と少なからず思っている。と、不透明な言い方になるのはドゥルーズは確実にサルトルの影響を受けていると感じられるからだ。いくら素人の生兵法といえどもフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティの影響なしにドゥルーズを語ることは許されまい。




哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)
哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)ジル・ドゥルーズ 加賀野井 秀一

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上の本はドゥルーズの哲学者のアンソロジー本である。「哲学の教科書」とあるように、ドゥルーズの様々な哲学者についての全66篇のアンソロジーが収録されている。そして冒頭にドゥルーズの最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」が収録されている。


この本のなかで訳者である加賀野井秀一氏がドゥルーズについて簡潔にまとめた「はじめに――ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」が書かれている。そこでは加賀野井氏のドゥルーズに対するスケッチが書かれている。この文章は非常によく纏められていると個人的に思う。加賀野井氏のドゥルーズのスケッチを足がかりにして人間の主体について少し書いてみたいと思う。


ドゥルーズはその前期に数々の哲学者のアンソロジー本を出している。その後代表的作品、『差異と反復』、『意味の論理学』、後期(もしくは中期)にガタリとの共著、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を出版する、大雑把ではあるが。ドゥルーズの最後の論文は「内在性:1つの生・・・・・」というもので、1995年に『フィロゾフィー』誌に掲載されたものだ。この論文について加賀野井氏は「はじめに――・・・」でこう書いている。


「ドゥルーズはこの小論を、唐突に「超越論的領野とは何か」と問うことから始め、全体を「超越論的領野は内在面によって規定され、内在面は生によって規定される」という命題の変奏とした。彼は言う。「超越的なものは超越論的なものではない」。だがそれをフッサール的あるいはカント的な区別と混同してはなるまい。ドゥルーズにとっての超越論的領野とは、たとえば「非―主観的な意識の純粋な流れ」であり、「前反省的かつ非人称的な意識」であり、「自我のない意識の質的持続」である。これは明らかにサルトルだ。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p14~p15)


この引用からわかるように、ドゥルーズは最後の論文においてもサルトルを意識している。非人称的・絶対的・内在的な意識に帰せられる主観のない超越論的領野をサルトルは提示している。この意識と比較するとき主観や客観は「超越的なもの」であるということになる。


つまり本来ならば超越論的領野としてイメージされるべきはカントであろう。そしてフッサールであるかもしれない。しかし、ドゥルーズにおいては超越論的領野として意識されるのはサルトルであるというのだ。但し、ドゥルーズは歩を進めてベルクソンの概念を導入してはいるが。


さらに加賀野井氏は論を進めて、「内在性:1つの生・・・・・」の論文にあるとおり、「内在」について言及する。


「内在はそれ自身の内にのみあり、何らかのものの内にあったり、それに所属していたりすることはない。そして、内在がもはや自分以外のものへの内在でなくなる時にこそ、人は<内在面>について語ることができるようになる。」(同書p15)


この「内在」という表現が僕には非常に難しい。この内在については、デリダもドゥルーズと論じることがあったならば問題となるのは「内在性」をめぐるものであっただろうと言っている。『哲学とは何か』のなかでドゥルーズはこの「内在面」を「根源的な経験論」と言い換えている。


つまりは内在は主観に所属するものではないということではないか。主観に内在するものは内在ではない、内在のうちに内在がある、それは出来事である。つまり概念である限りでの可能的世界だけである。つまり内在面を語ることができるのは可能的世界の表現もしくは概念的人物としての他者だけであるということだろうか。この誰にも所属していない経験論とはいったい何か。


「つまるところこれは、<知覚の現象学>であるよりもむしろ<概念の内在学>とでも言うべきものとなる。あるいはまた、<生きられたものの現象学>ではなく<生きるものの存在論>と言っても構うまい。概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である。」(同書p16)


孫引きになるが、ドゥルーズの言葉を引用しよう。


「純粋な内在は、1つの生と呼ばれるであろうし、それ以外にはありえない。内在も生への内在ではない。何ものにも内在しない内在は、それ自体が生なのだ。生は内在の内在であり、絶対的内在であって、完全な力であり至福である」(同書p16)


つまり、ここから主体の持つ意味というものの手がかりを得られることになる。ドゥルーズにおいてはデカルトのいうコギトはない。ゆえにコギトのなかに内在云々ということはありえない。そのことは初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」でも書かれている。


論を急ぐのなら、ドゥルーズにおいてはカントのいう超越論的領野というものを肯定はする。しかしそこでドゥルーズがカントを批判していると思われるところは、その超越論的領野がアプリオリに「ある」ということだ。つまり超越論的領野の発生について考えることをカントはしていないということだ。


ドゥルーズの言う、「出来事」とは何か。ここでこの「出来事」に対する捉え方で参考にさせてもらったのは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』である。國分功一郎氏は同書p62で、「ライプニッツ自身が『述語』を『出来事』と同視している」と書いている。その記述を使わせてもらうならば出来事=述語でよいであろう。あらゆるものは出来事(述語)から発生する。そこでは主体を中心にはものを考えられない。その帰結として、発生の原因をどこに求めるのかということになる。それがドゥルーズが初期にこだわったヒュームの経験論へと続くというわけであろう。『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズは「経験論は出来事と他者しか知らない」と書いている。


さらにドゥルーズはガタリとの共同作業から主体への別の着想も得ていたのではないかと考える。ここでヒュームの経験論と接続できるかは僕の能力不足、勉強不足でわからないがガタリのラカン派精神分析からドゥルーズがなにがしかの新しい着想を得ていたのは『アンチ・オイディプス』という著作が存在していることからも明らかであろう。


主体について『アンチ・オイディプス』ではガタリとの共著であることから当然にラカンの理論が応用されているのだろうが(ガタリはラカン派の異端であるが)、そこではフロイトのエディプスコンプレックスが批判の的となっている。フロイトは無意識という偉大な発見をしたがそれをエディプスの三角形というギリシア悲劇の内的イメージに閉じ込めてしまった。ドゥルーズ=ガタリの言わせるところによれば、無意識とは世界であったように思う。ゆえに個の意識ではそれを垣間見ることはできない。この世界の実体を掴むことはなにものにもできない。世界と個をつなぐのはかの有名な概念「欲望する機械」であろう。内在面と噛み合うかどうかはこの欲望する機械が世界とうまく噛み合うかにかかっている。調子が狂えば人は神経症へと向かう。フロイトはエディプス理論によって、ドゥルーズ=ガタリのいうスキゾ経験を主体へと強制するが、ドゥルーズ=ガタリは主体からの逃走線を引く。逃走を助けるものとしてスキゾ分析がある。人間を主体にしない、スキゾという内在面の隙間へと逃走させる。


と、ここまで書いてきたがどうもまとまる気配がないのでこの続き、または修正は次の機会にしたいと思う。しかし、ドゥルーズがサルトルを強烈に意識していた、そして内在という問題こそが鍵であるということ、その内在とうまく接続できなかったが、主体中心の発想からの脱却、出来事=述語に発生の原因を問うているということは確かであろう。


最後に、ヒュームについてドゥルーズの考えが「ベルクソン流の物言いをすれば」という断りつきで注釈されている箇所を引用しておきたい。


「要するに主体とは、初めのうちは1つの刻印であり、諸原理によって残された1つの印象であるが、その印象を利用することのできる1つの機械へと徐々に変わってゆく印象なのである。」(『哲学の教科書』「はじめに――・・・」p23)


実際書いている時点で既に十数年前の知識のうろ覚えを無理やり組み立てただけのまさに砂上の楼閣の文章になっていることに気づいていたが、なかなかにドゥルーズにおける主体を素人が取り出してみせるということは不可能に近いのではないかとも思う。あまりにも稚拙な内容ではあるが、誰にでもわかるように書く、ということが自分にできる最大限のことであると思うので、その自分に課した使命だけは果たそうと思っている。

2015年6月26日金曜日

勝つやつには勝つだけの理由がある。

1部の生徒は期末テストが終わった。他の生徒も今日までで終わり。長かった戦いはひとまず終わろうとしている。今回は中2に対してかなり比重をかけて教え込んだ。今年の中2生の傾向としてはとにかく素直に話を聞いてくれる傾向にあるということ。問題を粘り強く解く。間違っても正解するまで頑張る。その結果アベレージとしては92点台という好成績を確保してくれた。中2の数学のこの基礎のところ(連立方程式)でつまずくとあとで取り戻させるのが難しいのでなかなか頑張ってやってくれたと思う。


「90点以上取ったら村上春樹の『1Q84』貸してやるぞ」と言っていた男子は見事94点を取ったが『1Q84』はいらないらしい。むしろ村上龍のほうが好きなようだ。まあ中2でW村上(古い?)を読んでいる時点で見所のある男なのではあるが、『限りなく透明に近いブルー』を読みたいらしいがどうだろう。『希望の国のエクソダス』を読んだことがあると聞くと贔屓したくなる、というか色々教え込みたくなる欲望が出てきてしまうのだがそこは今のところ抑えている。村上龍は大江、中上の担っていた部分を引き受けているのだ、龍の世界の本質を見抜く目は鋭い・・・などと語りたいのだがあまり確信的でないことは立場上言わないほうがいいかもしれない。ちなみに僕は龍の本のなかでは『カンブリア宮殿』が好きだw


1年生は今回が初の期末テストということになったが、数学に関してはまずまずといったところ。授業の感触からあまり取れないかもしれないという不安(これは毎年ある)もあったが予想以上に取ってきた。今年の1年のいいところは無邪気だということ。別の言い方をするとうるさいということなのだが、まあ1回期末テストを受けてその重要さを認識したらちょっとは変わるだろうと思っている。今回の結果を見るとみんなちゃんと教えたら成績の伸びる子だと確認できたのでひと安心だ。


問題は3年生で、3年生はまだ返却されていないので結果がわからないのだが、テストは相当難しかったらしい。3年の今の時期はもう入試モードに入っていなければならないのだが、特に男子が仲が良すぎて危機感を連帯することで不安を打ち消してしまっている気がする。志望校を下げてその高校で高順位を取って・・・ということを考えている子もいる。数学は確かに社会に出ても実学としては役に立たない子も出てくるとは思うが、人間の思考の型というものは数学で形成される部分は多いだろう。式の計算から方程式、展開、因数分解、関数、極限、微分積分と覚えておかなければ近い将来後悔することさえも知らずに人生を終えてしまうのでは・・・などと思うのだがこれが目的意識を芽生えさせるのは大変なのだ。


1番勉強のできる子(女子)は今日までが試験なのだが昨日も塾にやってきた。見た瞬間に顔色が違ったので、顔色が悪いぞ大丈夫か?と思わず声をかけてしまった(女子には失礼だったかも)のだがやはり連日睡眠を削って勉強しているとのこと。みんな天才天才と言っているのだが、もちろん才能に溢れた子ではあるのだが、人間だから。1番を守り続けることのプレッシャーは半端じゃないと思う。なにせ常に目指すのが満点だから。僕の見たなかでは1番努力している。人間的にも成長している。この子を新潟高校に入れてやりたいが、お姉さんとお母さんが新潟南高校出身なのでちょっと新潟南高校に行きたがっているのかなとも感じる。新潟高校、新潟南高校どちらを受けるにしろ入試では満点を取るつもりの猛者どもと戦わなばならないから大変だろう。(,,゚Д゚) ガンガレ!


あともうひとりラブライバーの女の子(仮)が目覚めつつある。志望校を決めて本格的にやるつもりだ。なかなか生意気な子だったのだが「(○○高校入りたいので)お願いします」なんて言われたので正直驚いた。女子は変わるね。目的意識を持つと一直線。実はこの子は1年生当時から空間把握能力の高い子だと思っていた。なかなか勉強に身が入っていなかったのだがこの時期ならまだ間に合うだろう。志望校合格レベルまで引き上げてやりたいと思う。(,,゚Д゚) ガンガレ!


などと中学生が試験で四苦八苦しているなか、僕はH&Mに服を買いに行っていた・・・すまぬ。バーゲンをやっていたのでね~やっぱり安い。アイテム1個1000円くらいですわ。ポロシャツ1枚、シャツ2枚、Tシャツ1枚、ハーフパンツ2枚、ブレスレットにベルト、ソックスと買っても1万円くらい。これがファストファッションというものなのか・・・となりのZARAもよさそうだし、時代は変わりつつあると思った。ちなみにH&Mの上にAKB48の姉妹グループ、NGT48の劇場ができるのだ。


あとは読書の近況。最近はラカン。あとドゥルーズ。やっと戻ってきたぜ・・・という感じで。某ブログでは本来小説の登場人物、作者の心理をラカン、ドゥルーズによって読み解く、みたいなのをやりたかった。でも全然できていなかったのだが、デリダも含めてなんとかその真似事でもしてみせねばなるまいと思ったりしている。でもやれるかはわからない。日本語の小説を読んでいていつも気になるのは音韻をどこまで意識すればいいかという事。少なくとも現代の話体で漢字を使っちゃうともうわからなくなってこない?という長年の疑問がある。源実朝とかの和歌ならなんとかわかるけど、散文でどこまで注意深くなれるかというのは・・・。僕にはちょっと無理っぽくてそれで英語に逃げたくなるわけだ。やっぱりアルファベットと仮名漢字では違うのではないかと僕は思うのだがどうだろう。


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などと書いてきたが最後に中学生による絵をアップして終わろうと思う。





書いてあるとおり、アンパンマン。未来のNGT48候補生の描いたアンパンマン。字が抜群に上手い子。






K画伯の絵。画像は斜めになったが、下が僕らしい。どう見ても人間ではないのだが、彼女の目にはこう映っているのだろう。Twitterに上げてくれと言われたがBloggerに上げてやることにした。いちおう格上げのつもり。






ここまで行くとなにを書いているのかがよくわからないのだが、どうやら左のうさぎらしきもののなかには人が入っているらしい。想像力に溢れた子である。



と、こんな感じが近況。

2015年6月9日火曜日

『古事記』 日本文学全集01  池澤夏樹

河出書房から出ている、池澤夏樹編集の「日本文学全集」シリーズ。もうこの時点で7巻まで出てるかな、かなり差をつけられたが、とりあえず01巻の『古事記』から。


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この『古事記』は今まで出されてきた『古事記』とはまったく(まったくではない)違うスタンスで作られている。正直最初に読んだときは、「ああ、意欲的ではあるがこれは失敗作かも」と思ったが、読めば読むほど池澤夏樹の『古事記』に対する愛着が見えてきて、この作品がいわば太安万侶に対するリスペクトとして作られていることがわかる。そうなると俄然面白くなってきて何度も何度も読み返してしまうのだ。この記事ではこの『古事記』がいかにほかのそれと違うのかを、冒頭に書かれている、「この翻訳の方針」を見ていくことによって伝えてみたいと思う。



「この翻訳の方針――あるいは太安万侶さんへの手紙」と題して池澤によって書かれている。1300年まえに書かれたことへの驚嘆と、しかし今ではもうそのままでは読めなくなってしまっている現状を語っている。だが僕たちはあなたの時代の人たちがどのように生きていたのかを知りたいのだという思いを池澤は綴る。


池澤は自分が翻訳の仕事をこなしてきたと語り、だがそれでも『古事記』を現代語に訳するのは大変な仕事だと言う。それはフランス語やギリシャ語以上に難しい、なぜなら古代の日本語は現代の日本語から親しい、それゆえその息遣いまでもわかってしまうからだと。ではそれを正確に伝えるためにどうしたのだろうか。


訳すためにはこれこれ相当の工夫を重ねることになったと池澤は書いている。以下に書くが、ここからこの『古事記』を訳するに当たっての基本方針、大きくは2つのことが語られている。


1、文体ないし口調を残す。
池澤は、これは今までの訳者もそうしてきたのだが、ほとんどの訳書が古代の時代の現代のわれわれの知らないことを文章に織り込んでしまっていたと語る。それゆえ文体が間延びしてしまって文章の息遣いが損なわれるていたのだと言いたいのであろう。それゆえ脚注をつけることで文章に織り込むことを避けることにしている。現代語訳の基礎として使ったのは、本居宣長の『古事記伝』という礎石の上に構築された西郷信綱の『古事記注釈』だ。


2、最も大きな困難としてのテクストの多様性。
『古事記』には、形式において関係の薄い3種類のテクストが混在していると池澤は述べる。
「神話・伝説」
「系譜」
「歌謡」
これに対してそれぞれに適した文体を採用する必要があると言う。


「神話・伝説」について。
『古事記』編纂について、文字に書き残し後の世に残す、ということが大事だったが、太安万侶は口承の色濃く言葉を漢字に移した、と池澤は言う。具体的にどういうことか見てみよう。

於是亦、高木大神之命以覚白之、大神御子、自此於奥方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。従其立後応幸行。(返り点は略)

とある。これでは今の読者が読むことは困難である。続いて西郷信綱の読み下し文を見る。

是に亦、高木大神の命以ちて覚し白さく、「天つ神の御子、此れより奥つ方に莫入り幸しそ。荒ぶる神甚おほかり。今、天より八咫烏を遣わさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし」とまをしたまひき。

この書き下し文の特徴は、「」を使っている、つまり直接話法を採用していることである。ここで池澤が指摘していることは、この直接話法の前後に出てくる、「白さく」、「まをし」の「まをす」である。宣長の当時は直接話法が無かったので、「」の代わりにその前後に「まをす」を使うことで、その人の発言を示したのではないかと池澤は推測している。これが生むリズムを高く評価している。それを自分の訳で失わせたくないと池澤は考え、どうしたのだろうか。下に見る。

ここでタカギが諭して言うには――
「天つ神の子よ、この先に行ってはいけない。荒ぶる神がうじゃうじゃ居る。天から八咫烏を送るから、八咫烏が導くとおりその後を追って進みなさい」と言った。

池澤は宣長と西郷信綱にならって、「言う」を前後に繰り返す方法を採用した。僕が思うに、こうすることにより文章の持つリズム感は保たれたと思う。もちろん黙読においては多少ぎこちなさを残したかもしれないが、『古事記』の口承性、その当時の貴族たちが自分の祖先たちを声に出して詠まれた際のことを想像することもできるだろうようになっていると思う。


次に『古事記』における「生む」の意味についても池澤による説明がある。神々や天皇の系譜は必ず「生む」ことでつながっている。ここで気をつけてほしいのは、天皇が「生む」のであって、妻が生むのではないということだ。妻に「産ませた」のでもないように感じる。よって、

此の天皇、葛城之會都毘古の女、石之日売命(大后)を娶して、生みませる御子・・・

「天皇が・・・を妻として・・・生んだ」という形式で書かれていると池澤は指摘する。よってその形式をいかすために、

葛城之會都毘古(カヅラキノソツ・ビコ)の娘、(のちに大后となる)
 石之日売命(イハ・ノ・ヒメのミコト)を妻として生んだ子は、

とならった。ちなみに人間の能力を超えたことを表現する際に、自発形というものが使われることがある。それは天皇や皇族の行為にも使われるものだが、その尊敬語は受動態が使われる。妻が子どもを「生む」という行為が超自然的なものとして崇められていたのではないかと想像することは可能であろう。それゆえ意味の点から言ってもそれを損なわない訳になっているのではないかと僕は思う。


また、人の名はこの『古事記』では、基本的に最初は上のように漢字に()内にカタカナで読み。2回目は漢字の横に振り仮名。3回目以降は主要部分だけを独立させ片仮名、という方法をとっている。つまり、

「天照大神(アマテラス・オホミカミ)」
「天照大神」にフリガナ。
「アマテラス」

となっている。


「系譜」について。
天皇の系譜に、地方豪族を取り込み中央集権を高める目的でつくられたことを想定すれば極めて政治的なものであるのは当然である。登場する神の数は312。ここで池澤が注意したことは固有名詞には意味があるのだから、できるだけ忠実に訳すということであった。例えば、

建速須佐之男命(タケ・ハヤ・スサノヲのミコト)

はそのまま訳し、脚注に「タケは勇猛、ハヤは勢いがあること、スサも止まるところを知らず『荒れすさぶ』ところから来る」と記している。

また、「オホエノイザホワケノミコト」は、

大江之伊邪本和気命(オホエ・ノ・イザホ・ワケの・ミコト)

としている。()内の「の」が気になるだろうが、「の」は漢字では表記されていない。発語の際に補われるものは平仮名を使っている。また、仮名遣いには歴史的仮名遣いが採用されている。そうしないと見分けがつかない人名が出てきてしまうからである。


そして古文を読む際に、かなりの人がひっかかる敬語についても配慮されている。敬語が使われているのは直接話法の部分だけになっている。地の文の敬語はすべて捨てられている。これにより読みは飛躍的に楽になったのだが、一方古文を読んだときわれわれが感じる格調の高さの幾分かを損ねたのではないかとは思う。


「歌謡」について。
『古事記』のなかで歌を採用する際の、太安万侶の苦労を慮る池澤の記述がある。しかしその苦労のおかげで『万葉集』以前の歌をわれわれは知ることができたのだと記している。




と、以上こんな感じで書かれている。最初にも書いたが、本を開いたときはその斬新さに多少の危うさを感じたのだが、読み進めるそして読みを繰り返すことによって徐々に慣れてくるものは確かにある。現代の読者の読みの水準を考慮すれば、これこそ現代の『古事記』の訳の決定版と言ってもいいのではないだろうか。池澤は大きな仕事をしたのだと感服せざるを得ないのは僕だけではないだろうと思う。


これ以上の簡略化は『古事記』自体の性質を変えるものになるだろう。これよりもより易しくとなると児童向けにならざるを得ない。大人が楽しめるギリギリのところまではハードルを下げてくれたなと感じている。個人的には、『古事記』にここ数十年以内にこれ以上読みやすいものが訳されるとは思えないので、読んでみたいというかたにはこの池澤夏樹版を僕はお薦めする。


中身についても非常に興味深いものがあったので、機会があれば記事にしたいと思う。

2015年6月3日水曜日

東京ドームホテルは高層階に泊まるべし。

2015年5月某日の話。確か金曜日だったような・・・記憶も曖昧になったこの日、そう
、わたしが大人として振舞わなくてはならなくなってから幾年月・・・そんな日に僕は東京へ向かおうとしていた。


新潟にしては暑く、僕はモンクレールのポロシャツにジーンズ、それに電車内の冷房を想定してナイロンのジャケットを用意していった。家から新潟駅までは本当に近く、車で5分程度だ。






MaxTOKI322号、東京行き。12:07分発。8両編成。東京行きは1時間に1本走っている。





色はこんな色。2階建てで走っていると、2階からは外の景色が見える。1階はコンクリートの壁で景色はずっと灰色だ。そういうわけで大抵の人は2階に乗るのだが、僕はあえて1階を選ぶ。なぜならなるべく他の乗客と隣り合って座りたくないから。それだけ。長岡で突然混み出す場合がある。





2泊3日でこれだけの荷物を持っていく人間も珍しいだろう・・・。


東京までは2時間強かかる。東京駅に2時半頃に到着するとして、そこから水道橋の東京ドームホテルまでは20分見ておけばいい。3時にはチェックインできるだろう。新幹線に乗り込むと、僕は構内のニューデリーで買ったおにぎりを食べ、iPadで映画鑑賞を楽しむことにした。iPadがあるって便利だよね。映画鑑賞に疲れるとこの旅行中に読み終えようと思っている『ダ・ヴィンチ・コード』の上巻を読む。また疲れると映画を観る。この繰り返し。


さて、東京駅につくと、中央線に乗り換え。御茶ノ水で総武線に乗り換えで水道橋駅だ。水道橋と隣りの飯田橋は日本武道館などに行くときにいつも使っているので手馴れたもの・・・と思いつつ、水道橋でどっちだろう、セブンイレブン方面、ラクーアの方に出ようとしたら間違ってWINSの方に出てしまう失態。。。どっちから出てもホテルまでの距離に変わりはないのだがセブンに寄りたかった・・・仕方ないのでローソンに寄って食料を調達する。ひとつ言っておくと東京ドームホテルは飲食物の持ち入れは禁止だ。なのでこっそりと持っていく。


1階のロビー横にある受付でチェックインを済ませる。14階だ。東京ドームホテルは高層階と低層階で部屋の内装が違う。高層階のほうが広くて内装も綺麗なので高層階をおすすめする。たぶん
23階以上が高層階になると思う。高層階だとたぶん、浴室にテレビのスピーカーが設置されていてテレビの音を聞くことができる。で、14階だったのでいくぶん思っていたのと違ったのだがここでも高層階と同じく33平米あるらしい。どうも納得がいかないのでフロントに電話をしてみるとやはり33平米あるとのことだった。ちなみに当日宿泊だととんでもなく激安になるということにも気づき衝撃を受ける。まさか・・・60日前予約で準備していたのに(泣)





少し休んでから東京ドームへと向かう。近くにMLBカフェなるものができているのに気づく。イチロー、ダルビッシュ、タナカなどのグッズが売っているのだが、ここの真価は夜になると現れる。それはあとで書くとして、東京ドームの側面にある応援グッズの売っている店へと急ぐ。指定で取った席なのだが、それなりの制限があって、僕の席ではヤクルトスワローズの応援しかしてはいけないのだ。そんな制限あるのかよ、と思っていたがどうやら今日は特別な日らしく、入場した人全員にジャイアンツのTシャツを無料配布していたのだ。つまりジャイアンツデーだったようだ。そのなかでヤクルトを応援するというのはプレッシャーを感じなくもない。店ではいちおうメガホンを買った。ここに前記事で書いたD.B.STARMANのグッズも売っていたのだが荷物になるだろうと思い買わないことにした。DeNAベイスターズの応援グッズは通販で買えるので買いたい人は通販で買うことをお薦めする。
http://ec.baystars.co.jp/






球場に入る。混雑はしなかった。やはりライブとは違うのだなと思った。前回東京ドームに来たときはポール・マッカートニーのライブで、ポールのリハのために会場が1時間程度ずれ込んだために怖しい込様だった。今回はすんなり入って席もすぐに見つかった。A49ブロック24ゲート47通路33列493番。ややこしいがだいたいレフトスタンドのポールあたりと思ってもらっていい。まだ6時前だったが腹が減ったので弁当を買いに行く。いろいろあったが、崎陽軒のおつまみ弁当にすることにした。飲み物はウーロンハイ。たしか売り子さんはウーロンハイは売って回らないだろうと想定しての選択。ビールやウイスキー、ワインはある。しかしウーロンハイはないはずだ。












残念ながら弁当の画像が縦長でしか貼付できない・・・。崎陽軒のおつまみ弁当は人気No.1だそうだ。確かに非常に旨い。新潟のエコスタジアムでは焼きそばやアメリカンドッグしか売っていなかったのに・・・東京恐るべし!


書き忘れていたが今日の試合は読売ジャイアンツVSヤクルトスワローズ。投手は巨人はポレダ。ヤクルトはライアン小川。小川が三塁側でキャッチボールをしていたがさすがの肩の強さ。体幹の強さも感じる。4番は巨人は故障から復帰の坂本、ヤクルトは畠山。しかし例のごとく試合内容には触れない。坂本の1号ホームランが出たことだけは言っておこう。坂本がホームランを打ったときのライトスタンド。









ライトスタンドはオレンジで染まっている。対してレフトスタンドではヤクルト名物の傘で応援している人々。そしてなんだかんだで野球観戦に熱中してしまって売り子さんからビールを頼むのを忘れてしまっていた・・・試合時間は2時間半程度だけれど時間の経つのは早いのであった。スコアは2-1で巨人の勝利。最後は沢村が締めた。まあね、思ったのは坂本の打球の速さですね。あの打球の伸びを見るとね、原監督も4番で起用したくなるのではないかと。ちょっとテレビではわからない部分ではあった。


そして野球観戦を終え、東京ドームホテルへの帰路に立つ。






いや~東京ドームっていいですね、野球っていいですね。プロの打つ打球の音や野手の動きとか本当に素人には真似できない、当たり前だけど。テレビでどんくさいなと思っていた選手でもあのグラウンドでは相当の速度で動いて華麗なフィールディングを見せるわけですな。といっても1番いいのは、弁当食べながら酒飲んでゆっくり観戦できるところ。お祭りを見てる感覚。








東京ドームホテルに帰っての景色。ホテルからドームを見下ろすと、祭りの熱気の余韻を残した人々がちらほらとうろついている。その気持ちはわかる。







このユニフォームらしきシャツが入場者に配られたもの。指定席がぶっちゃけていうと3500円くらい。それにこんなよさそうなTシャツを配ってくれるとは・・・今日はスタジアムをオレンジに染めようデーだったから特別だったのだろう。






こちらは東京ドームに行く途中で通ったMLBカフェで買ったもの。ニューヨークヤンキースのキャップ。かぶるとあゆっぽくなる。だから少しやばい。他にもミリタリー系やヒップホップ系のデザインもあったがこれを選択。実はあゆは好きだったりするのでついついそんな感じのを買ってしまうのだな~。


そしてホテルの部屋に帰って飲み直す。明日は天王洲の銀河劇場で『夜想曲集』を見る予定。記事には先にしてしまったけど。そんなこんなな1日目であった。